学校教育を考える

混迷する教育現場で,
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応援の意味を込めて書いています。

板書のしかたをどこで学ぶか

2009-09-13 | 教育
教員養成がどうあるべきかということが
社会的に注目され,さまざまな試みがなされている。
教職大学院の創設や教員免許更新制,
教育委員会による教員志願者への教育の試みや
民間の予備校や塾によるセミナーなどなど。
さまざまな方策が模索されている。

果たして,
教員はどのように養成されるべきかということについて,
ひとつの話題を提供してみたい。

先生方にお考えいただきたいのは,
板書のしかたの基本は一体どこで学んだかということである。

大学の講義においてであろうか,教育実習においてであろうか,
あるいは現場に出てから先輩に教えてもらったのであろうか,
教育書を自分で読んで勉強したのであろうか,
はたまた,学んだことはなく,自己流でやっているのであろうか。

これを考えてみると,
教員にとって極めて基本的な技術である板書についてさえ,
どこでその技術を身につけるかということが明確になっていないのである。

さて,これをどこで教えるべきか。
大学で「板書学総論」「板書技能実践演習」とでも
いった科目名をつけて教えるべきものであろうか,
はたまた大学院で「臨床板書技能構築特論」とでもいった科目を
設けるべきであろうか。
やはり,教育実習で「板書研究授業」をやって
がっちり教わることにするか,
それとも,教育委員会が採用後に「初年次板書研修」を行うか,
いったいどうしたものであろうか。

一体,どこで板書の技能の基本を身につければよいのだろうか。

現職の先生方が
板書の技能などの基本技能をどこで身につけたのかを
きちんと調べて,
教員が実際にはどのような場で育成されているのかを
踏まえたうえでの議論が本当は必要なのではないだろうか。




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5 Comments

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やはり学ぶ姿勢? (taketyann)
2009-09-13 13:09:22
教師というのは、いったい何ができたらその資格があると認められるのでしょうか。
特に小学校教師の場合、守備範囲が広いので板書以外にも見に付けるべき技術は無数にあります。(歌、ピアノ、絵画、植物の栽培、動物・昆虫の飼育、ボール運動、器械体操等等…)

運転免許なら自動車が一定以上運転できれば、免許が与えられます。調理師免許なら料理、システムエンジニアならプログラミングができればいいわけですが、教師の場合これができれば大丈夫、という線引きがないのです。

私は教員に必要なのは、基本的な教養と新しいことや未知のものを学んでいく姿勢だと思っています。
教員養成が4年から6年に増える、といった話も聞きますが、たかが6年でこの仕事に必要な知識や技術が全て身につくとは思いません。どんな職業でもそうでしょうが、仕事に就いた後でも、絶えず学んでいかなければ一人前にはなれないのです。

「役に立つか立たないか」といった短絡的な発想で教員養成を論ずることは慎むべきでしょう。10年後、20年後にどの技術が役に立つかなど、だれにも予想できないのですから。

私は音楽の技術も、飼育の方法もパソコンも全て教師になってから覚えました。もちろん板書の技術もです。
自主的に学んだ部分もありますが、やはり先輩教師の存在は大きかったです。最近は教師同士の交流の機会が減っていると聞きますから、それらを踏まえて、むしろ教師になってからの学びをどう保障していくかを考えるべきではないでしょうか。
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Unknown (madographos)
2009-09-13 15:10:15
>taketyann様。コメントありがとうございます。「先輩教師の存在」,また「教師になってからの学び」,そのあたりがポイントになりそうですね。そこから考えると,教員養成6年制より効果のある方法がありそうに思えますね。
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基本的な技術 (ほり)
2009-09-13 22:34:23
こんにちは。

私の場合、板書は、学生時代は教科教育法で少し、教育実習、教員になってからは新任研修などで管理職や先輩の先生方からいくらか教えていただきました。

純粋に技術的なことは学生の間に教えてもらえた方が良いように思います。そのことについて以降主体的に学ぶ「きっかけ」になるからです。

教員なら誰にでもこととして、私は、発声法を教えてもらいたかったと思います。全く習ったことがありません。(その昔、評判の悪い(?)大学の先生の講義の大方は、声や話し方に関わることも多かったのではないでしょうか。)
自分が実習生の指導をする際にも、声が小さい学生には「もっと大きく」と必ず言いますが、他は余り指導らしいことをしません。教員になって大分経って、私自身が観劇に興味を持ってからは、間の取り方、声のトーンを落として生徒の気を引くことなどちょっと示唆したことはありますが。
のどを使って声を出すと、授業が多かったり風邪気味だったりすると、なかなかつらいものでです。のどにあまり負担をかけない発声法、ハラから声を出す方法や間の取り方などの重要性は、演習があってもいいくらいだと思います。

教科の内容にしても何にしても現場に出てから学ぶことの方が多いです。
とある新任3年目位の教員にアドバイスをしたら、「私に問題があるのは、これまでの研修に問題があったからではないでしょうか」と言われて唖然としたことがありました。生徒を見ていても思うのですが、「資格を取れば(試験に通れば)、研修(授業、補講)を受ければ万事OK」という考え方が増えているのではないでしょうか。
少なくとも、こういった学ぶ姿勢をもたない若手を育ててはいけないのが、学生に対してでも新人に対してでもの最低限の教育でしょう。何の職業であっても当てはまることでしょうが。
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Unknown (madographos)
2009-09-13 23:44:37
>ほり様。コメントありがとうございます。発声法も確かに大事ですね。板書にせよ,発声法にせよ,そのような技術的なことに重きをおいて大学では教えるべきだとする人々と,もっと理論的なことや教養的な事柄を教えるのが大学だとする人々の間で揺れ動いているように感じます。そのようなどっちつかずの状況を見かねて出てきているのが,教育委員会や民間の教師養成塾で,こちらは実際的なことに特化しているように思われます。いずれにせよ,「私に問題があるのは、これまでの研修に問題があったからではないでしょうか」というふうな考え方を是認するかのようにしか世の中が動いていっていないので,前途多難であろうと思われます。
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板書はほとんど経験なし (tsuguo-kodera)
2015-08-13 12:40:37
 初等科の及川先生は算数国語社会を講義しないで教えていました。謄写版の印刷資料を配って誰かに読ませるのが精々だったかも。
 だからほとんど先生は板書はしませんでした。板書は主にクラス会の議論に用いていただけです。とても白熱した議論はありました。何をするのも生徒が多数決で決めたのだから、必死な人もいました。
 だから私の頭では基本は議論のメモ書き板書なのです。クラス委員は学期ごとにかわります。生徒が男女2人ずつ選びました。でも、何人かリーダーシップのある人が交互にやることになりました。
 クラス委員の誰かが司会者になり、黒板に決議する案を書きました。別の人に書かせることもありました。書記係のメモを見てまとめることもありました。
 これらがとても良い経験になりました。大学もほとんどの先生は板書はなしでしたので。自作の暑い本が教科書でしたので、その解説と演習でした。
 先端すぎて、日本語の教科書がまだなかった自動制御論だけは板書がありましたが、先端すぎただけでしょう。教科書を講義して演習と試験だけが大学でした。
 そういえば当方にとっての板書の経験は中学校の英語の先生でした。高校では大学の演習授業に似ていたので板書はほとんどありませんでした。役立たない日本史のみ板書がたくさんありました。
 以上の経験から、私は高専でも、大学でも、高校でも自作の教科書を使って講義しました。毎年本を書くか、そのためにブログの記事を書いていました。字が下手で嫌いだったからです。
 自作の本や資料なら板書は不要です。生徒同士の議論を生徒に板書させたら、大学のゼミも企業の司会も練習できているのではないでしょうか。
 この記事には反対したいのですが、管理人様は素晴らしい板書をする先生なのでしょう。私にとってはそんな板書をする先生は噂話です。現実に見たことはないのです。
 結論です。板書が下手な先生は代替手段で工夫してやっても良いのではないでしょうか。
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