高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

ヤスパース『哲学』III 第四章「暗号文の解読」3(第二部)

2025-02-15 15:52:58 | 翻訳

ヤスパース『哲学』III 第四章「暗号文の解読」第二部 古川正樹訳 2024.9.5~

 

(168頁)

第二部

諸々の暗号の世界

 

概観

 1.諸々の暗号の普汎性。— 暗号であり得ないものは存在しない。あらゆる現存在は漠然とではあるが振動し話し掛け、何かを表現しているように見える。だが何処へ向かって何処からであるかは定かではない。世界は、自然であれ人間であれ、星々の空間であれ歴史であれ、意識一般であれ、ただ現存在しているのではない。すべての現存在するものは、言わば人相学的に直観されるものなのである。
  世界定位的な知のいかなる専門領域にも納まらず、その時々の形像の関連〈内部脈絡〉として捉えられるようなひとつの全体を、記述する試み、この試みは、自然、植物、動物、風景の、人相学へと通じるものであったろう。さらに、歴史上の諸時代、諸文化、諸々の身分や職業の、そして、人間の諸々の人格性の人相学へと、通じるものであったろう。
 科学的に規定された諸目的のための叙述にとっては、方法というものがある。だが、人相学的な現存在把握にとっては、方法というものはない。人相学という名の許で行なわれていることは、むしろそれ相互の内で異質的である: 例えば、知の直観的な先取りであり、この知はその後、徹底的に非人相学的に、合理的かつ経験的に検証される。(169頁)そのほか、他の途の上でも接近可能な心的現存在の表現を了解すること。人類の歴史上の諸時代と諸集団の、史実的自然造形物と精神との性格を把握すること。人が諸事物を自分の心的生を立ち入って担うものとして理解する限りで、感情移入して名づける諸事物の諸々の気分。
 これらのすべてが既に表現であった場合でも、未だ暗号ではない。それはあたかも、表現の下には表現が、階層系列のなかに立っているようなものであり、この階層系列は、暗号が解釈し難く自己現前することで初めて止むのである。この場合、この暗号の自己現前とっては、人相学の曖昧な諸可能性とは区別されて、つぎのことが妥当する。第一に、暗号の自己現前においては、後になって知られるであろうような何ものも先取りされない、ということ。暗号の生は、それ自体はこの生とならないところの知に接して点火させられるので、すべての知はむしろ暗号をただ益々決定的にするのみなのである。第二に、暗号の自己現前は人間の心の現実の表現ではない、ということ。この現実は、その表現もろとも、むしろ全体として初めて暗号となるのである。第三に、暗号の自己現前は自然の諸形態の性格ではなく、人間の諸構築物の精神でもない、ということ。これら諸形態や諸構築物はむしろ初めて暗号となることがあるものなのである。第四に、暗号の自己現前は、感情移入による心的生ではない、ということ。暗号の自己現前は実存にとってはひとつの客観性であり、この客観性は、他の何ものによっても表現されず、ただそれ自身とのみ比較され得るのである。この客観性において語るのは超越者であり、単に高められ拡張された人間の心ではないのである。したがって、表現において理解可能となるものは、暗号ではない。理解可能にすることは、暗号文を破棄することを意味するのである。理解不可能なものをまさに理解不可能なものとして、了解可能なものを了解しながら、意味深長に形成されているままに見ることは、この理解不可能なものが透明となるとき、暗号を通して超越者に触れることを許すのである。
 2.諸暗号の世界の秩序。— 人相学は、現存在のその都度の具体性から〈に基づいて〉解読しようと努める。それは、一般的な諸命題を成果として得るためではなく、一般的なものを途として利用することによって性格描写へ至るためである。それゆえ人相学が真であるに留まり得るのは、その内容を秩序づける体系としてではない。諸形像の体系性は、ただそれらの外面的な現存在諸形式に関わるだけであろう。人は、現存在の人相学を論理化(logisieren)し、知へと格上げすることを試みたが無駄であった。その場合、人は見かけ上、科学的な洞察の諸客観のように、つぎのものを規則と計画の下にもたらすことができる。そのものは、しかしやはり、科学的研究の対象としては、即座に解消されるものであり、現存在全体としては消滅するものである。語ることによる了解行為という具体的な成果があり、その他、この了解行為の諸可能性に関する単に形式的な諸検討というものがあるのである。
(170頁)
 しかし、人相学的なものが暗号となる処では、この人相学的なものは、秩序づけられた知に変える行為にとっては、接近不可能である。この接近不可能性は、無規定的な多義性と具体的な全体性とのための人相学が単に接近不可能な〈近寄り難い〉ようにではない。この人相学的なものは、実存の根源から瞥見される故に、ただ現存在が在るのではなく実存が一役を演じるような処ではむしろ何処でもそうであるように、ここでも、いかなる路も知へ通じるものではないのである。
 意図された「暗号世界の秩序」は、したがって、いかなる概観によっても、暗号世界を支配はしない。暗号世界の秩序はむしろそれ自体、諸暗号として止揚するものであろう。諸暗号は、歴史的な充実性において、概観出来ない深さとしてあるものであり、一般的な現存在諸形式としては、諸々のカプセルとなるのである。
 にも拘らず、人が暗号世界の秩序を、哲学しながらの手探りで考察しようと欲するならば、それはひとつの自然な相互継起として現われる。世界定位のあらゆる現存在が暗号となる。自然と歴史の豪華さがそれである。それから、はっきりと開明された意識一般であり、これは、存在を分節化する諸範疇と共にあるものである。最後に、人間であり、人間は可能性として一なるものにおけるすべてであるが、けっして汲み尽くされないものである。
 a) 世界定位は、それ自体のためには、いかなる暗号解読も必要としない。暗号解読によっては、世界定位は世界定位としては拡張されることはなく、むしろ、それ自体において不明瞭となるという危険に陥る。というのも、世界定位は、現存在の暗号本性を批判的に分離することによってこそ、自らを展開してきたからである。暗号解読は、世界定位において妥当性を有し得るような最も僅かな知をも創りはしないが、世界定位で捉えられる諸事実は可能的諸暗号なのである。しかし何が暗号であり、いかにして暗号であるかを決めるのは、どんな科学でもなく、実存なのである。
 世界定位である科学が無ければ、形而上学は空想となる。形而上学はただ科学を通してのみ、諸々の立脚点と知識内容とを得るのであり、これら立脚点と知識内容とは、自らの歴史的状態のなかにある形而上学にとって、現実的な超越行為の表現として役立ち得るのである。形而上学的探求のほうからは逆に、私が現実の内で暗号を観ることによって世界定位が私にとって本質的に重要となる場合には、世界定位に弾みを与えるのである。したがって、超越者の探求は同時に、現実的なものを仮借なく知る意欲としてあるのであり、この意欲は、世界の内では決して満足に達しない〔科学的〕研究として自らを遂行するのである。暗号解読において観ぜられた超越者は、形而上学として直接に言表されると、気の抜けたものとなる。超越者によって私が充実させられるのは、私〔自身〕の現実的な世界定位においてであって、私に他の者がその世界定位に基づいて伝達するような、憶測的な形而上学的知によってではないのである。
 全方面的な世界定位が真の暗号解読の前提であり、真の解読は現実の内で起こり、この現実は(171頁)世界定位を通して判明となったものであるとしても、それでも、暗号解読は、私が自分の言うに任せる諸科学の諸成果に即して遂行されるのではない。そうではなく、私は現実自体において解読するのであり、この現実へと私は方法的知に基づいて還帰するのである。この方法的知は現実を私にとってそもそも初めて接近可能にするものなのである — 他方で私は現実の内では、前もっては盲目で運動しておらず、誤って彷徨していたのである。私が方法的に世界定位の知を具体的なものに即して遂行する場合にのみ、私は諸々の暗号を解読し得るのである。世界知と、超越することである解読は、そもそもの最初から関連し合っていたように、この二つの批判的な分離によって、真の連結が可能なのであるが、この連結は、諸々の効果や固定された諸事実や諸理論に即するものではなく、ただ、諸々の根元にのみ即するものなのである。
 科学的な世界定位は、規定的な諸観点の下に、自らの諸対象を孤立化する、つまりそれらを分割し、構成と仮定とによって、また還元によって、変化させる。諸々の測定可能性に即してであれ、撮影可能な諸々の直観性に即してであれ、諸々の特性指標の有限な数を伴った諸概念に即してであれ。
 実存が行なう世界定位に最初から随行しており、長きに亘って不明瞭な諸混同のなかで世界定位の代わりをする暗号解読は、その時々に全体であるものを拠り処とし、直接的な現在を、還元されない充実を、拠り処としているのである。
 このような全体を形像的に客観化することは、第二言語の意味での象徴であり得るのであるが、この客観化は像としては、知の可能性としての諸事象から欺瞞的に遠ざかることとなるのである。というのも、この形像的なものは、憶測的に知られた対象となると、世界と自我との間に押し入り、世界を世界定位にたいして霧で覆い、空想的となった諸像を直観することで自我を破滅するに任せるからである。
 世界定位の批判的な浄化を以て、暗号解読も初めて自己意識的となり、純粋となるのである。今や暗号解読が自らを支えるのは、諸々の事実によってであり、諸事実と諸方法の鋭利さを通して可視的となる、世界定位の諸限界によってである。すなわち、決して消えることのない、現実的なものの残余によってなのである。だが、暗号解読が再び直接的全体性を創るなら、それは世界定位における客観的な意義のいかなる要請も無しにであり、むしろただ、象徴的性格を有する形像的直観行為としてのみ、そうするのである。
 暗号解読は根源的に、個々の現実性に即している。とはいえ、世界知が可知的なものの百科全書的な統一へと押し迫るならば、暗号解読はあらゆる現実的なものの直接性の全体へと押し迫るのである。暗号解読は、特殊な(172頁)諸現実性の孤立存続を得ようとするのではなく、あらゆる現実性に開かれてありつつ、直接的な超越行為の意識を、歴史的に接近可能となった世界の全体において得ようとするのである。暗号解読は、諸事実性としてのいかなる対抗審議をも疎かにしようとはせず、諸現実性の単に偶然な系列を、盲目的なまま、他の系列に抗して、ひとつの欺瞞的な像のために選び出そうともしない。
 それゆえ、暗号解読の諸原則は、つぎのようなものである: あらゆる現実的なものを知ろうと欲すること。そして: 具体的現実性におけるこの知を、現前的に、自ら方法的に遂行しようと欲すること。あるいは他の言い方では: 全的に居合わせること、そして、一般的な諸可知性として挿入された諸成果によっても、以前の暗号解読の硬直化した諸象徴として挿入された諸像によっても、自らを諸事物から遠ざけておかないこと。
 暗号としての現存在は、全く現前的なものであり、絶対的に歴史的なもの、そのような歴史的なものとして「奇蹟」であるところのものである。奇蹟は、外面化され合理化されると、自然諸法則に抗して生じるか、自然諸法則無しで生じるものである。しかし、生じるすべてのものは、現存在としては諸々の法則性に従って尋問されねばならないのであり、これらの法則性の結果として必然的にそのように生じなければならなかったものなのである。自然法則に反してあるいは自然法則無しで生じるであろうようなものは、強制的に固定化され得る事実としては、決して現われないであろう。このようなことは、そこにおいてのみ私にあらゆる現存在が現われるところの、意識一般の開明可能な本質に従うなら、あり得ないことである。これに対して、直接に歴史的に現実的なものは、知られているものではなく、単に事実であるのでもない。この現実的なものは、自らの無際限性のおかげで残り無く一般的に知られるものに解消可能なのではない。たとえ私がつぎのことを疑わないとしても。すなわち、私が研究による認識に努める限りにおいて、すべては的確な諸事物を以て、即ち洞察可能な諸規則と諸法則に従って生起する、ということを疑わないにしても。それでもこのことは、貫通し得ない現前を持つ現実性が暗号として解読可能となるということと、矛盾しないのである。暗号として、現実性は奇蹟、即ち、「此処と今とにおいて起るもの」であり、このものは、一般的なものに解消可能ではないけれども決定的に重要である限りにおいてそうなのである。なぜなら、このものは、超越する実存にとって、存在を現存在において開示するからである。したがって、あらゆる現存在は、私にとって暗号となる限りでは、奇蹟なのである。 
 暗号においては、実存的行為の無制約性におけると同様、問うことが止む。〔これとは反対に〕無際限なものに陥る問いというものがあり、このような問いは実存的な衝動を欠いている故に、空虚な知性性なのである。問うことは我々にとって真正な空間を有し、世界定位においては限界が無い。しかし問うことは暗号を前にしては消え去る。というのも、尋問されるようなものは、即座にもはや暗号ではなく、暗号の鞘(さや)であろうし、(173頁)単なる現存在として没落であろうから。ただし問いと答えがそれ自体として、そこにおいて超越する暗号解読の材料となるなら別であるが。問うことが端的に最後のことであるなら、いかなる暗号ももはや見られない。問うことは、自らは解離されて客観化作用となる行為としての思惟において、最終のもとなるのである。しかしこのような思惟は、意識一般にのみ由来するのであるから、それ自体は最終のものではない。問うことは、暗号に面する実存の「此処と今」に現前するものを回避することのようであり得るのである。
 b) 意識一般は、ひとつの既に超越する行為となった存在形態であり、この存在形態を私は世界定位を通して探究するのではなく、自分自身の行為において私にたいして確証するのである。自分自身を思惟する、思惟のこのような行為は、その能動性とその論理的構築物において、暗号となるのであるが、この暗号は、世界定位において現存在として接近可能なすべての存在とは、異質であるような種類のものである。
 c)人間は、世界定位にとって現存在であるが、同時に意識一般かつ可能的実存である。人間とは何であるかは、存在知のどんな地平においても問われ、答えられるのであり、究極的には人間の個別的存在という暗号において、その人間の超越者のなかで顕らかとなるのである。
 
 

自然

 
 自然は、内的には接近不可能でありながら私に接近してくる現存在として、空間・時間において〔諸要素間で〕外的に引き合いつつ自らの内では概観し難く関係づけられている現実性である。しかし自然は同時に、圧倒的な力で自らの内に私を閉じ込め、自らを私にたいして、私の現存在の特定のこの点へと集中し、可能的実存としての私にとって超越者の暗号となるものなのである。
 1.他者としての、私の世界としての、私自身としての、自然。— 自然は一たびは私にとって端的に他なるものであり、私ではなく、私無しでも存在するものである。自然はそれから、その内に私が存在する私の世界として存在する。自然は、終わりに、私に与えられているものとしての私が私の暗い根拠である限りにおいて、私自身である。
 端的に他なるものとしての自然は、それ自身の根に基づく現存在を有する。恐竜類が熱帯の湿原で跳ね回っており、まだいかなる人間も存在していなかったような、何百万年も前に存在していたものは、やはりひとつの世界だったのである。我々にとってその世界は単に過去であるが、しかし、その残滓を、人間の世界現存在の創造と共に同時に、嘗てそれ自体が現在であったこと無しに、永遠に過去のものとして生み出された何かとして見做すことは、馬鹿げたことだろう。(174頁)人間存在のために自然を一度全滅させることは、自然の至る処から語りかける自然自体の存在を奪うことである。この他者存在は我々に、ただ自らの諸局面を与えるのみであって、自らの自己存在を与えはしない。だが、それ自体は理解不可能でありながら、自然は我々にとって、それでも依然として我々の世界なのである。
 自然は、自然の内での私の行為を通して、私の世界となる。この行為が努めるのは、一方では、自分の現存在目的のために自然を奪取することであり、領域を設定した単純な手仕事と手工業から技術的な支配に至るまでの手段を用いて自然を加工することである。あるいは他方では、活動的労働は、自然を我が家とする手段であり、それは私が自然を利用しようとする場合ではなく、観照しようとする場合なのである。私は彷徨い、旅行し、自然と特別に親近な私の場所を探し、あらゆる限界を越えて進み、自然を完全に知りたいと思う。自然においては、端的に他のものと、私の世界として自然であるものとの緊張は、止むことはない。どんなに支配しても私は自然に依存したままである。自然は私へと方向づけられている観があり、私を担い、私に仕えている観がある。しかし私は自然にとって明白に全くどうでもよいものでもあるのである。敬意を懐くことなく自然は破壊する。
 私は自らが自然である。しかしただ自然なのではない。というのも私は、自分を自然に対峙させ得るからであり、私の内なる自然を、私の外なる自然と同様に制御し、変貌させ、自分のものとして引き受けることが出来、この自然において我が家に居るようであることが出来るからであり、あるいはこの自然に負けたり、この自然を隔離して排除したりすることがあるからである。自己存在と自然存在とは、互いに属し合うものとして対峙し合っているのである。 
 2.自然の暗号存在。— 自然への愛は、暗号を、測定可能で普遍妥当的ではないが、あらゆる現実において共に摑み取られ得るような存在の、真理として観ずる。路の水溜り、太陽の日の出、虫の幼虫の解剖、そして地中海の光景、こういったものにおいては、科学的研究の対象としての単なる現存在を以てしては汲み尽くされない何かがある。
 暗号として自然は常にひとつの全体である。差し当たり、風景として。大地現存在の規定的状況としての風景において、私はその都度存在しているのである。それから、〔自然は〕一なる世界全体として、私が思惟し表象する如き一つの測り知れない宇宙である。次いで、〔自然は〕特殊な諸存在者の自然諸領域であり、すなわち、諸々の鉱物、植物、動物の諸形態、そして光、音、重力といった基本的な諸現象なのである。最後に、〔自然は〕ある環境の内での現存在の諸様態としての諸々の生命現象の領域なのである。全体は常に、概念的に理解され説明され得るものより以上のものなのである。
 暗号としての自然は、歴史的に特殊な形態において、私の現存在が大地に結びついていることであり、そこにおいて私が生れ(175頁)自分を選択したところの自然の近さである。そういうものとして自然は、交わりを欠いた暗号である。なぜなら、この暗号において自然は、私にとって唯一的に、それゆえ最も強烈に、血縁的存在——私の魂の風景——として存在するからであり、かつ、これとは別に、全く疎遠なものとして存在するからである。
 ここから円環は更に引っ張ってゆく。私は、諸々の場所の精神にたいして開放的であり、この精神は、私にたいして、交わりのなかで、過去と現在から私に近付いて来る他の実存たちの〔各自の場所への〕根づきを伴って立ち現れるものなのである。私は更に、見知らぬ風景に開かれている。未だ自然が人間によって触れられていない処では、私は自然のなかでの孤独の内実を当てにしているのである。地球は故郷となり、旅することへの衝動は大地の諸形態のなかに諸々の暗号を探すこととなるのである。
 自然の歴史性は、限界無きものの中へと拡大可能ではあるが、風景の絶えず新しい諸々の歴史的一回性において凝集される。しかし、〔自然の〕類型が一般的に観ぜられる程(北海の、低湿地と荒野と沼地を伴った海岸地帯。ホメロス風の海の光景。〔イタリア南部地方の〕カンパーニャ。ナイル川。山岳地帯と荒地。極地世界。ステップ地帯および熱帯地方…)、類型は暗号としては非現実的である。ただ、現前的なものの無限性に立ち合う場合にのみ、暗号は開顕可能なのであり、この暗号に諸々の類型の抽象はただ目醒めさせつつ導いて行き得るにすぎないのである。したがって、諸々の可能性のいかなる俯瞰も存せず、そういった俯瞰があるとすればそれ自体は諸暗号を自らにとって遮光されたものにしてしまうであろう。自らの場所で深化すること、自らの風景に忠実であること、疎遠なものが現前的なものとなることに準備すること、これらのことにおいて、自然の歴史的な言葉が聴かれるのである。
 私は自然から語り掛けられているが、自然は問われると押し黙ったままである。自然はひとつの言語を語るが、そのことによって自分の姿を現すことはなく、あたかも言い始めると言い淀むかのようである。不可解なものの言葉であるからといって、この言葉はその不可解なものの愚かしい事実性であるのではなく、暗号として、その不可解なものの深みなのである。
 暗号においては、客観的な作用無しの現前的現実性の意識がある。暗号において経験されるものは、継起系列において認識可能なものとして経験的に現存在するのではなく、諸原因に依存しているのでもなく、内在次元における超越者の純粋な自己現在なのである。
 3.自然哲学による暗号の解読。— 自然の暗号が何であるかを一般的に言うことを、古来、自然哲学は敢えて試みてきた。自然哲学は自然を人間に理解し得るように努めてきたし、それによって、この魂を吹き込まれた親近さとは反対に、自然の近寄り難いものを、他なるものとして感じさせることにもなったのである。この他なるものは人間の諸可能性を超えて崇高なものとされた。(176頁)自然があたかも人間にとってのみ存在するかのように、自然が人間にとって思念されることは不可能であること、〔そして〕自然が自ら自身の内で充足することもまた不可能であること——このような見極め難さへと、思弁的思想は突き進むものであった。これらの思弁的思想は自然を先ず——あたかも自然が自らの内に閉じられているかのように——「一なる全生」(das eine Alleben)として観じていた。これらの思想はその後、世界定位の知において自然の統一性が分解するに任せたのであり——その結果、自然は何か他のものを示すように見えることとなった——。終極的に、これらの思想は自然を、新しい統一性において、自らの内で分節化された階層系列として、そして自然自体を包越的な階層系列において、思惟するようになったのであり——、その結果、自然は他のものの中で止揚されることとなったのである——:
 a)全生とは、「自然は生成の陶酔である」、ということである。何処から何処へと問われることもなく、自然は終わり無き去来であるような存在なのである。この存在は永遠に自らの酩酊のなかに保たれるのである。人格も運命も知ること無く、自然は、自らの創造行為の大河への帰依であり、この大河の熱狂は、無意味なものの苦痛と一つに絡まり合っているのである。つまり、自然は苦痛の車輪なのである。この車輪は、何の成果も無く、自分を自分自身の回りに回転させているように見える。自然は、いかなる本来的時間でもない時間である。なぜなら、絶え間なき産出と貪食とにおいて、決断を欠いた無際限性が続いているからである。あらゆる個別的なものは、浪費の測り難さにおいて無のようである。自然は、自らの欲することを知らない渇望である。自然は生成の歓喜として、くすんだ拘束の嘆きとして、見遣る。それゆえ、自然の暗号は一義的ではなく、むしろ両義的である:
 自然は、諸力の均衡においては、存立することの安らぎへと自らを浄化する。私がこのような自然に従うとき、静かな調和が私を掬い上げるかのようである。自然は、様々な形態を充満させて汲み尽くせない意味深長さで生成しつつ、自らの現存在を分節化したのである。そして自然はあらゆる生成したものを、仮借なく盲目的に破滅させたのである。それにも拘らず、自然は限り無く慰める存在として現象すること能うものである。すなわち自然は偉大な創造する生命であり、破壊され得ず、現象において永遠に新しく、世界霊魂の常に同じ根源力なのである。全生は自らに私を引き寄せるように見え、私を魅惑するのであり、私をその勢いよく流れる全体性の中へと溶解するように見えるのである。動物および植物の領域における自然の諸形態は、私と血縁関係があるかのようである。だが自然は応答しない。それで私は苦しみ、反抗するのである。ただ、庇護されているという感じと、自然への憧憬が存続するのみである。
 自然の近づき難さは、別の可能性となる。すなわち、私を脅かすところの、束縛を解かれた諸要素であり、絶対的な疎遠性の勢いであり、動物の諸形態の深淵である。この諸形態は、私が自分をそれらとの類縁性において束の間同一視させる限りは、私の恐るべきあるいは笑うべき歪んだ形態となるのである。(177頁)全生は、ひとつの可能性に従えば、私が信頼する母親のように生成する。他の可能性に従えば、私にとって恐ろしい悪魔のように生成するのである。
 安らぎを欠いているというのが、全生の一面である。岩塊のような諸々の形の硬直性は、単に硬化した不安静なのである。微かに光ったり、きらきら光ったりすることの無際限さ。光の前での、あるいは太陽に照らされて微光を発する岩塊の小場所の前での、波打ち。雨の雫の跳躍と、露のなかでのそれらの輝き。無数に運動させられる水面上での色彩の循環と絡み合い。海岸に打ち寄せて砕ける波。立体性で形成されながら一瞬もじっとしていない自らの現存在を有する雲。広さと狭さ。光と運動。——これらの何処においても、自然存在のこのような表面は、魅惑するものであるとともに破滅させるものである。 
 b)自然の統一性の瓦解: 自然は全生としては一なる自然であると見えていたが、この統一性は知にとっては特殊な形態において私にたいして生成する: 自然の普遍的な法則性としての機械仕掛けの統一性があり、ここでは一切は数、基準、重さに従って把握可能である。形態学的諸形態の統一性があり、この諸形態は自らがその都度、可能な諸々の形の一全体なのである。各々個別に生きているものとしての生命の統一性があり、この個別的生命性は自らにおいては無限な全体なのである。ところで、自然の統一性は、まさに、何か或る規定的な統一性をこのように明確に捉えることによって、瓦解するのである。全生〈全き生〉という統一性は、思惟されたものとして存立もするのではなく、ただ、ひとつの統一性という暗号なのである。この統一性は、直接的な〈媒介されない〉意識にとっては、ひじょうに自明的に思われることがあるので、自然である一なるものというこの暗号に固執しないためには、この統一性が思惟されるのは不可能であることを洞察する必要があるのである。自然科学的に規定的となった知は、自然の裂散性(Naturzerrissenheit)という暗号が判明となるようにするのである。
 c)段階系列: 全生の統一性が瓦解していると、統一性は思弁的思想において再び探求される。思弁的思想は、自然の内で異質なものを、自然諸形態の歴史的生成の段階系列において束ねるのである。この自然諸形態は、無時間的な系列として(あたかもこの諸形態が相互の上に打ち建て合い、産出し合うかのように)、重量と光との、色彩と音との、水と大気との、結晶の諸形態の、植物と動物との、諸領域において、思惟されている。無時間的発達の思想は、自然現存在の段階系列において、結合された状態からの解離の増大を見、内面化と集中化の増大を、そして可能的な自由を見るのである。その生成はその場合、時間的で有目的的な発展として見られる。そしてそこにおいては、失敗した試みも、怪奇で(178頁)不条理な諸目標も見られ、これらを自然自体が持っているように観ぜられるのであり、そしてこれらが再び、自然がそれ自体において一なるものとして完結可能であることを不可能にするのである。
 ここから、ひとつの包摂的な段階系列が、存在の暗号として考案される。この暗号においては、自然は〔全体の〕一部分であり、この一部分は自分から後方へ、そして前方へと方向を示すのである。自然において、後ろ向きには、「自然の根拠」が、超越者の接近不可能な深みとして考え出され、この超越者から、現存在が自然として可能となり、その後に現実となるとされるのである。自然において、前方を望んでは、自然から「精神」として生成するであろうところのものの萌芽が見られる。自然において、既に「精神」が輝いている。この精神は、後になると、自然から出て、精神自体として突発出現するだろうが、自然においては〔まだ自然に〕結びつけられて無意識なものとして、暗号において〔のみ〕可視的なのである。精神は微動しているが、自らを見いだすことは未だ出来ない。したがって苦悩なのである。精神は自分の現実性の基盤を自らに準備する。だから歓びなのである。自然は精神の根拠であり、精神は既に自然の内に存在する。同様に、精神が現実的である処では常に、自然は尚も精神の内に存在しているのである。
 芽吹く精神としての自然という暗号においては、そのうえ、精神の媒介において後に実存の自由となるものが、既に無意識的現実性として現前しているように見える。意識を欠いた観想的創造が、計画的悟性無しの計画としての自らの道を行くのである。自然の内には、計画以上のものが、理性的な無意識性の深みを通して存在するのである。このものは、自然が途方に暮れてしまうように見える時、計画以下であり、その場合、自然は、例えば新たな現存在諸状況における生がそうであるが、突然に適応するはずなのである。自然という暗号においては、理性と魔性とがあり、理性とは機械仕掛けであり、魔性とは諸形態の創造と破壊なのである。
 4.自然の諸暗号にとっての一般的諸定式の欺くものと乏しいもの。— 諸暗号の諸定式は、自然に関する規定的知のあらゆる諸様態を通して内容的に充実され得る。この知が知として思念されているのではなくて、この知において把捉される事実性が存在の言葉として思念されている限りにおいてはそうである。だが常に、自然の暗号の質料は、直観的なものであり続ける。この直観的なものは、自然が私の諸感官に私の世界において出現する仕方なのである。自然に関する知は、直観的像へと遡行変換されることで初めて、再び語り掛けるものとなる。そのような場合が、アインシュタイン的世界の屈曲空間の何とか認識可能な広がりが、根源と目標において暗黒なままの途方もない、世界全体の運動として、自らの内に閉じられない世界の限界表象となる場合である。このような限界表象は、つぎのような問いによるのである、すなわち、それを超出して何が運動の根拠なのか、そして、何の内にこの屈曲空間はあるのか、という問いである。
 しかし、自然の暗号の思弁的諸定式は——自らの直観的な充実に関してではなく、自らの本来的意味に関しては、諸科学の進歩における諸々の規定的自然認識から独立しているのであるけれども——経験的現実を認識するのだという要請と共に現われる場合には、世界定位的知と混同され得ることによって、欺くものである。というのも、それらの定式によっては、どんな種類の世界認識も生じないからである。それらの定式が更に、自然に関する斯く斯くの知に基づいて、ある行為へと誘導する場合には、ある魔術的な操作が或る望まれるものを産出するはずだとされるのである。この場合、その産出は、思惟された諸暗号(例えば賢者の石の形をとった全生とか、しまいには、特殊な秘薬の形をとった全生など)が、世界の内で作用する諸力のように利用されることによるのである。遂には、混同から、科学的な、すなわち個別的で相対的な世界定位の価値を、否定する結果となる。この世界定位は、たしかに規定的ではあるが個々別々で不充足な知であり、これと比べて、全体に関する一方の憶測的な知は、無限に卓越しているように見えるのである。しかし私が世界の内で行為によって何事かを達成しようと欲する場合、私が成果を挙げるのは、ただ、私が個別的で方法的な知を限界の意識をもって計画的に予測しつつ適用するに応じてのみである。化学と生物学を通して私は、耕地から採れるものを採ることを学ぶ。これを学ぶのは思弁的諸思想での暗号文の解読を通してではない。医療科学を通して私は、諸々の感染病と闘い治癒することを、諸々の傷や腫れものの外科学的処置を、学ぶのであって、精神感応的な手段やまじない、その他の、全生に関する憶測的知に基づく方法を通して学ぶのではない。
 諸定式は、さらに、内容に乏しいものである。というのも、自然のあらゆる暗号は、現実の自然の歴史的現前においてのみあるからである。このような自然は私にとって「此処で斯くある」ものなのである。暗号を私が読むのは、私が自然の或る規定的な領域で、その領域の生と、年月かけたあらゆる天候のなかでの自分自身の諸活動を通して、知り合いになる処においてである。そのようにしてのみ私は、自然の生と融合するのである。これは、私が特定の場所に在るものとしての自然の生と付き合うことによるものなのである。私の観察と企画実施との諸々は、独特のあり方で自然と共在することによって、自然との間に他のものを介入させること無く、規則と機械仕掛け無く、為されて経験されることで、私を人間世界の外へ運び行くのである。それはまるで、近寄り難い前史時代に舞い戻るようなものであるが、自然科学的に可能な知を越えゆく途上においてなのであって、この知が、私の経験し得るものを初めて私に開くのである。その場合、私は全諸感覚をもって自然を把握するのであり、あらゆる可視的なもの、聴取可能なもの、嗅ぐことのできるもの、触れることのできるもの〔の秘密〕が、私に打ち明けられるのである。私は、自然の運動であるようなひとつの運動へと変わり、この運動は自然の震動を私の中で共震させるのである。私が自然と協働するための導きの糸を所有するために—(180頁)といっても私が自然にほんとうに近づこうとすると、私はこの導きの糸から逸れてしまうのだが—、私は狩人であり、採集家であり、庭師であり、山番なのである。世界定位の合理性が私に梯子段を与え、私を諸々の錯誤から守るならば、私は本来的な暗号へ到るのである。この本来的暗号の前では、あらゆる自然哲学は、たとえ〔到るべき処へ〕導くことと、注意深くさせることとを知っているにしても、単なる思想としては影が薄れてしまうのである。そのようにして私は、あらゆる諸目的を越え出て自然の空間を自分のものとすることによって、初めて自然自体の前に立つのである。ここから、数千年を通じての自然哲学における数少ない思想動機の必要不可欠な反復は、その都度、実際の暗号解読の無限な悦楽の中に溶かし込まれるのである。この暗号解読は私に、汲み尽くされない充溢を提供し、諸々の思想を初めて真なるものにするのである。
 5.自然の暗号の実存的意義。— 私は自然の内にあって可能的実存である。このことに応じて、私は自然に面して、私の可能性の実体から、二つの側面で逸脱する。私が自然を、加工の対象として、また、それで私が自分の実を示すべき抵抗として、さらに、そこから私が何かを生産すべき材料として、私へとただ尚も到来するに任せるだけならば、私は実体無き活動性の中に滑りゆくのである。このような活動性は、現存在の形式主義となる。この形式主義は、自然敵視を通して、私をして私自身をも私の諸々の生内実に関して失わせるのである。自然を我々のための単なる資材として概念的に理解することは、このことによって同時に我々自身の根元を枯渇させること無しには、不可能である。大都会の石造りの海、その喧騒とその光もまた——すべては加工された自然であるに留まり、自然を瞥見する可能性を保持しているのである。——逆に、これに反して、私が自然を本来的存在にし、私自身を自然の産物とするならば、私は自然への心酔のなかで、私が本来的にはそれであるものとしての自己存在としては、私を忘却するのである。
 二つの逸脱に抗して、最も決然とした自己存在にして初めて、愛を取り違えることのない、自然への最も純粋な愛の根元なのである。つまり、自然は我々の現存在の派生誘導物でもあり得なければ、それへと我々が自らを変化させるべきであるような、より良きものでもあり得ない。むしろ自然は自分自体から〈に基づいて〉我々自身にとって〈向き合って〉在るのである。カントは自然にたいする感覚において、善き魂の表徴を見た。自然に対する粗暴さは、大抵の場合、傷つけられた自然のためにではなく、そこからそのような態度が可能であるところの心のあり方〈心根〉のために、我々をぞっとさせるのである。或る者が長い道を歩いていて通りすがりに自分の杖で花を斬り落とすならば、我々は吐き気を催すが、農夫が全平地の草を刈ると、満足するのである。
 けれども自然への愛は人間にとって、ひとつの実存的危険である。私が自らを、けっして究められていない暗号としての自然へ捧げるとすれば、私は自分を自然から常に繰り返し取り戻さなければならない。というのも、自然は私を(181頁)無思想性において私自身にとって疎遠なものとし〈私自身から疎外し〉ようと欲するからである。私はこの〔自然の〕世界の富を直観することにおいて浄福であるが、私が束の間以上に自然に夢中になるならば、私は裏切られているのである。
 人間は、孤立化において自らを失いつつ、自然を交わりの代わりとして求める。人間を避ける者は、危険を伴うこと無く自らを自然への感情において拡張する場合、外見上の逃避地を見いだすのである。とはいうものの、自然を伴って彼の孤独は高まる。自然への感覚は哀愁の性格を持つようになり、答えることをしない自然は、その意識を欠いたあり方において欺きながら、苦痛の道連れのように見えるのである。我々はすべてを言葉で量る。何故なら我々は諸々の可能的実存として、交わりにおいて初めて自分へ至るからである。自然が言葉を欠いていることは、〔自然は〕交わりを欠いている国だということである。(つづく)
 



第二部:諸々の暗号の世界(168頁)

概観(168頁)
1.諸々の暗号の普汎性 —(168頁) 2.諸暗号の世界の秩序 —(169頁)

自然(173頁)
1.他者としての、私の世界としての、私自身としての、自然 —(173頁) 2.自然の暗号存在 —(174頁) 3.自然哲学による暗号の解読 —(175頁) 4.自然の諸暗号にとっての一般的諸定式の欺くものと乏しいもの —(178頁) 5.自然の暗号の実存的意義 —(180頁)
 

 
 

(隔週更新としたいと思います。訳者)




孤独と、フランスで知った「人間への信頼」による友情

2024-10-28 23:05:33 | 高田博厚の生

孤独と、フランスで知った「人間への信頼」による友情

2024年10月27日(日) 22時
高田博厚と芸術

 
高田さんがフランスに渡って、フランスの知識人たちに「友人」として次々と紹介されたことは、よく知られているが、ここで注意すべきことは、彼らが高田さんを「友人」として迎え入れたにしても、高田さんがどういう人物かを知っていた訳ではない、ということである。では、その「信頼」は何に拠っていたのかというと、彼らの「人間」への信頼に拠っていた、と高田さんは注意している。そして、「これがフランスなんだな」と、親友片山敏彦と慨歎しているのである。こちらは色の違う東洋人であるのにである。普遍的な、人間への信頼、というべきであろうか。こういうことは、西洋の他の国でも同様にあるものではないだろう。これは深い省察を要することで、日本で日本人どうしの間では不可能なことである。(道徳的と云われる日本人は互いに余りに非礼であり、信頼以前の問題がある。)だから高田さんたちは感動しているのである。モラリストの人間観察・省察を文化として集積させているフランス人が、日本人より人間への見方が甘いわけではあるまい。おめでたい観念的人間観に知識人たちが染まっている訳ではないだろう。
 
こういう点について、ぼくもよくかんがえてみたい。
 
 
 
《フランスの家庭に残っている集会日いわゆる「サロン」を私ははじめて見た。そしてマルティネにはじめて会い、彼は客間にいる皆に私を紹介した。私は彼らの温かい応対ぶりにまごついた。まだ一言もフランス語をしゃべれない。・・・ 彼や彼らは私のなにを知っている? ・・・ 遠いところから一東洋人を迎える、これが「社交」なのか? 日本では互いにめったに示し合うことのない「人間関係」の善意に、私ははじめて触れて戸惑ったのであった。ロランの「信頼」もこれなのか? 私個人に対してというよりも、「人間」に対しての信頼なのか? 甘いと感じたこちらの方がひねくれているのだ。》
高田博厚著作集II、173頁(「分水嶺」III「パリ」)
 
 




ヤスパース『哲学』III 第四章「暗号文の解読」2

2024-09-02 15:41:25 | 翻訳

ヤスパース『哲学』III 第四章「暗号文の解読」2

2024年

( ヤスパース『哲学』第三巻「形而上学」第四章「暗号文の解読」 の拙訳の紹介です。超越者の暗号について語られています )

 
〔 ヤスパース『哲学』III 第四章「暗号文の解読」1 の続き 〕
 したがって、私が暗号文の中に迫り入るのは、研究による洞察や、収集行為と合理的我有化を通してでは、未だないのであって、このような材料と共に初めてではあるが、実存的な生活の運動を通してなのである。第一の言葉の経験は、ただちに、可能的実存が自分自身を投入することを要求するのである。この経験は、手許に運んでくることが出来て誰にでも同一なものとして表示可能であるような経験ではない。というのもこの経験は自由を通して初めて獲得されるのであるから。この経験は、体験のような随意的直接性ではなく、暗号を通しての、存在の反響なのである。
 すべてのものが暗号となり得るのなら、暗号である〈暗号存在〉とは、何か任意なことであるように見える。暗号存在は、真理と現実を持つ場合には、検証可能なものであらねばならない。世界定位において私が検証する場合、それは、私が何かを(151頁)知覚可能なものにしたり、論理的に強制的なものにしたりすることを通してであり、私が何かを作り上げて成し遂げることを通してである。実存開明において私が検証する場合、それは、私が私自身および他者とつき合う仕方を通してであり、そのつき合い方において私自身を確信している仕方を通して、つまり私の行いの無制約性を通して、私が飛翔において、愛と憎しみにおいて、自己閉鎖と自己不随意において、内的に経験するところの諸々の運動を通してなのである。しかし、暗号の真理を私は端的に検証することは出来ない。というのも、暗号の真理は、言表されたものとしてはその客観性において一種の遊戯[ein Spiel]だからであり、この遊戯は妥当性へのいかなる要請も為さず、それゆえまた、いかなる正当化も必要としないからである。私自身にとっては、この暗号の真理は、いかなる単なる遊戯でもない。
 私が暗号を解読する処では、私は責任を負わされている。何故なら私は暗号を私の自己存在を通してのみ解読するからである。そして私の自己存在の可能性と真実性とは、暗号解読の仕方において私にたいして示されるのである。私は、私の自己存在を通して検証するのであり、そのためにこの〔私の〕自己存在自体よりほかの基準を持つことはない。この自己存在は自らを暗号の超越者に接して認識するのである。
 このように、暗号文の解読は、内的行為において遂行される。私は自分を絶えざる没落から救出しようと努め、自分を手中に収め、私から生じる決断を経験する。だがこの自己生成の過程は超越者への傾聴と一つであるのであって、超越者無しにこの過程は存在しないだろう。私の行為において、抵抗、成果、不随意そして喪失において、最後に、これらすべてを掬い上げて再び制約するところの私の思惟において、私は、私がそこにおいて暗号を聴取するところの経験をするのである。生じるところのもの、そしてその生じるところのものにおいて私が為すところのものは、問うことと応答することであるようなものである。私は、私の身に起こることから聴くのであるが、その起こることにたいして私が態度をとることによって聴くのである。私が自分と格闘し、諸事物と格闘することは、超越者を求めるための格闘なのであり、この超越者のみが、此の〔特定の〕内在者において暗号として私に現象するのである。私は、事実的世界経験の感性的現前の中へと、勝つか屈服するかの現実的行動の中へと、押し入ってゆく。なぜなら此処においてのみ、存在するところのものに私が傾聴する領野があるからである。
 存在は、万人が知り得るものであろう、と思うことは、愚かなことである。人間たちがそれであったところのもの、彼らが超越者をそういうものとして確信していたところのもの、彼らが超越者で充実させられていた仕方、彼らにとって本来的現実はどのような現実を意味していたかということ、そのために彼らはどのように内面的に生きたかということ、彼らは何を愛したかということ、これらすべては決してひとりの単独的個人が現前的に摑み取り得ることではないであろう。いかなる仕方でも存在は万人にとって〔同等に〕在るようなものではない。自分〔自身〕ではない者にとっては、すべては暗黒なままに留まるのである。
 そのようにして私は超越者の暗号文の解読において、私が傾聴するところの存在を摑み取るのであるが、それは私がその存在のために闘うことによってなのである。なるほど私はただ(152頁)超越者の存在の傍らでのみ、本来的存在の意識を持つのであり、ここでのみ、私にとって安らぎはあるのである。しかし、私は絶えず再び闘いの不安静のなかにいるのであり、独り打ち捨てられて失われた如しなのである。私が存在をもはや感知しないならば、私は私自身を失っているのである。
 哲学的な実存は、隠れたる神にはけっして直接に近づかないという態度に甘んじる。私が暗号文のために準備している場合に、暗号文のみが語るのである。私は哲学しつつ、私の可能性のために〔自ら〕全力を注ぐことと、私の現実性が〔私に〕贈られることとの間で、浮遊状態にあり続けるのである。それはひとつの交際、私自身と超越者との交際であるが、それがただ稀にのみであるのは、あたかも暗闇の中でひとつの目が光るかのようである。日常的なものは、あたかも無であるかのようである。人間は、自らの不気味な寂寥のゆえに、もっと直接的な接近を、諸々の客観的保証を、確かな支えを求め、祈ることで言わば神の手を摑み取り、権威へと向き直り、神性を人格的形態において見るのである。この人格的形態として神性一般は初めて神なのであるが、その一方で神性は無規定に遠いままなのである。
 2.実存的観想。— 哲学的な打ち捨てられた状態において〔も〕、実存的な観想が、絶対的意識に基づいてあり続ける。この観想は祈りではない。祈りはむしろ哲学することの限界であり、哲学的には近づき難く、それゆえ疑わしいものである。しかしこの観想は夢想[Phantasie]として、可能的実存の目なのであり、可能的実存の能動的な闘いに投入されて、路の開明と充実となるのである。
 現存在の現実性は、意識一般の内で、世界定位における諸対象へと解消された。それでもやはり夢想は、合理的に解消されてはいない現実性のなかで、そして更に再び、この現実性〔そのもの〕の解消のなかで、存在を観るのである。それは、あたかも事実的な存在が現存在の背後に嵌まっていて、現存在から空想的に推論されるかのようにではなく、存在が夢想にとって、暗号において直観可能な仕方で現前するようなふうに、観られるのである。
 私は、存在が何であるか、私がどのように現存在を知るのか、知ることは出来ない。私は、私が現存在の象徴性格を超出しない限りで、現存在を暗号としてただ解読することが出来るだけなのである。私は、現存在を世界定位において諸々の概念を通して認識するが、存在を現存在においてただ夢想を通してのみ解読するのである。夢想はつぎのような逆説である:すなわち、実存は、何であれ現存在するところのものをもって存在の一切と見做すことが出来ず、超越者の内に〔こそ〕自らを保持するために、現存在のあらゆる確実なものそれ自体からは自らを解離する、という逆説なのである。たしかに、哲学的夢想も諸概念を使用するけれども、その諸概念はこの夢想にとって、現存在の構築物の建造石材ではないのである。この夢想は諸概念をこの諸概念自体として思念してはいない故に、この諸概念も夢想にとって、すべてのものと同様、暗号となるのである。このように現存在を透明なものとして見いだすことは、観相学的な直観行為のようであるが、(153頁)しかしこの行為は、知識という形を目標として求めて、表徴から「根底に存するもの」へと推量してゆくような、粗忽な観相学〔の行為〕なのではなく、真の観相学なのであって、このような観相学が『知る』ところのものは、この観相学にとってただ直観行為においてのみ在るのである。暗号において私は、私自身の存在の根と関連しているとはいっても私と一つにはならないものを、存在として私に対峙させて持つのである。私が真実であるのは、目的を追求したり現存在の利害関心に尽くしたりせずに、私が私自身として暗号において在ることによってなのである。
 観相学的像と比較できる、存在の諸暗号の現実性は、与えられても創られてもいるものである。与えられているというのは、この現実性は捏造されるのではなく、また、主観性の空虚から出来するのでもなくて、現存在の内で初めて語るものだからである。創られているというのは、この現実性が客体として強制的かつ普遍妥当的で、万人に同一なのではなく、実存という基盤に基づき、実存の存在接近として、直観する夢想の内に現存するからなのである。心理学的に心の一産物として理解されるのではなく、実在的-対象的に現実性として諸科学を通して研究されるのでもなく、暗号は、ある存在が暗号のなかで語るかぎりは、客観的であり、〔しかし同時に〕主観的であるのは、〔人間の〕自己が自らを暗号のなかに反映させるからである。ただしこの自己は自らの根元において、暗号として現象する存在と関係づけられているのである。
 暗号の内に私は留まるのである。私は暗号を認識するのではなく、私を暗号の内へと深化させるのである。あらゆる暗号の真理は、具体的でその都度歴史的に充実させるものである直観[Anschauung]においてある。自然において私にこのような存在が自らを啓示するのは、ただ、私が、まったく一回かぎりの諸形態を、まさしく此の場において斯くあるように現存在するもののもつ、全然一般化されえない親密性[Intimität]として、私に語るに任せる場合のみである。
 暗号文の解読は、時間の内なる現存在に差し向けられている。この解読は、この現存在を蒸発させてはならない。というのも、そうなると、この解読行為は、現実性とともに存在をも取り逃がしてしまうであろうから。この解読は、現存在を存立するものとして、世界定位での研究がそうするように固定化してもならない。というのも、そうなると、この解読行為は、現存在としては出会われない自由もろとも、超越者への路を失ってしまうであろうから。実存的夢想にとって問題なのは、むしろ、存在するあらゆるものを、自由によって貫通されたものとして把捉することなのである。暗号の解読は、ひとつの存在知の意味を持つのであり、この存在知においては、現存在としての存在と自由としての存在とは同一となる。この同一化は、いわば、夢想の最も深い眼差しにとっては、これらの存在の一方だけではなく、両方のものが根拠であるためなのである。
 思弁的思想は、伝達可能なものとなった暗号文である。この暗号文は解釈するが、その解釈行為は、存在を了解する行為ではまったくなく、(154頁)了解行為のなかで、存在実体の、本来は了解不可能なものに触れることなのである。それゆえ、私がただ了解するだけの思弁的思想を、私はつぎの場合には了解していないのである、すなわち、私がその思想を通して、存在である理解出来ないものに突き当たることのない場合である。その存在を通して、また、その存在と共に、私は本来的に存在するのであるが。私は思想的な言葉を媒介とすることによって了解をするのであり、この媒介において私は、何処で私が理解不可能なものに出会ったかを、私にたいして理解可能にするのである。しかしこの了解行為は、無限の前進の最後に完全に概念的把握が出来るようになるものを、漸次的に概念把握してゆくことではない。そうではなく、〔この了解行為は、〕了解可能と了解不可能との対立の彼方で存在として存するところのものを、より一層決定的に顕現させることなのである。〔そして〕この存在は、了解可能性の内で消滅しつつ現象するのである。実存の自己顕現は、了解行為において、理解不可能なものに突き当たり、そしてこの二つ〔了解行為と理解不可能なものとの出会いと〕において、存在に突き当たるのである。了解行為は、理解可能なものが存在と見做される場合には、逸脱となる。〔そうかといって、〕理解不可能なものを掴み取ることも、つぎの場合、逸脱となる。すなわち、理解不可能なものが、了解行為の言葉の破壊の下で、ただ粗暴に与えられたものとして無疑問に受け取られて行なわれる場合である。
 意識一般としては私は、単に現存在であるもの以外の何ものも見ない。超越者への実存的な諸関係は、内的に二律背反的なものであり、この実存的諸関係を通してでは、未だいかなる完成も時間においては無いのである。だが、実存の、観想的な夢想である眼を通しては、暗号の解読において、完成の意識が、時間の内での充実として、ほんの一瞬だけ可能となるのである。夢想を通して実存は、存在の傍らでの安らぎを見いだす。暗号が世界清浄化なのである。あらゆる現存在が超越者の現象となるのであり、すべての現存在するものは、特定のこの愛しながらの夢想において、ひとつの存在としてそれ自体のために観ぜられるのである。いかなる効用、いかなる目的、いかなる因果的発展も、私にとってその存在を規定しない。現存在するものが何であれ、それは現象として自らの美に達するのである。なぜならそれは暗号であるのだから。
 そこではまだすべてが一つであって、自己存在も非自己存在も無いところの、意識の鈍さにおいては、暗号文は存在しない。意識の明瞭さにおいて初めて、諸々の分離と共に、可能性が出来するのである。今やあらゆる現存在が、先ずは、経験的に現実的なものという実証性となり、そして、妥当なものという合理性となる。現存在は透明であることを失い、夢と幻想によって欺くことをやめる。だからといって現存在がそれで暗号文となるのではない。暗号文は、ある新たな飛躍において初めて本来的に開顕されなければならないのであり。それは自己存在によってそうなるのである。この自己存在は、かの実証性と合理性を決定的に摑み取った自己存在なのであり、それ〈この摑み取り〉は、この実証性〔および合理性〕を、取り違えをすることなく、超越する眼差しによって貫通するためなのである。
(155頁)
 時間の内においては、観想の両義性が存続する。現存在において観想的に視られた存在の現実性は、単に観想的なものとしては、素早く無拘束な[unverbindlich]ものとなる。観想は実存のひとつのあり方であって、このあり方が拘束的なものであり続けるのは、ただ、このあり方が、己れの時間的な現実性のなかにある実存と最も決定的に統一し置かれている場合のみである。超越者の観念的な領域と現存在の実在的な領域という、二つの生活領域への分離が起こるところでは、この二つの間で私は行ったり来たりすることとなって、観想は非真実なものとなるのである。
 逆に、夢想[Phantasie]の眼の無い実存は、己れ自身における明澄さ[Helle]も無いのである。このような実存は、実証的な現存在の狭さのなかに留まっている。暗号を解読〔しようと〕しない実存は、盲目的に生きている〔のみな〕のである。
 〔このような〕逸脱は常に間近にあり続けるので、私が逸脱に陥ることを欲さないならば、逸脱は、自己開明の営為において意識的に克服されねばならない。象徴世界のなかで私が運動し、この世界から掴み取られる〈心を奪われる〉ことは、差し当たり単に、ある可能性を体験することにすぎない。其処において私は自分を準備するが、私がこの可能性を心の運動の生命的なものにおいて既に歴史的瞬間の現実性と見做すならば、私は自分を欺くのである。そのような現実性においてこそ私に超越者が根源的に開顕可能となるのであるのだが。
 何が暗号として語るかは、傾聴する実存次第である。可能性から言えば、暗号は何処でも語っているのであるが、何処でも聴取されるわけではない。暗号を掴み取ることは、暗号を解読する者の自由からする選択としてあるのである。そこにおいて私は、「私がそのように欲する故に、私の存在はそのようであるのだ」、と納得しているのである — 私はそこにおいて全く何も産出せず、私が選ぶものを受け取る〔だけな〕のであるけれども。
 暗号であるところのものは、一つの領野上に〔のみ〕存するのではない。何が更に遠くから私に触れ、心の中に入ってくるか、本来的存在のどのような位階において私が言葉を聴くか、私の最大の苦悩ならびに最高の幸福において私が依拠するのは自然であるのか人間であるのか、ということは、私の存在が私自身を通して規定することなのである。
 3.諸暗号への信仰。— あらゆる暗号は実存にとって、消滅する〈束の間の〉ものであり、実存は、飛翔と没落への己れの自由において、自らを把捉するのであるが、この自由において実存は個別化されているのではなく、他の実存たちと共に連帯して、ひとつの包括的な概念理解されざるものに属しているのである。超越者を掴み取る行為の実存的な根源が自らにとって理解可能となるのは、固定化され得ない諸々の神話的な、そして思弁的な形態化においてである。だが、これらの形態化をこわばって所有しようとすると、飛翔は妨げられるであろう。この飛翔が要求するのは、実存的な敢行のなかでの自由な我有化であって、〔この我有化は〕事実的な現実性の内で遠慮の無い〔自己〕傾注をすること[Einsetzen]によって〔得られるもの〕なのである。この飛翔は、存立している客観的なものによる支えを許容しない。このような客観的なものは、ただ同意的[zustimmend]にのみ、承認されるだけだろう。
(156頁)
 つぎのような質問:君は本当に君の守護神を信じているのかね? 君は不死を信じているのか? 君は一者としての超越者を信じるのか? このような質問には、つぎのように答えられるだろう:
 意識一般によって質問されているのならば、質問されたすべては存しないものである。というのも、そういったものは何処にも出会われないものであるから。だが、質問〈問い〉が、実存によって、可能的実存としての私に向けられているのなら、私は一般的な諸命題をもって答えることは出来ず、ただ、実存的交わりと事実的態度との運動において答え得るのみである。信仰が、其処において実存にとって立証されないならば、信仰は存在しないのである。信仰を内容的に言表することは、実存的に疑わしいことである。何故なら、そのように言表することは、客観性を通して課題から身を引いて出る結果になる第一歩だからである。私が、実存の自由から出来する場合にのみ存在するであろうものを約束することは殆ど出来ない様に、私は、信仰を客観的に言表することは、殆ど出来ない。言表された信仰内容と、内容的に規定された約束とは、外的に捉えられるものである故に有限なものなのである。「約束しないこと」が、自由としてのみ現実となり得るものを先取りして言うことへの羞恥から生じており、そして、あらゆる約束され得るものを超出する内的な拘束[Bindung]の意識を伴って生じている、そういう場合には、この「約束しないこと」は、現存在における我々の存在の、はるかにより確実な根拠なのである。まさにそのように、信仰は、自らの超越者に確信において結ばれているならば、自らの本質に関しては、内容的なあらゆる言表において同時に浮遊状態に保たれるのである。
 このゆえに、「私は、私が信仰しているかどうかを知らない」、というのが答えである。しかし、哲学する営為にとっては、諸々の思想運動の伝達が存するのであり、これら思想運動は、間接的な相互の結びつきと呼びかけとのあり方の諸々として、存するのである。
 我々の生を、純粋に合理的な諸目的と規定可能な諸々の幸福目標とのなかで導くことは、実存しながら可能なことではない。というのも、実存としては我々は、たとえば超越者へと関係づけられた交わりが生じない場合には、現存在のひとつの荒野を経験するからであり、この荒野は適切に言い表わされもしなければ、目的意識の許に取り除かれもしないのである。しかし交わりは日常において開放的態度として、そして単に合理的ではない準備として、遂行される。また、本質的なものと非本質的なものとを区別することにおいて、そこでの一致において、あるいは対立において〔交わりは遂行されるのである〕。〔とはいえ〕この対立は即座に「問い」と「傾聴出来ること」とに転換されるのであるが。そこ〈交わり〉ではひとつの哲学的生が可能なのである。この生は、直接性への渇望に貫かれているのであるが、同時に、自らの真実性に関して危険にさらされてもいるのである。たとえ非常にしばしば我々の貧弱さだけでも、この直接性を許容するものではないかもしれないにしても、この我々の貧弱さだけのために直接性が許容されないのではない。預言者には、あらゆる歴史的現存在を突破することによって、そして言わば別の世界から〔この現存在へ〕再び入って来ることによって、ひょっとしたら許容されているものを、哲学は、自分には疎遠な可能性として現前化することは出来ても、だからといってそういうものを自分で為すことは出来ないのである。諸暗号への信仰は、言表されて告知されることによっては、存在しないのである。

暗号文と存在論

 本来的に存在であるところのものを知ろうと欲する者は、この知を概念的に固定しようと努める。つまり、存在そのものについての教説としての存在論は、深く満足させるものでなければならないであろう、もし、知として既に自らの真理を証明しているような知において、私の存在が自己自身へと到り得るのならば。
 1.偉大な諸哲学における存在論。— 哲学的思惟の伝統的骨格となった、アリストテレスの「第一哲学」[prima philosophia]の呪縛圏に、殆どの諸哲学が立っていた限りでは、存在論は、これらの哲学の根本意図であった。存在論は、この根本意図が原理的に退けられた場合でも、なお、哲学の形式であった。存在論は、我々を放免することはなく、無くなることはないだろう。というのも、我々の内には、本来的なものをも知を通して所有しようとする、破壊され得ない傾向があるからである。諸哲学がその存在論的構造にも拘らず、真正な哲学営為として訴え掛けるものがあるということは、我々の状況[Situation]において初めて分離されたところのものを一つのものとして捉えていることに基づくのである。すなわち: これらの哲学は、同等な思想行程において、現存在に関する強制的な〈否むことの出来ない〉知を与え、この強制的知に拠りつつ〈基づいて〉あらゆる世界現存在を超越し、自由から摑み取るか拒絶するかが出来るところの傾聴する者に訴え掛け、そして、暗号を形成する。この暗号が超越的存在の開顕性となるのである。偉大な諸哲学の途方もない力は、それらの根本思想において、これらの側面〔強制的知を提供し、現存在を超越し、訴え掛け、暗号を形成する〕に同時に関わり、そのことによって全的人間に関わるということである。当の人間はこれらの側面を通して、同時に知り、欲し、観ずるのである。それからその後、個別的な諸側面の孤立化が生じ、それによって起こる無際限な論議が生じ、断片的諸教説への転換が生じる。つまり、慰め無き実存的紛糾が生じるのであり、この紛糾は、明晰で根源的な把握によってこれらの哲学の決定的な獲得に至ることを、難しくするのである。これらの哲学は諸々のカプセルに納められ、自らの内実を奪い取られて、それだけ萎縮せざるをえないのである。
 カントは、人間の心性の諸能力における諸条件から、あらゆる対象的な現存在の、形式と、また、我々にとっての現存在の妥当性の諸様態とを、概念把握する。この心性の諸能力は、「自我」の自己存在において、自分たちの旋回点を持つものなのである。カントは自由を感得可能なものにする。彼は、美の必然性および美の内実を、人間性の超感性的な基体において理解するのであり、科学とその意味および限界を概念把握する。彼の思想構築体は、(158頁)人間の現存在と、その、存在そのものへの関係とを開明する限りで、否むことの出来ない洞察であると見做されるのである。彼は、存在するところのものを、その諸可能性に従って確定し、特定のこの現存在において原理的に生じ得るところのものを、図式において先取りする。彼は、同等なこういう思想を用いて、現存在を超越するのである。彼がこの現存在の現象性を意識させるのは、彼が、知の対象として、また、完結可能性として、現存在の諸限界を論述することによってなのである。しかし、あらゆる思想は彼にとって単に、自由への真正な訴え掛けを為すための条件なのであり、この訴え掛けは、かの最初の超越行為、すなわち、現存在の現象性〔の意識〕への超越が遂行されている場合にのみ、可能なものなのである。ここから更に、彼においては、最も末梢的な即事象的詳論も、すべてに滲透しているこのような訴え掛けのパトス〈熱情〉による重みを持つのである。とはいえ結局、この思想構築体〔において〕も、〔かの〕暗号は語り出されないままなのである。その暗号はこう語るように思えるものである: 現存在がこのようなふうに可能であるような仕方で、存在は在るのだ、と。知欲、自由の自己意識、形而上的観想、は、「一なるもの」において満足を見いだす。すなわち、私は、私が今や有している何かを学んでいるのであり、私の行動にとっての最も深い衝動を経験しており、超越者の暗号から微(かす)かに触れられるのである。
 ヘーゲルの、自己存在の弁証法的円環は、この自己存在が自らを客観性のために自らに対峙させ、他者から自らに還帰し、それゆえこの円環においては自分自身に留まっているものであるかぎり、この円環の豊かな諸変遷において同時につぎのことを言表するものである、すなわち、現存在とは何であるか、どのような存在規定の諸々が可能であり必然的であるのか、そして、本来的存在である超越者は何を意味するのか、ということを。つまり、言表されるのは、哲学的思惟の現前における神の開顕性なのである。ヘーゲルにおいては、傾聴する者がとりわけ、この哲学的思惟の暗号文を解読することを、要請されている。しかし同時に、この傾聴する者は、存立する知を保持しているのであり、現存在から存在への観想的な飛翔を経験し、そして自己存在への一層微かなある衝動を経験するのである。この衝動はヘーゲルにおいては時々音も無く消え去ってゆくように見えるにしてもである。
 このように、すべての可能性を自らの内にふくんでいる哲学思想の統一性という前景において、存在は、一度は現存在現象として立つのである。つまり、カントは、私自身であるところの存在の回りを歩き回るのである。あるいは、〔カントの場合と異なり、〕前景に立つのは、存在それ自体としての存在である〔場合がある〕。つまり、ヘーゲルはこの存在自体としての存在を眼中に置き、現存在を、存在の中で決定されているものとして見たのである。しかし、存在それ自体の存在構造の諸々は、ただ諸々の暗号であるのみなのである。これら暗号は、認識された対象としては、自らの内で挫折せざるを得ない。なぜなら、私はそれら暗号を現存在として思惟する〔ことになる〕からであり、〔そうなると〕この存在〔それ自体〕は、自らの諸々の思惟可能性の限界を超えて、現存在に赴く〔ことになる〕からである。現存在は、なるほど、形而上学的には、存在の影のようなものでしかない。しかし、この影は、我々にとっては、現前的なものなのであり、この現前的なものにおいて普遍妥当的(159頁)な認識が為され得るのである。それでも、ほとんどすべての哲学は、立脚点を存在自体の内に求めたのであり、この影の内に求めたのではなかった。だが、それが哲学であったかぎりは、その諸思想は常に裏返しにもなるものなのである。存在について言われることは、人間の実存的な飛翔について言われていることとして表明されるべきなのである。そのように、プロティノスは、ひとつの傑出した存在論的哲学を考えた。このような哲学は、教説へと転じられ、それによって自らの了解可能性を奪われると、言わば、あらゆる存在と現存在との世界像[ein Weltbild]を提供するものとなる。しかしこのような哲学は、根源的に自らの諸命題において、〔読者が〕一緒になって思惟されることで、同時に、可能的実存への訴え掛けであり、ひとつの暗号文の形態なのである。なるほどプロティノスは、実存開明において我々の人間状況という基盤に立つ代わりに、形而上学的に存在自体の中に立っている。だがこのことに彼が成功するのは、ただ、彼が存在を構成し演繹する営為が、同時に、実存と現存在とを開明する営為であるゆえにのみなのである。この開明営為は、彼の思惟を知であり得るものに変換するような研究発表の形においては、失われてしまうものなのである。
 偉大な諸哲学をこのように統合すること[Ineinsfassen]は、我々にとってなるほど繰り返すことの出来ないものであるが、それでもけっして不足の無いものである。これらの哲学には、内実に満ち満ちた思弁的暗号文が書かれている。このことは、ただ統合することによってのみ、そのように可能であったのである。実存開明の訴え掛けも、これらの哲学にとっては、思惟における一部分だったのであり、この思惟そのものが暗号となったのである。この思惟は空虚な論理的諸形式だったのではない。そのような諸形式としては、諸思想は容易に孤立化され、退屈なものにさせられてしまうのである。そういうものではなく、この思惟は、何かについての思惟である代わりに、この思惟自体、存在によって灼熱させられていたのである。勿論、「存在と思惟とは同一である」ということ〈命題〉は、意識の分裂においてはいかなる意味も持たない。というのも、意識の分裂においては、思惟は何か他のものに向けられるからである。しかし、思惟が暗号となる限りでは、この命題は意味を持つ。思惟において人間が本来的存在を把捉した処では、この思惟の存在は、存在それ自体でも、任意で偶然的な思想の主観性でもなかったが、暗号においては、〔この思惟の存在は〕この〔これら両者の〕同一性であったのであり、そしてその場合、この同一性は歴史的なものに留まったのである。そこにおいて思想は、一般的なものの側面であったが、全き思想としては、この側面は、ここで思惟し思惟される存在の現前と共にあったのである。思想は、自らにとって一般的な思想として言表されると、無価値あるいは在り来りなものとなったのであり、ひとつの冗談あるいは骨董趣味となったのである。偉大な哲学的根本思想の諸々においては、思惟と存在とは一つとなったのであり、そのような統一として思惟されたのであるが、これら根本思想は、パルメニデス以来、論理化された場合には、〔いわば〕冒瀆されたのである。これら根本思想は、総じて言葉として接近可能であり続けるためには、新たな自己存在を用いての入魂が必要なのである。そのようにして、本来的に思念されて行為されていたところのものが、〔再び〕感じられ得るようになるのである。それ自体が現実性であったような思惟の、反省されていない自明性は、この思惟の強みであった。この思惟は常に(160頁)一度のみ真であり得た、ということが、この思惟の限界であり続けたのである。というのも、自分の行為の合理的な自己理解の欠如が、どんな後継者においても非真理となったからであり、後継者は尚も思惟したが、後継者の思惟はもはやそれ自体で存在してはいなかったからである。それからは、暗号はもはや暗号としては受け取られなかった。思惟は強制的なものとして見做され、一面的に客観化されたのであって、自己存在をもって思惟されたのではもはやなく、せいぜい悟性をもって思惟されたにすぎなかった。この思惟はもはや、自分自身の運命をもって自らの歴史性において充実させられるということはなく、更に与えられる知として扱われたのである。
 2.我々にとっての存在論の不可能性。— 存在論は瓦解せざるをえない。というのも、現存在についての知は世界定位上のものであり、対象的知一般は、カテゴリー説において諸々の可能的思惟規定に制限されているからである。実存開明における知は、自らの本質を、自由への呼び掛けによって有するのであり、ある効果の所有によって有するのではない。超越者についての知は、変わり易くて多義的な暗号文の中への観想的な自己沈潜としてあるのである。また、私の存在の内的な諸行為における運動をめぐる知も、意識一般としての私の存在のそれであれ、可能的実存としての私の存在のそれであれ、存在論ではない。むしろこのような知は、哲学する営為を分節化する明晰性として、〔哲学する〕自己自身の把捉なのであり、存在の把捉なのではない。存在は、すべてのこれらの路において、完結され得ること無く探求されるのであるが、これらの路を通して既に存在として存立することはない。それゆえ、私にとっての存在の裂散性[Zerrissenheit]を洞察することで、私が現存在であり可能的実存である限りにおいては、存在論への渇望は止むのである。そしてこの渇望は、私が決して知としては得ることの出来ない存在を自己存在を通して獲得するという衝動へと、転換されるのである。たしかに、この自己獲得において最初に問題であるのは、ただ、これから決断される存在であり、実存の自由であって、超越者が問題なのではない。しかし超越者は、ただこの、決断において獲得される存在にとってのみ、接近可能なのである。存在論の存在の代わりに、常に歴史的な、けっして端的に普遍妥当的ではない、暗号の現存在が、取って替わるのである。 
 根源的な哲学的思想にとって、深みと偉大さとは、一切のことを一つのことにおいて為すことであったとすれば、このことは、我々にはもはや可能ではない。どのような統合化[Ineinsfassung]によって、これらの哲学の唯一の意義が知らず知らずに達せられていたかを、我々が洞見した後では、繰り返しは我々を紛糾させるだろう。我々の強みは、分離することなのである。我々は純朴さを喪失したのであるから。純朴性において嘗て素晴らしく可能であり現実的であったものを、再び打ち建てようとすることは、本物でない構築物を生じさせ、我々自身を非真実にするであろう。相互に入り混じっての統一は、それが(161頁)意識的な暗号文でないかぎり、我々にとっては錯誤である。我々にとって、この暗号文の中に、すべての存在論は止揚される。この場合、すべての存在論は、世界の内での存在の諸様態に関する特殊な存在規定になることはなかったのであり、また、完結され得ない存在確認の諸々の路の方法的な意識性になることもなかったのである。 
 存在論が、本来的に存在であるものの知と知欲として、この存在を構成的に描き出す概念性の形式におけるものである場合、このような存在論は我々にとって、可能的実存の本来的な存在探求の破滅となるであろう。この本来的存在探求は、可能的実存の決断が超越者に関係づけられていることにおいて為されるものなのであるが。存在論は、何ものかを、他のものがそこから自らを導出するはずのものとして絶対化することによって、〔我々を〕欺くのである。存在論は、客観的となった存在に〔我々を〕縛りつけ、自由を廃棄する。存在論は、あたかも私が自分の現存在意味を私のみから獲得し得るかのように、交わりを麻痺させる。存在論は、本来的に内実の満ちた可能性にたいして〔我々を〕盲目にし、暗号文の解読を妨げ、超越者を失わせるのである。存在論は、ある存在を、一つのものでありかつ多重なものとして観るが、ただ「このもの」でのみあり得る可能的実存の存在としては観ない。可能的実存の自由は分離を求めるのであり、この分離によって存在論は終結するのである。
 偉大な哲学者たちの存在論は、我々にとって、批判的に否定されるべき種類の存在論ではないが、翻訳〈解釈〉されることによって初めて、しかも翻訳〈解釈〉の際に即座に、そのような種類のものになるので、これら哲学者たちを我有化することが我々に求めることは、先ず第一に、彼らの構築物を破壊することなのである。我々は、彼らの構築物において、現存在開明、カテゴリー上の規定、質料的な世界定位、訴え掛ける実存開明、暗号文の解読を、分離する。このような分離が、初めて本来的な明るさにおいて、この暗号文の統一性へと我々を帰還させるのである。自らの諸要素からして〔新たに〕再建された、そのような統一性として、この統一性は我々に対峙し、今や初めて自分自身の自己存在に懸けて歴史的に我有化されたり突き放されたりするのである。今や初めて我々は判明に、歴史的な自己存在の現実性が我々に語り掛けるのを聴くのであり、その語り掛けは〔嘗て〕この自己存在の超越者が為し得ていたようなものなのである。これらの哲学は、これらの哲学が同時にそれでもあるところのもの、〔つまり〕現存在開明、世界定位、カテゴリー論、〔そして〕実存への訴え掛けを通して、〔我々を〕実存の存在と接触させるのである。〔嘗て〕そのような哲学的思惟を為し得た者にとってそうであったように。
 3.存在論から区別された暗号文の解読。— 存在論は、本来的存在を存在に関する知へと固定化する道であり、これに対して、暗号文の解読は、浮遊状態における存在の経験である:
 存在論は、存在を把捉することにおいて、有限な諸事物に関する強制的な知として可能であるところのものを、継続する。なるほど、このものも、既に(p.162)その固定性において制限されている。つまり、経験的現存在が事実的なものとして不可避的に認識されるにしても、しかしやはり存在は、認識された経験的現存在としては決して終極的な存立ではなく、ただ単にこの現存在のその都度の限界に至るまでの存立であり、そしてその場合さらに諸々の誤謬とともに把捉されているのである。諸々のカテゴリーが、現存在において諸事物に沿って現われ得るか、人格として出会い得るかするすべてのものの諸規定性となるとしても、それでもこれら規定性の各々は有限なのである。現存在開明が我々であるところの現存在の諸構造を示すにしても、それでもこの開明は、意識一般が全体を原理的に把握するものであるにもかかわらず、その都度の我存在の生命力に担われるものであるかぎりは、それ自体依存的な開明なのである。すなわち、〔この現存在開明は〕再び個別的であるところの諸観点の許で思惟されるのであり、また、実存的な諸関心に基づいて思惟されるのである。この実存的諸関心は、開明の働きをする思想を、既に暗号文の方向において形成するものである。ところが存在論の行く道は、あらゆるこれらの客観的な規定性と確実性を、それらの諸限界において把捉し止揚することをせず、これら規定性と確実性を完結することをするのである。
 これに対し、暗号文の解読は、規定的知のあらゆる形態において獲得される根本経験のところで留まっている。すなわち、私が存在を捉えるところで、この存在は、私が捉えていない存在によって相対化されるのである。存在論の存在は、この存在にとっては、歴史的に消滅してゆく暗号文へと分解されるのである。というのも、私が、その存在を超えてはもはやいかなる路も無いような存在へと超越し、この本来的存在は私ではないが、ただ自己存在としての私のみが知覚するものである、そういうところでは、固定性と規定性は止み、この固定性と規定性は、暗号に先行する存在が思惟されている場合には、残存するものの一側面であるからなのである。本来的存在が問題である場合には、最大限の浮遊状態も達せられる。本来的存在は、最も消滅的な仕方のなかで現前しているからである。私が本来的存在に参与すると、私はあらゆる固定性に巻き込まれることから解かれているのであり、この固定性は今やそれ自体暗号として再度ますます決定的に摑み取られ得るのである。絶対的に存立するもの、および、思惟されるものとして強制的なものは、単なる意識一般に関係するものである。本来的存在は、可能的実存が窮屈な状態から緩められている場合にのみ、捉えられるのであり、その場合、諸々の存在様態がその中に止揚されるところの相対性のすべては、ひとつの特定の浮遊状態を後押しして、この浮遊状態において私が存在を覚知するようにするのである。悟性と生命意志は私を現存在に固定し、超越者の存在から解こうとする。これら悟性と意志は私に、継続と無時間的思想において存在を見ることを教え、私を存在自体の知としての存在論に押し迫らせる。しかし可能的実存としては私は自分をこのような手枷足枷から自由にして羽ばたくのであり、この手枷足枷は今や存在の質料となって、暗号文の解読においてあるのである。そしてこのような暗号文として存在は実存にとって現前しているのである。—
(163頁)
 存在論は、その根源において、あらゆる思惟様態を、包括的で存在によって灼熱させられた思惟へと統合することであった。そうして、この統合的思惟から、それにとっては「一なる存在」は知られ得るものであるような教説が生成したのである。これに対して、暗号文の解読は、真の「行為にとっての統一性」を、実存的な現実性のために自由に〈開放されたままに〉しておくのである。なぜなら、この真の統一性は、この統一性を思惟することにおいて、知にとって〔世界は〕裂散状態にあることを覆い隠さないからである。すなわち:
 存在論が打ち砕かれて、存在論が一つに把捉していた諸々の方法と内容とへ変じた後では、〔過去においては〕これらの方法と内容とによって存在論は事実的にその都度歴史的な一回性において暗号文の解読であったのだが、〔今や〕暗号の意識的な解読が、新しい根拠の上での統一性を再び建立するように見える。この統一性は、内的行為としての自己存在の根拠の中への沈潜において経験される。この統一性は、存在として読解される場合、すべてのものを自らの内に含んでいる。しかしこの統一性は、客観化されると、自らの一般的なものの側面に従って、即座に、ただ可能性であるのみの統一性なのである。〔これは、〕超越者の存在が、可能な仕方で斯く斯くであり得るということではない(形而上学的な世界仮定の諸々という、非真実なやり方)。このような〈特定のこの〉一般的なものの充実の可能性が、実存の一なるものにおいて在る、ということなのである。
 本来的な統一性は、したがって、我々にとっては、その都度の自己存在の行為において初めて、歴史的な現実性なのである。この自己存在にとって、諸々の思惟様態の統合が、暗号文において充実可能となるのである。存在論が解消されざるを得ないのは、現前的実存の具体性への還帰が、単独的個人にとって開かれるためである。この個人が存在実現のこの路を行くならば、彼には超越者の存在が、彼の総体的な現存在がそれになるところの暗号文において、初めて聴取可能となるのである。思惟されて言表された諸思想を明晰に分離することは、このような実存的統一性の条件である。共に属し合っているもの、裂かれて散り散りになるもの、ただ共に在ってのみ真であるもの、これらは正当なものである。しかし、思惟する実存の現実的存在がこのような統一性の思惟自体ではなく、そして更に、翻訳不可能であるのではない、という場合には、このような共在自体は、思惟されたものとしては常に非真理なのである。真理は、自己存在とその超越的充実においてあるのであって、諸々の哲学的思想においてあるのではない。哲学的思想は、客観化しつつ統一性を翻訳可能な知として思惟する。思想が引き裂くことをする場合に初めて、現実的な統一性が可能となるのである。存在論は、思わず、現存在を、一般的なものの前で個別化されたものとして見ずにはいられない。この一般的なものを存在論は「全-一なるもの」[das All-einige]として知るのである。これに対して、暗号文の解読は、実存の唯一性に基づき、解読する者の内的行為を通して、超越者の「唯一-普遍的なるもの」[das Einzig-Allgemeine]を見遣るのである。
 したがって、哲学することによって、暗号文の内実から「語り掛けられる」はずであるなら、「裂散性」は「一般的(164頁)となる言葉としての暗号文自体に〔も〕突き入ってくる」であろう。単に、形而上学的言葉の概念性による世界定位的秩序のみならず、諸々の可能性を実存的に訴え掛ける開明もまた、統一性を欠いたままなのである。あらゆる言葉は歴史性と多義性を有するゆえに、超越者の存在は、妥当なものとして存立するような存在ではない。存在は、諸々の段階において思惟される。しかし唯一の段階系列という規則無しにである。多くの天国と天国以前、諸々の位階秩序と対抗関係とにある神々の諸型が、同様に指し示しているのは、つぎのゲーテの言葉である:《私にとっての私は、一つの思惟様態で満足することは出来ない。詩人かつ芸術家としての私は、多神論者であり、自然研究者としては反対に汎神論者である。私が人倫的人間として、一なる神を私の人格性のために必要とする場合、既に一なる神もまた用意されているのである。》


超越者の誤った近接化

 神話と思弁において形態となった超越者は、言わば近接化されている。だが、暗号の代わりに超越者がそれ自体、そして端的に摑み取られていると信じられているならば、誤った近接化が為されているのである。
 超越者は人間にとって存在するのであるが、その人間から切り離された超越者は何であるか、これは全く問われうることではない。しかし超越者は、だからといって、超越者自体としてたとえば現存在の中に引き入れられるべきではない。神秘主義者たちは、たしかに、神性は人間無しでも存在することを、敢えて否認していた。しかし、自分を自ら創造したのではないことを意識するようになった実存にとっては、「超越者としての神は人間無しでも存在する」という命題は、避けられない形式であって、この形式のなかで、もはやいかなる積極的な充実も見いださないものが、消極的に思惟されざるをえないのである。
 暗号は限界の存在であり、超越者の言葉としてあるのである。この言葉において超越者は人間に接近しているが、超越者自体としてではない。我々の世界は暗号として残り無く解読されるものではなく、神話的に表現すれば、悪魔の暗号を神性の暗号と同様に見ることができるのであり、世界はいかなる直接的な啓示でもなく、ただ言葉であって、この言葉は普遍妥当的となることなく、ただ実存にとってのみ、その都度歴史的に聴取可能なものであり、その場合にも究極的に解読されうることはない。これらのことのゆえに超越者は隠れたものとして示されるのである。超越者は遠い、なぜなら超越者自体としては接近不可能であるから。超越者は疎遠でもあり、そして何ものとも比較不可能であるゆえに、比類なき完全他者である。超越者はその遠い存在からのように、疎遠な力として、この世界の中に来り、実存に語り掛ける。超越者は実存に接近するが、いつか暗号以上のものを示すのではない。
(165頁)
 このような隠された超越者への実存の緊張は、実存の生であって、この生において真理は運命の問いと答えとして探求され、経験され、観ぜられるのではあるけれども、時間現存在が続く限りは、この真理は〔それでも〕覆い隠されたままなのである。緊張は自己存在の真正な現象ではあるが、同時に苦痛である。苦痛から逃れ出ようとして、人間は神性を自らに本来的に近づけて緊張を解消しようと欲し、何が存在するのか、自分は何を支えとして何に帰依することが出来るのかを知ろうと欲する。暗号として可能的真理であるものを、人間は存在へと絶対化する:
 a)完全な内在性〈内在的次元〉においては、人間自身が自らを一般的存在にすることだろう。人間のほかは、人間の行為の材料以外の何も無いであろう。人間のみが尚も問題なのであり、人間だけが、人間がそれであるところのものなのである。そのものはいかなる神でもない。神を思惟することは、いかなる空間〔すなわち可能性〕でもなく、人間を自分から逸らせてしまい、眠り込ませて、人間が自分の諸可能性を実現することを妨げること〔でしかないの〕である。
 このような遂行不可能な絶対化においては、あたかも人が人間とは何であるかを知っているかのように語られる。ここでは、知らず識らずに人間は自らを、生命力として、平均値として、あるいはひとつの規定的理想として、貶める。だが、真摯に人間への問いが出されるや否や、人間は、自分の超越者が概念化されている場合にのみ、〔自らも〕概念的となるような存在なのである。人間は自らを超え出ようと努める存在であり、自らに満足していない。世界浄化が世界絶対化を意味しないように、「すべてのものは人間にとって存在するためには人間において現前化しなければならない」—という命題は、「人間はすべてのものである」ということを意味しない。人間は、人間にとって魅惑するものであるけれども、だからといって、自らの世界の内で決定的なものである場合でも、最終的なものではない。たしかに人間にとって問題であるのは彼自身であるが、それはただ、彼にとって何か他のものが問題であることによってのみなのである。このことを人間は、彼が自らにおいては決して安らぎを見いださず、超越者の存在において初めて見いだすことによって、経験するのである。
 b)現在的な時間現存在を超えて拡張された内在性においては、人間の歴史の世界は、神性の過程となることだろう。世界は生成する神となることだろう。世界の内で神性は真理へ向かって突き進み、闘争において自分自身を創造する。我々はこの真理に味方して、あるいはこの真理に反対して、闘争する。この真理は、我々の内において、今までに可能な自らの高さを達成してきたのである。人間が自分になろうと欲して気遣うところの他の存在は、超越者ではなく、神の如く崇められた人間性なのである。
 この、世界存在の絶対化も、人類が何であり、何になるべきであるか、何になろうと欲しているかを、根本において知ってはいない。この絶対化は、時間の内で絶対的であるに留まっている。しかし超越者は時間を超え出ているのである。超越者は(166頁)全面的に不明瞭なものではあるが、我々にとって終極的な依存性であるところのものに依存してはいないのである。超越者は深淵であり、この深淵を前にして、我々は超越者自体を認識しないけれども、我々にとって本来的真理が可能なのである。
 c)神話形成あるいは思弁構成は、神性を特別な本質者[Wesen]にし、今や世界と対峙するものにするのは確かである。だがその対峙は、神性がこの先取〔的対峙〕自体において内在的であるに留まってしまうような対峙なのである。神性は神話的には人格〈人格性〉となり、思弁的には存在となる。
 人間が祈りにおいて自らを神性に向けるなら、人間にとって神性はひとつの「汝」[Du]であり、人間はこの「汝」と、自らの孤独な喪失感から交わりに入りたいと思うのである。そうして神性は人間にとって、父、救済者、法を与える者、審判者として、人格的形態なのである。本来的存在はその現存在においては自己存在であるから、自己存在とのアナロジーによって、神は知らず識らずに人格となったのである。しかし神性としてこの人格は、全知、全能、全合法な人格へと高められたのである。人間は、より劣った存在ではあるが、神の像に従って創られたことで、神の無限性の反映である限りにおいて、〔神と〕類縁的な存在なのである。神が人格の形態である場合にのみ、神は本来的に近いのである。
 この神話的な人格表象は、暗号として一瞬間現前し得るが、にも拘らず、超越者の真正な意識は、神を端的に人格として思惟することにたいして抵抗する。私は、神性を私にとって「汝」にする衝動にありながら、即座に後戻りする。なぜなら私は、私が超越者を〔「汝」にすることで〕侵害していると感ずるからである。既に表象自体において、私は欺瞞に巻き込まれる。それでも人格性は自己存在の様態〈あり方〉であり、この様態はその本質からすれば、唯一つではあり得ない。人格性は、関係づけられている存在であり、自らの外に他の存在を有していなければならない。すなわち、諸人格と自然である。神性は我々、人間を、交わりのために必要とするであろう。神の人格性という表象においては、超越者は、ひとつの現存在へと縮められるだろう。あるいは、神性は、「神性が人格となる」という表象において、自らの内に閉じられたままにならずに、即座に多数の諸人格としてあるのであり、この諸人格は、共同体というかたちで、自分たちの「自己存在の国」を持つのである。無規定で自由な多神論的な表象においてであれ、あるいは、結束した三位一体の表象においてであれ。最後に、神性のための交わりは、人間たちの許での交わりを阻止する傾向がある。というのは、神性のための交わりは、個別的個人たちの自己存在が生成することのない、盲目的な諸共同体を創設するからである。真実に現前する現実性である、自己から自己への交わりは、ここにおいて超越者が語り掛けるものとなり得るのであるが、このような交わりは、超越者が直接に「汝」として近接化され同時に格下げされる場合には、麻痺させられるのである。
(167頁)
人格の神を自分〔にとって〕の暗号存在に引き下げることは、苛酷なことである。超越者としての神は遠いままである。この神は、私が人間として第二の言葉において自ら創る特定の暗号において、一瞬、私にとって一層近くなる。しかし、超越者の深淵はあまりにも深い。この暗号は緊張のいかなる解消でもない。この暗号は充実させると同時に疑わしいものであり、存在しかつ存在しない。私が人格としての神性へ向ける愛は、ただ比喩的に愛と呼ばれているのである。この愛は、世界の内での各個別的人間への愛として初めて生成し、現存在の美への熱情となる。世界を欠いた愛は、根拠の無い浄福として、何ものへの愛でもない。超越者への愛は、ただ、愛による世界浄化としてのみ、現実的なのである。— 
 神性が、祈りの代わりに思弁的構成において近接化されると、神性は本来的にはもはや存在しない。“存在” は “神” ではなく、哲学は神学ではない。思弁は、暗号文における遊戯としては真であるが、超越者としてあらゆる固定可能な思想を超え出ているものを、存在としてひとつの対象にしてしまうのである。人間が外的諸事物と関わり合う行為とのアナロジーによって、現存在の機械的仕組みを生み出す世界建設の名匠が思惟されようと、または、弁証法的に思惟される自己存在とのアナロジーによって、概念の自己円環運動としてのロゴスが存在へと生成しようと、または、他の仕方であろうと、思弁は常に硬化するのである。すなわち、思弁は憶測的な神認識なのであり、そこでは超越者は終了してしまうのである。一切が神性となるか、あるいは、神性が世界となるかである。無世界性と無神性は、ただ、同じ地平の相属し合う諸極である。一方、暗号文は、超越者の存在を内在化において止揚するのでも、硬化した所有にするのでもなく、実存にとっての超越者の現象として歴史的なままにしておくのである。—
 超越者を近接させる、三つの明示された形式において、また、他の諸形式において、超越者は事実上止揚される。暗号として可能性を持つものが、神性の現存在として固定化され、人間は、超越者と共に自らの自己存在をも失う道に陥るのである。人間が絶対的存在として措定するものが、自らであろうとも、人類であろうとも、人格神であろうとも、人間は他の存在に自らを委ねて、ひとつの軽減措置の幸福が一瞬輝くことによって、自己存在の把握不可能性に関して自らを欺かせるのである。というのも、人間自身がただ緊張においてのみ人間なのであって、この緊張とは、最も遠い超越者と最も現前的な現在との、また、暗号と時間現存在との、与えられることと自由との、緊張なのである。それはあたかも、人間が自らの諸偶像に自分を投げ出す場合に、人間は自分から逃れ去るようなものである。(168頁)諸偶像は要請しない。ただ、真なる超越者としての神性のみが、緊張状態にある人間の自己存在に要請するのである。人間は無になってはならない、人間が自らを像にしたような人間自身の偶像の前でも、人類の前でも、人格の形態となった神性の前でも。人間は、あらゆるこれらの、そして他の諸形態に抗するべきであり、暗号として現象する神性にも抗して自らの権利を守るべきである。この権利は、超越的な神性が遠きところから人間に与えて承認するものなのである。すなわち、神は超越者として、私自身が存在することを欲するのである。



第一部:諸々の暗号の本質(129頁)

三つの言葉(129頁)
1.超越者の直接的な言葉(第一の言葉)—(130頁) 2.伝達において一般的となる言葉(第二の言葉)—(131頁) 3.思弁的言葉(第三の言葉)—(134頁) 4.内在者と超越者 —(136頁) 5.諸々の暗号における現実性 —(139頁) 

諸暗号の多義性(141頁)
1.象徴性〈象徴学〉一般(存在の表現と交わりの表現)—(142頁) 2.象徴解釈(任意な多義性)—(144頁) 3.象徴性と認識 —(145頁) 4.解釈可能な象徴性と観想可能な象徴性 —(146頁) 5.循環している解釈行為 —(147頁) 6.任意な多義性と暗号の多義性 —(148頁)

暗号文の解読の場としての実存(150頁)
1.自己存在を通しての暗号解読 —(150頁) 2.実存的観想 —(152頁) 3.諸暗号への信仰 —(155頁)

暗号文と存在論(157頁)
1.偉大な諸哲学における存在論 —(157頁) 2.我々にとっての存在論の不可能性 —(160頁) 3.存在論から区別された暗号文の解読 —(161頁)

超越者の誤った近接化(164頁)





この世は神さまの作る演劇だと思ってみる

2024-08-25 03:10:11 | 日記

この世は神さまの作る演劇だと思ってみる


2024年07月10日筆

 
自分本位に生きていると、どうしても ゆとりを持った観方ができなくなります。そういうときには、すべてはじぶんの責任であるような気もして、安らかでもなくなります。自己責任の意識も、ゆとりをうばうわけです。そういうばあい、思いきって、じぶんの意志によると思っているようなものも、すべて神の自作自演の演劇だと観じてみるのがいいな、と最近ぼくは思っています。演劇だから、予想外の、えっ、何でこんなことが、と思うようなこともあるかもしれません。そういうこともふくめて、見えざる筆者である神の思惑がはたらいているのだと観ずれば、思いもかけないゆとりが心に生じます。自縄自縛の苦しみから脱しようとすれば、神の観点を想定して、神さまが劇を創作していらっしゃるのだ、と思ってみる、「信仰」が必要なのではないかと、最近気づくようになりました。

「自己への退却」ということを書いていますが、「神への退却」は もっと能動的な行動だと言えるかもしれませんね。このことが最近の気づきの頂点だと思われます。

 
 
 
 
 

高田さんの誕生日八月十九日

2024-08-25 01:37:33 | 日記

高田さんの誕生日八月十九日


2024年08月19日筆

 
高田博厚さんは千九百年八月十九日に生まれた。その精神の普遍性のゆえに敢えて何処と言う必要はない。日本人のために生まれたのだ。そして他の面では様々ある西欧も、高田さんが相手にするのは その普遍性を本質とする文化面である。そういう文化面における芸術・美術である。高田さんに限って言えば、かれは貧乏のどん底をなめ尽くした時代がとくに若い頃あり、美という〈綺麗〉な面のみ見てきたどころではない。高田さんが私淑してきたミケランジェロやルオーの美もまた、魂の苦難と懊悩を経て浄化され生まれてきた「魂の美」である。そして高田さんは、日本では〈坊ちゃん〉と言われて括られる文化人にたいしても、寛容というよりもむしろ彼らとこそ同胞的で親しかった(白樺派との親交等)。天性的な、「人間」のみを見る度量と態度があったからである。
 かれの格闘した「美」とは何か。人間の魂を証するものであり、綺麗ごととは真逆のものである。「飾ることは罪だ!」というルオーの言葉が中核に光る、高田さんの「ジョルジュ・ルオー論」を主論として書いたぼくの『形而上的アンティミスム序説—高田博厚による自己愛の存在論—』もまた、理解をこれからも待つであろう。何がこれをぼくに書かせたのかを思うとき。
 
 
世間との対峙ということは、いまのぼくには、というより もともと、どうでもいい。美というものが世間を捨てられる信仰でありうるか、その意識の集中度こそ問題なのだ。その集中度で自分からも解脱できるから。
 
 
「高田博厚」そのものが、日本の歴史に出現したひとつの形而上的美である。その文章世界は、造形を上回るか、文章世界の証を造形は垣間見させるものだろう。それほどかれの文章は惹き、魅惑する。かれの造形を鑑賞するためには、かれの文章世界を知り、我有化していなければならない。これがかれの強みなのか弱みなのか、その判定にぼくはそれほど興味はない。だから、高田博厚という存在そのものが、ひとつの美ではないかとぼくは思うのだ。