高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

病者の内的優越?

2022-09-30 20:23:46 | 日記

『稜線の路』には、全体の結末とは切り離して、心に留めておいてよい名文句がある。つぎのようなものである。《病者の内的優越》とでもいったものであろうか。



「私は、パリに来る度に、確かめるのですけれど、私自身の家族内にいたるまで、自分を抑制しようと努めることさえ、もう、されなくなっています。まるで、生活の重圧が、あまりに強く、あまりに耐え難くなってしまって、心という心が破裂しているみたい。」

「病人たちの事情は、ちょっと違います。どんな場合でも、彼らはもっと護られ、もっと防御されています。彼らの病気そのものが、彼らと世の出来事との間の、一種の幕みたいなものなのです。でも、ここでは… あなた方は、あらゆる力に、あらゆる酷い流れに、引き渡さていて、この流れは、世界の上に荒れ狂っています。あなた方は、保護されていません。」 

90頁 












 

マルセル「稜線の路」25

2022-09-30 19:12:20 | 翻訳
88頁

(アリアーヌ) あなたはたいへん誇張していらっしゃるように思えますよ。ご事情は存じていました。マダム・フランシャールは、ただ、信頼感がおありになることを示されただけ。

(セルジュ) どうしてこれはぼくに同伴することにこだわったのかな? (フィリップに。)ムッシュー、あなたはご結婚かどうか存じ上げないのですが… 

(アリアーヌ) 兄は離婚しております。

(セルジュ) わかりますね。 

(シュザンヌ、猛然と。) 私たちは、いずれにせよ、離婚しないことを、あなたに請け合うわ。まず、宗教に反するわ。それに、ママにたいして… 

(セルジュ、皮肉っぽく。) きみのママはきみを相続者から外すだろうからね。

(シュザンヌ、痛いところを突かれて。) 困ったことね… (アリアーヌに。)申し上げなければならないのですけれど、母は自分のお金を全部、ある銀行家に預けていたところ、その銀行家に、この二月、そのすべてを持ち逃げされたのです。それで現在、母は私たちの世話になっています。ああ! 母は家事を助けてくれますし、それから、料理をしてくれます。

(セルジュ) お母さんの料理について話そうじゃないか! 

(シュザンヌ) あなたの食欲がないからといって、母のせいじゃないわ。


89頁

(セルジュ) ぼくの食欲の調子を狂わせたのはお母さんだよ。

(シュザンヌ) 私たちが結婚した時、あなたは自分から言っていたわよね、キャベツも、茄子も、何とかも、食べられない、って…

(フィリップ、立ち上がって。) ぼくは失礼しますよ。急いで書かねばならない手紙があることが、気になっているので。(アリアーヌに。)ジェロームの事務室にぼくを落ち着かせてくれないかい?

(アリアーヌ) もちろんよ。彼の万年筆は取らないでね。それだけ注意してね… あれは誰も使ってはいけないのよ。

(フィリップ) 多分またお目にかかります。すぐに。(挨拶して出る。


第三場

アリアーヌ、セルジュ、シュザンヌ

(セルジュ) あなたのお兄さんは、ぼくたちのことをどう思ってらっしゃるんだろうか。 

(アリアーヌ) 心配なさらないで。説明しておきますから。


90頁

(セルジュ) 妻をどうかおゆるしください。慎みが全然無くて。

(アリアーヌ) それが欠点ですの? 

(シュザンヌ) あの方はあなたのお兄さまだから、と思ったのです… 分かりませんが、あなたご自身が、このような信頼を抱かせるのです…
 
(アリアーヌ、自分の考えを追って。) 私は、パリに来る度に、確かめるのですけれど、私自身の家族内にいたるまで、自分を抑制しようと努めることさえ、もう、されなくなっています。まるで、生活の重圧が、あまりに強く、あまりに耐え難くなってしまって、心という心が破裂しているみたい。

(シュザンヌ) そのとおりです、マダム、あなたがあそこで仰っていることは… 

(アリアーヌ) あの高地、私の居るところでは、私は、ほとんど病人としか会いません。

(シュザンヌ) あなたはほんとうに善いお方で、すごく献身的に働いておられます… 

(アリアーヌ) 病人たちの事情は、ちょっと違います。どんな場合でも、彼らはもっと護られ、もっと防御されています。彼らの病気そのものが、彼らと世の出来事との間の、一種の幕みたいなものなのです。でも、ここでは… あなた方は、あらゆる力に、あらゆる酷い流れに、引き渡さていて、この流れは、世界の上に荒れ狂っています。あなた方は、保護されていません。 


















マルセル「稜線の路」24

2022-09-30 14:30:47 | 翻訳
85頁

(シュザンヌ) セルジュはこのごろ、私にあなたのことをとてもよく話します。ヴィオレットの処であなたと再会して、それはもう仕合わせなのです。(アリアーヌの動揺。

(アリアーヌ) 私の兄を紹介させてください。

(セルジュ) はじめまして、ムッシュー…

(フィリップ) ヴィオレットとは誰?

(アリアーヌ) マザルグ嬢のことよ。たいへん才能のあるヴァイオリニストで、私、一緒に伴奏練習をしているの。

(シュザンヌ) 演奏を拝聴できることは仕合わせです、奥さま。ヴィオレットの演奏も素晴らしいと思っております。夫は反対の意見ですが。

(セルジュ) ぼくはただ、彼女はもっと練習すべきだろうと言っているだけだよ。

(シュザンヌ) 彼女は生活がとても大変だということを忘れちゃだめよ… 

(セルジュ) 平均的なアーティストたちと同様にね 

(シュザンヌ) どうしてそういうことが言えるの? セルジュ。だいいち、彼女は健康がすぐれないのよ。そして姉さんを養っていかなければならないし。娘さんだって… 


86頁

(アリアーヌ) 子どもさんはすこし病弱みたいで、おきのどく。

(シュザンヌ) 私たち、もっと活動したいものですね。でも、私たちは、とても難しい時代を通過してもいるのです。(セルジュのいらだちが、どんどんはっきりしてくる。) もちろん、状況はご存じですわよね? 奥さま。

(アリアーヌ、気詰りな様子で。) ええ、知っています…

(セルジュ) シュザンヌ! 

(シュザンヌ) どうして隠し立てすることがあるのか、分からないわ。

(アリアーヌ) でも、私の兄が事情通だとは思っておりません。

(シュザンヌ) 私は、この、ほんとうに酷い状況のなかで… 型にはまらない仕方で生きてゆくことを、いつも試みてきました。ご理解なさっておられるように…

(アリアーヌ) ええ。 

(シュザンヌ) それにしても、ヴィオレットはすばらしいひとです。私をたいへん助けてくれました。セルジュは理解できていません。それでも私は彼を恨みません。彼は彼なのです。もちろん、娘さんが居るのでなかったら、知り得ないのです… 私たちはそんなに会うことはありません。なぜって、どうしても怖いから… (つづく)


87頁

(つづき)それに、会うのは彼女にとっても気持の良いことではないわ。当然よ… でも彼女は私に一度も何も示したことはないわ… 彼女の立場からすれば、それでそんなに粋だった事は多くないでしょう。(セルジュ、立ち上がってあちらこちら歩く。) あなたは何て神経質なの、あわれなひと! 

(アリアーヌ) この状況はそれにしても痛々しいですわね。 

(シュザンヌ) でも、誰のせい? 

(セルジュ、激昂して。) 分かってるよ、ぼくは自覚の無いやつで、阿呆で、品無しなんだ! 
 
(アリアーヌ) まあ、お願いですから… 

(セルジュ) 信じられない… ここまでの失態は!… 

(シュザンヌ) どんな失態? 

(セルジュ) 知るもんか、ぼくが。驚いたことだ… 

(シュザンヌ) それにしても何を私が言ったというの?  

(セルジュ) ぼくたちがここに入ってからというもの、きみは、場違いでなく、中傷的でなく、卑しくない言葉を、一言も言わない… ああ! 意識してじゃない。彼女は殊更にしたんじゃないんだ。自然に彼女はそうなるんだ。ひとつの特技なんだ。そして結果はといえば、彼女はぼくらの周りに真空をつくることになるんだ。友人なんて、ぼくは持ったことがない。同僚はといえば、消え去ってしまうだけだ。 


















マルセル「稜線の路」23

2022-09-29 14:30:50 | 翻訳
82頁

(フィリップ) アリアーヌ、本気になれよ。当時は、きみが治るかどうかも分からなかったんだよ。そういう情況で、離婚や、別居さえ、考えることが、人間として彼にできただろうか? だけど今は、きみの健康はともかく回復している… きみは依然として脆弱だということは承知しているが、それは無数の人々だって同様で、標高千八百メートルの地で生活のほとんどを過ごしに行くということができないんだ。ぼくに言わせれば、解決は至極はっきりしていて、きみに、普通の生活を再開する決心がつかないのであればだよ、ここにいつも帰着するんだが、きみは、ジェロームを、きみの生活とは分かれた彼自身の生活をするように促さねばならないよ。そして、彼に新しい家庭を築くようにさせねばならないだろう。

(アリアーヌ) なんてとんでもないことを! だいいち、よく知ってるじゃないの、彼には個人的財産が全然ないことを。彼が生活してゆけるのは、彼の書く批評によってではないわ。そしてもしほんとうに、彼が兄さんの思い描くような、自尊心の敏感な人間なら、私たちが離婚した後でも、私が彼を経済的に援助するままにしておくものか、すこしでも想像してる? ともかく兄さんが、これについてどう言おうと、そういう金銭上の問題は、ジェロームのような人間にとっては、まったく第二義的な問題だわ… 

(フィリップ) それについては、ぼくはきみのようには確信していない。 


83頁

(アリアーヌ) 兄さんが完全に見逃していることがあるわ。それは私たちの関係の本質よ。(うわずった声で。)兄さんに打ち明ける権利が私にはない秘密の話があるの… でも、兄さんは以前、気づくことができたのよ、私が病気になる前にだって、私たちが、兄さんの絶えず言う、その、普通の生活をしていた頃にだって、以前… (言うのをやめる。) 
  
(フィリップ) その頃でさえ、きみたちは夫と妻ではなかったことを、理解すべきであると? 
 
(アリアーヌ) フィリップ! 
 
(フィリップ) 反対のことを信じていたよ。でも、いいかい、ぼくはこう思っているんだよ、きみたちの結婚後、何か月かして、きみには異変があったのだと!… どうだい?

(アリアーヌ) 兄さんに断言できることは、ジェロームには私が必要だということ、そして、遠くからでも、私は、この世の誰も彼にしてあげることのできないことを、彼にしてあげられる、ということよ。

(フィリップ) そうあってほしいよ。でも、きみの言うことがほんとうなら、それは、彼と一緒に生活することによってこそ…

(アリアーヌ) いいえ、それは私たち、もうないでしょう。(誰かがドアを叩く。) 何なの? (掃除婦が入ってくる。) 

(掃除婦) 奥さま、男性の方と女性の方が、(つづく) 


84頁

(つづき)奥さまとお会いする約束があると申しております。(アリアーヌに名刺を渡す。) 

(アリアーヌ) ありがとう。(フィリップに。)フランシャール夫妻だわ。でも彼女も来るとは思ってなかったわ。 

(フィリップ) フランシャール夫妻? 

(アリアーヌ) 彼は昔、師範学校で私と一緒だったピアニストよ。

(フィリップ) 思い出さないな。 

(アリアーヌ、掃除婦に。) お入りになるよう言ってちょうだい、エリーズ。 

(掃除婦) はい、奥さま。(出てゆく。) 


第二場

同上の人物、セルジュ、シュザンヌ

(セルジュ) こんにちわ、マダム。妻と参らせていただきました。あなたにとても会いたがっているものですから。

(アリアーヌ) それはどうも… お会いできて嬉しいですわ、奥さま。

























マルセル「稜線の路」22

2022-09-29 14:11:31 | 翻訳
79頁

(アリアーヌ) 自分のことは認識しているわ。そのためにかなり身を削ったもの。

(フィリップ) でも、それでもだよ、もし万一、きみが思い違いをしているとしたら… それは実験をする労に価するのではないかな?

(アリアーヌ) どんな実験?

(フィリップ) 単純に、普通の生活を再開するという実験だよ。

(アリアーヌ) ちょっと危険すぎるわね。けっこうよ。

(フィリップ) でも、もう一つの実験は ― きみが選んだ実験だけど ― それは危険が無いのかい? 聞いてよ、アリアーヌ、きみの到着以来、ぼくたちはまだ、落ち着いたひとときを持っていない。きみの亭主は居たし、きみが庇護している女性たちの一人だって居た… 

(アリアーヌ) フィリップ、その言葉は嫌いだって知ってるでしょう。

(フィリップ) ぼくの考えの根本をきみに言うことを、ぼくは決心した。

(アリアーヌ) そのことに関して言い続けることは、勧めないわ。
 
(フィリップ) どうして?

(アリアーヌ) あなたは気づいている、(つづく)


80頁

(つづき)じぶんが何も私に教えることができないということを。ずっと前から私は、あなたが私に言いそうなことはすべて考えていたわ。

(フィリップ) それでも、きみが知ることのできないことがあるよ。

(アリアーヌ) どんなこと? 

(フィリップ) いまの場合、ぼくは具体的なことをほのめかすことはしない。ジェロームと関係していることか、そうでないか? ぼくはそれについては何も知らないし、それはぼくには関係ないことだ。だけど、ぼくが確かめた、深刻に思えることは、悲しみの、鬱状態のことで、きみが不在の時にあの坊やがその状態で生きていることなんだ。苦痛なのでぼくが触れたくない、いくつかの経済的問題のことは話さないが。 

(アリアーヌ) 何を言いたいの? 

(フィリップ) ぼくはきみたちの約束ごとは知らない。ぼくは知らない、きみが彼に収入を保障しているのか… 

(アリアーヌ) とんでもないことを! 

(フィリップ) けれども、それが最善の解決だと思うよ。それにしても、ぼくが衝撃を受けるのは、ほとんどあさましいと言える経済根性で、その根性は機会ある毎に証明されている。いろいろあるが、劇場で、ぼくたちが偶々一緒に行くレストランで、服をあつらえるときのやり方で。まったくひどいものだよ。 


81頁

(アリアーヌ) でも唖然とするわ… 彼の洋服箪笥は不充分でまずい状態だとは気づいているけど、私は、それは投げやりとぞんざいさのせいだと思っていたの。

(フィリップ、断固として。) それは間違いだよ。ジェロームは、ぼくには、家族が田舎に居る学生たちを思わせる。彼らは、どうやって月毎の細々とした為替にいたるまで維持しようかと、胸を締めつけられる思いで思案しているんだ。

(アリアーヌ) それは理解できないわ。ジェロームは小切手帳を持っているのよ。彼はとてもよく知っているわ… 

(フィリップ) きみがぼくの考えの根本を知りたいのなら言うけど、ジェロームは自分が結婚しているとは感じていないんだ。遠くにいる友だちに扶養されているように感じていて、それが彼には気に入らないんだ。もしきみたちが一緒に生活していれば、とても違っているだろう… ああ! 事は全く論理的だと言ってはいないよ。それでもやはり、至極無理もないことだよ。

(アリアーヌ) 彼は、誰が身近で誰が疎遠か、一度も何も私に言ったことはないわ… 

(フィリップ) もちろんだとも! それは多分、自白されることはない事柄だよ、おそらく。(沈黙。) ぼくがきみに粗暴に思われるなら残念だ。きみは一度も、彼に彼自身の自由を返すことが、きみの義務かもしれないとは、考えたことはないのかい? 

(アリアーヌ) ねえ、よく知っているでしょ、四年前に…