ぼくが高田博厚をかけがえのない存在として評価するのは、彼が、言葉の真の意味での実存哲学を、真の美を探求する芸術行為と一つにしたからである。
ぼくは、学者・文人の世界は、言葉の世界であり、言葉は批判ばかりして人間を実質的にゆたかにしない、どころか人間間に心的軋轢を生むだけだ、と思い、言葉によらない絵画・造形芸術の世界のほうが、言葉の沈黙の分だけ純粋でゆたかだと思っていた。しかし、美術家たちが絵画・造形という沈黙の世界に携わっているかぎりはまだしも、かれらも人間として言葉を使う生活をしているのであり、言葉生活の面をもっている。そこでは、文人同様、言葉で品位の格差が現われる。そして文人にも劣る精神レベルをさらけ出していることが多い。美術に携わるだけでは、全然、人間精神すなわち思想の深化発展にはならないことは、知っておくべきである。それ自体は沈黙の世界である芸術にも、「人間」が求められていることを、あらためて強調しておかなければならない。これが、芸術にも思想が要る、と高田さんが言う意味だとぼくは思う。
状態の制限があっても、限界まで魂の美の懐胎を持続させ再開すること。それがこの世からの超脱であり、きみへの忠実の努力だね。
やはりぼくも具体的な超脱的美の創造に向かわなければならない。魂の調和に向かうことなのだ、それは。それが他を否定することとなる。高田さんも存在自体が美であったわけではない。美に向かう生をいきた。だからかれと再会することになる、ぼくがいまの気づきの方向にいきることは。
怒りが形を得るとは、魂が調和を得る美に向かうことによって他を否定することである。魂の調和そのものが超脱なのだから。
怒りである否定は美によって実現される。
ぼくは怒りの対象を直接相手にすることはできない。ぼくの自尊心がそれを許さない。 怒るような経験がぼくに無くて、幸福だったら、ぼくはさほど美を求めず、学者に終始しただろう、とぼくは言うだろう。怒りは愛の証である。