高田博厚 芸術論
「音楽と詩」と題された文の最初の一部であるが、これだけで高田博厚がどういう存在であるか、その、歴史のなかにおける個人が、感得される。ぼくにできることは
こういうものを紹介するぐらいだろうか。
こういう人物の存在の傍らにたたずむことができるだけで、自分を得るやすらぎを覚える。 ぼくの使命は、こういう存在の前に佇み、こういう存在を紹介する(指し示す)ことだと思うと、安堵と落ち着きをおぼえる。
現在はそういう個人を押しつぶそうとする前代未聞の第三次世界大戦のなかにあり、すでに人類の八割ぐらいは取りかえしのつかない状態になっている。多くが生きているようだが、すでに
でたらめな状態だろう。それを感じる。よくもこんなことをしたものだ。人類はじまって以来の狂気以外のなにものでもない。
『 私は子供の頃からプロテスタント教会の雰囲気の中で育てられ、讃美歌をほとんど全部おぼえていたが、その美しさもわからず、それが西欧のキリスト教圏の民謡の旋律だという知識し(か)なかった。つまり「音楽」についてほとんど無縁のその頃の日本の中にいたのであった。そして私が中学校に入った年に、第一次大戦が始まり、卒業した年に終った。その頃ヨーロッパの文化、思想、芸術が、明治時代とはちがった意味合いで洪水のように紹介され、特に理想主義、人道主義、社会主義が混同して入って来た。そして私たちは実物を知らないで、概念だけを知らされた。概念は「観念」だけでしか受容できず、ここにもまた西欧現象に影響される場合の日本特質が示されていた。私たちは書物によってミケランジェロやベートォヴェンを知った。その後、「音楽」などまだ存在しないところに、レコードで西欧音楽が入りだした。私は偶然レコードでベートォヴェンの「第五」をはじめて聴いて、魂の根底から揺さぶられた。そして私にとって「音楽」はベートォヴェンであり、ベートォヴェンが「音楽」そのものであった。それから音楽に夢中になり、貪婪に耳に入る限り音楽をきいた。音楽的素養も天分もないから、音楽専門家にも紹介者にもなれず、ただ「自分」の滋養分とするだけであったが、かえってそれが宜かったのだろう。―私の一生の痛恨事は、自分ひとりのためにでもピアノが弾けないことである。オルガンやフリュートを下手なひとり覚えで演ってみたが…。―それから五十年以上たった今、また新たな意味、「自分が経過してきた」層を通して、あのカザールスのように、私は「バッハとベートォヴェンが音楽の全部だ」と言うだろう。自分の音楽感覚、と云うより、「音楽」への照応が、半世紀間の自分の遍歴で肉附けされたから…。諸芸術の中、もっとも純粋感覚の表出、云いかえれば、芸術「創作」が必然要素として命令する「形」(フォルム)なるものが、もっとも純粋に現われなければならぬ「音楽」と「詩」が、結局「一つ」であることを、自分の裡(うち)にほとんど生理現象として体得する。この「幸福」を、私は自分が音楽に精通する以上に、感じる。
長い歴史をかけて「音楽」を創りあげてきたヨーロッパの土地に、私自身が長年生きられたことは、私にとっては大いなる賜物(たまもの)であった。そして私にとって「音楽」―更に精密には「音楽」と「詩」が一根元のものであるのは、―西欧のそれしかない。これは「人間」が緩慢な「時」の力に逆らわずに築きあげた大建築、カテドラルと同じ一大寺院である。そして、音楽と詩が一つであり得る精神土壌はなにか? 「宗教的」な土壌―更に的確に云えば、「神」と「人間」の照応を純粋理念の中に包摂しつづけてきたキリスト教精神―である。』
一九七五・十一 (高田博厚『もう一つの眼』34-35頁)