高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

自分のためのヘルダーリン記

2020-12-28 02:15:10 | 日記

 
《  わたしは、天空(エーテル)の静けさを理解していた。
   人間たちのいうことは わからなかった。 
 
 ・・・ 
静けさとは単に音がないということではない。耳をすますことによって生ずるもの、すなわち、やさしいものがその音調を見いだし心を通わせることのできる空間のことである。
 ・・・ 
真に教育の業を行なうものは、林苑(もり)の音をじっと聴くことだ・・・
それは人間への聴従とは別物で、あの天上からやって来るものに精神を集中して聴くことである。
 ・・・ 
 静寂のなか、そのなかでやさしいものは育つことができるのだが、そこにこそ愛はその場をもつのであって、愛が《命令》されるところにその場があるのではない。花に「まじって」愛は学ばれるのである。
 ・・・ 
大地、光、大気との出会いのなかで点火された宗教的な根源体験に対する恭順がある。そこには、じっと心を澄ませ、真実なるものの音調を選び分ける鋭敏な感度と、ありきたりの「互いに知っている」を基盤としたどのような了解にも目をそむける悲しげな懐疑がある。われわれはヘルダーリンの生涯を通じて、くりかえしくりかえしこれらの痕跡に出会うであろう。》 
 
ウルリッヒ・ホイサーマン「ヘルダーリン」 51-53頁 
 
 
 

少年ヘルダーリンの自己分析の手紙

2020-12-24 01:46:35 | 日記



どういう偉人も人間なのだ。何と正直なことか。このすぐれた正直さのためには優れた知性が必要だ。 ヘルダーリン 十二-十四歳 
 
ウルリッヒ・ホイサーマン「ヘルダーリン」38頁 (副牧師ナタナエル・ケストリン宛)  
 
 
補(上掲写真頁上段-下段) 
「・・・どんなに彼らに用心しなくてはいけないか、彼らとはほんのわずかの親密さも避けなければならないものだ、ということを確信させられるような気がしました。・・・」 









初心の啓示 ”シチリア タオルミーナ・エトナ山・神殿 ” '14.12.6

2020-12-07 03:52:06 | 日記

未生前の光・人間覚醒の舞台

  
ぼくにとっては有名な舞台だが、先生の感覚覚醒が解るような気がする。まさに言葉以前の、言葉が生れる前の感覚だ。きみをここにつれてきたかった。

 想像とは、一般的に言っても記憶を意志が加工することだ。記憶にもとづかない想像はない。しかもこの想像は記憶から指示を受けている、美を志向する想像であるかぎりは。効果狙いでないかぎり、恣意的な美というものはありえないのだ。ここは美の偽りと真実のものすごく大事な分岐点だね。現代人は絶望的なほどにこの自覚を忘却している。美の前での謙虚さという宗教的なものを想起しないかぎりけっして魂の真実に立ち返れない。美こそは魂のふるさとに直結するのだ。
 ふるさとってどこにあるんだろう。ぼくたちの内部の感覚のみが羅針盤になる。
 
 ぼくはいまあらためてはっきり感じた、思想を求める努力、ぼくは思想を求めているんだけど、それは宗教家が神を求める全魂を挙げての努力とちっとも違わない。いや同じことなんだ。思想を求めることは神を求めること。この瞬間ものすごく明瞭に得心した。思想には人間のすべてが注ぎ込まれる。思想の真実性そのものがそれを要求する。究極において思想が神の自己証明となることは当然なんだ。そういう思想のみが本当だ。ぼくは自分を求める殆ど本能的な思索反省において、必然的に神に差し向けられている。
 これを書いているいまもものすごく睡魔におそわれて時々意識が消えてしまう。さっきのくすりが効いてきたかな。
  でもありがとう、きみと一緒についに先生の庭園に入れたね。ぼくにとっては伴侶を伴っての再帰だ。とても新鮮に先生の思想を初めてのように再認している。こういう真面目で真剣なことをきみとやってゆきたいんだ。きみは自分を大事にしてベアトリーチェよりずっと人生を謳歌してよね。今夜はこれでおやすみ・・




神は信ずるべきものとしてあるのではない、自己への誠実と忠実がついに直面しなければならないものとしてあるのである。人間に誠実さという自由な自己内努力を要請することはできても、神への信仰はけっして要請しうる性質のものではない。これだけのこと―そう、あえて〈これだけのこと〉と言う―が得心できないために〈神〉が不和抗争の種になるのである。