高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

マルセル「稜線の路」66

2022-10-30 17:15:45 | 翻訳
243頁

(つづき)ヴィオレット、あの晩、私は、あなたの処を出ると、私があなたに及ぼした身体的不具合の感覚のようなものを懐いたのよ — 私があなたを呑み込んだあの文句を、私は自分に許すことができないでいたの。私はその晩のうちにあなたに電話しようと試みたけれど、応答されなかった。私、あなたに手紙を書いたわ…

(ヴィオレット) わたし、あなたの手紙の封印をはがしませんでした、アリアーヌ…

(ジェローム) 真実が恐かったからだ。

(ヴィオレット) 何を言いたいの?

(ジェローム) きみは、どんなにしてでも、アリアーヌの振舞いを、最も低劣で、最も品が無く、最も恥ずべき動機に帰することが出来ることを欲していたからだ。きみが自分のために形成するきみ自身のイメージが、きみの自尊心にとって余りに情けなくはないようにするために。

(ヴィオレット) ジェローム!

(ジェローム) この件のすべてにおいて、もし誰かが、つまらない役を演じたとすれば、それはきみだよ。アリアーヌ… ぼくは彼女を裁けない。ぼくたちはそのことを実にしばしば言った。彼女は全く、ぼくたちと同じ世界には住んでいない… しかしきみ、きみは彼女の要請に自分を譲る必要はなかったんだよ。きみは事細かくぼくを騙した。なぜだ? (つづく)


244頁

(つづき)ぼくはそのことを再び自問するに至っているところなんだ。弱さによってなのか — あるいは、ぼくの苦手な計算によってなのか。

(ヴィオレット) つれないひとね! わたしは、あなたを失うのが恐かったのよ、まったく正直なところ…

(ジェローム) なんとまあ、きみは、脆いものと見做していたんだ、ぼくたちを結びつける絆を! 

(アリアーヌ) ふたりとも聞いて。ジェローム、あなたは私に肩入れしてヴィオレットに対立しなくてよいのよ。もし誰かがこの件で責任があるなら、それは私なの。そして私だけなの。私はあなたたちと同様に現世的よ。それどころか! 多分私のほうがもっと現世的でしょう。私に拒否されたもの、私から取り上げられたものの、どんなものも忘れてはなりません。それらは、生活において存在する最も凄まじいものです — 私はこのところずっと、長い時間、このことを考えていました — なぜなら、私たちから取り上げられた良きものは、単に私たちに不足しているものではないのです。それら良きものは、私たちの内に在るのです。ただ、裏返された影として、夜の状態にある荒れ果てた力として… 今、ジェローム、あなたは私を超人間的だと思っているわね — ああ! ほかの時期には、あなたは私をエゴイストで我慢のならない人間だと思っていたことを、私、分かってるわ — それにしても、私の内には、超人間的なものなんて何も無いのよ。精霊が私の願いを容れたように、突然私に思われるときというのは、私の悲惨さと至らなさの深さが、私に示されるときなの。私の行為はひどかったわ。私、そのことで絶叫したい… あなたに、その証拠が要るかしら? (つづく)


245頁

(つづき)私はヴィオレットに、彼女にはいちばん関係無い内容の打ち明け話をしたわ。私は彼女に言った、私たちの結婚を前にして、あなたの傾向がふさわしくなかったことを… それを彼女に言う権利は私には無かったのに。どうして私はそういうことをしたのかしら? 私、何も分からない。多分、私が従っていたのは…

(ヴィオレット、熱っぽく) ということは、あなたは理解していないのですか? 彼が、あなたがわたしにその話をしたことを知らずにいるかぎりは、あの打ち明け話は重大なものではなかったけれども、わたしたちの今のこの瞬間にこそ、あの話は破壊的なものになるのだ、ということを。あなたは、ちょっと前から大いに努力なさっているように、ご自分を引き受けて咎めながらも、あなた自身を、ご自分の目にとって偉大にし、反対にわたしを、一層つまらないもの、卑しいものにすることしか、目指していない、ということを、あなたは分かっていません。というのは、けっきょく、咎めているのはあなたであって、この論告を発しているのは天の声ではないからです。論告を発しているのはあなた自身なのです。

(アリアーヌ) あなたは私の心を突き刺します、ヴィオレット。私がすべての高慢、すべての人間的な自尊の念を捨てて、自分の惨めさと傷跡とで自分を示している、この今の瞬間にすら、あなたは私を、得体の知れない計算に従っている、と非難するのです…

(ヴィオレット) わたしは、あなたが不誠実だと主張しているのではありません。

(アリアーヌ) そのことですが、私は、不誠実でもあったかもしれません。(つづく)


246頁

(つづき)その、暴力と不公正の精神態度は、あなたには余りにも本性的に縁遠いものです、可愛いヴィオレット。そういう態度があなたを占領したのは、きっと私のせいです。

(ヴィオレット) あなたはご自分の奥底から語っておられると、わたしは確信します。でも、もしあなたが芝居を演じてらっしゃって、あなたが最も計算高くて最も不実な女性の役であるのなら、あなたは、これ以上巧みに、ジェロームとわたしとの間に飛び越えることのできない溝を穿つために、振舞うことはできないだろう、ということが、あなたには分からないのですか…

(アリアーヌ) 私は、あなたたちの間にそのような溝を穿つことはしません。ジェローム、すべてはあなた次第です。ヴィオレットは私よりも価値があるわ。彼女は私よりも本物だわ。彼女は女だわ。彼女はひとりの子供を持った。ほかの子供たちも持つでしょう… 私は、ない… (アリアーヌ、もう話せない) 私はもう現実に存在していない。(アリアーヌは嗚咽で震えている。ジェロームは彼女の許へ行き、その傍に坐り、その手を取り、愛撫する。

(ヴィオレット、立って。) もし、あなたが、ほんとうにゲームをしたかったのであれば、それにしても何故ゲームをしたかったのでしょうか? 唯一つの方法しか無かったのです。すなわち、ご自分が、やきもち焼きで、要求が多く、こせこせした人間であることを示せば良かったのです。一言で言えば、わたしをライバルとして扱えば良かったのです。あなたは、いかさまをすること無しには、その方法を拒むことが出来なかった。あなたのサイコロには、ごまかし細工がありました… ああ! でも、わたしはあなたへの深い感謝を保ちます、アリアーヌ。あなたは、わたし自身では決して見いださなかったであろうものを、わたしに教えてくれました — (つづく)


247頁

(つづき)冷笑主義(シニスム)の価値と徳を。真理と美とは互いに無関係であり、この二つの一致を許すような人間的芸術は存在しない、と理解することを。… そう、それは最初の段階です… あなたの友人マダム・デランドがわたしに届けさせていた金額は、最速の期限であなたに戻されるでしょう。 (調子を変えて。) さようなら、アリアーヌ… ああ! わたしは知っています… わたしは多分、不正義で忘恩の怪物です… 祈りがあなたには授けられたのですから… ほかの残りすべてと一緒に… 時々はわたしのために祈ってください — そしてモニクのために、とりわけモニクのために。なぜなら、もしあの子が治らないなら、その時は… その時は… わたしには分からない… (ヴィオレット、アリアーヌの手を取り、痙攣的に抱擁して、外へ出る。

長い沈黙。

(アリアーヌ、ジェロームを見た後。) なんてこと! すべては彼女が正しかったかのように経過しているわ。あなたは彼女を見なかった… ジェローム、あなたは心を持ってないの?… そして今、私にはもう死ぬことすら許されないでしょう… 自分のすべての親しい取巻きを埋葬する女性病人、彼女は(つづく)


248頁

(つづき)書く、彼女は書く… クラリス! クラリス! (クラリス、ドアを僅かに開ける。

(クラリス) 怖かったわ。邪魔したくなかったのよ。あの婦人は帰ったの?

(アリアーヌ) ええ、ええ、それで、明朝にね、最初の時間帯に、あの紳士連に電報を打たねばならないの…

(クラリス) あなたは拒否する、と。

(アリアーヌ) 私はひじょうな感謝で受け入れる、と!… クラリス、未完成の死後刊行よ。よく覚えておきましょう、未完成の死後刊行、と…

1935年。7月-9月







(つづく? なぜなら、やっと愛(?)が動き出したから)















マルセル「稜線の路」65

2022-10-30 15:11:38 | 翻訳
238頁

(つづき)わたしのものよ… わたしに手紙を書いたという、あのマダム・デランドというのは、名義にすぎなかったの?

(アリアーヌ) 私を怒らないで。いちばん良いようにと思ってしたことよ… 私、おそらく、今回も、重大な間違いはしなかったわ、今までと同様にね。

(ジェローム) その、「自分の責任で」(メア・クルパ)の意味は?

(アリアーヌ) 聞いて、ジェローム。私がヴィオレットの前であなたに知らせなければならないこと… ええ、それは彼女の前でのほうが良いのよ… それはあなたに、おそらく、或る驚きを引き起こすでしょう。多分、苦痛なものかも知れない。仕方ないことね。私たちの誰も、いまのこの雰囲気のなかで生きることに、もう耐えられないのよ。悪意の無い嘘というものがあると、私は思っていたの — それどころか善意の… それがほんとうのものであるとは、私はもう確信していないのよ… いずれにせよ、私はもう確信できない… あなたたちが離れていた間、私は懇願したわ… どういう名で呼べばいいか、私は分からない… 私が必要とする力を私に授けてくれる、見えない働きなの。私にはその力がたくさん必要なの。なぜなら私たちは、私たち三人の現実存在にとって決定的に大事な時期にいるからなのよ。そう私は確信しているの。この懇請がかなえられたか、私には分からない。私は自分のことを、とんでもなく弱々しいと感じています… 全く無防備だと。そして私は、あなたたちの眼差しのなかに、好意を認めていません。

(ジェローム) しかし初めて聞いたな。きみはまるで自分が罪人であるかのように話している。


239頁

(アリアーヌ) 私は多分、罪人よ。ほぼ間違いなく罪人よ。私が四月にパリに着いた時、あなたたちが恋人どうしであることを知っていたわ。その時期に、私は一通の匿名の手紙を受け取ったの。その手紙は、私にいかなる疑いも残さないものだった。いずれにしても、私の確信は既に出来上がっていたのよ。

(ヴィオレット) その手紙は、わたしの姉のものではなかったのね。わたしたちは彼女を中傷していたんだわ。

(アリアーヌ) 私は、あなたたちのことを、ジェローム、あなたのことも、お相手のことも、どちらも全然恨まなかったわ。私は、ヴィオレットに会った時、すぐに、彼女に特別な共感を覚えたのよ。ともかく、私は彼女のことを既に好きだったの。彼女のことを具体的にあれこれ知る以前に。彼女があなたの生活のなかでどういう地位を占めているのかを知る前にね。私はすぐに、彼女が、私の立場への裏切りを自分が働いていると判じて、深く苦しんでいることを感じたわ。私、彼女を安心させたいという気持を抑えられなかった… 私は、その当時、自分が不都合な行為をしたとは、思っていないのよ。

(ジェローム) それで、きみたちの親密な仲が… 

(アリアーヌ) 其処で私が多分間違いをした時というのは、ヴィオレットに、彼女と私の間のことは、あなたには明かさないように要求しなければならない、と信じた時ね… あなたは解るわよね、私があなたたちの関係を知っていると、あなたが知れば、その瞬間から、わたしたちのこの状況は我慢のならないものになるだろうと、私が本気で想像したということを。(つづく)


240頁

(つづき)自尊心からあなたが彼女と、多分次には私とも、絶交しなければならないと思うだろうという想像もしたわ。私、間違っていたかしら?

(ジェローム、内にこもって。) 分からん。

(アリアーヌ) ともかく、私、多分、そういう危険を冒したにちがいないわ。私は自分が寛大だと信じていた。おそらく、私に欠けていたのは、ただ、勇気だった、信仰だったのよ…

(ヴィオレット、激しく。) わたしがとりわけ思うことは、今でもあなたは、あなたの態度がそれへの応答となっていた本当の動機にたいして、盲目である、ということです。あなたが、諦念の行為のように、あるいは、せいぜい絶対的な寛大さの行為のように解釈していらっしゃるものは、わたしに言わせれば、あなたがそこに入り込む権利など何ものも認めていない領域の中への、容喙だったのです。

(ジェローム) ヴィオレット! 

(ヴィオレット) 有罪宣告する権利、禁止する権利、排除する権利を、あなたは持っていた。でも、あなたに許されていなかったこと、それは、欺瞞によって、あるいは、相手に魅惑された感嘆を理由にして、介入をすることだったのです。そういう感嘆の仕方を、あなたはわたしにも吹き込むことを知っていました、わたしたちの愛の中心そのものにまで吹き込むことを — まるで、あなたが… 何と言ったらよいか… 眼差しでひとつの果実を賞味することを欲していたかのように。その果実そのものを味わうことは、あなたには許されていないのです。


241頁

(ジェローム) けがらわしい!

(アリアーヌ、毅然として。) 私たちは、遂に真理を、それがどういうものであれ、見いだすために、集まっているのです。ヴィオレットは、自分の考えの根本を言わねばなりません。たとえ、それを聞くことが私にとってどんなに酷いことであっても。

(ヴィオレット) 多分、わたしは不公正で、あなたをひどく低評価したのでしょう。それは分かっています。白状します。でも、わたしは自分の言ったことに確信を持たざるを得ません。そしてあなた自身、あなたはわたしに確信を与えることは出来ないと、わたしに同意してください。

(アリアーヌ、痛々しく。) それは私の力の及ぶことではありません。

(ヴィオレット) あなたがわたしの内に、あなたがいらした、あの最初の晩、目覚めさせたものに、あなたは気づけていません。それを言うための言葉はありません。一種の熱意、ほとんど偶像崇拝的なものです。わたしはあなたを崇拝しました。それからだんだん、この感情、この種の情熱が、ジェロームとわたしの間に生じてきたことを、わたしは発見していったのです。同時に、わたしは彼に何も説明できなかった。というのは、わたしは、彼にはすべてを隠すことを、あなたに約束していたからです。そして彼は、何か或る理解できないことが起っていることを、感じたのです。彼はわたしを恨んだ… そして彼はあなたをも恨んだのです。こうしてわたしたちの間の状況は我慢できないものになりました。このようにして危機がおとずれたのです。彼はわたしに、あなたがご存じの提案をしました。そしてあなたは… (つづく)


242頁

(つづき)すべてを受け入れ、すべてを容易にする感じの方でありながら、わたしがその提案をどうしても拒否したくなり、その提案による見通しに嫌悪を覚えるようになるために必要な言葉を、きっちりと仰いました。そしてその時、わたしは、すべては計算されていたのだと思ったのです。あなたは、わたしをジェロームと別れさせる最も確かな手段を、唯一効果的な手段を、構想していらっしゃった、と思いました。しかも、わたしの目にもご自身の目にも、ここが本質的に大事なところですが、ヒロインか聖女の役を保ちながら、なのです。その文句というのは、あなたがわたしを赦しているのだということを、わたしは覚えていなければならない、と、あなたが言った時のものです… この文句がわたしをどれほど苛んだか、あなたが知ることができれば… わたしは時々夢を見ることがありました。その夢では、あなたが事故に遭っているのです。あなたが山路で足を踏み外すのです。あなたは滑り落ちます… わたしは思わずはっとして目を覚まし、独りごちます、そうだ、彼女が自殺をしなかったかどうか、けっして知り得るものではないだろう、と。わたしは細かいところまで、あなたが夢でとっていた体勢を思い浮かべたものです。わたしは考えたものです、前日付にした一通の手紙が見つかるだろう、と。すべての場合を慎重に勘案しても、事故があったと信じられます。多分、唯ひとつの場合を除いては… もしくは、結局、ひとつの疑いが保留されるでしょう。そして、この赦しは、ひとつの短刀のようであって、わたしの胸をえぐるものでした… それでもう、わたしは彼とは再び会わないと決心したのです。

(ジェローム、険しく。) それではどうしてロニーに来たんだい?

(アリアーヌ、ヴィオレットに。) でも気づいてちょうだい、(つづく)
















マルセル「稜線の路」64

2022-10-29 13:46:20 | 翻訳
233頁


第七場

ジェローム、ヴィオレット

(ヴィオレット) ジェローム!… 彼女は、あなたがここに居るとは、わたしに言ってなかったわ。

(ジェローム) 彼女は、ぼくが居ることを、きみに予め知らせる必要がなかったのではないだろうか… きみがここに居ることを、彼女は知っているのかな?

(ヴィオレット) わたしをここに入れてくれた召使が、わたしに教えてくれるべきだったわね。(沈黙。

(ジェローム) きみは、自分がぼくにした不都合に気づいているかい?

(ヴィオレット) わたし、ほかにしようがなかったのよ… 起こってしまったことの後では、どうしようもないじゃないの。

(ジェローム) きみが何のことを当てこすっているのか、理解したいものだよ。

(ヴィオレット) それに、あなたは、すべてはこうして、より良くなっていることを認めなければならないわ… (ヴィオレット、部屋を示す。)あなたの言うことをわたしが言葉通りに取っていたとして、あなたが放棄しなければならなかったはずのもののことを、少しは考えてちょうだい。わたし、あなたに、ものすごい貢献をしたわ。


234頁

(ジェローム) そう思っているのかい?

(ヴィオレット) そしてその上に、わたしはあなたに結構な役を残したわ。あなたはわたしに、最も寛大な提案をした。わたしは、それを拒否した。あなたは自分の良心と折り合いをつけている。あなたの物質的生活は何も変わっていない。あなたは、この上に、何を望むことがあるというの?

(ジェローム) それに、ぼくたちの愛を、か? ヴィオレット。

(ヴィオレット) このどんでん返しでは、愛はおそらく生き延びなかったでしょう。愛の断末魔であったもののことは、考えないほうがよいわ。

(ジェローム) 今は? 愛はどうなった?

(ヴィオレット) わたしたち各々が、答えを見いだすのよ、自分の心の底で。

(ジェローム) きみは、自問するなら、何を理解する?

(ヴィオレット) どうしてアリアーヌが降りて来ないのか、解らないわ。

(ジェローム) 彼女は自分の寝室に居るんだよ。

(ヴィオレット) この部屋を除いては、すべての部屋が暗く見えるわ。

(ジェローム) 時々、彼女はこうやって灯り無しでいることがあるんだ…


235頁

(ヴィオレット) 彼女、祈っているのかしら?

(ジェローム) 自分を集中させているんだと思う。

(ヴィオレット) なんということでしょう! すべてをやり直そうというのね…

(ジェローム) きみに言っておくけど、彼女はぼくたちの関係をよく知っているよ。

(ヴィオレット) 彼女がそれをあなたに言ったの?

(ジェローム) うん… きみはそれで驚くふうでもないね。

(ヴィオレット) ええ… 盲目でないかぎり、ぜんぜん察さないなんてことはないわ。

(ジェローム) きみは突然、なんてわざとらしい口調になるんだ… ぼくがきみを許せないのは、ぼくの手紙に返事を書かなかったこと、きみの住所をぼくに教えるのを、きみの家の管理人に禁じたことだ…

(ヴィオレット) わたし、自分を信用していなかったのよ… ほかに、自分を守る手段が無かったの。

(ジェローム) さっきは、きみはぼくに答えなかったけれど、きみはぼくをまだ愛しているのかい? ヴィオレット。

(ヴィオレット) 分からないわ。

(ジェローム) どうして分からないんだい?… この六週間のあいだ、気分が悪かったのかい?


236頁

(ヴィオレット) とてもひどく。

(ジェローム) ぼくのせいなのかい?

(ヴィオレット) なによりも、あなたのせいよ。それから、モニクの健康のこともあったわ… あなたは、あの子のことはわたしに訊きもしないのね。

(ジェローム) 分かってる、よく知ってるよ… きみには、すまない…

(ヴィオレット) すまないって… もし、あなたがわたしをほんとうに愛しているなら、ジェローム、ほかに言うことは無いの?

(ジェローム) きみのその娘は、ぼくが大嫌いな男の子供だ。あの子は彼に似ている。もしもぼくがあの子の… ぼくのせいじゃない、ヴィオレット。まさにぼくがきみを愛しているからだ。解ってくれ。愛とは、心地良い付属物と一緒にあるような全き休息の感情じゃない。

(ヴィオレット) それはひとつの病気じゃないのかしら。

(ジェローム) きみはそこから完全に治りきったように、ぼくには感じられる。立派だよ…

(ヴィオレット) わたしは何からも治っていないわよ。

(ジェローム) ロニーに来るなんていう考えも考えだ! まるで、ほかの処では治療できないみたいに! ぼくに近づくためではなかった。きみは、ぼくがここに居ることを知らなかったのだから。(つづく)


237頁

(つづき)想像もつかないことだ… きみは、脈絡のない衝動にしか従わない精神異常者みたいに行為している… 

(ヴィオレット) あなたは今、わたしが健康を回復したことを咎めたばかりなのに… 苦情の種にも少しは秩序をつくってちょうだい、ジェローム。




第八場

同上の人物、アリアーヌ

(アリアーヌ) 来てくれてありがとう、ヴィオレット… 来るには、たいへんな努力が要ったことと察するわ。

(ジェローム) まるで、彼女が、おまえに近づくためにロニーを選んだのではないみたいに!

(アリアーヌ) すこし灯りをちょうだい、あなた、頼むわ。ランプを灯して、そこよ、あなたの右のほう。(ジェローム、スイッチを回す。暗がりの中にあったピアノがすっかり明るく現われる。

(ヴィオレット) でも、アリアーヌ… このピアノは、(つづく)

















マルセル「稜線の路」63

2022-10-28 13:00:30 | 翻訳
230頁

(アリアーヌ) なんということ。私はあなたのようではないわ。私たちは、三人とも、絶対的に誠実な弁明を互いにしなければならないと、私はどうしても判断するの。

(ジェローム) それは趣味の問題だ!

(アリアーヌ) 私の見るところでは、それは不可欠のことよ。

(ジェローム) 彼女がそれに肩入れするかは疑わしいとぼくは思う。

(アリアーヌ) 彼女にそれを決心させるために、私は何でもするわ。

(ジェローム) それはありそうもないことだな。

(アリアーヌ) そうね。この状況のなかには、何か…

(ジェローム) 状況はぼくには、反対に、極端なまでに平凡なものに見える。

(アリアーヌ) あなたが思うほど平凡でもないわ。

(ジェローム) 確かなことは、ぼくは立ち合わないだろうということだ、その… 会見には。

(アリアーヌ) あなたは私のために立ち合うでしょう。正直になって。私は今まで、要求がましくなったことはありません。

(ジェローム) 要求がましい、ということで、何を理解するかによるね…

(アリアーヌ) その… 会談の後では、あなたは、自分に善いと思えるままに行為できるでしょう。あなたはすっかり自由になるわ。(アリアーヌ、電話機の処へ行き、(つづく)


231頁

(つづき)受話器を外す。)十五番をお願いします。サナトリウム・ボーソレイユですか? マドモアゼル・ヴィオレット・マザルグとお話しできますでしょうか?

(ジェローム) きみはどうかしてる! (アリアーヌ、彼を安心させるために頭で合図する。

(アリアーヌ) もしもし! あなあたですね、ヴィオレット… だめ、だめ、切らないで、おねがいだから… 思いがけなく、あなたがロニーに来たことを知ったの。具合はどう? モニクちゃんの… レントゲン写真が良くないの? かわいそうなヴィオレット! でもその年齢ならね、小さな患部は、とてもよく、とても早く治るわ。気を動顚させたらだめよ… モニクちゃんは熱があるの?… そう… それは大したことじゃないわ。立派に治療できるわよ。シュミット医師は第一級の人物よ。とても博識で、とても人柄が善いわ…

(ジェローム、小声で。) そして、とても巧みな実際家だ。

(アリアーヌ) あなたも分かるわよ、彼の、私が買う点が。彼は人をひじょうに元気づける性格なの。楽天主義そのものね… 私、あなたに、できるだけ早く会いたいわ、ヴィオレット。今晩、夕食後、八時半頃に、ここまでちょっと来てよ。みんな、あなたに、ゲンチアナ酒を勧めるでしょう。ボーソレイユから五分よ… (つづく)


232頁

(つづき)あなたの沈黙は私にはたいへん辛いことを分かってちょうだい。私、あなたに五六回手紙を書いて、三回往復電報も打ったわ… 何も… 私、想像するしかなかった… とうとう、私、あなたが私をひどく恨んでいるのだと確信するようになったわ。(アリアーヌの声が力を無くす。)私、自分を弁明しようとした… 自分を苛んだわ… 私は、ひたすら理解したいだけなのよ、ヴィオレット、断言するけれど、私はあなたが思っているような人間ではないわ、私は… たいへん辛苦している… 来てちょうだい、あなた、私たちは、すべてのことをはっきりさせましょう。またね、今晩。(アリアーヌ、振り返る。)あなた、まだここに居たの?

(ジェローム) そうさ。

(アリアーヌ) 何を考えているの?

(ジェローム) ちょっと驚いているんだ。それだけだよ。

カーテンが下がり、すぐに再び上げられて、同じ自然景観が望まれている。部屋は殆どすっかり闇の中にあり、隅のランプが一つだけ灯っている。ジェロームは座って頭を両手で抱えている。誰かがドアを叩く。ジェロームが、打ち沈んだ声で、お入りください! と言う。ドアは開かれない。彼は、お入りください! と、もっと力のある声で繰り返す。
















マルセル「稜線の路」62

2022-10-27 15:22:50 | 翻訳
225頁

(つづき)あなたにしたい相談があります… ご覧の通りのぼくの妻のことです… ぼくは幸福ではありません。

(アリアーヌ) いいえ、いいえ… 私はもう打明け事は受けたくありません… 終了です。(アリアーヌ、庭に通じる側面のドアの方へセルジュを導く。



第六場

ジェローム、そして アリアーヌ

ジェロームは、新聞を手にして部屋に入っている。彼は座って新聞に読み耽っている。

(アリアーヌ) 新しいことがあった?

(ジェローム) イタリアとアビシニアの紛争がますます思わしくない展開になっている。

(アリアーヌ) 紛争が局地化されたまま食止められていさえすれば!

(ジェローム) そうではないらしい。

(アリアーヌ) 信じていたのに…

(ジェローム) 政治に関心があるような振りをするなよ。きみの麗しい魂を耕し究めるのに甘んじたまえ。


226頁

(アリアーヌ) ジェローム!

(ジェローム) あの哀愁の離婚女性と一緒にさ。ところで、彼女のここでの滞在は長引くのかい?

(アリアーヌ) そうは思わないわ。

(ジェローム) ぼくは先週、フィリップと晩餐をした。彼はきみにたいしてとても憤っていたよ。きみが彼の奥さんを招いたら、彼が不愉快になる結果にしかならなかった、と彼は思っている。

(アリアーヌ) でも、だいいち、どうやって彼はクラリスがここに居ると知ったの?

(ジェローム) まったく単純なことで、ぼくがそのことを彼に言ったのさ。ぼくが隠し立てをひどく嫌うことは、きみも充分知っているだろ。

(アリアーヌ) 聞いて、ジェローム、あなたはどうして、自分は不幸だと、ごく率直に認めないの?

(ジェローム) ぼくは苛々屋で、激怒屋で、気難し屋、その他お望みのいろいろ屋だが、不幸ではないよ。何でぼくが不幸なんだい?… きみが、自分の慰めてあげたいという欲求を満たすには、ぼくを当てにしちゃいけない。

(アリアーヌ) そんなふうに言うなんて、何て意地悪なの!… けっきょく、ただ私を傷つけるためだけだったら、あなた、どうして来たの?


227頁

(ジェローム) きみは、屈しないひとだ…

(アリアーヌ) そう思うの?

(ジェローム) ぼくが来たのは、だいいちに、パリで暑さに参っていたからだ。演奏会の季節は終わっていた。パリの雰囲気は窒息しそうだ。強権発動と市民戦争のことしか話されない…

(アリアーヌ) あなたは旅行できたわ。

(ジェローム) ここでも、ほかでも、ぼくは結構さ。

(アリアーヌ) あるいは、どこでも不機嫌。

(ジェローム) 望みとあらば。

(アリアーヌ、沈黙の後。) マドモアゼル・マザルグについての知らせを受けたところなの。

(ジェローム) えっ!… それをぼくに知らせて、どうしようっていうんだい?

(アリアーヌ) 彼女は、娘さんと一緒にこの地に居て、娘さんは容態が良くないのよ。

(ジェローム) 彼女を来させたのは、きみかい?

(アリアーヌ) ジェローム、私、あなたに言ったでしょう、この六週間、私は彼女については何も知らなかったって。

(ジェローム) きみは彼女と会ったのかい? 彼女、きみに電話した?


228頁

(アリアーヌ) いいえ、私が、彼女がロニーに現在居ると知ったのは、直接にじゃないわ。

(ジェローム) ピアニストを介して、じゃないか… ん?

(アリアーヌ) どうでもいいじゃないの。

(ジェローム) たしかに… それで、きみは彼女と一緒に音楽をやるつもりかい? 彼女を招いてお茶を飲むつもりかい?

(アリアーヌ) いいえ。

(ジェローム) なぜだい? きみは、彼女がきみにたいして感謝の気持ちを充分に表明しないので、彼女を恨んでいるのかい?

(アリアーヌ) あなた、そういう両義的な表明の問題は、もうお終いにするべきよ… それに、あなたは、よく気づかなくちゃ… ヴィオレット・マザルグがあなたにとって何なのか、私は知らないのではないわ。

(ジェローム) 彼女はぼくにとって何でもない、はっきり言って。

(アリアーヌ、深い重々しさで。) 彼女が何であったのか、と言ったほうがあなたには良いのかしら。

(ジェローム) それで?

(アリアーヌ、優しく。) あなたは、彼女があなたの恋人であったと、認めるのね?

(ジェローム) もしそういう言い方がきみを喜ばせるのなら。

(アリアーヌ) ジェローム、私はただ、あなたに、そうだったのか、そうでなかったのかを、答えてほしいだけ。


229頁

(ジェローム) きみは、証拠を持っているか、持っていると信じているように、ぼくは推測してしまうよ。

(アリアーヌ) そこに問題があるのではないわ。私はただ、あなたから… 告白と言うのはやめましょう、真摯で直接な応答を得たいだけ。私には時々、あなたが、私が求めたようには、勇敢ではないと思えるのよ。

(ジェローム) ぼくが、事の結果にたいして少しでも怖れを抱いていると、きみが想像しているなら、それは間違いだ。そう、ぼくは、そのひとの愛人だった。ぼくはこのことを、きみが望む誰の前でも繰り返して言うだろう。もしきみが望むものが離婚であるなら、手続きは、これによって大いに簡単になるだろう、とぼくは想像する。

(アリアーヌ) 私個人は、もしあなたがそれを望むのでないかぎり、離婚など思ってもいないわ。

(ジェローム) 少しも思わないんだね。

(アリアーヌ) あなたは離婚のことを一度も考えたことはないの?

(ジェローム) ぼくの頭のなかを横切ったあらゆる考えの中には、離婚の考えもあったにちがいない。実現には至らなかったが。

(アリアーヌ) それで、彼女は? 

(ジェローム) 彼女に訊けよ。興味があるなら。

(アリアーヌ) あなたは、彼女と再会したい気持ちは無いの?

(ジェローム) 少しも無い。