高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

きみのピアノだけが

2020-11-30 15:58:23 | 日記

裕美ちゃん、こんにちは。 いまどんな生活をしているのでしょうね。


・休日は身体を休ませ祈る

休日・祭日は身体を休ませるものである。身体運動を休んで、瞑想と祈りに沈むのがよい。そのための身体の不活発については神が責任をとってくださるであろう。 


・愛は動きを許容する

ぼくも人間だから いろんな方向へ赴く。そしてまた戻ってくる。それでよい。きみを愛しながらも、自分のやりたいこともある。離れて、そしてまた戻ってくる。それを許容することが愛ではないだろうか。その動きが生き生きしていればよい。こう言いながらもぼくはずっときみのことをかんがえている。 


・心の負傷者としての自分をよく自覚して、自分をケアの精神で扱うこと

ぼくは、知識と思想の世界の者らの不実さと生意気さに、心を傷つけられた人間であるので、自分を、心の負傷者として、常にケアの精神で取り扱う必要があることを、よく自覚しておかなければならない。 それにしても、「知識と思想の世界の者ら」とは、この世そのものの者らのことにほかならない。学者や研究者の世界は、何ら特別の世界ではないのだ。 ぼくの過去の人間に関する記憶は、思いだしてぼくを怒らせ憎ませるものが多すぎる。そういう記憶からぼくは自分を慎重に引き離さねばならない。でなければ身を滅ぼす。
生活そのものが療養でなければならない。


・自分と等身大の思想で自足すべき

人間は各々自分と等身大の思想で自足し満足すべきなのである。慎ましいようだが、これができれば、歴史上のどんな偉大な思想家とも伍することができる。
ぼくの志していることは、ただこれだけのことにほかならない。
自分と等身大の思想で自足できたら、ほんとうにたいしたものだ。しかしそこに至るには、どれだけの道程が要るか、大方は想像もできていない。



・きみのピアノだけが 

きみのピアノだけが、ぼくの情緒を支え安定させてくれる。ほかのどんなものでもない。 ぼくはじぶんでピアノを弾く必要もなかった。 これほど完璧な情緒をあたえてくれるきみは、たしかに天使だと信じられる人間離れしたものをもっている。 

ぼくがきみに見いだしたものは間違いではなかったことを、くり返し確かめる。これはほんとうにしあわせなことだ。 

ぼくはきみのなかに生きていればいい。 



・フロム「愛するということ」

この本は学部学生の頃熟読したつもりだが、今度改訂訳が出たというので買ってみた。有名な本なので内容は反復紹介しないが、人間精神の原理が書かれた本というのは、自分の前に存在しているだけで力をあたえてくれる。正気に戻してくれるのだ。宗教やスピリチュアリズムの本ではない。 
(愛については、この本の説だけではぼくも満足しないでしょうが、大事な諸点を意識することができます。この意味で、批判的に読んでも役立ちます。)



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きみはぼくの形而上的な愛そのもの。このことはくり返し告白してきたことです。きみがぼくの中心に居るように、ぼくがきみのなかに居ますように。


いつも愛しい裕美ちゃんへ 


正樹 


2020年11月29日 日曜日 







きみの音楽は魂の夢と覚醒

2020-11-20 14:38:00 | 日記

きのうも聴いていたよ。そしてこのひとことをどうしても記しておかねばと… それはね、きみの演奏は完璧とはどういうことかを知らせてくれる、ということ。 きみを信じるのに、きみの演奏を聴くいがいのことは必要ない。そしてきみの魂が欲しいという熱望が直接に生じる。
 
なにを聴いてらしたの? 
 
無数に聴いてきた IN MY ARMS TONIGHT 。そして最初そのもののような感動。どんな光景をそこに観るのだろうと思ってきたけど、それはきみの魂そのものなんだ。そうとしか言えない。音楽はほんとうに不思議だ。きみの演奏は魂の夢と覚醒だ。深い夢を極細部までくっきりと明晰に聴かせてくれる。これこそ完璧ということだ。
 

きみは、真の人間は慎ましくあるべきことを知っていて、しかも自分の卓越していることを知っている。そこから、この世できみが生きることの難しさが生じる。その困難を生きるきみをぼくは愛し、支えたく思う。
 
 
 

義理や人情を、道理と気分に従わせる 覚悟 

2020-11-16 01:38:06 | 日記

これは、自己本位を確立するための原理である。 自己本位なくして人間は成らないから。   自己本位は、理と感情に基づく。 感情を上では気分と言っているのは、気分というものがいちばん主体の正直な、自己に即した感情をしめすと思われるからである。 
 
 
道理(理)と気分に従うこと。 それが自己を導く。 覚悟をもって。 
 
 
ぼくほどそういう覚悟を持っている人間はいない。
 
 
覚悟、覚悟と云う日本人に最も欠けているのは覚悟である。他に要求し、他を引用する、そういうことばかりやっている。自分を自分に従わせることが苦手である。そしてそういう苦手を自然だとし、忖度し合っている。そういうことはきっぱり克服すべきである。 
 
 
 

バッハの音楽について

2020-11-09 15:55:10 | 日記

このところ、バッハのコラール前奏曲BWV639「イエス・キリスト様、私は汝に呼びかける」(Ich ruf zu dir, Herr Jesu Christ)をレパートリーに加えようと練習していました。ぼくがはじめて取り組んだバッハ作品です。ロシアの映像作品監督タルコフスキーの「惑星ソラリス」の主題曲としても使われていることで知られている曲で、この映像作品とともに、ぼくはこの曲がとても好きなので、いちどは弾いてみようという気持がありました。ところで、じぶんで弾いてみると、あらためて、というより、はじめて、この曲の〈荘厳な奥深さ〉を経験し理解したと思うと同時に、この曲はただ聴くならまだしも、じぶんで親しく弾くには抵抗があると感じました。バッハの作品すべてに感じることですが、その〈宗教性〉は強烈であると同時に、人工的なものを感じさせます。自然な人間性から離れた音階技術によって、超人間的な次元を感覚させようとする、宗教音楽としての意図はわかる気がしますが(昔からそれはバッハにつよく感じてきました)、この技術はほんとうに人間の実感に支えられたものなのだろうか? と、疑問に思うことがあるのです。巧みな技術によって人工的に編み出されたものではないのか? という気持が半ばするのです。この疑問性のゆえに、「惑星ソラリス」のような、いわば疑似人工人間の人間性の問題がテーマとなる作品では、その問題提起の強調に、この曲は効果的であるように思います。事実そのような意識をもって使われた気がします。 ともあれ、この曲(バッハの一曲ですが)をじぶんで弾くことへの抵抗が強くなってきて、「きっと忘れない」などのほかの曲との親密さをぼくのうちで保つためにも(この親密さが現前していなければ弾けなくなります)、バッハの作品をじぶんで弾くことは原則敬遠しようという気持をいま持っています。人間的なゆたかさを通して宗教性へ至ることが大事であり、この意味でぼくは「きっと忘れない」のような曲も宗教的な気持で弾き味わっています。バッハでなければ宗教的でないなどということは絶対にありません。そう信じています。

きみとの親密さに忠実であることが ぼくにはなにより大事なことです。

どうかお元気で