2020年09月21日(月)
高田博厚 芸術論
既述の「音楽と思い出」のなかで高田さんは、音楽とともに数学のことを言っている。形而上的なものには、数学的節度(ムジュール)がある、という感得からである。原語 mesure には、節度のほかに韻律、拍子という意味もある。まさしく音楽の基本要素である。形而上的感動をあたえる造形作品にもこれがあるという感得が、高田さんの芸術理解である。高田さんが「自然」すなわち「もの」について語るときも、この節度、規範の意識が、不可欠に伴っている。いわゆるあるがままの自然が、ほんとうに問題となるものなのではない。マイヨールもそれを言っていた。空の雷鳴などは騒音に他ならない。だから、他方から言えば、自然そのものが数学的構造を持っているかどうかということが、大問題となるのである。これも「音楽と思い出」のなかで高田さんが触れていることである。自然そのものと、われわれがその前に立ち創造の範とする自然は、同じものなのか。「形が動きのなかに隠れているから、その形を取り出さなければならない」、とアランは言ったと高田さんは記している。この「形」が、「ムジュール」を示すものだろう。それは、その美の形は、恣意や思いつきの産物ではない(現代世界の産物の殆どは、本物の美とは何の関係もない)。ともあれ、「自然」の前での謙虚な態度ということの意味を、正しく理解しなければならないのである。範となる自然は、すでに「形あるイデア」を暗示している。
《「自然の音、風のそよぎや鳥の鳴き声など美わしき騒音はまだ音楽ではない。けれどもこれらなしには人間に音楽は生まれなかった」。》
著作集 III、303頁 「古い音楽」