ぼくは信仰を、神を求めている。そしてそれはぼくだけではないことを知っている。この、信仰に無理解な日本において、偉大な信仰の先達がいる。これはぼくの路における信仰の歩みであり、ぼくだけのものであり、そのことによって、この路を歩む少数のひとびとのひとりにぼくはなっていることに気づき、それをしあわせなことだとぼくは思う。なぜなら、何ら既成のものはそこには無く、ぼくの内的感覚と感情のみがそこにはあって、そこにぼくは達したのだから。そこにおいてきみは単なる導き手ではない。そこにおける祈りにおいていつまでもきみはぼくと一つの体として在るのだから。
「三四郎」で漱石が熊本出の三四郎を自他ともに田舎者と認めさせていることに、ぼくは抵抗感を持った。漱石自身が東京生れなので、地方を舐めているところがある。彼自身の南下経験が熊本止まりだが、おとなしい三四郎に、熊本は野蛮なところですと平気で言わせている。鹿児島などは圏外というところなのか、御一新の本拠地だったので、出したくなかったのだろう。ほんとうの田舎者は反骨心があってこわいものである。そういうところが三四郎には全然無い。
(初代文部大臣・森有礼が明治憲法発布の年に暗殺されたことが、登場人物の秘密に引っ掛ける形で後半に話されることが、この小説で唯一、鹿児島に関わるものであると言えば言える。それと、小説冒頭で語られる「日本は滅びる」という思いの実質とが、関係し合うものであるのかないのか、読む者のかんがえに委ねるようにしてあるようだ。)
題の選択肢にも筆頭にあったように、作者みずから書いている如く、読む気の起こらない「三四郎」よりも、「青年」のほうが題としてよかったとおもう。(「本郷物語」でよいと誰もが思うだろう。)
議論の種になるところよりも見聞を広めるところが多いのが この本の良いところなので、このくらいにしよう。 謎が謎のままにされているところが多い。
知力と知性を別のもののようにぼくは扱ってきたが、無論、実際にはそういうことはないと、ぼくも思っている。ただ、中途半端な世界では、知力と知性をそうとう際立たせた対比において扱う必要があるので、そういう言い方になった。充分知性的な者が、それに見合う知力を持っていないことはない。実際、ぼく自身が、ソルボンヌの学位でそれを実証した。しかしここで注意しなければならないのは、知性の高い者は、じぶんの自然な知力を抑圧することが実際にある、ということであり、それがぼくの場合だったのだ。充分な知性を持っているぼくが漱石の「三四郎」を読んでいて感じたことは、ぼくはほんとうは知性が自立的に通用していられる最高の学問府でこそぼくらしくしていられる人間だということだった。世間に半分浸された中途半端な府ではなく、世間を脱して学問(知性営為)に集中していることがそのまま通用する最高の府のみが、ぼくがぼくらしく生きていられる空間なのだ。それは、世間での映りなど当然超脱している空間である。そして、学問はするが、学問の奴隷にはなっていない空間である。ほんとうに知性のある者どうしの語らいが、すくなくとも昔はあった。
そういう空間があったということだけでも、ぼくには支えと安寧になる。ぼくは、そういう空間の住人のように、知性の重さのあまり鈍重でも、ぼくらしく生きていていいのだ。日本にもそういう純粋知性空間が、すくなくとも過去にはあったのだ。
『 岩手県の南、一関を太平洋の方へ曲り車で三十分程走り峠のトンネルを越えると東山町松川がある。石灰工場の多い町であちこち採掘された山肌が露出している。宮沢賢治が亡くなる前勤めたタンカル工場の採掘場も保存され、側に 「石と賢治のミュージアム」 という記念館も建てられている。そのタンカル工場(東北砕石工場)の創立者が鈴木東蔵という人で、賢治を工場に招いた人である。そのご子息、故鈴木実先生は教育者で賢治の研究もしていた。実先生は谷川徹三氏と交友があり、谷川氏が大切にしていた高田博厚(私の師)作のアラン像に感動、谷川氏を通じて高田先生と識り合う。そして自らもアラン像その他を求め、又宮沢賢治や盛岡の新渡戸稲造の像を高田先生に依頼する事に奮闘する。賢治像は、花巻の賢治記念館やこの東山町の役場(今は一関市と合併し東山支所)の玄関等にある。新渡戸像は、盛岡市役所の脇、中津川のほとりにある。そんな訳で私も実先生とは自然に近づき、又色々お世話にもなり東山町には度々来ていた。
この松川を更に東へ十分ほど走ると高い岸壁の渓谷があり猊鼻渓と名付けられ竿であやつる和舟が行き交い、船頭さんが民謡など唄ってくれる静かで気持ちの良い観光地となっている。その川の少し下流に東山町の役場があり、十五年程前(一九九四年)新しい橋が出来、その親柱に彫刻をという話が町長より私のところへきた。何か横になっているものが良いというので小さなブロンズのエスキース等を見せると、一緒にいた企画課の藤野さんが東山町にも水に流された顔も手もない二十五菩薩があって横になった飛天などもあるという。何度も東山町に行っているのに初めて聞く話なので早速見に行くことにする。
松川の公民館の脇に古いお堂と新しいコンクリート製のお堂が斜めに並んであり、その新しいお堂のガラス戸のある棚に二十五菩薩の残欠がきちんと並べられていた。
まずトルソ(胴体)だけになってしまった像に目が行き、四十センチ位のものであるが、胸板も厚く、腹もふっくらとして堂々としている。古臭さを感じない立派な現代彫刻である。踊っているのか下半身しかない立像も二体ある。下半身だけでもその動作の喜びのようなものが伝わってくる。あぐらをかいている像も数体あり、又そのあぐらの部分だけのものも沢山ある。衣の襞の動きからか音楽でも聞こえてきそうな感じがする。宇治平等院の雲中菩薩を思い出す。中央に等身近いすべて揃っている本尊(阿弥陀如来)もあるが、これは何となく精気がなく、多分後に手が入ったのだろう。壁には藤野さんが言っていた横になった飛天が四、五点取り付けてある。顔も手もなく小さいが、生々としている。今度のモニュマンはこれを土台にしようとデッサンをしたり写真を撮ったりした。
これらは平安後期のものだそうで、おそらく平泉の彫刻群の流れをくむ、都の仏師がこちらに来て作ったものだろう。いわゆる浄土思想の色々な楽器等をたずさえ、お迎えに来る菩薩達なのだ。
ロダン、彼は古代ギリシャやローマの発掘された彫刻に惚れ込み、自らも収集した。そして顔や手や足もないトルソの美を発見、自らもトルソを作った。そしてブルデル、マイヨル、又高田先生も盛んにトルソを作った。「トルソ」という概念を我々に植え付けたのはロダンなのである。
私もこの松川のお堂に入った時は、和製のにわかロダンになったような気分であった。もちろんもしロダンがこのお堂に来たなら、間違いなく感動した事だろう。
家に帰り少ししか出来なかったデッサンと私の素人写真では心許ないので、雑誌に載っていた写真を写真家から取り寄せ横笛を吹いているのと花を持っている一対の飛天を作り上げた。初めての仏像、何か手ごたえは感じた。でもこれでよいのかという複雑な気持ちも残った。
その後ギリシャを旅しその余韻にひたっていた時、千葉県野田の名刹金乗院から連絡があり、観音像を作ってみないかという。伺って仏像の本や資料をお借りしてきた。又ちょうどその時やっていたガンダーラ展(ブッダ展)のチケットもいただいたので見に行く。もともとガンダーラ仏は大好きだったが、今回の展覧会は今まで以上にすっと入り込め堪能した。
ガンダーラ仏は古代ギリシャ彫刻が古典期からヘレニズム期に移りかけそろそろ甘さが出だした頃、あのアレキサンドロス大王がインド近くまでの大遠征により、ギリシャ彫刻と仏教とが結婚、衰えかけていたギリシャ彫刻が蘇ってしまうという現象をもっている。ギリシャ帰りの私にとってそういう歴史が強く実感出来たのだろう。日本の仏像もこのガンダーラから長い長いシルクロードを通り、又各地で色々な影響を受けながら奈良時代にたどり着いた。
仏像を作るのには、私にとって何か参考品が必要である。日本の仏像を参考にするのならその本のこのガンダーラ仏を参考にしたらと思い始めた。会場でカタログや写真を買い求め、前のカタログなども参考にし一対の観音像を作り上げた。東山町に続いて二度目の仏像作品である。作り終え、又作りながらもなぜか松川の二十五菩薩が頭に浮かび、又会いたいなとか、粘土で模刻出来たらな、などとぼんやり考えていた。役場の藤野さんに電話をするとすぐ段取りを取ってくださり、粘土や塑像台など色々と車に積み込み一週間の予定で出掛けた。別にはっきりとした目的があった訳ではない。
この二十五菩薩は岩手県の指定文化財なので作っている間町の人二人が替わりばんこに立ち会っていただいた。(しんどかった事だろう。)お堂は公民館が管理しているので、朝九時から夕方五時まで一日一個位のペースで一週間(月~土)みっちりと作り続け、七体の像を等寸に仕上げた。又夜はギリシャの旅の整理などをしていた。お堂で黙って仕事をしていると衣の襞などに遊びが見え始め、「少しくどいんぢゃないの」などと平安時代の仏師と話したりする事がある。でもしっかりとしたテクニック、そして手頃な大きさ、ノミが勝手自在に動いているようで生々としている。この生地の上に胡粉を塗り漆で固め磨きあげる。その上に平泉のように金箔などで化粧する。金箔が残っていることろはないが、胡粉を漆で固めた肌は少々残っている。ふとこれらの木彫が顔も手も足も付き金箔などできれいになっているのをはじめて見たら、はたして感動しただろうか、模刻をしようと思っただろうか、など色々考えながら作った。
奈良時代から平安期に入ると技術面も向上し、一木造りから寄せ木造りへと変わっていく。寄せ木造りとは木のひび割れを防ぐための策で、簡単に言うと彫り上がったものを半分に割り中をくりぬいてしまい又漆などの接着剤で張り合わせる。ここの菩薩もそうだ。小さな飛天達はムクであるが。技術面が向上するとだんだんとおしゃべりになり装飾的になってくる傾向がある。古代ギリシャの彫刻もそうである。ギリシャの彫刻史で言えば、飛鳥期がアルカイク期、白鳳・天平期がクラシック期、平安期はヘレニズム期、ざっとそうした感じである。平安後期のこの二十五菩薩は、水に流されてしまい細部がとれ表面も荒され余分なものがなくなってしまった。その結果彫刻のもつ本質的なものが浮かび上がってきたのだと思う。だから基は良く出来ていたのである。
でもこんなになってしまった像をこの地方の人はよくお堂まで建て保存してくれたものだ。お堂も作り直したり大変だったことだろうと思う。こうした行為に頭が下がり人間の美しさを感じる。そしてこれらの像は、喜びと美しさをいつまでも発散し続ける事だろう。
土曜日の午前中まで仕事をしたらもう身体が疲れきってしまった。でも車で運搬中急ブレーキをかけて像が倒れてしまったらおしまいである。勇気を奮って七体の粘土に石膏をかけ夕方何とか車に積み込んだが、もう腰がたたない。東京まで帰れるか不安であったが運転は座ってするもの。少しづつ疲れも取れていくようで、いつもよりスピードが上がっていくような気がした。関東平野に入ると風が強くなり時々ハンドルを取られる。台風が接近しているらしい。この一週間の幕にふさわしいなと感じた。
この一週間ほど充実した時間を送ったのは前にも後にも一度もない。私の一生の中でのモニュメンタルな時間であった。』
図録「沖村正康作品集IV 2009年の個展を記念して(三郷工房)」より
模刻 坐像 1998年 石膏 H37.0 W40.0
模刻 トルソ 1998年 石膏 H40.0
エチュード 坐像(横笛) 2009年 ブロンズ H28.0 W22.5
(同図録より)