高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

ヤスパース『哲学』III 第四章「暗号文の解読」3(第二部)

2025-01-24 02:02:30 | 翻訳

ヤスパース『哲学』III 第四章「暗号文の解読」第二部 古川正樹訳 2024.9.5~

 

(168頁)

第二部

諸々の暗号の世界

 

概観

 1.諸々の暗号の普汎性。— 暗号であり得ないものは存在しない。あらゆる現存在は漠然とではあるが振動し話し掛け、何かを表現しているように見える。だが何処へ向かって何処からであるかは定かではない。世界は、自然であれ人間であれ、星々の空間であれ歴史であれ、意識一般であれ、ただ現存在しているのではない。すべての現存在するものは、言わば人相学的に直観されるものなのである。
  世界定位的な知のいかなる専門領域にも納まらず、その時々の形像の関連〈内部脈絡〉として捉えられるようなひとつの全体を、記述する試み、この試みは、自然、植物、動物、風景の、人相学へと通じるものであったろう。さらに、歴史上の諸時代、諸文化、諸々の身分や職業の、そして、人間の諸々の人格性の人相学へと、通じるものであったろう。
 科学的に規定された諸目的のための叙述にとっては、方法というものがある。だが、人相学的な現存在把握にとっては、方法というものはない。人相学という名の許で行なわれていることは、むしろそれ相互の内で異質的である: 例えば、知の直観的な先取りであり、この知はその後、徹底的に非人相学的に、合理的かつ経験的に検証される。(169頁)そのほか、他の途の上でも接近可能な心的現存在の表現を了解すること。人類の歴史上の諸時代と諸集団の、史実的自然造形物と精神との性格を把握すること。人が諸事物を自分の心的生を立ち入って担うものとして理解する限りで、感情移入して名づける諸事物の諸々の気分。
 これらのすべてが既に表現であった場合でも、未だ暗号ではない。それはあたかも、表現の下には表現が、階層系列のなかに立っているようなものであり、この階層系列は、暗号が解釈し難く自己現前することで初めて止むのである。この場合、この暗号の自己現前とっては、人相学の曖昧な諸可能性とは区別されて、つぎのことが妥当する。第一に、暗号の自己現前においては、後になって知られるであろうような何ものも先取りされない、ということ。暗号の生は、それ自体はこの生とならないところの知に接して点火させられるので、すべての知はむしろ暗号をただ益々決定的にするのみなのである。第二に、暗号の自己現前は人間の心の現実の表現ではない、ということ。この現実は、その表現もろとも、むしろ全体として初めて暗号となるのである。第三に、暗号の自己現前は自然の諸形態の性格ではなく、人間の諸構築物の精神でもない、ということ。これら諸形態や諸構築物はむしろ初めて暗号となることがあるものなのである。第四に、暗号の自己現前は、感情移入による心的生ではない、ということ。暗号の自己現前は実存にとってはひとつの客観性であり、この客観性は、他の何ものによっても表現されず、ただそれ自身とのみ比較され得るのである。この客観性において語るのは超越者であり、単に高められ拡張された人間の心ではないのである。したがって、表現において理解可能となるものは、暗号ではない。理解可能にすることは、暗号文を破棄することを意味するのである。理解不可能なものをまさに理解不可能なものとして、了解可能なものを了解しながら、意味深長に形成されているままに見ることは、この理解不可能なものが透明となるとき、暗号を通して超越者に触れることを許すのである。
 2.諸暗号の世界の秩序。— 人相学は、現存在のその都度の具体性から〈に基づいて〉解読しようと努める。それは、一般的な諸命題を成果として得るためではなく、一般的なものを途として利用することによって性格描写へ至るためである。それゆえ人相学が真であるに留まり得るのは、その内容を秩序づける体系としてではない。諸形像の体系性は、ただそれらの外面的な現存在諸形式に関わるだけであろう。人は、現存在の人相学を論理化(logisieren)し、知へと格上げすることを試みたが無駄であった。その場合、人は見かけ上、科学的な洞察の諸客観のように、つぎのものを規則と計画の下にもたらすことができる。そのものは、しかしやはり、科学的研究の対象としては、即座に解消されるものであり、現存在全体としては消滅するものである。語ることによる了解行為という具体的な成果があり、その他、この了解行為の諸可能性に関する単に形式的な諸検討というものがあるのである。
(170頁)
 しかし、人相学的なものが暗号となる処では、この人相学的なものは、秩序づけられた知に変える行為にとっては、接近不可能である。この接近不可能性は、無規定的な多義性と具体的な全体性とのための人相学が単に接近不可能な〈近寄り難い〉ようにではない。この人相学的なものは、実存の根源から瞥見される故に、ただ現存在が在るのではなく実存が一役を演じるような処ではむしろ何処でもそうであるように、ここでも、いかなる路も知へ通じるものではないのである。
 意図された「暗号世界の秩序」は、したがって、いかなる概観によっても、暗号世界を支配はしない。暗号世界の秩序はむしろそれ自体、諸暗号として止揚するものであろう。諸暗号は、歴史的な充実性において、概観出来ない深さとしてあるものであり、一般的な現存在諸形式としては、諸々のカプセルとなるのである。
 にも拘らず、人が暗号世界の秩序を、哲学しながらの手探りで考察しようと欲するならば、それはひとつの自然な相互継起として現われる。世界定位のあらゆる現存在が暗号となる。自然と歴史の豪華さがそれである。それから、はっきりと開明された意識一般であり、これは、存在を分節化する諸範疇と共にあるものである。最後に、人間であり、人間は可能性として一なるものにおけるすべてであるが、けっして汲み尽くされないものである。
 a) 世界定位は、それ自体のためには、いかなる暗号解読も必要としない。暗号解読によっては、世界定位は世界定位としては拡張されることはなく、むしろ、それ自体において不明瞭となるという危険に陥る。というのも、世界定位は、現存在の暗号本性を批判的に分離することによってこそ、自らを展開してきたからである。暗号解読は、世界定位において妥当性を有し得るような最も僅かな知をも創りはしないが、世界定位で捉えられる諸事実は可能的諸暗号なのである。しかし何が暗号であり、いかにして暗号であるかを決めるのは、どんな科学でもなく、実存なのである。
 世界定位である科学が無ければ、形而上学は空想となる。形而上学はただ科学を通してのみ、諸々の立脚点と知識内容とを得るのであり、これら立脚点と知識内容とは、自らの歴史的状態のなかにある形而上学にとって、現実的な超越行為の表現として役立ち得るのである。形而上学的探求のほうからは逆に、私が現実の内で暗号を観ることによって世界定位が私にとって本質的に重要となる場合には、世界定位に弾みを与えるのである。したがって、超越者の探求は同時に、現実的なものを仮借なく知る意欲としてあるのであり、この意欲は、世界の内では決して満足に達しない〔科学的〕研究として自らを遂行するのである。暗号解読において観ぜられた超越者は、形而上学として直接に言表されると、気の抜けたものとなる。超越者によって私が充実させられるのは、私〔自身〕の現実的な世界定位においてであって、私に他の者がその世界定位に基づいて伝達するような、憶測的な形而上学的知によってではないのである。
 全方面的な世界定位が真の暗号解読の前提であり、真の解読は現実の内で起こり、この現実は(171頁)世界定位を通して判明となったものであるとしても、それでも、暗号解読は、私が自分の言うに任せる諸科学の諸成果に即して遂行されるのではない。そうではなく、私は現実自体において解読するのであり、この現実へと私は方法的知に基づいて還帰するのである。この方法的知は現実を私にとってそもそも初めて接近可能にするものなのである — 他方で私は現実の内では、前もっては盲目で運動しておらず、誤って彷徨していたのである。私が方法的に世界定位の知を具体的なものに即して遂行する場合にのみ、私は諸々の暗号を解読し得るのである。世界知と、超越することである解読は、そもそもの最初から関連し合っていたように、この二つの批判的な分離によって、真の連結が可能なのであるが、この連結は、諸々の効果や固定された諸事実や諸理論に即するものではなく、ただ、諸々の根元にのみ即するものなのである。
 科学的な世界定位は、規定的な諸観点の下に、自らの諸対象を孤立化する、つまりそれらを分割し、構成と仮定とによって、また還元によって、変化させる。諸々の測定可能性に即してであれ、撮影可能な諸々の直観性に即してであれ、諸々の特性指標の有限な数を伴った諸概念に即してであれ。
 実存が行なう世界定位に最初から随行しており、長きに亘って不明瞭な諸混同のなかで世界定位の代わりをする暗号解読は、その時々に全体であるものを拠り処とし、直接的な現在を、還元されない充実を、拠り処としているのである。
 このような全体を形像的に客観化することは、第二言語の意味での象徴であり得るのであるが、この客観化は像としては、知の可能性としての諸事象から欺瞞的に遠ざかることとなるのである。というのも、この形像的なものは、憶測的に知られた対象となると、世界と自我との間に押し入り、世界を世界定位にたいして霧で覆い、空想的となった諸像を直観することで自我を破滅するに任せるからである。
 世界定位の批判的な浄化を以て、暗号解読も初めて自己意識的となり、純粋となるのである。今や暗号解読が自らを支えるのは、諸々の事実によってであり、諸事実と諸方法の鋭利さを通して可視的となる、世界定位の諸限界によってである。すなわち、決して消えることのない、現実的なものの残余によってなのである。だが、暗号解読が再び直接的全体性を創るなら、それは世界定位における客観的な意義のいかなる要請も無しにであり、むしろただ、象徴的性格を有する形像的直観行為としてのみ、そうするのである。
 暗号解読は根源的に、個々の現実性に即している。とはいえ、世界知が可知的なものの百科全書的な統一へと押し迫るならば、暗号解読はあらゆる現実的なものの直接性の全体へと押し迫るのである。暗号解読は、特殊な(172頁)諸現実性の孤立存続を得ようとするのではなく、あらゆる現実性に開かれてありつつ、直接的な超越行為の意識を、歴史的に接近可能となった世界の全体において得ようとするのである。暗号解読は、諸事実性としてのいかなる対抗審議をも疎かにしようとはせず、諸現実性の単に偶然な系列を、盲目的なまま、他の系列に抗して、ひとつの欺瞞的な像のために選び出そうともしない。
 それゆえ、暗号解読の諸原則は、つぎのようなものである: あらゆる現実的なものを知ろうと欲すること。そして: 具体的現実性におけるこの知を、現前的に、自ら方法的に遂行しようと欲すること。あるいは他の言い方では: 全的に居合わせること、そして、一般的な諸可知性として挿入された諸成果によっても、以前の暗号解読の硬直化した諸象徴として挿入された諸像によっても、自らを諸事物から遠ざけておかないこと。
 暗号としての現存在は、全く現前的なものであり、絶対的に歴史的なもの、そのような歴史的なものとして「奇蹟」であるところのものである。奇蹟は、外面化され合理化されると、自然諸法則に抗して生じるか、自然諸法則無しで生じるものである。しかし、生じるすべてのものは、現存在としては諸々の法則性に従って尋問されねばならないのであり、これらの法則性の結果として必然的にそのように生じなければならなかったものなのである。自然法則に反してあるいは自然法則無しで生じるであろうようなものは、強制的に固定化され得る事実としては、決して現われないであろう。このようなことは、そこにおいてのみ私にあらゆる現存在が現われるところの、意識一般の開明可能な本質に従うなら、あり得ないことである。これに対して、直接に歴史的に現実的なものは、知られているものではなく、単に事実であるのでもない。この現実的なものは、自らの無際限性のおかげで残り無く一般的に知られるものに解消可能なのではない。たとえ私がつぎのことを疑わないとしても。すなわち、私が研究による認識に努める限りにおいて、すべては的確な諸事物を以て、即ち洞察可能な諸規則と諸法則に従って生起する、ということを疑わないにしても。それでもこのことは、貫通し得ない現前を持つ現実性が暗号として解読可能となるということと、矛盾しないのである。暗号として、現実性は奇蹟、即ち、「此処と今とにおいて起るもの」であり、このものは、一般的なものに解消可能ではないけれども決定的に重要である限りにおいてそうなのである。なぜなら、このものは、超越する実存にとって、存在を現存在において開示するからである。したがって、あらゆる現存在は、私にとって暗号となる限りでは、奇蹟なのである。 
 暗号においては、実存的行為の無制約性におけると同様、問うことが止む。〔これとは反対に〕無際限なものに陥る問いというものがあり、このような問いは実存的な衝動を欠いている故に、空虚な知性性なのである。問うことは我々にとって真正な空間を有し、世界定位においては限界が無い。しかし問うことは暗号を前にしては消え去る。というのも、尋問されるようなものは、即座にもはや暗号ではなく、暗号の鞘(さや)であろうし、(173頁)単なる現存在として没落であろうから。ただし問いと答えがそれ自体として、そこにおいて超越する暗号解読の材料となるなら別であるが。問うことが端的に最後のことであるなら、いかなる暗号ももはや見られない。問うことは、自らは解離されて客観化作用となる行為としての思惟において、最終のもとなるのである。しかしこのような思惟は、意識一般にのみ由来するのであるから、それ自体は最終のものではない。問うことは、暗号に面する実存の「此処と今」に現前するものを回避することのようであり得るのである。
 b) 意識一般は、ひとつの既に超越する行為となった存在形態であり、この存在形態を私は世界定位を通して探究するのではなく、自分自身の行為において私にたいして確証するのである。自分自身を思惟する、思惟のこのような行為は、その能動性とその論理的構築物において、暗号となるのであるが、この暗号は、世界定位において現存在として接近可能なすべての存在とは、異質であるような種類のものである。
 c)人間は、世界定位にとって現存在であるが、同時に意識一般かつ可能的実存である。人間とは何であるかは、存在知のどんな地平においても問われ、答えられるのであり、究極的には人間の個別的存在という暗号において、その人間の超越者のなかで顕らかとなるのである。
 
 

自然

 
 自然は、内的には接近不可能でありながら私に接近してくる現存在として、空間・時間において〔諸要素間で〕外的に引き合いつつ自らの内では概観し難く関係づけられている現実性である。しかし自然は同時に、圧倒的な力で自らの内に私を閉じ込め、自らを私にたいして、私の現存在の特定のこの点へと集中し、可能的実存としての私にとって超越者の暗号となるものなのである。
 1.他者としての、私の世界としての、私自身としての、自然。— 自然は一たびは私にとって端的に他なるものであり、私ではなく、私無しでも存在するものである。自然はそれから、その内に私が存在する私の世界として存在する。自然は、終わりに、私に与えられているものとしての私が私の暗い根拠である限りにおいて、私自身である。
 端的に他なるものとしての自然は、それ自身の根に基づく現存在を有する。恐竜類が熱帯の湿原で跳ね回っており、まだいかなる人間も存在していなかったような、何百万年も前に存在していたものは、やはりひとつの世界だったのである。我々にとってその世界は単に過去であるが、しかし、その残滓を、人間の世界現存在の創造と共に同時に、嘗てそれ自体が現在であったこと無しに、永遠に過去のものとして生み出された何かとして見做すことは、馬鹿げたことだろう。(174頁)人間存在のために自然を一度全滅させることは、自然の至る処から語りかける自然自体の存在を奪うことである。この他者存在は我々に、ただ自らの諸局面を与えるのみであって、自らの自己存在を与えはしない。だが、それ自体は理解不可能でありながら、自然は我々にとって、それでも依然として我々の世界なのである。
 自然は、自然の内での私の行為を通して、私の世界となる。この行為が努めるのは、一方では、自分の現存在目的のために自然を奪取することであり、領域を設定した単純な手仕事と手工業から技術的な支配に至るまでの手段を用いて自然を加工することである。あるいは他方では、活動的労働は、自然を我が家とする手段であり、それは私が自然を利用しようとする場合ではなく、観照しようとする場合なのである。私は彷徨い、旅行し、自然と特別に親近な私の場所を探し、あらゆる限界を越えて進み、自然を完全に知りたいと思う。自然においては、端的に他のものと、私の世界として自然であるものとの緊張は、止むことはない。どんなに支配しても私は自然に依存したままである。自然は私へと方向づけられている観があり、私を担い、私に仕えている観がある。しかし私は自然にとって明白に全くどうでもよいものでもあるのである。敬意を懐くことなく自然は破壊する。
 私は自らが自然である。しかしただ自然なのではない。というのも私は、自分を自然に対峙させ得るからであり、私の内なる自然を、私の外なる自然と同様に制御し、変貌させ、自分のものとして引き受けることが出来、この自然において我が家に居るようであることが出来るからであり、あるいはこの自然に負けたり、この自然を隔離して排除したりすることがあるからである。自己存在と自然存在とは、互いに属し合うものとして対峙し合っているのである。 
 2.自然の暗号存在。— 自然への愛は、暗号を、測定可能で普遍妥当的ではないが、あらゆる現実において共に摑み取られ得るような存在の、真理として観ずる。路の水溜り、太陽の日の出、虫の幼虫の解剖、そして地中海の光景、こういったものにおいては、科学的研究の対象としての単なる現存在を以てしては汲み尽くされない何かがある。
 暗号として自然は常にひとつの全体である。差し当たり、風景として。大地現存在の規定的状況としての風景において、私はその都度存在しているのである。それから、〔自然は〕一なる世界全体として、私が思惟し表象する如き一つの測り知れない宇宙である。次いで、〔自然は〕特殊な諸存在者の自然諸領域であり、すなわち、諸々の鉱物、植物、動物の諸形態、そして光、音、重力といった基本的な諸現象なのである。最後に、〔自然は〕ある環境の内での現存在の諸様態としての諸々の生命現象の領域なのである。全体は常に、概念的に理解され説明され得るものより以上のものなのである。
 暗号としての自然は、歴史的に特殊な形態において、私の現存在が大地に結びついていることであり、そこにおいて私が生れ(175頁)自分を選択したところの自然の近さである。そういうものとして自然は、交わりを欠いた暗号である。なぜなら、この暗号において自然は、私にとって唯一的に、それゆえ最も強烈に、血縁的存在——私の魂の風景——として存在するからであり、かつ、これとは別に、全く疎遠なものとして存在するからである。
 ここから円環は更に引っ張ってゆく。私は、諸々の場所の精神にたいして開放的であり、この精神は、私にたいして、交わりのなかで、過去と現在から私に近付いて来る他の実存たちの〔各自の場所への〕根づきを伴って立ち現れるものなのである。私は更に、見知らぬ風景に開かれている。未だ自然が人間によって触れられていない処では、私は自然のなかでの孤独の内実を当てにしているのである。地球は故郷となり、旅することへの衝動は大地の諸形態のなかに諸々の暗号を探すこととなるのである。
 自然の歴史性は、限界無きものの中へと拡大可能ではあるが、風景の絶えず新しい諸々の歴史的一回性において凝集される。しかし、〔自然の〕類型が一般的に観ぜられる程(北海の、低湿地と荒野と沼地を伴った海岸地帯。ホメロス風の海の光景。〔イタリア南部地方の〕カンパーニャ。ナイル川。山岳地帯と荒地。極地世界。ステップ地帯および熱帯地方…)、類型は暗号としては非現実的である。ただ、現前的なものの無限性に立ち合う場合にのみ、暗号は開顕可能なのであり、この暗号に諸々の類型の抽象はただ目醒めさせつつ導いて行き得るにすぎないのである。したがって、諸々の可能性のいかなる俯瞰も存せず、そういった俯瞰があるとすればそれ自体は諸暗号を自らにとって遮光されたものにしてしまうであろう。自らの場所で深化すること、自らの風景に忠実であること、疎遠なものが現前的なものとなることに準備すること、これらのことにおいて、自然の歴史的な言葉が聴かれるのである。
 私は自然から語り掛けられているが、自然は問われると押し黙ったままである。自然はひとつの言語を語るが、そのことによって自分の姿を現すことはなく、あたかも言い始めると言い淀むかのようである。不可解なものの言葉であるからといって、この言葉はその不可解なものの愚かしい事実性であるのではなく、暗号として、その不可解なものの深みなのである。
 暗号においては、客観的な作用無しの現前的現実性の意識がある。暗号において経験されるものは、継起系列において認識可能なものとして経験的に現存在するのではなく、諸原因に依存しているのでもなく、内在次元における超越者の純粋な自己現在なのである。
 3.自然哲学による暗号の解読。— 自然の暗号が何であるかを一般的に言うことを、古来、自然哲学は敢えて試みてきた。自然哲学は自然を人間に理解し得るように努めてきたし、それによって、この魂を吹き込まれた親近さとは反対に、自然の近寄り難いものを、他なるものとして感じさせることにもなったのである。この他なるものは人間の諸可能性を超えて崇高なものとされた。(176頁)自然があたかも人間にとってのみ存在するかのように、自然が人間にとって思念されることは不可能であること、〔そして〕自然が自ら自身の内で充足することもまた不可能であること——このような見極め難さへと、思弁的思想は突き進むものであった。これらの思弁的思想は自然を先ず——あたかも自然が自らの内に閉じられているかのように——「一なる全生」(das eine Alleben)として観じていた。これらの思想はその後、世界定位の知において自然の統一性が分解するに任せたのであり——その結果、自然は何か他のものを示すように見えることとなった——。終極的に、これらの思想は自然を、新しい統一性において、自らの内で分節化された階層系列として、そして自然自体を包越的な階層系列において、思惟するようになったのであり——、その結果、自然は他のものの中で止揚されることとなったのである——:
 a)全生とは、「自然は生成の陶酔である」、ということである。何処から何処へと問われることもなく、自然は終わり無き去来であるような存在なのである。この存在は永遠に自らの酩酊のなかに保たれるのである。人格も運命も知ること無く、自然は、自らの創造行為の大河への帰依であり、この大河の熱狂は、無意味なものの苦痛と一つに絡まり合っているのである。つまり、自然は苦痛の車輪なのである。この車輪は、何の成果も無く、自分を自分自身の回りに回転させているように見える。自然は、いかなる本来的時間でもない時間である。なぜなら、絶え間なき産出と貪食とにおいて、決断を欠いた無際限性が続いているからである。あらゆる個別的なものは、浪費の測り難さにおいて無のようである。自然は、自らの欲することを知らない渇望である。自然は生成の歓喜として、くすんだ拘束の嘆きとして、見遣る。それゆえ、自然の暗号は一義的ではなく、むしろ両義的である:
 自然は、諸力の均衡においては、存立することの安らぎへと自らを浄化する。私がこのような自然に従うとき、静かな調和が私を掬い上げるかのようである。自然は、様々な形態を充満させて汲み尽くせない意味深長さで生成しつつ、自らの現存在を分節化したのである。そして自然はあらゆる生成したものを、仮借なく盲目的に破滅させたのである。それにも拘らず、自然は限り無く慰める存在として現象すること能うものである。すなわち自然は偉大な創造する生命であり、破壊され得ず、現象において永遠に新しく、世界霊魂の常に同じ根源力なのである。全生は自らに私を引き寄せるように見え、私を魅惑するのであり、私をその勢いよく流れる全体性の中へと溶解するように見えるのである。動物および植物の領域における自然の諸形態は、私と血縁関係があるかのようである。だが自然は応答しない。それで私は苦しみ、反抗するのである。ただ、庇護されているという感じと、自然への憧憬が存続するのみである。
 自然の近づき難さは、別の可能性となる。すなわち、私を脅かすところの、束縛を解かれた諸要素であり、絶対的な疎遠性の勢いであり、動物の諸形態の深淵である。この諸形態は、私が自分をそれらとの類縁性において束の間同一視させる限りは、私の恐るべきあるいは笑うべき歪んだ形態となるのである。(177頁)全生は、ひとつの可能性に従えば、私が信頼する母親のように生成する。他の可能性に従えば、私にとって恐ろしい悪魔のように生成するのである。
 安らぎを欠いているというのが、全生の一面である。岩塊のような諸々の形の硬直性は、単に硬化した不安静なのである。微かに光ったり、きらきら光ったりすることの無際限さ。光の前での、あるいは太陽に照らされて微光を発する岩塊の小場所の前での、波打ち。雨の雫の跳躍と、露のなかでのそれらの輝き。無数に運動させられる水面上での色彩の循環と絡み合い。海岸に打ち寄せて砕ける波。立体性で形成されながら一瞬もじっとしていない自らの現存在を有する雲。広さと狭さ。光と運動。——これらの何処においても、自然存在のこのような表面は、魅惑するものであるとともに破滅させるものである。 
 b)自然の統一性の瓦解: 自然は全生としては一なる自然であると見えていたが、この統一性は知にとっては特殊な形態において私にたいして生成する: 自然の普遍的な法則性としての機械仕掛けの統一性があり、ここでは一切は数、基準、重さに従って把握可能である。形態学的諸形態の統一性があり、この諸形態は自らがその都度、可能な諸々の形の一全体なのである。各々個別に生きているものとしての生命の統一性があり、この個別的生命性は自らにおいては無限な全体なのである。ところで、自然の統一性は、まさに、何か或る規定的な統一性をこのように明確に捉えることによって、瓦解するのである。全生〈全き生〉という統一性は、思惟されたものとして存立もするのではなく、ただ、ひとつの統一性という暗号なのである。この統一性は、直接的な〈媒介されない〉意識にとっては、ひじょうに自明的に思われることがあるので、自然である一なるものというこの暗号に固執しないためには、この統一性が思惟されるのは不可能であることを洞察する必要があるのである。自然科学的に規定的となった知は、自然の裂散性(Naturzerrissenheit)という暗号が判明となるようにするのである。
 c)段階系列: 全生の統一性が瓦解していると、統一性は思弁的思想において再び探求される。思弁的思想は、自然の内で異質なものを、自然諸形態の歴史的生成の段階系列において束ねるのである。この自然諸形態は、無時間的な系列として(あたかもこの諸形態が相互の上に打ち建て合い、産出し合うかのように)、重量と光との、色彩と音との、水と大気との、結晶の諸形態の、植物と動物との、諸領域において、思惟されている。無時間的発達の思想は、自然現存在の段階系列において、結合された状態からの解離の増大を見、内面化と集中化の増大を、そして可能的な自由を見るのである。その生成はその場合、時間的で有目的的な発展として見られる。そしてそこにおいては、失敗した試みも、怪奇で(178頁)不条理な諸目標も見られ、これらを自然自体が持っているように観ぜられるのであり、そしてこれらが再び、自然がそれ自体において一なるものとして完結可能であることを不可能にするのである。
 ここから、ひとつの包摂的な段階系列が、存在の暗号として考案される。この暗号においては、自然は〔全体の〕一部分であり、この一部分は自分から後方へ、そして前方へと方向を示すのである。自然において、後ろ向きには、「自然の根拠」が、超越者の接近不可能な深みとして考え出され、この超越者から、現存在が自然として可能となり、その後に現実となるとされるのである。自然において、前方を望んでは、自然から「精神」として生成するであろうところのものの萌芽が見られる。自然において、既に「精神」が輝いている。この精神は、後になると、自然から出て、精神自体として突発出現するだろうが、自然においては〔まだ自然に〕結びつけられて無意識なものとして、暗号において〔のみ〕可視的なのである。精神は微動しているが、自らを見いだすことは未だ出来ない。したがって苦悩なのである。精神は自分の現実性の基盤を自らに準備する。だから歓びなのである。自然は精神の根拠であり、精神は既に自然の内に存在する。同様に、精神が現実的である処では常に、自然は尚も精神の内に存在しているのである。
 芽吹く精神としての自然という暗号においては、そのうえ、精神の媒介において後に実存の自由となるものが、既に無意識的現実性として現前しているように見える。意識を欠いた観想的創造が、計画的悟性無しの計画としての自らの道を行くのである。自然の内には、計画以上のものが、理性的な無意識性の深みを通して存在するのである。このものは、自然が途方に暮れてしまうように見える時、計画以下であり、その場合、自然は、例えば新たな現存在諸状況における生がそうであるが、突然に適応するはずなのである。自然という暗号においては、理性と魔性とがあり、理性とは機械仕掛けであり、魔性とは諸形態の創造と破壊なのである。
 4.自然の諸暗号にとっての一般的諸定式の欺くものと乏しいもの。— 諸暗号の諸定式は、自然に関する規定的知のあらゆる諸様態を通して内容的に充実され得る。この知が知として思念されているのではなくて、この知において把捉される事実性が存在の言葉として思念されている限りにおいてはそうである。だが常に、自然の暗号の質料は、直観的なものであり続ける。この直観的なものは、自然が私の諸感官に私の世界において出現する仕方なのである。自然に関する知は、直観的像へと遡行変換されることで初めて、再び語り掛けるものとなる。そのような場合が、アインシュタイン的世界の屈曲空間の何とか認識可能な広がりが、根源と目標において暗黒なままの途方もない、世界全体の運動として、自らの内に閉じられない世界の限界表象となる場合である。このような限界表象は、つぎのような問いによるのである、すなわち、それを超出して何が運動の根拠なのか、そして、何の内にこの屈曲空間はあるのか、という問いである。
 しかし、自然の暗号の思弁的諸定式は——自らの直観的な充実に関してではなく、自らの本来的意味に関しては、諸科学の進歩における諸々の規定的自然認識から独立しているのであるけれども——経験的現実を認識するのだという要請と共に現われる場合には、世界定位的知と混同され得ることによって、欺くものである。というのも、それらの定式によっては、どんな種類の世界認識も生じないからである。それらの定式が更に、自然に関する斯く斯くの知に基づいて、ある行為へと誘導する場合には、ある魔術的な操作が或る望まれるものを産出するはずだとされるのである。この場合、その産出は、思惟された諸暗号(例えば賢者の石の形をとった全生とか、しまいには、特殊な秘薬の形をとった全生など)が、世界の内で作用する諸力のように利用されることによるのである。遂には、混同から、科学的な、すなわち個別的で相対的な世界定位の価値を、否定する結果となる。この世界定位は、たしかに規定的ではあるが個々別々で不充足な知であり、これと比べて、全体に関する一方の憶測的な知は、無限に卓越しているように見えるのである。しかし私が世界の内で行為によって何事かを達成しようと欲する場合、私が成果を挙げるのは、ただ、私が個別的で方法的な知を限界の意識をもって計画的に予測しつつ適用するに応じてのみである。化学と生物学を通して私は、耕地から採れるものを採ることを学ぶ。これを学ぶのは思弁的諸思想での暗号文の解読を通してではない。医療科学を通して私は、諸々の感染病と闘い治癒することを、諸々の傷や腫れものの外科学的処置を、学ぶのであって、精神感応的な手段やまじない、その他の、全生に関する憶測的知に基づく方法を通して学ぶのではない。
 諸定式は、さらに、内容に乏しいものである。というのも、自然のあらゆる暗号は、現実の自然の歴史的現前においてのみあるからである。このような自然は私にとって「此処で斯くある」ものなのである。暗号を私が読むのは、私が自然の或る規定的な領域で、その領域の生と、年月かけたあらゆる天候のなかでの自分自身の諸活動を通して、知り合いになる処においてである。そのようにしてのみ私は、自然の生と融合するのである。これは、私が特定の場所に在るものとしての自然の生と付き合うことによるものなのである。私の観察と企画実施との諸々は、独特のあり方で自然と共在することによって、自然との間に他のものを介入させること無く、規則と機械仕掛け無く、為されて経験されることで、私を人間世界の外へ運び行くのである。それはまるで、近寄り難い前史時代に舞い戻るようなものであるが、自然科学的に可能な知を越えゆく途上においてなのであって、この知が、私の経験し得るものを初めて私に開くのである。その場合、私は全諸感覚をもって自然を把握するのであり、あらゆる可視的なもの、聴取可能なもの、嗅ぐことのできるもの、触れることのできるもの〔の秘密〕が、私に打ち明けられるのである。(つづく)
 

 
 
 
 
第二部:諸々の暗号の世界(168頁)
概観(168頁)
1. 諸々の暗号の普汎性 —(168頁) 2.諸暗号の世界の秩序 —(169頁)
自然(173頁)
1.他者としての、私の世界としての、私自身としての、自然 —(173頁) 2.自然の暗号存在 —(174頁) 3.自然哲学による暗号の解読 —(175頁) 4.自然の諸暗号にとっての一般的諸定式の欺くものと乏しいもの —(178頁)
 




(以降、隔週更新としたいと思います。訳者)
(一月は急な仕事で この連載を休ませていただくつもりです。)



ヤスパース『哲学』III 第四章「暗号文の解読」2

2024-09-02 15:41:25 | 翻訳

ヤスパース『哲学』III 第四章「暗号文の解読」2

2024年

( ヤスパース『哲学』第三巻「形而上学」第四章「暗号文の解読」 の拙訳の紹介です。超越者の暗号について語られています )

 
〔 ヤスパース『哲学』III 第四章「暗号文の解読」1 の続き 〕
 したがって、私が暗号文の中に迫り入るのは、研究による洞察や、収集行為と合理的我有化を通してでは、未だないのであって、このような材料と共に初めてではあるが、実存的な生活の運動を通してなのである。第一の言葉の経験は、ただちに、可能的実存が自分自身を投入することを要求するのである。この経験は、手許に運んでくることが出来て誰にでも同一なものとして表示可能であるような経験ではない。というのもこの経験は自由を通して初めて獲得されるのであるから。この経験は、体験のような随意的直接性ではなく、暗号を通しての、存在の反響なのである。
 すべてのものが暗号となり得るのなら、暗号である〈暗号存在〉とは、何か任意なことであるように見える。暗号存在は、真理と現実を持つ場合には、検証可能なものであらねばならない。世界定位において私が検証する場合、それは、私が何かを(151頁)知覚可能なものにしたり、論理的に強制的なものにしたりすることを通してであり、私が何かを作り上げて成し遂げることを通してである。実存開明において私が検証する場合、それは、私が私自身および他者とつき合う仕方を通してであり、そのつき合い方において私自身を確信している仕方を通して、つまり私の行いの無制約性を通して、私が飛翔において、愛と憎しみにおいて、自己閉鎖と自己不随意において、内的に経験するところの諸々の運動を通してなのである。しかし、暗号の真理を私は端的に検証することは出来ない。というのも、暗号の真理は、言表されたものとしてはその客観性において一種の遊戯[ein Spiel]だからであり、この遊戯は妥当性へのいかなる要請も為さず、それゆえまた、いかなる正当化も必要としないからである。私自身にとっては、この暗号の真理は、いかなる単なる遊戯でもない。
 私が暗号を解読する処では、私は責任を負わされている。何故なら私は暗号を私の自己存在を通してのみ解読するからである。そして私の自己存在の可能性と真実性とは、暗号解読の仕方において私にたいして示されるのである。私は、私の自己存在を通して検証するのであり、そのためにこの〔私の〕自己存在自体よりほかの基準を持つことはない。この自己存在は自らを暗号の超越者に接して認識するのである。
 このように、暗号文の解読は、内的行為において遂行される。私は自分を絶えざる没落から救出しようと努め、自分を手中に収め、私から生じる決断を経験する。だがこの自己生成の過程は超越者への傾聴と一つであるのであって、超越者無しにこの過程は存在しないだろう。私の行為において、抵抗、成果、不随意そして喪失において、最後に、これらすべてを掬い上げて再び制約するところの私の思惟において、私は、私がそこにおいて暗号を聴取するところの経験をするのである。生じるところのもの、そしてその生じるところのものにおいて私が為すところのものは、問うことと応答することであるようなものである。私は、私の身に起こることから聴くのであるが、その起こることにたいして私が態度をとることによって聴くのである。私が自分と格闘し、諸事物と格闘することは、超越者を求めるための格闘なのであり、この超越者のみが、此の〔特定の〕内在者において暗号として私に現象するのである。私は、事実的世界経験の感性的現前の中へと、勝つか屈服するかの現実的行動の中へと、押し入ってゆく。なぜなら此処においてのみ、存在するところのものに私が傾聴する領野があるからである。
 存在は、万人が知り得るものであろう、と思うことは、愚かなことである。人間たちがそれであったところのもの、彼らが超越者をそういうものとして確信していたところのもの、彼らが超越者で充実させられていた仕方、彼らにとって本来的現実はどのような現実を意味していたかということ、そのために彼らはどのように内面的に生きたかということ、彼らは何を愛したかということ、これらすべては決してひとりの単独的個人が現前的に摑み取り得ることではないであろう。いかなる仕方でも存在は万人にとって〔同等に〕在るようなものではない。自分〔自身〕ではない者にとっては、すべては暗黒なままに留まるのである。
 そのようにして私は超越者の暗号文の解読において、私が傾聴するところの存在を摑み取るのであるが、それは私がその存在のために闘うことによってなのである。なるほど私はただ(152頁)超越者の存在の傍らでのみ、本来的存在の意識を持つのであり、ここでのみ、私にとって安らぎはあるのである。しかし、私は絶えず再び闘いの不安静のなかにいるのであり、独り打ち捨てられて失われた如しなのである。私が存在をもはや感知しないならば、私は私自身を失っているのである。
 哲学的な実存は、隠れたる神にはけっして直接に近づかないという態度に甘んじる。私が暗号文のために準備している場合に、暗号文のみが語るのである。私は哲学しつつ、私の可能性のために〔自ら〕全力を注ぐことと、私の現実性が〔私に〕贈られることとの間で、浮遊状態にあり続けるのである。それはひとつの交際、私自身と超越者との交際であるが、それがただ稀にのみであるのは、あたかも暗闇の中でひとつの目が光るかのようである。日常的なものは、あたかも無であるかのようである。人間は、自らの不気味な寂寥のゆえに、もっと直接的な接近を、諸々の客観的保証を、確かな支えを求め、祈ることで言わば神の手を摑み取り、権威へと向き直り、神性を人格的形態において見るのである。この人格的形態として神性一般は初めて神なのであるが、その一方で神性は無規定に遠いままなのである。
 2.実存的観想。— 哲学的な打ち捨てられた状態において〔も〕、実存的な観想が、絶対的意識に基づいてあり続ける。この観想は祈りではない。祈りはむしろ哲学することの限界であり、哲学的には近づき難く、それゆえ疑わしいものである。しかしこの観想は夢想[Phantasie]として、可能的実存の目なのであり、可能的実存の能動的な闘いに投入されて、路の開明と充実となるのである。
 現存在の現実性は、意識一般の内で、世界定位における諸対象へと解消された。それでもやはり夢想は、合理的に解消されてはいない現実性のなかで、そして更に再び、この現実性〔そのもの〕の解消のなかで、存在を観るのである。それは、あたかも事実的な存在が現存在の背後に嵌まっていて、現存在から空想的に推論されるかのようにではなく、存在が夢想にとって、暗号において直観可能な仕方で現前するようなふうに、観られるのである。
 私は、存在が何であるか、私がどのように現存在を知るのか、知ることは出来ない。私は、私が現存在の象徴性格を超出しない限りで、現存在を暗号としてただ解読することが出来るだけなのである。私は、現存在を世界定位において諸々の概念を通して認識するが、存在を現存在においてただ夢想を通してのみ解読するのである。夢想はつぎのような逆説である:すなわち、実存は、何であれ現存在するところのものをもって存在の一切と見做すことが出来ず、超越者の内に〔こそ〕自らを保持するために、現存在のあらゆる確実なものそれ自体からは自らを解離する、という逆説なのである。たしかに、哲学的夢想も諸概念を使用するけれども、その諸概念はこの夢想にとって、現存在の構築物の建造石材ではないのである。この夢想は諸概念をこの諸概念自体として思念してはいない故に、この諸概念も夢想にとって、すべてのものと同様、暗号となるのである。このように現存在を透明なものとして見いだすことは、観相学的な直観行為のようであるが、(153頁)しかしこの行為は、知識という形を目標として求めて、表徴から「根底に存するもの」へと推量してゆくような、粗忽な観相学〔の行為〕なのではなく、真の観相学なのであって、このような観相学が『知る』ところのものは、この観相学にとってただ直観行為においてのみ在るのである。暗号において私は、私自身の存在の根と関連しているとはいっても私と一つにはならないものを、存在として私に対峙させて持つのである。私が真実であるのは、目的を追求したり現存在の利害関心に尽くしたりせずに、私が私自身として暗号において在ることによってなのである。
 観相学的像と比較できる、存在の諸暗号の現実性は、与えられても創られてもいるものである。与えられているというのは、この現実性は捏造されるのではなく、また、主観性の空虚から出来するのでもなくて、現存在の内で初めて語るものだからである。創られているというのは、この現実性が客体として強制的かつ普遍妥当的で、万人に同一なのではなく、実存という基盤に基づき、実存の存在接近として、直観する夢想の内に現存するからなのである。心理学的に心の一産物として理解されるのではなく、実在的-対象的に現実性として諸科学を通して研究されるのでもなく、暗号は、ある存在が暗号のなかで語るかぎりは、客観的であり、〔しかし同時に〕主観的であるのは、〔人間の〕自己が自らを暗号のなかに反映させるからである。ただしこの自己は自らの根元において、暗号として現象する存在と関係づけられているのである。
 暗号の内に私は留まるのである。私は暗号を認識するのではなく、私を暗号の内へと深化させるのである。あらゆる暗号の真理は、具体的でその都度歴史的に充実させるものである直観[Anschauung]においてある。自然において私にこのような存在が自らを啓示するのは、ただ、私が、まったく一回かぎりの諸形態を、まさしく此の場において斯くあるように現存在するもののもつ、全然一般化されえない親密性[Intimität]として、私に語るに任せる場合のみである。
 暗号文の解読は、時間の内なる現存在に差し向けられている。この解読は、この現存在を蒸発させてはならない。というのも、そうなると、この解読行為は、現実性とともに存在をも取り逃がしてしまうであろうから。この解読は、現存在を存立するものとして、世界定位での研究がそうするように固定化してもならない。というのも、そうなると、この解読行為は、現存在としては出会われない自由もろとも、超越者への路を失ってしまうであろうから。実存的夢想にとって問題なのは、むしろ、存在するあらゆるものを、自由によって貫通されたものとして把捉することなのである。暗号の解読は、ひとつの存在知の意味を持つのであり、この存在知においては、現存在としての存在と自由としての存在とは同一となる。この同一化は、いわば、夢想の最も深い眼差しにとっては、これらの存在の一方だけではなく、両方のものが根拠であるためなのである。
 思弁的思想は、伝達可能なものとなった暗号文である。この暗号文は解釈するが、その解釈行為は、存在を了解する行為ではまったくなく、(154頁)了解行為のなかで、存在実体の、本来は了解不可能なものに触れることなのである。それゆえ、私がただ了解するだけの思弁的思想を、私はつぎの場合には了解していないのである、すなわち、私がその思想を通して、存在である理解出来ないものに突き当たることのない場合である。その存在を通して、また、その存在と共に、私は本来的に存在するのであるが。私は思想的な言葉を媒介とすることによって了解をするのであり、この媒介において私は、何処で私が理解不可能なものに出会ったかを、私にたいして理解可能にするのである。しかしこの了解行為は、無限の前進の最後に完全に概念的把握が出来るようになるものを、漸次的に概念把握してゆくことではない。そうではなく、〔この了解行為は、〕了解可能と了解不可能との対立の彼方で存在として存するところのものを、より一層決定的に顕現させることなのである。〔そして〕この存在は、了解可能性の内で消滅しつつ現象するのである。実存の自己顕現は、了解行為において、理解不可能なものに突き当たり、そしてこの二つ〔了解行為と理解不可能なものとの出会いと〕において、存在に突き当たるのである。了解行為は、理解可能なものが存在と見做される場合には、逸脱となる。〔そうかといって、〕理解不可能なものを掴み取ることも、つぎの場合、逸脱となる。すなわち、理解不可能なものが、了解行為の言葉の破壊の下で、ただ粗暴に与えられたものとして無疑問に受け取られて行なわれる場合である。
 意識一般としては私は、単に現存在であるもの以外の何ものも見ない。超越者への実存的な諸関係は、内的に二律背反的なものであり、この実存的諸関係を通してでは、未だいかなる完成も時間においては無いのである。だが、実存の、観想的な夢想である眼を通しては、暗号の解読において、完成の意識が、時間の内での充実として、ほんの一瞬だけ可能となるのである。夢想を通して実存は、存在の傍らでの安らぎを見いだす。暗号が世界清浄化なのである。あらゆる現存在が超越者の現象となるのであり、すべての現存在するものは、特定のこの愛しながらの夢想において、ひとつの存在としてそれ自体のために観ぜられるのである。いかなる効用、いかなる目的、いかなる因果的発展も、私にとってその存在を規定しない。現存在するものが何であれ、それは現象として自らの美に達するのである。なぜならそれは暗号であるのだから。
 そこではまだすべてが一つであって、自己存在も非自己存在も無いところの、意識の鈍さにおいては、暗号文は存在しない。意識の明瞭さにおいて初めて、諸々の分離と共に、可能性が出来するのである。今やあらゆる現存在が、先ずは、経験的に現実的なものという実証性となり、そして、妥当なものという合理性となる。現存在は透明であることを失い、夢と幻想によって欺くことをやめる。だからといって現存在がそれで暗号文となるのではない。暗号文は、ある新たな飛躍において初めて本来的に開顕されなければならないのであり。それは自己存在によってそうなるのである。この自己存在は、かの実証性と合理性を決定的に摑み取った自己存在なのであり、それ〈この摑み取り〉は、この実証性〔および合理性〕を、取り違えをすることなく、超越する眼差しによって貫通するためなのである。
(155頁)
 時間の内においては、観想の両義性が存続する。現存在において観想的に視られた存在の現実性は、単に観想的なものとしては、素早く無拘束な[unverbindlich]ものとなる。観想は実存のひとつのあり方であって、このあり方が拘束的なものであり続けるのは、ただ、このあり方が、己れの時間的な現実性のなかにある実存と最も決定的に統一し置かれている場合のみである。超越者の観念的な領域と現存在の実在的な領域という、二つの生活領域への分離が起こるところでは、この二つの間で私は行ったり来たりすることとなって、観想は非真実なものとなるのである。
 逆に、夢想[Phantasie]の眼の無い実存は、己れ自身における明澄さ[Helle]も無いのである。このような実存は、実証的な現存在の狭さのなかに留まっている。暗号を解読〔しようと〕しない実存は、盲目的に生きている〔のみな〕のである。
 〔このような〕逸脱は常に間近にあり続けるので、私が逸脱に陥ることを欲さないならば、逸脱は、自己開明の営為において意識的に克服されねばならない。象徴世界のなかで私が運動し、この世界から掴み取られる〈心を奪われる〉ことは、差し当たり単に、ある可能性を体験することにすぎない。其処において私は自分を準備するが、私がこの可能性を心の運動の生命的なものにおいて既に歴史的瞬間の現実性と見做すならば、私は自分を欺くのである。そのような現実性においてこそ私に超越者が根源的に開顕可能となるのであるのだが。
 何が暗号として語るかは、傾聴する実存次第である。可能性から言えば、暗号は何処でも語っているのであるが、何処でも聴取されるわけではない。暗号を掴み取ることは、暗号を解読する者の自由からする選択としてあるのである。そこにおいて私は、「私がそのように欲する故に、私の存在はそのようであるのだ」、と納得しているのである — 私はそこにおいて全く何も産出せず、私が選ぶものを受け取る〔だけな〕のであるけれども。
 暗号であるところのものは、一つの領野上に〔のみ〕存するのではない。何が更に遠くから私に触れ、心の中に入ってくるか、本来的存在のどのような位階において私が言葉を聴くか、私の最大の苦悩ならびに最高の幸福において私が依拠するのは自然であるのか人間であるのか、ということは、私の存在が私自身を通して規定することなのである。
 3.諸暗号への信仰。— あらゆる暗号は実存にとって、消滅する〈束の間の〉ものであり、実存は、飛翔と没落への己れの自由において、自らを把捉するのであるが、この自由において実存は個別化されているのではなく、他の実存たちと共に連帯して、ひとつの包括的な概念理解されざるものに属しているのである。超越者を掴み取る行為の実存的な根源が自らにとって理解可能となるのは、固定化され得ない諸々の神話的な、そして思弁的な形態化においてである。だが、これらの形態化をこわばって所有しようとすると、飛翔は妨げられるであろう。この飛翔が要求するのは、実存的な敢行のなかでの自由な我有化であって、〔この我有化は〕事実的な現実性の内で遠慮の無い〔自己〕傾注をすること[Einsetzen]によって〔得られるもの〕なのである。この飛翔は、存立している客観的なものによる支えを許容しない。このような客観的なものは、ただ同意的[zustimmend]にのみ、承認されるだけだろう。
(156頁)
 つぎのような質問:君は本当に君の守護神を信じているのかね? 君は不死を信じているのか? 君は一者としての超越者を信じるのか? このような質問には、つぎのように答えられるだろう:
 意識一般によって質問されているのならば、質問されたすべては存しないものである。というのも、そういったものは何処にも出会われないものであるから。だが、質問〈問い〉が、実存によって、可能的実存としての私に向けられているのなら、私は一般的な諸命題をもって答えることは出来ず、ただ、実存的交わりと事実的態度との運動において答え得るのみである。信仰が、其処において実存にとって立証されないならば、信仰は存在しないのである。信仰を内容的に言表することは、実存的に疑わしいことである。何故なら、そのように言表することは、客観性を通して課題から身を引いて出る結果になる第一歩だからである。私が、実存の自由から出来する場合にのみ存在するであろうものを約束することは殆ど出来ない様に、私は、信仰を客観的に言表することは、殆ど出来ない。言表された信仰内容と、内容的に規定された約束とは、外的に捉えられるものである故に有限なものなのである。「約束しないこと」が、自由としてのみ現実となり得るものを先取りして言うことへの羞恥から生じており、そして、あらゆる約束され得るものを超出する内的な拘束[Bindung]の意識を伴って生じている、そういう場合には、この「約束しないこと」は、現存在における我々の存在の、はるかにより確実な根拠なのである。まさにそのように、信仰は、自らの超越者に確信において結ばれているならば、自らの本質に関しては、内容的なあらゆる言表において同時に浮遊状態に保たれるのである。
 このゆえに、「私は、私が信仰しているかどうかを知らない」、というのが答えである。しかし、哲学する営為にとっては、諸々の思想運動の伝達が存するのであり、これら思想運動は、間接的な相互の結びつきと呼びかけとのあり方の諸々として、存するのである。
 我々の生を、純粋に合理的な諸目的と規定可能な諸々の幸福目標とのなかで導くことは、実存しながら可能なことではない。というのも、実存としては我々は、たとえば超越者へと関係づけられた交わりが生じない場合には、現存在のひとつの荒野を経験するからであり、この荒野は適切に言い表わされもしなければ、目的意識の許に取り除かれもしないのである。しかし交わりは日常において開放的態度として、そして単に合理的ではない準備として、遂行される。また、本質的なものと非本質的なものとを区別することにおいて、そこでの一致において、あるいは対立において〔交わりは遂行されるのである〕。〔とはいえ〕この対立は即座に「問い」と「傾聴出来ること」とに転換されるのであるが。そこ〈交わり〉ではひとつの哲学的生が可能なのである。この生は、直接性への渇望に貫かれているのであるが、同時に、自らの真実性に関して危険にさらされてもいるのである。たとえ非常にしばしば我々の貧弱さだけでも、この直接性を許容するものではないかもしれないにしても、この我々の貧弱さだけのために直接性が許容されないのではない。預言者には、あらゆる歴史的現存在を突破することによって、そして言わば別の世界から〔この現存在へ〕再び入って来ることによって、ひょっとしたら許容されているものを、哲学は、自分には疎遠な可能性として現前化することは出来ても、だからといってそういうものを自分で為すことは出来ないのである。諸暗号への信仰は、言表されて告知されることによっては、存在しないのである。

暗号文と存在論

 本来的に存在であるところのものを知ろうと欲する者は、この知を概念的に固定しようと努める。つまり、存在そのものについての教説としての存在論は、深く満足させるものでなければならないであろう、もし、知として既に自らの真理を証明しているような知において、私の存在が自己自身へと到り得るのならば。
 1.偉大な諸哲学における存在論。— 哲学的思惟の伝統的骨格となった、アリストテレスの「第一哲学」[prima philosophia]の呪縛圏に、殆どの諸哲学が立っていた限りでは、存在論は、これらの哲学の根本意図であった。存在論は、この根本意図が原理的に退けられた場合でも、なお、哲学の形式であった。存在論は、我々を放免することはなく、無くなることはないだろう。というのも、我々の内には、本来的なものをも知を通して所有しようとする、破壊され得ない傾向があるからである。諸哲学がその存在論的構造にも拘らず、真正な哲学営為として訴え掛けるものがあるということは、我々の状況[Situation]において初めて分離されたところのものを一つのものとして捉えていることに基づくのである。すなわち: これらの哲学は、同等な思想行程において、現存在に関する強制的な〈否むことの出来ない〉知を与え、この強制的知に拠りつつ〈基づいて〉あらゆる世界現存在を超越し、自由から摑み取るか拒絶するかが出来るところの傾聴する者に訴え掛け、そして、暗号を形成する。この暗号が超越的存在の開顕性となるのである。偉大な諸哲学の途方もない力は、それらの根本思想において、これらの側面〔強制的知を提供し、現存在を超越し、訴え掛け、暗号を形成する〕に同時に関わり、そのことによって全的人間に関わるということである。当の人間はこれらの側面を通して、同時に知り、欲し、観ずるのである。それからその後、個別的な諸側面の孤立化が生じ、それによって起こる無際限な論議が生じ、断片的諸教説への転換が生じる。つまり、慰め無き実存的紛糾が生じるのであり、この紛糾は、明晰で根源的な把握によってこれらの哲学の決定的な獲得に至ることを、難しくするのである。これらの哲学は諸々のカプセルに納められ、自らの内実を奪い取られて、それだけ萎縮せざるをえないのである。
 カントは、人間の心性の諸能力における諸条件から、あらゆる対象的な現存在の、形式と、また、我々にとっての現存在の妥当性の諸様態とを、概念把握する。この心性の諸能力は、「自我」の自己存在において、自分たちの旋回点を持つものなのである。カントは自由を感得可能なものにする。彼は、美の必然性および美の内実を、人間性の超感性的な基体において理解するのであり、科学とその意味および限界を概念把握する。彼の思想構築体は、(158頁)人間の現存在と、その、存在そのものへの関係とを開明する限りで、否むことの出来ない洞察であると見做されるのである。彼は、存在するところのものを、その諸可能性に従って確定し、特定のこの現存在において原理的に生じ得るところのものを、図式において先取りする。彼は、同等なこういう思想を用いて、現存在を超越するのである。彼がこの現存在の現象性を意識させるのは、彼が、知の対象として、また、完結可能性として、現存在の諸限界を論述することによってなのである。しかし、あらゆる思想は彼にとって単に、自由への真正な訴え掛けを為すための条件なのであり、この訴え掛けは、かの最初の超越行為、すなわち、現存在の現象性〔の意識〕への超越が遂行されている場合にのみ、可能なものなのである。ここから更に、彼においては、最も末梢的な即事象的詳論も、すべてに滲透しているこのような訴え掛けのパトス〈熱情〉による重みを持つのである。とはいえ結局、この思想構築体〔において〕も、〔かの〕暗号は語り出されないままなのである。その暗号はこう語るように思えるものである: 現存在がこのようなふうに可能であるような仕方で、存在は在るのだ、と。知欲、自由の自己意識、形而上的観想、は、「一なるもの」において満足を見いだす。すなわち、私は、私が今や有している何かを学んでいるのであり、私の行動にとっての最も深い衝動を経験しており、超越者の暗号から微(かす)かに触れられるのである。
 ヘーゲルの、自己存在の弁証法的円環は、この自己存在が自らを客観性のために自らに対峙させ、他者から自らに還帰し、それゆえこの円環においては自分自身に留まっているものであるかぎり、この円環の豊かな諸変遷において同時につぎのことを言表するものである、すなわち、現存在とは何であるか、どのような存在規定の諸々が可能であり必然的であるのか、そして、本来的存在である超越者は何を意味するのか、ということを。つまり、言表されるのは、哲学的思惟の現前における神の開顕性なのである。ヘーゲルにおいては、傾聴する者がとりわけ、この哲学的思惟の暗号文を解読することを、要請されている。しかし同時に、この傾聴する者は、存立する知を保持しているのであり、現存在から存在への観想的な飛翔を経験し、そして自己存在への一層微かなある衝動を経験するのである。この衝動はヘーゲルにおいては時々音も無く消え去ってゆくように見えるにしてもである。
 このように、すべての可能性を自らの内にふくんでいる哲学思想の統一性という前景において、存在は、一度は現存在現象として立つのである。つまり、カントは、私自身であるところの存在の回りを歩き回るのである。あるいは、〔カントの場合と異なり、〕前景に立つのは、存在それ自体としての存在である〔場合がある〕。つまり、ヘーゲルはこの存在自体としての存在を眼中に置き、現存在を、存在の中で決定されているものとして見たのである。しかし、存在それ自体の存在構造の諸々は、ただ諸々の暗号であるのみなのである。これら暗号は、認識された対象としては、自らの内で挫折せざるを得ない。なぜなら、私はそれら暗号を現存在として思惟する〔ことになる〕からであり、〔そうなると〕この存在〔それ自体〕は、自らの諸々の思惟可能性の限界を超えて、現存在に赴く〔ことになる〕からである。現存在は、なるほど、形而上学的には、存在の影のようなものでしかない。しかし、この影は、我々にとっては、現前的なものなのであり、この現前的なものにおいて普遍妥当的(159頁)な認識が為され得るのである。それでも、ほとんどすべての哲学は、立脚点を存在自体の内に求めたのであり、この影の内に求めたのではなかった。だが、それが哲学であったかぎりは、その諸思想は常に裏返しにもなるものなのである。存在について言われることは、人間の実存的な飛翔について言われていることとして表明されるべきなのである。そのように、プロティノスは、ひとつの傑出した存在論的哲学を考えた。このような哲学は、教説へと転じられ、それによって自らの了解可能性を奪われると、言わば、あらゆる存在と現存在との世界像[ein Weltbild]を提供するものとなる。しかしこのような哲学は、根源的に自らの諸命題において、〔読者が〕一緒になって思惟されることで、同時に、可能的実存への訴え掛けであり、ひとつの暗号文の形態なのである。なるほどプロティノスは、実存開明において我々の人間状況という基盤に立つ代わりに、形而上学的に存在自体の中に立っている。だがこのことに彼が成功するのは、ただ、彼が存在を構成し演繹する営為が、同時に、実存と現存在とを開明する営為であるゆえにのみなのである。この開明営為は、彼の思惟を知であり得るものに変換するような研究発表の形においては、失われてしまうものなのである。
 偉大な諸哲学をこのように統合すること[Ineinsfassen]は、我々にとってなるほど繰り返すことの出来ないものであるが、それでもけっして不足の無いものである。これらの哲学には、内実に満ち満ちた思弁的暗号文が書かれている。このことは、ただ統合することによってのみ、そのように可能であったのである。実存開明の訴え掛けも、これらの哲学にとっては、思惟における一部分だったのであり、この思惟そのものが暗号となったのである。この思惟は空虚な論理的諸形式だったのではない。そのような諸形式としては、諸思想は容易に孤立化され、退屈なものにさせられてしまうのである。そういうものではなく、この思惟は、何かについての思惟である代わりに、この思惟自体、存在によって灼熱させられていたのである。勿論、「存在と思惟とは同一である」ということ〈命題〉は、意識の分裂においてはいかなる意味も持たない。というのも、意識の分裂においては、思惟は何か他のものに向けられるからである。しかし、思惟が暗号となる限りでは、この命題は意味を持つ。思惟において人間が本来的存在を把捉した処では、この思惟の存在は、存在それ自体でも、任意で偶然的な思想の主観性でもなかったが、暗号においては、〔この思惟の存在は〕この〔これら両者の〕同一性であったのであり、そしてその場合、この同一性は歴史的なものに留まったのである。そこにおいて思想は、一般的なものの側面であったが、全き思想としては、この側面は、ここで思惟し思惟される存在の現前と共にあったのである。思想は、自らにとって一般的な思想として言表されると、無価値あるいは在り来りなものとなったのであり、ひとつの冗談あるいは骨董趣味となったのである。偉大な哲学的根本思想の諸々においては、思惟と存在とは一つとなったのであり、そのような統一として思惟されたのであるが、これら根本思想は、パルメニデス以来、論理化された場合には、〔いわば〕冒瀆されたのである。これら根本思想は、総じて言葉として接近可能であり続けるためには、新たな自己存在を用いての入魂が必要なのである。そのようにして、本来的に思念されて行為されていたところのものが、〔再び〕感じられ得るようになるのである。それ自体が現実性であったような思惟の、反省されていない自明性は、この思惟の強みであった。この思惟は常に(160頁)一度のみ真であり得た、ということが、この思惟の限界であり続けたのである。というのも、自分の行為の合理的な自己理解の欠如が、どんな後継者においても非真理となったからであり、後継者は尚も思惟したが、後継者の思惟はもはやそれ自体で存在してはいなかったからである。それからは、暗号はもはや暗号としては受け取られなかった。思惟は強制的なものとして見做され、一面的に客観化されたのであって、自己存在をもって思惟されたのではもはやなく、せいぜい悟性をもって思惟されたにすぎなかった。この思惟はもはや、自分自身の運命をもって自らの歴史性において充実させられるということはなく、更に与えられる知として扱われたのである。
 2.我々にとっての存在論の不可能性。— 存在論は瓦解せざるをえない。というのも、現存在についての知は世界定位上のものであり、対象的知一般は、カテゴリー説において諸々の可能的思惟規定に制限されているからである。実存開明における知は、自らの本質を、自由への呼び掛けによって有するのであり、ある効果の所有によって有するのではない。超越者についての知は、変わり易くて多義的な暗号文の中への観想的な自己沈潜としてあるのである。また、私の存在の内的な諸行為における運動をめぐる知も、意識一般としての私の存在のそれであれ、可能的実存としての私の存在のそれであれ、存在論ではない。むしろこのような知は、哲学する営為を分節化する明晰性として、〔哲学する〕自己自身の把捉なのであり、存在の把捉なのではない。存在は、すべてのこれらの路において、完結され得ること無く探求されるのであるが、これらの路を通して既に存在として存立することはない。それゆえ、私にとっての存在の裂散性[Zerrissenheit]を洞察することで、私が現存在であり可能的実存である限りにおいては、存在論への渇望は止むのである。そしてこの渇望は、私が決して知としては得ることの出来ない存在を自己存在を通して獲得するという衝動へと、転換されるのである。たしかに、この自己獲得において最初に問題であるのは、ただ、これから決断される存在であり、実存の自由であって、超越者が問題なのではない。しかし超越者は、ただこの、決断において獲得される存在にとってのみ、接近可能なのである。存在論の存在の代わりに、常に歴史的な、けっして端的に普遍妥当的ではない、暗号の現存在が、取って替わるのである。 
 根源的な哲学的思想にとって、深みと偉大さとは、一切のことを一つのことにおいて為すことであったとすれば、このことは、我々にはもはや可能ではない。どのような統合化[Ineinsfassung]によって、これらの哲学の唯一の意義が知らず知らずに達せられていたかを、我々が洞見した後では、繰り返しは我々を紛糾させるだろう。我々の強みは、分離することなのである。我々は純朴さを喪失したのであるから。純朴性において嘗て素晴らしく可能であり現実的であったものを、再び打ち建てようとすることは、本物でない構築物を生じさせ、我々自身を非真実にするであろう。相互に入り混じっての統一は、それが(161頁)意識的な暗号文でないかぎり、我々にとっては錯誤である。我々にとって、この暗号文の中に、すべての存在論は止揚される。この場合、すべての存在論は、世界の内での存在の諸様態に関する特殊な存在規定になることはなかったのであり、また、完結され得ない存在確認の諸々の路の方法的な意識性になることもなかったのである。 
 存在論が、本来的に存在であるものの知と知欲として、この存在を構成的に描き出す概念性の形式におけるものである場合、このような存在論は我々にとって、可能的実存の本来的な存在探求の破滅となるであろう。この本来的存在探求は、可能的実存の決断が超越者に関係づけられていることにおいて為されるものなのであるが。存在論は、何ものかを、他のものがそこから自らを導出するはずのものとして絶対化することによって、〔我々を〕欺くのである。存在論は、客観的となった存在に〔我々を〕縛りつけ、自由を廃棄する。存在論は、あたかも私が自分の現存在意味を私のみから獲得し得るかのように、交わりを麻痺させる。存在論は、本来的に内実の満ちた可能性にたいして〔我々を〕盲目にし、暗号文の解読を妨げ、超越者を失わせるのである。存在論は、ある存在を、一つのものでありかつ多重なものとして観るが、ただ「このもの」でのみあり得る可能的実存の存在としては観ない。可能的実存の自由は分離を求めるのであり、この分離によって存在論は終結するのである。
 偉大な哲学者たちの存在論は、我々にとって、批判的に否定されるべき種類の存在論ではないが、翻訳〈解釈〉されることによって初めて、しかも翻訳〈解釈〉の際に即座に、そのような種類のものになるので、これら哲学者たちを我有化することが我々に求めることは、先ず第一に、彼らの構築物を破壊することなのである。我々は、彼らの構築物において、現存在開明、カテゴリー上の規定、質料的な世界定位、訴え掛ける実存開明、暗号文の解読を、分離する。このような分離が、初めて本来的な明るさにおいて、この暗号文の統一性へと我々を帰還させるのである。自らの諸要素からして〔新たに〕再建された、そのような統一性として、この統一性は我々に対峙し、今や初めて自分自身の自己存在に懸けて歴史的に我有化されたり突き放されたりするのである。今や初めて我々は判明に、歴史的な自己存在の現実性が我々に語り掛けるのを聴くのであり、その語り掛けは〔嘗て〕この自己存在の超越者が為し得ていたようなものなのである。これらの哲学は、これらの哲学が同時にそれでもあるところのもの、〔つまり〕現存在開明、世界定位、カテゴリー論、〔そして〕実存への訴え掛けを通して、〔我々を〕実存の存在と接触させるのである。〔嘗て〕そのような哲学的思惟を為し得た者にとってそうであったように。
 3.存在論から区別された暗号文の解読。— 存在論は、本来的存在を存在に関する知へと固定化する道であり、これに対して、暗号文の解読は、浮遊状態における存在の経験である:
 存在論は、存在を把捉することにおいて、有限な諸事物に関する強制的な知として可能であるところのものを、継続する。なるほど、このものも、既に(p.162)その固定性において制限されている。つまり、経験的現存在が事実的なものとして不可避的に認識されるにしても、しかしやはり存在は、認識された経験的現存在としては決して終極的な存立ではなく、ただ単にこの現存在のその都度の限界に至るまでの存立であり、そしてその場合さらに諸々の誤謬とともに把捉されているのである。諸々のカテゴリーが、現存在において諸事物に沿って現われ得るか、人格として出会い得るかするすべてのものの諸規定性となるとしても、それでもこれら規定性の各々は有限なのである。現存在開明が我々であるところの現存在の諸構造を示すにしても、それでもこの開明は、意識一般が全体を原理的に把握するものであるにもかかわらず、その都度の我存在の生命力に担われるものであるかぎりは、それ自体依存的な開明なのである。すなわち、〔この現存在開明は〕再び個別的であるところの諸観点の許で思惟されるのであり、また、実存的な諸関心に基づいて思惟されるのである。この実存的諸関心は、開明の働きをする思想を、既に暗号文の方向において形成するものである。ところが存在論の行く道は、あらゆるこれらの客観的な規定性と確実性を、それらの諸限界において把捉し止揚することをせず、これら規定性と確実性を完結することをするのである。
 これに対し、暗号文の解読は、規定的知のあらゆる形態において獲得される根本経験のところで留まっている。すなわち、私が存在を捉えるところで、この存在は、私が捉えていない存在によって相対化されるのである。存在論の存在は、この存在にとっては、歴史的に消滅してゆく暗号文へと分解されるのである。というのも、私が、その存在を超えてはもはやいかなる路も無いような存在へと超越し、この本来的存在は私ではないが、ただ自己存在としての私のみが知覚するものである、そういうところでは、固定性と規定性は止み、この固定性と規定性は、暗号に先行する存在が思惟されている場合には、残存するものの一側面であるからなのである。本来的存在が問題である場合には、最大限の浮遊状態も達せられる。本来的存在は、最も消滅的な仕方のなかで現前しているからである。私が本来的存在に参与すると、私はあらゆる固定性に巻き込まれることから解かれているのであり、この固定性は今やそれ自体暗号として再度ますます決定的に摑み取られ得るのである。絶対的に存立するもの、および、思惟されるものとして強制的なものは、単なる意識一般に関係するものである。本来的存在は、可能的実存が窮屈な状態から緩められている場合にのみ、捉えられるのであり、その場合、諸々の存在様態がその中に止揚されるところの相対性のすべては、ひとつの特定の浮遊状態を後押しして、この浮遊状態において私が存在を覚知するようにするのである。悟性と生命意志は私を現存在に固定し、超越者の存在から解こうとする。これら悟性と意志は私に、継続と無時間的思想において存在を見ることを教え、私を存在自体の知としての存在論に押し迫らせる。しかし可能的実存としては私は自分をこのような手枷足枷から自由にして羽ばたくのであり、この手枷足枷は今や存在の質料となって、暗号文の解読においてあるのである。そしてこのような暗号文として存在は実存にとって現前しているのである。—
(163頁)
 存在論は、その根源において、あらゆる思惟様態を、包括的で存在によって灼熱させられた思惟へと統合することであった。そうして、この統合的思惟から、それにとっては「一なる存在」は知られ得るものであるような教説が生成したのである。これに対して、暗号文の解読は、真の「行為にとっての統一性」を、実存的な現実性のために自由に〈開放されたままに〉しておくのである。なぜなら、この真の統一性は、この統一性を思惟することにおいて、知にとって〔世界は〕裂散状態にあることを覆い隠さないからである。すなわち:
 存在論が打ち砕かれて、存在論が一つに把捉していた諸々の方法と内容とへ変じた後では、〔過去においては〕これらの方法と内容とによって存在論は事実的にその都度歴史的な一回性において暗号文の解読であったのだが、〔今や〕暗号の意識的な解読が、新しい根拠の上での統一性を再び建立するように見える。この統一性は、内的行為としての自己存在の根拠の中への沈潜において経験される。この統一性は、存在として読解される場合、すべてのものを自らの内に含んでいる。しかしこの統一性は、客観化されると、自らの一般的なものの側面に従って、即座に、ただ可能性であるのみの統一性なのである。〔これは、〕超越者の存在が、可能な仕方で斯く斯くであり得るということではない(形而上学的な世界仮定の諸々という、非真実なやり方)。このような〈特定のこの〉一般的なものの充実の可能性が、実存の一なるものにおいて在る、ということなのである。
 本来的な統一性は、したがって、我々にとっては、その都度の自己存在の行為において初めて、歴史的な現実性なのである。この自己存在にとって、諸々の思惟様態の統合が、暗号文において充実可能となるのである。存在論が解消されざるを得ないのは、現前的実存の具体性への還帰が、単独的個人にとって開かれるためである。この個人が存在実現のこの路を行くならば、彼には超越者の存在が、彼の総体的な現存在がそれになるところの暗号文において、初めて聴取可能となるのである。思惟されて言表された諸思想を明晰に分離することは、このような実存的統一性の条件である。共に属し合っているもの、裂かれて散り散りになるもの、ただ共に在ってのみ真であるもの、これらは正当なものである。しかし、思惟する実存の現実的存在がこのような統一性の思惟自体ではなく、そして更に、翻訳不可能であるのではない、という場合には、このような共在自体は、思惟されたものとしては常に非真理なのである。真理は、自己存在とその超越的充実においてあるのであって、諸々の哲学的思想においてあるのではない。哲学的思想は、客観化しつつ統一性を翻訳可能な知として思惟する。思想が引き裂くことをする場合に初めて、現実的な統一性が可能となるのである。存在論は、思わず、現存在を、一般的なものの前で個別化されたものとして見ずにはいられない。この一般的なものを存在論は「全-一なるもの」[das All-einige]として知るのである。これに対して、暗号文の解読は、実存の唯一性に基づき、解読する者の内的行為を通して、超越者の「唯一-普遍的なるもの」[das Einzig-Allgemeine]を見遣るのである。
 したがって、哲学することによって、暗号文の内実から「語り掛けられる」はずであるなら、「裂散性」は「一般的(164頁)となる言葉としての暗号文自体に〔も〕突き入ってくる」であろう。単に、形而上学的言葉の概念性による世界定位的秩序のみならず、諸々の可能性を実存的に訴え掛ける開明もまた、統一性を欠いたままなのである。あらゆる言葉は歴史性と多義性を有するゆえに、超越者の存在は、妥当なものとして存立するような存在ではない。存在は、諸々の段階において思惟される。しかし唯一の段階系列という規則無しにである。多くの天国と天国以前、諸々の位階秩序と対抗関係とにある神々の諸型が、同様に指し示しているのは、つぎのゲーテの言葉である:《私にとっての私は、一つの思惟様態で満足することは出来ない。詩人かつ芸術家としての私は、多神論者であり、自然研究者としては反対に汎神論者である。私が人倫的人間として、一なる神を私の人格性のために必要とする場合、既に一なる神もまた用意されているのである。》


超越者の誤った近接化

 神話と思弁において形態となった超越者は、言わば近接化されている。だが、暗号の代わりに超越者がそれ自体、そして端的に摑み取られていると信じられているならば、誤った近接化が為されているのである。
 超越者は人間にとって存在するのであるが、その人間から切り離された超越者は何であるか、これは全く問われうることではない。しかし超越者は、だからといって、超越者自体としてたとえば現存在の中に引き入れられるべきではない。神秘主義者たちは、たしかに、神性は人間無しでも存在することを、敢えて否認していた。しかし、自分を自ら創造したのではないことを意識するようになった実存にとっては、「超越者としての神は人間無しでも存在する」という命題は、避けられない形式であって、この形式のなかで、もはやいかなる積極的な充実も見いださないものが、消極的に思惟されざるをえないのである。
 暗号は限界の存在であり、超越者の言葉としてあるのである。この言葉において超越者は人間に接近しているが、超越者自体としてではない。我々の世界は暗号として残り無く解読されるものではなく、神話的に表現すれば、悪魔の暗号を神性の暗号と同様に見ることができるのであり、世界はいかなる直接的な啓示でもなく、ただ言葉であって、この言葉は普遍妥当的となることなく、ただ実存にとってのみ、その都度歴史的に聴取可能なものであり、その場合にも究極的に解読されうることはない。これらのことのゆえに超越者は隠れたものとして示されるのである。超越者は遠い、なぜなら超越者自体としては接近不可能であるから。超越者は疎遠でもあり、そして何ものとも比較不可能であるゆえに、比類なき完全他者である。超越者はその遠い存在からのように、疎遠な力として、この世界の中に来り、実存に語り掛ける。超越者は実存に接近するが、いつか暗号以上のものを示すのではない。
(165頁)
 このような隠された超越者への実存の緊張は、実存の生であって、この生において真理は運命の問いと答えとして探求され、経験され、観ぜられるのではあるけれども、時間現存在が続く限りは、この真理は〔それでも〕覆い隠されたままなのである。緊張は自己存在の真正な現象ではあるが、同時に苦痛である。苦痛から逃れ出ようとして、人間は神性を自らに本来的に近づけて緊張を解消しようと欲し、何が存在するのか、自分は何を支えとして何に帰依することが出来るのかを知ろうと欲する。暗号として可能的真理であるものを、人間は存在へと絶対化する:
 a)完全な内在性〈内在的次元〉においては、人間自身が自らを一般的存在にすることだろう。人間のほかは、人間の行為の材料以外の何も無いであろう。人間のみが尚も問題なのであり、人間だけが、人間がそれであるところのものなのである。そのものはいかなる神でもない。神を思惟することは、いかなる空間〔すなわち可能性〕でもなく、人間を自分から逸らせてしまい、眠り込ませて、人間が自分の諸可能性を実現することを妨げること〔でしかないの〕である。
 このような遂行不可能な絶対化においては、あたかも人が人間とは何であるかを知っているかのように語られる。ここでは、知らず識らずに人間は自らを、生命力として、平均値として、あるいはひとつの規定的理想として、貶める。だが、真摯に人間への問いが出されるや否や、人間は、自分の超越者が概念化されている場合にのみ、〔自らも〕概念的となるような存在なのである。人間は自らを超え出ようと努める存在であり、自らに満足していない。世界浄化が世界絶対化を意味しないように、「すべてのものは人間にとって存在するためには人間において現前化しなければならない」—という命題は、「人間はすべてのものである」ということを意味しない。人間は、人間にとって魅惑するものであるけれども、だからといって、自らの世界の内で決定的なものである場合でも、最終的なものではない。たしかに人間にとって問題であるのは彼自身であるが、それはただ、彼にとって何か他のものが問題であることによってのみなのである。このことを人間は、彼が自らにおいては決して安らぎを見いださず、超越者の存在において初めて見いだすことによって、経験するのである。
 b)現在的な時間現存在を超えて拡張された内在性においては、人間の歴史の世界は、神性の過程となることだろう。世界は生成する神となることだろう。世界の内で神性は真理へ向かって突き進み、闘争において自分自身を創造する。我々はこの真理に味方して、あるいはこの真理に反対して、闘争する。この真理は、我々の内において、今までに可能な自らの高さを達成してきたのである。人間が自分になろうと欲して気遣うところの他の存在は、超越者ではなく、神の如く崇められた人間性なのである。
 この、世界存在の絶対化も、人類が何であり、何になるべきであるか、何になろうと欲しているかを、根本において知ってはいない。この絶対化は、時間の内で絶対的であるに留まっている。しかし超越者は時間を超え出ているのである。超越者は(166頁)全面的に不明瞭なものではあるが、我々にとって終極的な依存性であるところのものに依存してはいないのである。超越者は深淵であり、この深淵を前にして、我々は超越者自体を認識しないけれども、我々にとって本来的真理が可能なのである。
 c)神話形成あるいは思弁構成は、神性を特別な本質者[Wesen]にし、今や世界と対峙するものにするのは確かである。だがその対峙は、神性がこの先取〔的対峙〕自体において内在的であるに留まってしまうような対峙なのである。神性は神話的には人格〈人格性〉となり、思弁的には存在となる。
 人間が祈りにおいて自らを神性に向けるなら、人間にとって神性はひとつの「汝」[Du]であり、人間はこの「汝」と、自らの孤独な喪失感から交わりに入りたいと思うのである。そうして神性は人間にとって、父、救済者、法を与える者、審判者として、人格的形態なのである。本来的存在はその現存在においては自己存在であるから、自己存在とのアナロジーによって、神は知らず識らずに人格となったのである。しかし神性としてこの人格は、全知、全能、全合法な人格へと高められたのである。人間は、より劣った存在ではあるが、神の像に従って創られたことで、神の無限性の反映である限りにおいて、〔神と〕類縁的な存在なのである。神が人格の形態である場合にのみ、神は本来的に近いのである。
 この神話的な人格表象は、暗号として一瞬間現前し得るが、にも拘らず、超越者の真正な意識は、神を端的に人格として思惟することにたいして抵抗する。私は、神性を私にとって「汝」にする衝動にありながら、即座に後戻りする。なぜなら私は、私が超越者を〔「汝」にすることで〕侵害していると感ずるからである。既に表象自体において、私は欺瞞に巻き込まれる。それでも人格性は自己存在の様態〈あり方〉であり、この様態はその本質からすれば、唯一つではあり得ない。人格性は、関係づけられている存在であり、自らの外に他の存在を有していなければならない。すなわち、諸人格と自然である。神性は我々、人間を、交わりのために必要とするであろう。神の人格性という表象においては、超越者は、ひとつの現存在へと縮められるだろう。あるいは、神性は、「神性が人格となる」という表象において、自らの内に閉じられたままにならずに、即座に多数の諸人格としてあるのであり、この諸人格は、共同体というかたちで、自分たちの「自己存在の国」を持つのである。無規定で自由な多神論的な表象においてであれ、あるいは、結束した三位一体の表象においてであれ。最後に、神性のための交わりは、人間たちの許での交わりを阻止する傾向がある。というのは、神性のための交わりは、個別的個人たちの自己存在が生成することのない、盲目的な諸共同体を創設するからである。真実に現前する現実性である、自己から自己への交わりは、ここにおいて超越者が語り掛けるものとなり得るのであるが、このような交わりは、超越者が直接に「汝」として近接化され同時に格下げされる場合には、麻痺させられるのである。
(167頁)
人格の神を自分〔にとって〕の暗号存在に引き下げることは、苛酷なことである。超越者としての神は遠いままである。この神は、私が人間として第二の言葉において自ら創る特定の暗号において、一瞬、私にとって一層近くなる。しかし、超越者の深淵はあまりにも深い。この暗号は緊張のいかなる解消でもない。この暗号は充実させると同時に疑わしいものであり、存在しかつ存在しない。私が人格としての神性へ向ける愛は、ただ比喩的に愛と呼ばれているのである。この愛は、世界の内での各個別的人間への愛として初めて生成し、現存在の美への熱情となる。世界を欠いた愛は、根拠の無い浄福として、何ものへの愛でもない。超越者への愛は、ただ、愛による世界浄化としてのみ、現実的なのである。— 
 神性が、祈りの代わりに思弁的構成において近接化されると、神性は本来的にはもはや存在しない。“存在” は “神” ではなく、哲学は神学ではない。思弁は、暗号文における遊戯としては真であるが、超越者としてあらゆる固定可能な思想を超え出ているものを、存在としてひとつの対象にしてしまうのである。人間が外的諸事物と関わり合う行為とのアナロジーによって、現存在の機械的仕組みを生み出す世界建設の名匠が思惟されようと、または、弁証法的に思惟される自己存在とのアナロジーによって、概念の自己円環運動としてのロゴスが存在へと生成しようと、または、他の仕方であろうと、思弁は常に硬化するのである。すなわち、思弁は憶測的な神認識なのであり、そこでは超越者は終了してしまうのである。一切が神性となるか、あるいは、神性が世界となるかである。無世界性と無神性は、ただ、同じ地平の相属し合う諸極である。一方、暗号文は、超越者の存在を内在化において止揚するのでも、硬化した所有にするのでもなく、実存にとっての超越者の現象として歴史的なままにしておくのである。—
 超越者を近接させる、三つの明示された形式において、また、他の諸形式において、超越者は事実上止揚される。暗号として可能性を持つものが、神性の現存在として固定化され、人間は、超越者と共に自らの自己存在をも失う道に陥るのである。人間が絶対的存在として措定するものが、自らであろうとも、人類であろうとも、人格神であろうとも、人間は他の存在に自らを委ねて、ひとつの軽減措置の幸福が一瞬輝くことによって、自己存在の把握不可能性に関して自らを欺かせるのである。というのも、人間自身がただ緊張においてのみ人間なのであって、この緊張とは、最も遠い超越者と最も現前的な現在との、また、暗号と時間現存在との、与えられることと自由との、緊張なのである。それはあたかも、人間が自らの諸偶像に自分を投げ出す場合に、人間は自分から逃れ去るようなものである。(168頁)諸偶像は要請しない。ただ、真なる超越者としての神性のみが、緊張状態にある人間の自己存在に要請するのである。人間は無になってはならない、人間が自らを像にしたような人間自身の偶像の前でも、人類の前でも、人格の形態となった神性の前でも。人間は、あらゆるこれらの、そして他の諸形態に抗するべきであり、暗号として現象する神性にも抗して自らの権利を守るべきである。この権利は、超越的な神性が遠きところから人間に与えて承認するものなのである。すなわち、神は超越者として、私自身が存在することを欲するのである。



第一部:諸々の暗号の本質(129頁)

三つの言葉(129頁)
1.超越者の直接的な言葉(第一の言葉)—(130頁) 2.伝達において一般的となる言葉(第二の言葉)—(131頁) 3.思弁的言葉(第三の言葉)—(134頁) 4.内在者と超越者 —(136頁) 5.諸々の暗号における現実性 —(139頁) 

諸暗号の多義性(141頁)
1.象徴性〈象徴学〉一般(存在の表現と交わりの表現)—(142頁) 2.象徴解釈(任意な多義性)—(144頁) 3.象徴性と認識 —(145頁) 4.解釈可能な象徴性と観想可能な象徴性 —(146頁) 5.循環している解釈行為 —(147頁) 6.任意な多義性と暗号の多義性 —(148頁)

暗号文の解読の場としての実存(150頁)
1.自己存在を通しての暗号解読 —(150頁) 2.実存的観想 —(152頁) 3.諸暗号への信仰 —(155頁)

暗号文と存在論(157頁)
1.偉大な諸哲学における存在論 —(157頁) 2.我々にとっての存在論の不可能性 —(160頁) 3.存在論から区別された暗号文の解読 —(161頁)

超越者の誤った近接化(164頁)





ヤスパース 実存開明 翻訳 「交わり」

2023-12-23 16:02:02 | 翻訳
ヤスパース『哲学』第二巻「実存開明」「第三章 交わり」

                       古川正樹 訳



第三章
 
交わり


根源としての交わり

 なぜ交わりがあるのか? なぜ私は私独りではないのか? という問いにたいしては、自己存在への問いにたいしてと同様、核心が言い当てられるべきだとすれば、納得のゆく答えは殆ど不可能である。「私は他者との交わりにおいてのみ存在する」という命題の意味は、たしかに、客観的にも主観的にも、了解行為と行動とにおいて互いに結合している現存在のこととして受け取られ得るものである。そしてその場合、この命題の意味はひとつの規定的なものであって、相互の関係によって存在している[Miteinandersein]という事実によって表示され得るようなものなのである。しかし、この命題意味は、実存的に思念される場合には、言表上では逆説的となるような、自己存在の根源を言い当てるものなのである。この自己存在は、自分自身からして本来的であるものであるにもかかわらず、自分からでは、そして自分のみでは、本来的であるものではないのである。このような実存的な交わりは、(51頁)かの現存在的交わりを自らの肉体として有することになるのであろう。この肉体において実存的交わりは現象し得るのである。
 1.現存在の交わり。— 交わり[Kommunikation]とは、すなわち、他者たちと共に生きることであり、このような生は、現存在において多様な仕方で遂行されるものであるが、諸々の共同体的関係において現に存している。これら共同体的関係は、観察され、それらの諸々の特殊性において区別され、それらの諸々の動機と効果とに関して見通しが利くようにできるものである。共同体のあらゆるあり方は、現存在にとって不可欠であるゆえに、現存在における可能的実存にとって〔も〕不可欠なものであるが、しかし、そのあり方そのものは、決して既に、私が可能的実存として本来的に欲するところのあり方なのではない。むしろ、この共同体のあり方はすべて、観察されるものである交わりの限界に臨んで尋問されなければならないものである。心理学的で社会学的には現実のものである諸関係は、研究の対象である。〔これにたいし、〕真の交わりは、そこにおいて私が本来的に初めて私の存在を知るところのものであり、私はこの私の存在を他者と共に生み出すのである。このような真の交わりは、経験的に手許にあるようなものではない。この真の交わりを開明することは、哲学的な課題なのである。
 a) 共同体における人間の純朴で疑いを懐かない現存在は、自らの単独的な意識を、自らを取り囲む人間たちの一般的な意識を以て埋もれさせてしまうものである。彼は自らの存在について問わない。そういう問いを発することはそれだけで既に不和分裂を突発させるものだろう。たとえ人間が衝動力と本能の確かさとに拠って自らの利益を見いだすことを知っているかもしれないにしても、それでもやはり、人間を拘束し人間が知っているところのあらゆるものは、共同のものなのであって、この共同のものに、人間自身の現存在意識は基づけられているのである。共同体的生の実体、彼がその一員であるところの人間集団の世界と思惟は、個別的人間の特殊な自己意識に対峙したひとつの他のものとして、尋問と吟味が可能なものとして、あるのではない。純朴な現存在としては私は、皆が為すことを為し、皆が信じることを信じ、皆が思惟するように思惟するのである。諸々の意見、目標、気掛かり、喜び、といったものが、一人の者から他の者へと、本人がそのことに気づくこと無しに伝播する。何故なら、皆の根源的で無疑問な同一化が起こるからである。各人の意識は晴朗であるが、各々の自己意識はひとつの帳(とばり)の下に覆われているのである1。〈1. このような原始的状態は、相対化された背景としては常に現実に存続しているものであり、全体としてひとつの可能性であり続けているが、斯くの如き原初的状態の心理学的-社会学的な探究調査は、様々な観点の下で、タルデ、ル・ボン、レヴィ-ブリュール、プロイス等によって為されている。〉 — 自己は、このような共同体を媒介として生きている限りでは、まだ交わりの中に立ってはいない。何故なら、自己はまだ自己自身として自らを意識してはいないからである。私が交わりを欲するのであれば、私はこのような無意識性の中に再び潜り込もうとは思わない。
 b) 自我[das Ich]が自らを意識するものとして他者たちと自らの世界とに自分を対峙させることが出来る場合、そこにはひとつの飛躍があるのである。自我は自らを区別し、(52頁)このことによって、ひとつの根源的な独立性を摑み取るのである。この飛躍は、明晰で強制的な、普遍妥的な論理的思惟を発展させることと結びついており、この思惟においては、最初は夢想のように思える世界が、様々な対象と合規則性とへ結晶化されるのである。これら対象と合規則性とは、規定されて固持されるべきものであり、繰り返し認識され得るものなのである 1。〈1. 自我意識と論理的思惟との事実的な発生と展開という問題は、ひとつの有史以前的な問題であり、月並みな事柄を越え出るあらゆる点においては、実証的な伝承が欠けているので様々な仮定が頼りであるような問題である。〉
 自我が独立したものとして解き放された後の問いは、どのようにして自我と自我とが相互に了解し合い、互いに交際するのか、という問いである。かの、原初的現存在において最も明瞭で無疑問なものである共同体が、消滅したと、我々が考えるならば、存在するのは、現存在する自我原子としての人間たちと、悟性から悟性へ、現存在から現存在への関係としての彼らの関係とであることになる。すなわち:
 第一に、ひとつの思惟内容としての、ひとつの客観的事象を、共同で了解することを通して、自我から自我へのひとつの了解行為が存在する。この了解行為においては、ひとつの適切性がそのものとして理解され承認されるのである。あるいは、そこにおいてひとつの目的がその目的に従属する諸手段とともに共同で摑み取られるところの、行為が存在するのである。このような諸々の共同体は非個人的なものであり、そのような共同体においては、あらゆる自我は、その形式的な自立性にも拘らず、別の自我と原理的に代替可能であり、すべての自我は点の如き存在として相互に交換可能なのである。
 第二に、分離された自我が、あらゆる他の自我を事象として取り扱うという可能性が存在する。諸々の事象内容を共同で了解すること、並びに、他者の諸々の動機を心理学的に了解することが、人が自分のために保持する何か或る目的に基づいて、他者をそのために所有しようと欲するところのものへと、他者を持って行くための手段としてのみ、使用されるのである。他者は、自分自身の意志の伝達を通して、平等な位階を持つひとつの現存在として承認される、ということはなく、この他者にたいしては、支配されるべき自然客体にたいするのと同様な影響行使が、その最後の意味を他者は理解していないところの、諸々の手はずを講じることによって、また、その諸目的を他者は知らないところの、他者の処遇と彼との付き合いによって、為されるのである。ここでも、いかなる個人的な関係も生じることはない。しかし、人が、たとえ全的に或る事象へと向けられて、他者をただ事象においてのみ観じている場合でも、この事象を共同で了解することにおいては他者を固有の自我として非個人的には通用させているのに、ここでは他者自身が事象となり、あらゆる伝達と関係は、ただ、事象を支配する場合と同様に、他者を支配する手段としかならないのである。このような関係が相互的なものである場合、ひとつの闘争が生じる。この闘争は、両者のうちの誰が、秘匿と見せかけの交わりという手段によって、統制される事象となるか、という、そのための闘争なのである。
(53頁)
 c) このような交わりにおいては、私は意識一般である悟性として思惟されているだけである。しかし、このような普遍的な合理性の可能性は、そこにおいて私が更に実存として可能でありつづけているところの、単なる媒体なのである。「合理」[ratio]によっては、私は確かに私自身ではないが、「合理」が無ければ、私は私自身となることは出来ない。私が交わりを摑み取るのは、誰にとっても同一であるような諸事象においてなのであるが、私は、事象を純粋に把握することによって、既に諸事象を越え出て〔交わりを〕摑み取るのである。
 というのも、人間は、決してひとつの単に形式的な悟性自我ではないからであり、決して単に生命力としての現存在ではないからである。人間は〔そういうものではなく〕、ひとつの内実[Gehalt]の担い手であり、この内実は、原初的な共同体状態の暗闇のなかに保たれるか、あるいは、精神的な、意識的となるも決して充分には知られない全体性を通して、実現されるかするものなのである。理念としてのこの全体性は、悟性には明瞭な規定性と合目的性とを共同的なものとして包み越えるものであるが、陰に籠ってはっきりせず衝動に憑かれている個別者の自己中心的な利害関心とは、本質的に異なったものなのである。この、理念としての全体性は、規定的で根拠づけ可能な諸目的によって導くのではなく、ひとつの意味の中へと嵌め込むことによって導く。この意味の中では、個別者は自らが世界へと拡張されているのを見いだすのであり、この世界に貢献〈帰依〉することが彼を充実させるのである。
 統括する理念は、それ自体、いかなる対象的な事象でもないが、それでも、理念の全体性によって一般的であり、それゆえ、理念の非個人性のために、諸々の主観の内での実現に結びついている。これら主観は、理念を、高揚した非対象的な意味において、自分たちの『事象』と呼ぶのである。外側から見れば原初的共同体のような観を呈するものが、理念の肢体となり得るのであるけれども、そうなるのは、自我一般という意識的な独立的自己が媒介部分となることによってのみなのである。この自己は、その際、その原初性と無疑問性を、徹底的に変容させる。一つの全体 — 特定のこの国家、この社会、この家族、この大学、この職業 — という理念における共同体は、私を初めて、ひとつの内実に満ちた交わりの中へともたらすのである。
 とはいうものの、私の私との同一化〈私の自己同一性の確認〉は、この〈そのような〉交わりにおいても、まだ脱落している〈未だ生じていない〉のである。たしかに、世界現存在の客観性のなかでの私の生は、内実を伴う諸々の理念への参与を通してのみ、充実可能なものである。だが、個別的な個人[der Einzelne]は、ひとつの独自な自立性[eine Eigenständigkeit]を保持しているのであって、この自立性は、この客観性を突破することがあるのである。ゆえに、この自立性は、この個人が経験的な個体としては全くこの客観性に吸収されようとも、この客観性に尚も対峙しているのである。理念とその実現〔の場〕における、実存を通しての交わりは、たしかに人間を、悟性や目的や原初的共同体よりも大きな、他者への接近の中に入らせはする。しかし、『私自身』と他の自己との絶対的な接近、この接近においては(54頁)端的にいかなる代替可能性ももはやあり得なくなり、この接近は理念の立場からは、もしかしたら個人的な接近として低く評価されるかも知れないところの、この絶対的な接近は、そのようにして〈いままでのような仕方で〉可能になるのではない。——
 社会学的な諸関係は、その、諸主観に錨留めされた諸側面に従って、つぎの三つの、互いに基礎づけ合う諸方向において、追究される。すなわち、原初的な共同体性の方向において、即事象的な合目的性と合理性の方向において、〔そして〕内実が理念によって規定されている精神性の方向において、である 1。〈1 諸理念の分析は、史実を様々に解釈することによって為されている。これら解釈は、いろいろな時代、文化、民族、制度の『精神』あるいは『諸原理』を把握しようとするものである。これら解釈が、モンテスキュー、ヘーゲル、ランケのように、相互にどれほど遠く隔たっているかもしれないにしても、そうなのである。科学としての社会学が本来的に成果をあげるのは、既述の三つの方向において、事実的に歴史のなかで出現するすべての諸力の、知られたのでも欲せられたのでもない諸結果を指摘することによってである。そういう成果のある場合というのは、社会学が、それら諸結果を規定的に捉えることに成功する場合であって、〔そういうことは〕普遍妥当的に決定的なものとしては第二のグループ〔即事象的な有用性と合理性〕でのみ成功することなのである。〉 にもかかわらず、社会学的関係のどのような特殊な諸現実が考察の対象になろうとも、〔研究者において〕満足が生じるのは常に、何かを、純粋に大衆心理学的に原初的共同体からして解釈したり、純粋に合理的かつ目的に規定されたものとして解釈したり、純粋に理念的にひとつの全体性からして解釈したりするような、境界的〈極限的〉な場合においてのみであろう。問題であるものが、諸々の共同的な労働目標(職業連帯、仕事仲間)であろうと、教師と生徒、医師と患者、上司と部下、売り手と買い手、窓口係と顧客、の間の関係であろうと、契約の際の交渉相手、裁判の前での担当部局と敵対者であろうと、議会での討論やそれと類似の討論の秩序であろうと、祝祭での社交や催しであろうと、友情、仲間意識であろうと、闘争での仲間意識や連帯であろうと、すべての場合において、ひとつの心理学的な現実が基礎[Grundlage]であり、合目的性と悟性が、通用性を有する媒体[Medium]であり、全体性の理念および越え包むものへ帰属性が、多かれ少なかれ意識的な、秩序を形成する絆[Bindung]なのである。この絆は、否認するに到るまで希薄になることがあるかも知れないが、少なくとも、可能なものではあり続けるのである。——
 とはいえ、〔これら〕三つの、客観的となる交わり様態を現前させることにおいて、諸々の限界が感得可能となったのである。これらの限界において、実存的交わりへの方向がはっきりと現われるのであるが、この交わり自体は未だ遭遇されないのである。素朴-実体的な共同体の場合は、限界は、自分自身に拠って立つ自我であった。この自我と他の自我との交わりの場合は、〔この種の自我は〕代替可能な点のようなものであるから、更なる限界は、諸々の全体性の包越的な理念であった。これらの全体性の内で、これらの自我は活動的に作用し、これら全体性を通してこれら自我は、因果的にではなく理念的に結びついているのである。諸理念の許に立つ交わりの限界(55頁)は、今や終極的なものであり、この限界こそ実存である。先行する諸々の交わりのあらゆる段階に結びつけられて、このように現象しながらも、実存はこれらの交わりのいかなるものの中にも終結していない。自ら根源的である実存は、唯一実存にとってこそ必要な諸々の交わりの中に立っているのである。これらの交わりは、実存そのものにおいてのみ、可視的ではなくとも経験可能であるがゆえにこそ、客観的な諸々の交わりと対峙しているのである。私は実存においてこそ私の全本質を投入して存在するのであって、私の現存在を投入して既に存在するのでも、一般性に変換可能な諸形式を通して存在するのでもないのである。
 2.実存的とならない交わりへの不満。— 私があらゆる交わりにおいて特殊な満足を経験するにしても、どんな交わりにおいても絶対的な満足というものはない。というのは、私が自分の交わりの個別性を意識して、それによってこの交わりの限界にぶち当たる時、私をひとつの不満が襲うからである。私はただ、ひとつの規定された方向に在っただけであり、単なる現存在として、自我一般として、ひとつの理念的な全体の機能として、特定の性格として、組み込まれてはいたが、私自身として在ったのではなかったのである。
 それゆえ、交わりにおける不満は、実存への突破のための、ひとつの根源なのであり、この突破を開明することを求める哲学的思惟〈哲学すること〉にとっての根源なのである。あらゆる哲学することが驚きをもって始まり、世界知が懐疑をもって始まるように、実存開明は交わりの不満の経験をもって始まるのである。
 不満は哲学的反省にとっての出発点であり、この反省は、「私が私自身として存在するのはただ、その時々でかけがえのない他者を通してのみである」という思想を了解しようと欲するのである。
 a)意識一般の交わりと現存在の伝承とにおける不満。— 意識一般として私は既に他の意識と共にある用意ができている。意識が対象無しには無いように、自己意識は他の自己意識無しには無い。ただ一つの孤立した意識などというものがあるとすれば、それは、伝達を欠いているものであり、問いも応答も欠いているものである。したがって、〔そもそも〕自己意識を欠いているものなのである。この自己意識は、そのような伝達や問いと応答によって、言葉として既に自分自身を他者から際立たせることにおいてのみ、存在するのである。自己意識は他の自我において自らを再認識しなければならないが、この再認識は、自己との交わり[Selbstkommunikation]において自らを自我として自分自身に対峙させて、普遍妥当的なものを捉えるためなのである。— しかしこの交わりは、まだ任意に代替可能なものであり、単に媒体であって、自己の存在ではない。この交わりにおいて私は誰ででもあるのであって、つまり普遍的な自我一般なのである。私はこの自我一般であることを確かに欲しはするが、私は私自身であることをも欲するのであり、単に誰ででもあることを欲するのではない。
 というのも、既に経験的現存在として私は、相互に作用し合う他の現存在を通してのみ、存在するのである。ひとりの人間は、出産と(56頁)遺伝のみによって存在するのではなく、彼に彼自身の世界をもたらす伝承を通して初めて、現実の人間なのである。孤立した人間存在というものは限界表象としてのみ在るのであって、事実的なものではない。この孤立人間存在は、発育不良だったのだと考えられるかもしれない。すなわち、以前は聾啞者は精神薄弱〔と見做されていたの〕で、本当の白痴から区別されていなかった。聾啞者が手話を習得し、そのことによって彼らにも伝承が伝わるようになって以来、彼らは全き人間となった、と。— だが、このような伝統がただそれだけのものならば、私は、人間存在の歴史的内実とどんなに交わっても、それを通して私が私自身となるような本来的な交わりの内にはいないのである。客観的な伝統の中に諸々の個人は存在するのであり、これらの個人はこの伝統を私にもたらしてくれるが、このような伝統の中では、私自身は代替可能なものであって、客観性それ自体の中で何かが変えられることもない。しかし人間は単に容器であるより以上のものである。人間がただ、伝承されるものを受け入れるだけならば、人間はそこで窒息してしまうしかないだろう。自分で摑み取ることで初めて、人間は自分自身となるのである。
 b)私独りだけであることへの不満。— 私が交わりの蹉跌に対峙して私自身を摑み取り、私独りで自立しようと試みるならば、不満は — 今や飛躍的に — 強まる。不満は絶対的で窮極的なものとなるのである。私が、あたかも既に私のためには真なるものを知ることが出来るかのように、「生の意味」を『私独り〔のもの〕』として捉えようと試み、そして私が、なるほどよく他者たちを世話し、私には彼らのために正しいと見えることを彼らに為すけれども、しかしその仕方が、あたかも彼らが私とは最も内面的なものにおいて本来関係がないかのような仕方である場合、私は紛糾してしまうのである。私は〔その場合〕真なるものを見いだすことが出来ない。というのも、真であるのは、ただ私にとってのみ真であるのではないものであるからである。私は、他者を愛することを通してでなければ、私〔自身〕を愛することは出来ない。私がただ私であるのみならば、私は荒廃してしまわざるをえない。
 たしかに、ひとつの根源的に真なる衝動というものが私の内にはあって、それは、私独りに拠って立とうという衝動である。私にとって交わりが破砕した場合、私はそれでも私自身として不可侵に生きることが出来るのでありたいのである。しかし、私が、事実的にであれ、準備の不足によってであれ、あり得た交わりを裏切り、〔そして〕不満がもはや交わりへの意志へと転換されなかった場合には、私は無の中へと入り込んだのである。この場合、不満は、あたかも私は存在の外部へ落ちたかのような意識となる。この不満の意識は、不気味となった現存在と共に自分独りであることを前にして、恐怖する。私は、絶望して決意した自己存在の自己充足を哲学することで、自分を助けようと努める。そして私は、そのようにして、私が知らずに私の否定する自由によって私に招いたものを、ただ、ひとつの憶測上不可避なものとして、肯定するのである。現存在は私にとって暗いものとなる。
 それは、私独りのみに拠って立つことの可能性を巡っての、ひとつの内的な闘いなのである。〔そして結局、〕私は、生の意味に、私(57頁)独りだけから到達することを、断念するはずである。闘いは、交わりにおいて、交わりに結合していることを通して、その都度、私の自己存在の決断へと至るのである。交わりは、私の可能的な自己存在の深みからのものであるが、この交わりにおいて、他者における同じ可能性によって語り掛けられて、要求されているのである、「私であるところのものに私は成れ、その都度唯一な他者と共に」、と。
 c)他者への不満。— 他者が彼自身であろうと欲しないならば、私は私自身となることは出来ない。他者が自由ではないならば、私は自由でいることが出来ず、私が他者をも確信しているのでないならば、私は自分を確信していることが出来ない。交わりにおいては、私は自分が私にたいしてのみならず、他者にたいしても責任があると感じている。あたかも彼が私であり、私が彼であるかのように。他者が、〔私が彼と出会うのと〕同様に私と出会う場合に、私は初めて、交わりが始動するのを感じる。というのも、交わりの意味にも私は、私自身の行為のみによって到達するのではないからであり、他者の行為が迎え出なければならないからである。他者が、私を出迎える者である代わりに、彼自身を私にとって客観とするような場合においては、私は、永遠に不満な苦しい関係の中に入らねばならない。他者が自らの行為において自立的に彼自身とならないならば、私も、そうならないのである。他者を私に服従させて配下に置くことは、私を私〔自身〕へともたらすものではなく、他者が私を支配することもまた、同様な結果となる。相互に承認し合うことにおいて初めて、我々は両方とも我々自身として育つのである。我々は共にのみ、誰もが到達しようと欲しているところのものに、到達することが出来るのである。
 d)交わりへの衝動。— 交わりが機能しないことは、私にとって本質的に私の咎となる。たしかに、交わりが明らかに到達されるのは、合目的的な悟性の善意志のみに拠るのではないが、それでも、自己存在を投入することを以てなのである。というのも、私は交わりにおいてのみ、自ら私へと到来するのであるから。私が自分を控えており、相対的で個別的な交わりを既に窮極的な可能性として扱うならば、交わりは決して成功することはない。自らが自分にとっても他者にとっても決定的な要因である、という意識は、交わりへの最高の準備へと駆るのである。
 ひとりの人間へのあらゆる関係は、その各々の関係の、規定的である故に限界づけられた実在性を越え出て、我々〔自身〕に関係してくることがあり得るものである。可能的実存相互の出会いにおいては、世界の内でのすべての理解可能性を踏み越えるような本質的に重要な意義の意識、実存相互の触れ合いあるいは擦れ違いの意義の意識が、しばしば我々がこの意識を正しく了解しなくとも、〔我々に〕押し迫ってくる。我々から差し出された手が本来的にではなく単に共同体的なものとして摑み取られた故の、喪失したかのような無駄遣い〔の感情〕。我々がひとつの交わりを(58頁)破砕せざるを得ない、あるいはこの交わりの破砕を忍ばねばならない、という意識。あらゆる敵対存在の重圧 — 現存在の損害の可能性とは全く無関係であるけれども。あらゆる不機嫌と不和を、我慢可能な場合には、死亡事件のように解消しようとする傾向。憎んでいる者に、その者が死んでしまった後になっても、何かをしてやりたいと思う心根を前にしての恐怖。こういった諸々の感情は、ひとつの実存的な意識を指し示すものであって、この意識にとっては、交わり〔こそ〕は本来的な存在であり、単に時間的な結びつきではないのである。交わりにおけるあらゆる喪失と不発は、本来の存在喪失と同様である。存在とは、互いに共在することであり、この共在は単に現存在の共在ではなく、実存の共在である。だがこの共在は、時間の内では、存続するものとしてではなく、過程であり、危うい冒険であるものとしてあるのである。交わりにおいて私にとって生成したり不発だったりするものは、したがって、そのようにして、窮極の心根に触れるような内面的で物静かな仕方で、起こるのである。したがってまた、既に現実のものとなっている現存在的な交わりへの不満は、一層深くて実存的である交わりへと私を覚醒させるところの、棘なのである。
 e) 実存的交わり。— 交わりを通して私は私自身が出会われるのを知るのであるが、この交わりにおいて他者は専ら特定のこの他者である。すなわち、唯一性が、この〔特定の他者の〕存在の実体性の現象なのである。実存的な交わりは、模範として示される〈予め制作される〉ものでもなければ、真似られる〈爾後的に制作される〉ものでもなく、端的に、その都度の一回性においてあるのである。実存的交わりは二つの自己の間のものであり、この二つの自己は、ただ特定のこの自己たちであるのみであって、代表者たちではなく、ゆえに、代替可能な者たちではない。自己は自らの確信を、絶対的に歴史的な、外部からは承認不可能なものとしての特定のこの交わりにおいて、持つのである。このような交わりにおいてのみ、相互的な創造における自己にとっての自己が在る。歴史的な決断において、この自己は、交わりへの結びつきを通して、自らの自己存在を、孤立した自我存在としては止揚したのであり、交わりにおける自己存在を摑み取ろうとするのである。
 「他者が彼自身であり、彼自身であることを欲し、そして私が彼と共にあり、彼と共にあることを欲する場合に、初めて、私は私の自由において私自身である」、という命題の意味は、可能性としての自由からのみ、摑み取られるものである。意識一般および伝統における諸々の交わりは、認識可能な現存在的必然性の諸々であり、これらが無ければ、無意識的なものの中へ沈み込むことは避けられないことになろう。一方、実存的交わりの必然性は、自由の必然性でのみあり、それゆえ、客観的には理解し得ないものである。本来的な交わりから逃れようとすることは、私の自己存在を放棄することを意味する。私がこの交わりから私を引き離すならば、私は他者もろとも私自身を裏切るのである。
 3.実存的交わりの諸限界。— 実存的交わりの実現は、ひとつの(59頁)無理強いされないものに結びついており、この無理強いされないものは、起こらないことがあり得るのである。〔そしてまた〕実存的交わりの実現は、この実現の現象のひとつの客観的な狭さと結びついている。
 a) 交わりが起こらないこと。— 「私は他者と共にのみ私自身となり得る」という確信が、私の存在意識の根源に存する場合でも、この確信は、〔同時に、〕あたかも、交わり無き人々にたいする一種の有罪判決としては退けられねばならないものであるかのように、傾聴されるのでなければならない。友を見いだすようにと、どんな人々にも通達されているということであってはならない。人は常に〔友を〕求めたが、一度も得られなかった〔ということもある〕。すべての人間が幻滅させたのであり、他の人は運が良かったから友と出会ったのである。人自身は確かに〔出会いへの〕準備をしているのだが、誰も来てくれない〔ということもある〕。
 そのような考え方では、交わりは、外的な事件のように人に当たったり当たらなかったりし得るところの、ひとつの客観的な出来事にされるのである。あたかも人に友が出来るのは物質的な富のようであるかのように。あたかも受け入れる準備は当たり前なことであるかのように、そして、友がいないことはひとつの事象が欠けているようなものであるかのように。けれども、友を見いだすことは、単に受動的な出来事ではなく、それ自体、可能的実存のなかに根拠づけられているのである。友を見いだすことは、現象の次元では、交わりを敢えて行なうことによっても、先走ることを躊躇することによっても、共通の楽しみや関心による集まりの中での単に社交的な触れ合いを、交わりと混同しないという誠実さによっても、同じ様に準備されるのである。友を見いだすことは、孤独を〔人生の〕初期に苦痛に充ちながらも耐えること、自らを守り、待つことが出来ること、によっても、準備される。これらすべての逆は、真の交わりの根源を妨げるのである。真の交わりは、客観的に固定された諸理想を手にして近づき合うことによっては、不可能となるのである。自由な実存との交わりは、いっさいの窮極的な基準を避けることを求める。あらゆる検査は副次的なものに留まり、ただ交わりの媒体となるのみであって、交わりの条件とはならない。「他の人々は神や聖者のようであるべきである」という、本能的な欲求は、いっさいの交わりを妨害するものである。広い視野の現実性と、絶対的な真剣さの可能性とが、内的に緊張している場合にのみ、友は与えられているものである。
 だが、私が自己満足的に、友と交わりを私の功績として、私に帰するならば、私は、もっと深い非真理の中に沈み、本来的にはこの二つを失うだろう。窮極的に私のみに拠るのではないものを、私は私に帰してはならない。確かに、無制約的な実存の一層大きな力が存在し得るのは、幸運が欠けていた場合こそである。
 此処、根源においては、咎についても功績についても語られるべきではない。此処では、欠乏についてのいかなる弁明も存しない — というのも常に私にも欠けているものがあったから — また、(60頁)想像されただけの充実による改善状態のいかなる正当化も存しない — というのも私に帰せられないものが常に付け加わらなければならなかったから。あらゆる実存的なものは、私が目的性をもって欲したり欲さなかったりし得るような諸々の客観性の、外部にあるのである。交わりの歴史的に一回的なものは、ひとつの全体であるが、この全体は、私自身が既に存在して、今や何か或るものを更に得ようとすることによって生じるものではなく、私自身がこの全体のなかで初めて本来的に生成するような全体なのである。しかし、非客観的な全体としては、この交わりは無根拠[grundlos]である。交わりは実存の根源〔そのものであるから〕である。交わりにおいて私の自由が大切である程、交わりにおける功績や咎が存在する。私は、育っている萌芽を軽率に放棄したり、その萌芽の傍らを通り過ぎたりすることがある。あるいは私は、この萌芽が直ちに枯死してしまうように生きることがある。頓挫して発展しなかった交わりに臨んで、諸々の咎の感情に苛まれる場合もあれば、交わりが実現したのに、理解出来なくなった贈り物のようで、自分の功績ではないという意識が私を一杯にする場合もあり、また、〔交わりが〕実現されなくなって再び孤独の意識が私を充たす場合もある。しかしこの孤独は窮極的なものでは全くないのであって、私は孤独を真実に突破しようと努めたが故に、この孤独のなかで私は自分にひとりの友を、超越者そのものにおいて創造することになるのである。
 b) 交わりの歴史的な狭さ。— それはあたかも、万人が万人にたいして要求を持っているかのようである。ひとつの交わり意志にたいして自らを拒むことが私の咎であるように、現実的な交わりの中へ踏み入ることは、他の諸可能性を排除することを結果として有する。私はすべての人間を得ることはできないのである。
 だが、私は、最大限可能な多数の人々と交わりを求めることによって、既に交わりを壊しているのである。私が万人に、すなわち、私に出会うすべての者に、公平になろうと欲するならば、私は自分の現存在を諸々の表面的なもので充たし、空想的な普遍的可能性のために、制限されている故に各々唯一の歴史的可能性であるものにたいして、私自身を拒むことになるのである。
 交わり的な存在意識の根源には、この存在意識の現象の客観的な狭さが、不可避的な咎として結びついているのである。しかしこの〔現象上の〕狭さにおいて、真正な広さもまた初めて生じるのである。


実存的交わりの開明

 自己充足への傾向に抗して、意識一般の知で満足することに抗して、個人の我意に抗して、自らを自らの内に閉ざそうとする生の衝動に抗して、哲学することは自由を開明しようと欲する。この自由は、常に〔自由を〕脅かすものである(61頁)現存在の独我論あるいは普遍主義を前にしながら、交わりを通して根源的に存在を摑み取ろうと欲するのである。この哲学することは、私自身からして自分に呼びかける、私を開いたままに保ち、そうすることで、実現された交わり的な結合を無制約的に把持せよ、と。哲学することは、可能性を守ることに努めるものである。この可能性は、意識一般の独我論や普遍主義においては、慰め無きままに否認されるものなのである。
 1. 孤独 — 統合。— 私が私自身に到る場合、この交わりには二つのものが存する。すなわち、「私であること」と「他者と共にあること」である。私が自立した者として独立的に私自身でもあるのでないならば、私は他者の中で完全に私を失うのである。〔この場合〕交わりは私自身もろとも同時に廃棄されてしまう。逆に、私が自分を孤立させ始めるならば、交わりは次第に貧弱で空虚になり、交わりが完全に打ち砕かれるという極限的な場合には、私は自分であることを止めてしまう。私は点のように空虚になって〔言わば〕気化してしまっているからである。 
 孤独は社会学的な孤立と同じではない。ほぼ原初的な状態で、自立的な自己意識も無く、自らの共同体からはじき出される者は、依然として内面的にはこの共同体の内で生きるか、非存在の暗い絶望意識を持つかである。彼は、護られながら孤独であるのでもなければ、締め出されて孤独であるのでもない。何故なら彼は、「自分自身にとっての自分」ではないからである。
 発達した状態のはっきりした意識において初めて、「私自身であること」は「孤独であること」を意味すると言ってよいようになる。だがそう言ってよいのは、私は孤独においては未だ私自身ではない、というあり方においてである。というのも、孤独は可能的実存の準備意識であって、この可能的実存は交わりにおいてのみ現実的〔実存〕となるからである。
 交わりは、その時々に、二人の間で生じるのであり、二人は結びつき合うが、依然として二人であるに留まらざるをえない — この二人は孤独から互いのほうへ来るのであるが、それでも、孤独を知っているのは、ただ、二人が交わりの中に立っている故にのみなのである。私は、交わりの中に歩み入ること無しには、自分となることは出来ず、孤独であること無しには、交わりの中に歩み入ることは出来ない。交わりによる孤独のあらゆる止揚の内で、ひとつの新たな孤独が成長するのであり、この孤独は、私自身が交わりの条件であることを止めること無しには、消えることはあり得ないのである。私が、自分自身の根源から私であることを敢行し、それゆえ最も深い交わりの中へ歩み入ることを敢行するのならば、私は孤独を欲せざるを得ない。たしかに、私は自分を放棄して、距離感無く、他者のなかで〔言わば〕液化することがあり得る。だが、自己がもはや自己存在と距離を置くこととの硬さ[die Härte des Sslbstseins und Distanzierens]を欲さないならば、そういう自己は、せき止められずに浅い流れのなかで力無く流れ去ってしまう水と同様なのである。
 現存在においては、自分自身を熱情的に捧げることと、厳しく孤独のなかで自分を保つこととの、両極性は、実存的に(62頁)止揚され得ないものである。可能的実存は、現存在においては、ただ、二つの極の間の運動としてのみあるのであり、この運動は、その根源と目標が暗いままのひとつの行路のなかのものなのである。私が孤独を、常に新たに克服するために、敢えて受け入れようと欲さないならば、私が選ぶのは、混沌とした溶解であるか、自己無き形式と路線での固定化であるかである。私が敢えて帰依することを欲さないならば、私は硬直して空虚な自我として打ち砕かれるのである。
 したがって、自己の現存在においては、不安静も留まりつづけるのであって、この不安静はただ諸々の瞬間においてのみ解消され、じきに新たな形態で生じてくるのである。だからといって、このような運動は、希望無く駆り立てられているような、いかなる無際限な反復でもない。この運動において可能的実存は方向と上昇を摑み取り、この方向と上昇との目標と根拠は、いかなる洞察にも存続しているものではないけれども、超越行為にある実存にとっては開明可能なものとなるのである。
 孤独のこのような交わりに反対して、この交わりとは根源的に疎遠なひとつの根本態度が、対立する。すなわち〔この態度は〕、「そのような交わりは単に、孤独な者たちの共同体という、希望無き試みである。そこでは単に、我意が強情な自己存在があるのみであり、この自己存在は、真正な共同体の内に存するところの真理にたいして、自らを閉ざす。罪ある孤独者は、ひとつの哲学的営為を、孤独の仲間を持つという自らの妄想として、自分のために作り出すのである」、と〔言おうとするのである〕。だが、それでは真正な共同体とはどのようなものなのか、という問いにたいしては、これが答えとなる:「すべての人間たちを結びつけ得るもの」、と。これこそが、啓示された真理であり、信者たちの共同体においては、この真理に従順に従わねばならないのである。あるいは、それは、正当な世界整備の理念であり、すべての力を唯一の意志に導かれた権力へと排他的かつ国家国民的に統合するという理念、万人の幸福としての制圧的な世界形成の理念、等々である。人間は自分自身から撤退しなければならない。私が全体に奉仕するならば、私は真の共同体の内にいるのである。自己存在は自己喪失であることを意味する。〔そう、この態度は言うであろう。〕
 両者、交わりへの哲学的態度およびこの敵対者たちは、「真理は、共同体を創設するものである」という命題を確信している。宗教と哲学は、次のことに関しても〔見解が〕一致している、すなわち、単に了解可能なものは、ただ、見せかけの共同体を、客観的に知られるものにおいて建てるだけである、ということに関して。了解可能なものは、本来、理解不可能なものの内における共同体にとって、媒体なのであって、この理解不可能なものを了解可能なものは、明瞭化の無限な過程へと引き入れるのである。だが、知られたものとしての単に了解可能なものは、自己存在から離されているゆえに、無拘束となる。この知られた了解可能なものが主要事となると、共同体をゆるがせにする。すべてを明澄な水のように合理化するならば、共同体としての交わりは消え去っているであろう。
(63頁)
 共同体を創るところの理解不可能なものの、場と根源に関して、分離が始まる。この理解不可能なものが存するのは、ひとつの哲学する現存在にとっては、事実的に相互に出会う人間たちの自己存在の現実においてであり、ひとつの従順な現存在にとっては、客観として固定化された神の啓示においてか、マルクス主義のような世界像の権威的な正当性においてかである。私にとって価値があるのは、生身の人間たちへの私の交わりの歴史的現実のほうであることがあろう。その場合、私が自分であるのは、私が客観的真理として聴取し得るもののおかげであるより以上に、その人間たちの自己存在のおかげなのである。あるいは、私は人間たちへの私の可能的な交わりを、ひとつの一般的な「万人への隣人愛」の中に沈み込ませることがあろう。その場合、この万人への隣人愛は、自らの支えを、神性への私の無世界的な愛において持つか、あるいは人類の使命という、ひとつの合理的であるにもかかわらず理解不可能なほど暗い意識において持つかなのである。私は、自己存在を交わりにおいて獲得するために、常に新たに孤独を敢行するか、あるいは私は、自分をひとつの別の存在において究極的に止揚しているかなのである。
 この分離は、「万人の共同体」という可能性への態度のなかで深化させられる。経験的な考察において、たしかに、繰り返し、つぎの命題、すなわち、「より多くの人間たちが何か或るものを了解する程、そのものは内実を持つことが益々少なくなる」、という命題は真理であることが、思い知らされる。しかし、哲学的な真理は、すべての人間を、彼らとの交わりが要求され続けるところの、可能性ある他者たちとして見るのであるから、この哲学的真理にとっては、つぎの要請は止揚することの出来ないものなのである、すなわち、「最も深い真理は、すべての人間が了解することが出来るであろうようなものであり、その結果として、ひとつの唯一の共同体となるであろうような真理である」、という要請がそれである。このようなディレンマにおいて、つぎの根本心術が、他の心術と分離するのである。すなわち、「暴力的に統一を強要しようと欲し、全く表面的な理解をもって、それどころか理解無き服従をもって、自己満足する」ところの心術が、「真理のために何ごとをも欺瞞的に先取しようと欲せず、それゆえ、事実的であってただ真正な交わりの内でのみ、俯瞰し得ない過程において克服されるべきものを、承認する」ところの他の心術と、分離するのである。なるほど、自らの秩序の内で現存在の可能性を気遣う共同体は、万人を了解するという目的を持っていなければならない。だが、この共同体は、正に其処で私が本来的存在の意識を獲得するような共同体ではなく、人間世界の秩序〔と言うべきもの〕であって、其処では、理解されるようにならないものが相互に敬意を払い合いもし、また、拡大してゆく交わりの内でますます接近し合ってゆくという課題がいつまでも存しているのである。
 孤独と交わりとの緊張における実存の可能性は、選択であって、この選択は、(64頁)誰にとっても普遍妥当的なものとして思念されているのではなく、自己存在にとって無制約的なものとして思念されているのであり、人間にとって接近可能な存在を人間において摑み取ることとして思念されているのである。
 2.開顕化 — 現実化。— 交わりにおいて私は私にとって他者と共に開顕する。
 この開顕化は、しかしながら同時に初めて、自己としての「私」の現実化なのである。およそ私が、開顕化は生まれつきの性格のひとつの開明であると考えるならば、私はそのような考えによって、実存の可能性を見捨てるのである。この実存の可能性は、開顕過程において自らにとって明澄になることによって自らを更に創造するものなのであるが。対象的な思惟にとっては、当然のことながら、前以て存在しているもののみが開顕化することが出来る。だが、生成をもって同時に存在をもたらすような開顕化は、無から現出するかのようなものであり、それゆえ、単なる現存在の意味におけるものではない。「私は生まれつきそうなのだ」という観方に私が立つならば、私の素質を私は人生において認識するかもしれない。だが、私は私であるところのものに留まり続けるのである。そのようにして私は心理学的な考察によって自分に関わり〈態度をとり〉、「完全な経験的知というものは既に早くから私に関して、私が何であるかを私に言うことが出来るだろう」ということを前提するのである。このことは、諸々の素質や特性については適切なことであり、これら素質や特性を知ることは、私の状況における「方向定位〈定位・方向づけ〉」(Orientierung)に属することなのである。だが、可能的実存の決断する意識は、この所与性を摑み取るのである。この所与性に関して明晰さを探求することは、ただ、実存的開顕化の前提であるのみであって、この開顕化によって、世界の内で、私が経験的現存在としてそれであるところのものが明瞭になるのみならず、私自身であるところのものが明瞭になるのである。このような開顕化にとって、与えられたものの状況における実在的な諸限界を承認することは、つぎのことを意味する、すなわち、「私は与えられたものにおいて、やはりただ、ひとつの別の実現の〔ための〕素材を得るのみなのだ」、ということ、「したがって、与えられたもののそのような承認は、いかなる知も究極的ではないからといっても、しかし同時に、経験的な眼差しにとってはありそうもない、あらゆる限界を踏み越える可能性を、含み持つのだ」、ということを。— 実存的な「開顕性への意志」は、見かけ上は対立し合うものを、自らの内に含んでいる。すなわち、「経験的なものについての仮借なき明晰性」と、「これを通して、私が永遠にそれであるところのものに生成する、という可能性」。また、「経験的に現実的なものの不可避なるものによる縛りつけ」と、「この不可避なるものを、摑み取ることにおいて、〔別のものに〕変えるという自由」。そして、「既在を承認すること」と、「あらゆる固定化された既在を否認すること」〔、このような、見かけは対立し合うものを含んでいるのである〕。
 このような「開顕性への意志」は、交わりにおいて自らを全的に敢行するのであり、この交わりにおいてのみ、自らを実現し得るのである。つまり、この意志は、あらゆる既在を差し出すことを敢行するのであるが、その理由は、そうすることにおいて自分自身の実存が初めて自らに到来することを知っているからである。これに対して、「閉鎖性への意志」(覆面への、諸々の防御手段による未然防止への〔意志〕)は、ただ見かけ上交わりへ歩み入るのであるが、(65頁)〔交わりへの意志として〕自らを敢行するのではない。何故ならこの意志は自らの既在を自らの永久な存在と混同しており、既在を保全することを欲しているからである。閉鎖性への意志にとって開顕化は破壊であろうが、自己存在にとっては開顕化は、可能的実存のために単に経験的に現実的なものを摑み取り克服することなのである。というのも、開顕化において私は自分を(存立する経験的現存在としては)失うのであるが、それは自分を(可能的実存として)獲得するためなのであるから。閉鎖性において私は(経験的存立としての)自分を守るのであるが、(可能的実存としての)自分を失わざるをえない。開顕性と実存的現実性とは、「相互に無から生じるように見えながら自分たち自身を支え合う」という関係にあるのである。
 開顕化としての現実化の、この過程は、孤立した実存においてではなく、ただ他者と共にのみ遂行される。私は個別者としては私にとって開顕的でも現実的でもない。交わりにおける開顕化の過程は、かの唯一無双の闘争であり、これは闘争ではあるが同時に愛であるような闘争なのである。
 3.愛しながらの闘争。— 愛として、この交わりは、どのような対象にでもお構いなしに当たってゆく盲目な愛ではない。そうではなく、この交わりは、見透す力のある、闘争しながらの愛なのである。この愛は問いただし、難しくさせ、要求し、可能的実存に基づいて他の可能的実存を摑み取るのである。
 闘争として、この交わりは、実存を巡っての単独者の闘争である。この闘争は、自分と他者との実存を同時に[in einem]巡る闘争なのである。現存在闘争においては、あらゆる武器の利用が通用し、策略と欺きが不可避となるが、これは敵としての他者に対抗する態度なのである — このような他者は、ただ端的に他者なのであり、対立的に作用する自然に等しい —。一方、実存を巡る闘争において問題なのは、これとは無限に異なったものである。すなわち、余すところ無き開放性が問題なのであり、すべての権力と優越性とを締め出すことが、自分自身の自己存在と同然に他者の自己存在が、問題なのである。このような闘争において、この両方の自己存在は、〔相手に〕率直に自らを示して問いたださせるということを敢えてする。実存が可能である場合には、実存は、(部分的には客観的となりつつ、現存在の動機からは理解不可能なままな)闘争しながらの自己献身を通して、(けっして客観的とはならない)このような自己獲得として現象するであろう。
 交わりの闘争においては、ひとつの無比な連帯性がある。この連帯性が初めて、かの法外な問いただしを可能にするのである。なぜなら、この連帯性が、敢行を支え、共同の敢行にし、成果を共同的に保証するからである。この連帯性は闘争を実存的交わり〔の次元〕に限定するのであるが、このような交わりは常に、その都度の二人の者の秘密なのである。このようにして、公然性のために身近な友人たちが存在し得ることになり、この友人たちは最も決定的に(66頁)実存を巡って互いに格闘するのであるが、この闘争においては収穫と喪失とは共同のものなのである。
 開顕性を巡るこの闘争のために、諸々の規則が立てられ得るだろう。すなわち、けっして優越性と勝利を欲さないこと。これらが入って来た時には、これらは阻害と咎として感得され、これらとも戦わねばならないこと。手の内をすべて見せること。そしていかなる計算ずくの遠慮も全く為さないこと。相互の透明さは、単に、その都度の事象的な諸内容において求められるだけではなく、問うことと闘うこととの諸手段においても求められる。どの者も、他者と共に、自分自身を穿つのである。これは二つの実存の互いに対する闘争ではなくて、自分自身と他者とに対する共同の闘争なのである。そしてこの闘争はただ真理を巡る闘争であるのみなのである。このような闘いは、完全に同等な水準の上でのみ生じることが出来る。両者は技術上の闘争手段に差異があっても(知識、知力、記憶力、疲れ易さ)、水準の同等性を、あらゆる力を相互に提供し合うことによって、達成するのである。だが、このような平等化は、すべての者がこれらのことを自分自身にも他者にも実存的には可能なかぎり難しいものとするよう要求する。騎士道精神とあらゆる負担軽減は、ここではただ、限定された諸時間の間、我々の現存在の現象において生じるところの諸々の苦境のなかで、一時的な安寧保証として — 両者の同意によって — 通用するだけである。一時的な安寧保証がだらだらとしたものになるなら、交わりは破棄されているのである。しかし、〔平等化を〕難しいものとすることは、諸々の決意の内実のなかで決断するという、最も本来的な諸根拠と関係していてのみ、通用するのである。心的な道具の力が優るほうが勝ち、それどころか詭弁が可能となる処では、交わりは止むのである。実存的に闘争する交わりにおいては、各人は一切を他者が自由に使えるようにしておくのである。
 意味のあるものとして感じられる何ものも、交わりにおいて応答されないままであってはならない。実存しつつ私は、聴かれた言い回しをそれ固有のニュアンスにおいて真剣にとり、その言い回しに反応する。他者が間接的にであっても意識的に問い、応答を欲しているのであるにせよ、他者が本当に本能的に秘匿を欲し、まったくいかなる応答をも求めなかったが、いまとなっては〔彼は私の応答を〕聴かねばならないのであるにせよ。私が自ら言うところのものは、問うこととして思われているのである。私は応答を聴こうと欲するのであり、けっして単に〔自説を〕吹き込んだり押しつけたりすることを欲しているのではない。限界の無い談話と応答をすることは、真正な交わりに属することである。応答がその瞬間に即座に為されない場合には、応答は課題であり続けるのであり、課題として忘れられはしないのである。
 この闘争は同等な水準で行なわれるのであるから、闘争そのものにおいて既に承認が存するのであり、問いただしにおいて既に肯定が存するのである。したがって、実存的交わりにおいては、(67頁)まさに最も激しい闘争においてこそ、連帯性が明らかとなるのである。このような闘争は、切断するものではばく、実存たちを真実に結合する路なのである。したがって、このような連帯性の規則は、「これらの人間たちは互いに絶対的に信頼し合う」、ということであり、そして、「彼らの闘争は、諸々の党派を創るかもしれないところの、他の者たちにとって可視的で客観的であるような闘争では全くない」、ということである。この闘争は実存の真理を巡る闘争であり、普遍妥当的なものを巡るものではない。
 闘争しながらの交わりにおける真実性が遂に獲得されて、実存から実存への自由が確保されることは、「自己」を自己中心化して孤立化するところの、かの諸々の精神的な自己法則性と心理学的な衝動との現実性を、同時に承認すること無しにはないのである。これら諸力は、交わりの自由な能動性を妨げて束縛し、阻害して、この交わりに諸々の限界を置いたり、この交わりを諸々の条件の下に置いたりしたいのである。かような諸力を知ってその覆いを取ること無しには、人間はそれら諸力を支配することは出来ない。なるほど人間は、自らの実存の高揚した時点の間は、それら諸力から自由であるかもしれないが、〔元の状態に〕再び沈み込んでしまうものであり、〔そうなると、〕自分がどうしてしまったのか分からなくなるものなのである。
 4.交わりと内容。— あらゆる外面的なものを貫いて、人間が彼自身として他の自己へと歩み行き、諸々の欺瞞が崩れ落ち、本来的なものが開顕されるとき、魂が魂と、世界現存在の外面性において全然結びつかなくとも、覆い無く一つに打ち鳴るということが、目標として可能となるかもしれない。
 とはいうものの、世界の内では、実存は実存と、直接的にではなく、諸々の内容[Inhalte]を媒介してのみ当面し合うのである。魂どうしが打ち鳴り合うには、行為と表現との現実が必要なのである。というのも、交わりは、時間も空間も無い浄福な存在が抵抗無く存立している明るさとして現実的であるのではなく、現実という素材において自己存在が運動することだからである。なるほど、〔その時その時の〕諸瞬間においては、あたかも接触が直接的であるかのようであり、この接触はいっさいの世界現存在を超越して自らを充実させることがある。しかしその場合でも、客観的となって今や超越された内容の広さと明晰さは、本来的交わりの瞬間の決然性にとって、基準なのである。この交わりは自らの飛翔を、世界の内における諸々の理念への、諸々の課題と目的への参与を通して、獲得するのである。
 接触の直接性をもって既に真正な交わりであると見做す傾向は、単なる共感や反感において人間たちを接近させるものであるが、この共感や反感については、いかなる透徹した説明も人は与えることが出来ない。生命的な相互共生から性愛的な諸緊張にいたるまで、また、人間の外貌を通して語り掛けられること〈経験〉から、内面的な相互共属の可能性が光り閃くという限界にいたるまで、未だ一語も聴取したというわけでもないままに、この直接性は、ほとんど俯瞰し難いほどの領域に及ぶものなのである。あらゆる場合においてこの直接性は、何か非個人的で範型的なものを持っている。この非個人的なものは、まだ、本来的な自己の運動において、いかなる相互性でもない。直接性は既に、生命的な運動において完成されており、この運動と一緒に消えるものであるか、あるいはただ可能性であり、そういう可能性はさらに明らかにされ確証されなければならない。内容が無ければ、あらゆる直接的な接触は空虚なままなのである。単に生命的な青少年共同体、世界内での活動の無い単なる寄り集まり、目標や理念の無い仲間関係、遊びやスポーツで共にする現存在的歓喜、これらは体験の瞬間には特殊な満足を与える。しかしこういった満足は、生を決断として摑み取る自己にとっては充分なものではなく、必然的な不満を後に残すのである。
 あらゆる外面的なものを超越する二人の人間の愛は、自らの高揚した諸瞬間を持っていたわけであるが、最も決定的な自己存在が摑み取られていたからといっても、やはり再び、愛しながらの交わりそのものを新しい直接性においてその純粋な内面性へと立ち戻らせ、そのような〔新しい〕内面性として育成する、という傾向が生じ得るのである。その場合、愛は疲れているのである。愛は、時間経過のなかでは、有意味な世界現存在の媒介の無い直接的な交わりにおいて実存的であり続けるということは出来ない。試みてみることは、貫通できない現存在の固さを破壊しようとして手を出すことであるか、または、単なる可能性に固執して自分自身を廃棄することであるか、である。最も基礎づけられた愛は、したがって、自らについて語ることが最も稀であるだろう。
 接触の直接性は、すべての真正な交わりの、根源であると同様に成果である。規定的な行為と分節化された思惟との世界において自己存在の明晰性へ至ろうとする諸衝動が、この接触の直接性の暗闇から出て来るのである。獲得された交わりは、その獲得された形態において、現存在のあらゆる客観性の雰囲気として、また、新たな実現への準備として、残り続けるのである。私は事柄を通して他者の魂へ到るのであるか、あるいは、他者の魂を通して初めて事柄は、彼を従事させている故に私の関心を得るのであるか、というような区別的二者択一は、誤ったものなのである。後者の場合においては、ひとつの貧困化が進むことになるが、その理由は、諸々の事柄は単に諸々の付随性であろうからである。これに対して、前者の場合においては、魂が、ひとつの非個人的な主観へと沈み込んでしまうことになるであろう。そしてこの非個人的主観にとってこそ諸々の事柄は価値を有するのである。魂と事柄〈事象〉、自己存在と世界は、相関者どうしであるので、「可能的実存としての生は、(69頁)ひとつの相互的な魂どうしの了解行為に吸収され得るものであろう」、と解するのは誤解なのである。同様に、「この生は、諸々の業績と成果の相互的な承認として存立するものであろう」、と解するのも誤解なのである。諸々の世界内容が無ければ、実存的交わりは、自らの現象のいかなる媒体も持たない。交わりが無ければ、世界内容は無意味で空虚となる。諸々の世界内実が真摯に引き受けられることが、可能的実存に初めて現存在を付与するのであり、また、可能的実存の存在が問題〈重要〉であることが、交わりにおいて諸々の世界内実から初めて、そうでなければ無常性と無関心性から生じる世界内実の荒廃を、除去するのである。
 5.過程としての交わりの現存在。— 交わりは、闘争しながらの交わりであることを、けっしてやめない。ただ個別的にのみ、闘争は終結することがあるが、全体においては決して終結しない。これは、実存の無限性のためであって、実存は現象においては決して自らを完成せず、どのような彼方へ達しようとも、生成することをやめないのである。
 闘争しながらの探求の連帯性において存するのは、常にただ、単独的な者たちの間で増大する「近さ」と「遠さ」のみである。というのも、絶対的な〈完全な〉交わりなるものは、時間の内では、ただ瞬間の確信としてのみ在るからである。完全な交わりは、固持された客観的な成果としては非真理となるものであり、成果から現れ出る忠実として真でありつづけるのである。本来的で真となるものは、存立する存在を有することが最も少ないものであり、現象としてはただ、生成と消滅においてのみ在るものなのである。
 人間たちの間においては、まさに本質的なものに関してこそ、言わば一打ちで真なるものを捉えることは不可能なのである。人間と彼の世界は、一瞬で成熟するものではなく、諸状況の連鎖を通して自らを獲得するものである。人間は、間に合わせで半端な、不完全な諸立場を通ってゆかねばならないが、それは、その諸立場が相互に補完し合うためなのである。極端にまで高められた諸立場を通ってゆくのも、それらの立場が相互転換し合うためなのである。単に適切に行為し語るだけにしようとする者は、全然行為しない者である。そういう者は過程の中に入ってゆかないのであって、自分が非現実である故に、非真実となるのである。真であろうと欲する者は、自ら錯誤して不適切さの中に入り込むことを敢えてしなければならず、物事を極端にまで押し進めたり、きわどい処にまで持っていったりしなければならないが、それは、事物が真実に、現実的に決定されるためなのである。
 それゆえに、何ぴとも、他者あるいは自分にたいして、時間の内で完全であるよう要求することは出来ないのだから、実存的連帯性は、相互性に目を向けようとするのである。それは、断罪しつつ拒絶するためではなく、意のままにならず紛糾している状態においても、手を携えているためなのである。この連帯性は、ほったらかしておくのではなく、仮借なく要求し合うのであるが、自らが要求において思い違いをする可能性をも意識しているのである。交わりにおいては、要求は、硬直した(70頁)法則のように〔相手を〕否定するものではない。交わりにとっては、本来的な自己存在は、この自己存在が殆ど喪失されたように見えるかもしれない場合でも、この自己存在の可能性において通用するのであり、この可能性に基づいて初めて要求は為されるのである。あらゆる経験的な可視性を貫いて、このような諸可能性は出会われるのであり、これら可能性は、現象の過程において自らの本来的な存在を確信しようと欲するのである。自己となることは、過程の中へ入り込むことを求めるのであり、この過程において一人の者は他の者にとって開顕されるのである。それは、共同して、絶対的な結合状態という飛翔のために突き放し合うことにもなる。そして罪は、自らを閉じる自己存在の驕った孤立化であり、このような自己存在は過程というものを欠いているので、生きた肉体を携えたままの死のようなものであろう。
 終極目標が交わりにおいて知られることはない。成果[Erfolg]への問いには二重の意味があるだろう。すなわち、成果は、世界の内での共同体を通しての、目的に関した実在化として思われているのか、あるいは成果は、決断されていることによって永遠な現実性へもたらされているものの意味において思われているのか、ということである。可視的な現存在における物質的な諸成果は、受け入れられて実存的成果の肉体であり得るものである。だが、この物質的諸成果はすべて、無際限で過ぎ行くものの反意味性のなかで現われては消えるものである。しかし、実存的な成果は、いかなる客観的な試金石〈判定基準〉も持たないのであり、ただ可能的実存の良心のみが、この成果を、交わりの結合性において感知〈知覚〉するのである。現存在において、実存は「自己と共にある自己」として自らを実現〈現実化〉したのであり、この現実性がいかなる知にとっても存立しなくとも、そうなのである。
 6.交わりと愛。— したがって、自己存在が交わりにおいて初めて生成するかぎりでは、私も他者も、交わりに先行するような固定した存在実体ではない。むしろ、本来的な交わりが止むように見えるのは、まさに、私が自分と他者とをそのような固定した存在存立であると受け取る場合なのである。その場合、交わりはただ、独我論的存在者たちを根本とした、自己存在にとって本質的なものに関しては結果を欠いた接触のようなものなのである。
 交わりにおける自己生成は、そのため、無からの創造のように現れたわけなのである。それはあたかも、孤独と結合、開顕化と現実化、といった諸々の両極性において、連帯的な闘争が、自ずから自己存在が生じるに任せようとして、認識可能な根源無しに可能となるかのようである。事実、閉じられた単一体〈モナド〉として自らにとって存立する単独的個人の、あらゆる固定化する主張にたいして、生成の弁証法が対峙させられるべきであって、この生成においては、その構成者たちは、ただ、自分たちが自らの自己存在として共に生み出すところのものなのである。しかし、無からの実存的生成という言表は、ただ消極的にのみ妥当する言表であり、(71頁)ひとつの前提された現存在に拠る客観的説明の試みとの対峙において妥当するのである。〔この言表は、〕自己存在がひとつの根源において自らが積極的に見いだされることを知ることがあるかもしれない、と言っている言表ではないのである。むしろ問われるべきなのは、どのような意味において、実存の存在に先行するものが、捉えられるべきであるか、ということである。この先行するものは、交わりのなかで自己存在として明るみに出るものなのである。
 可能性は、消耗させる不満の形態で先行している。この不満は、友のための準備を意味するものであり、あらゆる欺瞞的な先取を確認しつつ、自分が友を見いだすことが出来るようにするものである。先行する現存在現実は、偶然としての、時間の内での事実的な遭遇である。しかし、先行する実体は、個別的個人への根拠無き愛なのである。客観的な考察にとっては、無が自己存在の存在根源であるが、実存的意識にとっては、超越者が、特定のこの歴史的形態のなかで、自己存在の存在根源なのである。そのような歴史的形態は、先行する不満であったり、現実性を可能にする偶然であったり、自己存在を動かす愛であったりするのである。 




根源としての交わり (50頁)
1. 現存在の交わり —(51頁) 2.実存的とならない交わりへの不満 —(55頁) 3.実存的交わりの諸限界 —(58頁) 

実存的交わりの開明 (60頁)
 1. 孤独 — 統合 —(61頁) 2.開顕化 — 現実化 —(64頁) 3.愛しながらの闘争 —(65頁) 4.交わりと内容 —(67頁) 5.過程としての交わりの現存在 —(69頁) 6.交わりと愛 —(70頁)





ガブリエル・マルセル 形而上的日記 第二部 翻訳2

2023-08-12 16:45:00 | 翻訳

(149頁)
(つづき)保存という観念は、ある一定の関係の許ではひとつの集合体であるところのものしか、保存され得ない程度に応じて、「場」を含意している。記憶は、要素の諸々である限りにおいてでしか — すなわち、散逸させられることがあるものである限りにおいてでしか、保存され得ないのである。だが、このことは何を意味するのか? そこにおいては、記憶をひとつの要素として、あるいは解体され得るひとつの集合体として、扱い得るような、何らかの意味が、ほんとうに存するのか? 実際に、紛失や分散という空間的諸観念は、根底において何か精神的なものを含意している、ということを、承認しなければならないように思われる。ひとつの全体が分散する、と私は言う。この意味することは、この全体が、私の拠り処とする心理学的な能動性に、全体として与えられることをやめる、ということである… 失うということ、それは常に、そして本質そのものからして、忘れるということである。記憶に関する経験は、実際には、未発達〈退化〉の諸経験の根元にあるのであるが、この未発達〈退化〉の諸経験のほうに人は記憶に関する経験を還元しようとするのである。
 人は言うだろう、絶対的な喪失、全体的な消滅というものが存し得る、と。だが明らかなことは、消滅というものは、生き永らえて想起する者たちにしか、自分たちの「今」を、想像あるいは記憶されている「当時」に対峙させる者たちにしか、存しないということ — とりわけ、ある一定の期間に見失って、自らの注意の範域外に逸させた、まさにそのものを、今や空しく取り戻そうと試みているような者たちにしか、存しないということである… しかしながら、警戒心に充ちて間断無いが、散逸してゆくものを取り戻すには無力な注意力というものを、人は理解することは出来ないだろうか? 瀕死の我が子を救えない母親のそれである。保護の実際的な力は、愛の基準だろうか? 我々が殆どそう考えることが出来ないのは、精神的で救済的な力と、この力がそれに立ち向かうところの散逸の力との間に、現実に存在する、根本的な異質性の故なのである — この異質性は、有限なるものの本性そのものに結びついているように思われる。精神的な力が我々に出現するのは — 是非はともかくとして — 精神的な不注意や散漫にだけは勝利し得るものとしてである。つまり、一般に我々はそう思っているのだが、このような間接的な仕方でのみ、精神的な力は物質的な散逸に、物質的な無秩序の力に、勝利することが出来るのである。精神的な力でも、(150頁)分解作用である物的諸力を征服すべくこの諸力に直接に当てられるような救済の意志は、技術的な意味では、奇蹟であり 1、再創造であろう。〈1. 一九二五年の覚書。— だが、我々自身の心底において、この分離に抗議する何かが存しないであろうか? この余りに厳格な、二種の散逸の分離に。まだ形成することのできない別の真理の予感が。〉


過去の保存の問題

 そのなかでは、我々がひとつの出来事と呼んでいるものが、ひとつの永遠な真理(交差する諸判断のひとつの集まり)であるような、そういう意味が存する。そして、このような意味のなかでは、保存について話すことは不条理であろう。持続するものに関してしか、保存は存しない — 時間がそれを踏み越えるところのものに関してしか。過去は、過去自身よりも生き永らえて自らを変形する程度に応じてしか、自らを保存することは出来ないのではないか、と思われる(ひとつの楽曲において、最初の調べが後続の調べによって変形されるのと同様に。後続の調べは、最初の調べが自分自身によっては持ち得ないであろうような価値を、最初の調べに得させるのである)。ベルクソンの動かない記憶とは、全くの抽象である。このような記憶は持続することが出来ず、自らを保存することが出来ない。けれども、と人は言うだろう、保存された手紙は持続しているのではない、と。だが、その手紙は思惟のなかで、思惟によって、持続しているのである。この思惟がその手紙を保存し、その手紙に気を配っているのである。その手紙は、ある生きている者に合体し〈取り込まれ〉ている限りで、持続している。出来事に関しても事情は同様であり、出来事は、その出来事を呼び出して自らの前に措定するところの動く現在によって、想起され、脚色される限りにおいて、持続するのである。人はこうも言いたいと思うかもしれない、手紙は物質的に、擦り減ってゆくものとして、持続する — 書かれたものは消えてゆく、等と。しかし、すべてこういったことは、物として、集合体として見做された手紙、保存されない限りでの手紙の、時間的表現でしかないのである。
 ただ、様々な難題が押し寄せる。保存作用の原理そのものも、持続するものであるように思えてくる。そして他方で、この持続は、自己保存を前提している、等。我々は神においてあらゆる保存の第一原理を見ることになろうが、そのこと自体によって、我々はこの原理をひとつの永遠な真理へ変換するよう追い込まれることにならないだろうか? しかし永遠な真理といっても保存作用の力は無いのである。つまり、こう言いたければ、救いの力は無いのである。
 永遠なるもの、それは、あらゆる保存の下位の限界なのか? このものは、要素のみが永遠であるだろうという意味において、時間がそれを踏み越えないところのものなのか? 無規定的なもの、性質づけられないものなのか(というのは、あらゆる性質は、(151頁)他の諸々の性質のひとつの集まりに依拠しており、ゆえに、持続のなかに組み込まれているから)。明白なことは、この意味に解された永遠なるものは、下位の時間的なものであることであり、〔つまり、この〕永遠性は消極的〈否定的〉な価値でしかないことである。ところで、保存作用の高位の限界というものを人は理解できるだろうか? それこそが永遠性の本当の問題なのである。この問題は全くもって不明瞭である。というのも、もし人が、ひとつの持続を全体として、現在として把握するところの行為を、積極的〈肯定的〉に永遠なものだと解するならば — この行為そのものが、あるいは、ひとつの瞬間でなければならないのではないかと思われ、〔その場合〕この行為は多分卓越した位置にあるであろうが、それでも、この行為をはみ出すひとつの持続のなかに取り込まれていなければならないのではないかと思われるからである。あるいは、〔そうでなければ〕この行為はひとつの単純な真理、つまりひとつの抽象であらざるをえないのではないかと思われるからである。
 私にとって、どんな場合にも明白だと思われることは、永遠なるものは、価値との関係が一切無い場合には、定義され得ない、ということである(さもなければ、私が「下位の時間的なもの」と呼んだものに、還元されてしまう)…
 再び、保存と創造との間の神秘な関係のことを反省した。保存が存するのは、創造されたものの次元〈秩序〉においてでしかなく、この次元は、価値あるものの次元でもある(保存は、分散に対する能動的な闘いを含意している)。
 我々は、我々にとって起こるところのものを、我々の前を通過はするが、何処へ行くのでもなく、何処から来るのでもないところの、諸映像のひとつの連続として見做す傾向がある。とはいえ、到来する或るものと、そのものが到来するところの「私」との間の、この関係は、理解不可能なものである。そこには、まだほとんど気づかれていないひとつの深淵が存すると、私は思う。
 一九一八・十二・十一
 予言[prédire]の可能性について(法外な場合Tに関して)。
 どのような諸条件で、予言[prédiction]は可能なのか? 予言すること[prophétiser]、それは観ること[voir]である。ゆえに、到来するところのものは既に在らねばならない。だが、どのような意味で〔在るのか〕? それ〈到来する未来のもの〉が現に在るのは、私にとって程なく姿を現わすであろうところの、ひとつの隠されている客体が、そうである〈現に在る〉ような意味においてではあり得ない。「何処?」という問いは、ここでは意味を有しない(「それは何処に?」〔という問い〕)。在るであろうところのものが、既に在るのであるが、〔それは〕或る他者[un autre]にとってなのである。この他者自身 — 彼は予想〈予見〉するのであろうか? 多分。だがこの場合、我々が先へ進むのではない。問いは新たに、この他者にとって呈されるのである。故に、「観る意識」たちの、多分とても長いこうした一連続は、終りには、生成の首長的な一意識を有する必要があることになろう。〔そして〕この生成というのは、同時に現在であり未来であるような生成であることになろう。このことは、例を援用して明確にすることができる。私がひとつの物語を即興的に創作する場合、私は、何処に私が到達しようと欲するのかを知っている。私は、私の書くものが向かっているところの状況を、単に予見するだけなのではない。私は、そうなるであろうところのものを、私がそうなることを欲するが故に、知っているのである。私は企画するのである[Je projette]。あらゆる(152頁)予言は、ひとつの「企画する意識」の生への、多分まったく間接的な参与[participation]を含み持っているように、私には思われる。この意識は予想〈予見〉するのではなく、先立って創造するのである。だが、このことの適用は無数にある。まず第一に、存在することにはならないであろうものを、私が観るということが、あるかもしれない。というのも、生成の首長的な意識が、だからといって全能ではなく、自らの企画を実現する力量を有しない、ということが想像できるからである。ここから承認されなければならないであろうことは、予言が事実によって確認されなくとも、事実的な予見[vision]が存することはあり得た、ということである。他方では〈第二に〉、この〔首長的な〕意識は、即興的に創作する限りにおいては、自らの本来の目的を目指してではあるが、自らに外部から提供される経験的素材を使うようにさせられることがある。ここには、この〔首長的〕意識の企画に参与する存在たちの観点からは予見不可能なものが存するかもしれない。この意識自身にとって予見不可能なものが存する程、この意識〔自身〕がどうやって着手したものか分からない程、そう〈予見不可能なものが存する〉だろう。同様に、この意識にとっては不可能なものが、反対に、別の観点からは、別の関連体系の中で、予言の対象であり得るかもしれない。
 私が理解していないこと甚だしいのは、この意識つまり上位意識の、私の意識あるいはあなたの意識への関係であることは、明らかである。この上位意識は、私には、〔私の意識よりも〕いっそう豊かであると同時にいっそう効力があるように思われる。要するに、この意識は、ひとつの上級の集中力を備えているであろう。だが、この意識は、正確に言って、ひとつの《別な》[une ≪autre≫]意識なのであろうか? 人は、我々はこの意識と有機的な関係にある、と言いたくなるだろう。しかし、このことは理解可能なことだろうか?
  一九一八・十二・十二。
 今朝、ひとつの根本的な筋道を見いだした。私が応答することの出来る問いというものは、専ら、私が与える可能性のある情報に関わる問いである(それが私自身に関わるものであっても。)例えば、アフガニスタンの首府は何処ですか? いんげん豆はお好きですか? 〔という問い。〕 しかし、私が全体としてそれであるところのものが問題となる程(そして私が有しているところのものが問題であるのではない程)、応答は、そして問いそのものが、すべての意味を失ってゆく。例えば、あなたは徳がありますか? 〔という問いや、〕あなたは勇敢ですか? 〔という問い〕さえも 1。〈1. 一九二五年の覚書。— このことは『神の人』の中心問題と繫がる。〉
 ここに、どうして、「あなたは神を信じますか 2?」と問うことが、もし神への信仰が存在様態として把持されており、ひとつの人格の実存に関する意見として把持されてはいないならば、根本においていかなる意味も有しないのかの、理由が存する。〈2. 覚書 一九二四年。— 神への信仰が現実のものである程、この信仰は存在のひとつの仕方であり、ひとつの存在論的な変容である。〉不死への信仰も多分同様である。ここから次のことが帰結する:
(153頁)
 1°) 他者の信仰は、私の側から知ることの出来るものではない(他者の信仰は質問事項のような対象ではあり得ない)。
 2°) そして次のことが最重要なことである。すなわち、あらゆる反省あるいは私自身とのあらゆる対話が、他者との対話の内面化された再生である程、私の信仰は、私の存在以上にも、私にとっての対象となることは出来ない、ということ。つまり、私は実際には、私の信仰について自分に尋ねることは出来ないのである(ここに、『砂の宮殿』の最も深い意味が存する。私はこのこと〈この問題〉をあんなにはっきりと理解していたことは嘗て一度もなかった)。そうであるからには、神は、「主体である私」と「客体である私」という二者関係と比較されるような第三者では決してあり得ない。このことは、一九一八年七月二十三日の覚書〔本書一三五頁〕の意味のすべてを示すものである。
 説明: 他者の信仰 — この意味するところを正確にする — は、私にとって、信仰対象でしかあり得ない。だが、私がこの他者の信仰を信じる瞬間から、私は彼と一緒に信じるのである。実際、不信仰者は、他者の信仰を信じない。こう言うことで私は、不信仰者が他者の信仰を不真面目だと判断していると言おうとしているのではなく(そういう場合がしばしばあるにしても)、不信仰者がこの〔他者の〕信仰を、間違った存在判断として解釈している、と言おうとしているのである。人が私に、「あなたは神を信じますか?」と言う場合、人は私に、「火星には人が住んでいるとあなたは信じますか?」という類の質問をしているつもりであるか、あるいは、「あなたは感受性の強い方ですか?」という形式の質問をしているつもりなのである。二つの場合とも、人は、信仰において本質的であるところのものの埒外に留まっているのである。すなわち、世界、つまり経験を、形而上学的に性格づける、個人的な仕方の、埒外に留まっているのである 1。〈1. 一九二五年の覚書。— この説明の仕方は、今では、私には、それほど明晰であるとも適切であるとも思えない。実際、問題となっているのは、主体によってそれが与えられるところの客体と比較すればそれ自体は偶発〈副次〉的なものである性格づけではなく、非人格的な形式でもなければ単なる経験的内容でもない実在する個人と、祈りにおいてこの個人がそれに密着しかつ自らがそれに密着していることを自覚しているところの実在との間の、独特な関係なのである。〉他方で、確かなのは、懐疑主義者の態度は大抵の場合、信仰を、ひとつの実在が多分それに呼応しているところのひとつの主観的な状態であると見做しているところに、本質が存することである。だが、この二元論は、間違いなく維持し得ないものである。というのも、神を思惟すること、それは、神を、神に関わる断定に結びついているものとして(そしておそらくは、この断定に関与しているものとして)思惟することだからである。神を実在するものとして思惟することは、私が神を信じていることが神にとって重要なことであると断定することである。これにたいして、テーブルを思惟するということは、私がテーブルを思惟しているという事実において、テーブルを全くどうでもよいものとして思惟することなのである。私の信仰がその関心を惹かないような神がいるなら、それは神ではなく、ひとつの単なる形而上学的な実体的存在[entité]であろう。懐疑主義者はこう言うだろう、「こうではありませんか? あなたは神を信じておられるけれども、あなたの信仰はあなた自身を性格づけるものでしかないか、あるいは、あなたの信仰がひとつの形而上学的価値を持つ場合には、あなたの信仰は実際に神にとって重要であるか、どちらかなのです」、と。(154頁)第一の選択肢が正確には何を意味するかを、私は探求しようと思う。
 この第一の選択肢の本質は、資格上問いに変わらねばならないと見做される、(私は神を信じる〔という〕)ひとつの断言〈断定〉にたいし、(然り、だが神は存在しない〔という〕)この応答を対立させるところに存する。すなわち、実在(?)は、事情通の解釈者の口によって、否定的な応答をこの問いそのものに対立させる、ということを承認することが、この第一の選択肢の本質なのである。事情通の人物が、そのもの(le lui)は神ではないことを、あなたに宣言する、というわけである。だが、このことは、信仰者自身にとっては内面化され得ることであるから、明白なのは、我々は、先ほど定義された条件を完全に外れてしまうことになる、ということである。というのも、我々は、神は「彼」の、つまり、対話と比較した「第三者」のはたらきをなすことは出来ない、ということを明示していたのであるから 1。〈1. これらすべてのことは、以前私が検証不可能なものについて言ったことに繫がるということを、記しておくのは本質的に重要である。検証可能なのは、「彼」の次元に存するすべてのものであり、検証不可能な(すなわち、あらゆる検証を超越する)のは、二者相互間的(dyadique)な関係からしか成っていないものである(付言しなければならないであろうことは、検証行為は、数限りない代置の可能性を前提する、ということであり、逆に、私がひとりの「汝」の面前に居る場合には、代置というものは理解し得ないものだ、ということである。このことは最重要なことである)。〉 ここで我々は正に次のように言うのだと思われる(我々自身に、あるいは他者に。これは同じことなのであるが)、すなわち、《あなたは、神であるところのひとつの第三者が存する、と断定なさる。だがその第三者は神ではない。その第三者には神のものであるようなものは何も存しない》、と。さて、呈示されていなかったひとつの問いへの、この答えは、意味を欠いている(正に、主体と、「彼」自体と、神との間の、三つ組の関係の可能性は、除外されていたのだから)。このことに拠って、〔問題の〕第一の選択肢は意味が無いか、あるいはむしろ、最初に呈示されていたものの否定的確認でしかないことになるのである。
 多分、これらの反省は、主語と述語との間の関係という大変な問題にたいして、何らかの光を投げかけるものである。じっさい、つぎのように言うことは出来ないのか? すなわち、主語が実際に存在する(私が存在するという意味において)ものである程、この主語は、私自身を含まないのと同様、問いと答えという途による規定をも含まないのである、と。「私とは何であるか?」という問いにたいしては、私は何と答えるかを知らない。「私は金髪か?」「私は食道楽か?」等の質問にたいしては、私は苦も無く答えることが出来るのに。私がひとつの「もの」を主語として思惟する(「もの」を考慮するこのような仕方は、或る場合には不適切であることがあると私は思う)瞬間から、私はこの「もの」を、包括的なひとつの問いにではなく、事細かな諸々の問いには答えることが出来るものとして思惟するのである 2。〈2. まさにこのために、実体は知ることの出来ないもの、すなわち、対話法〈弁証法〉をはみ出すものなのである。そしてまた、つぎのことが容易に理解される。すなわち、実体は、我々に答えるために、自らを事細かに述べるより他のことがどうして出来るだろうか、ということが。もし、実体が大雑把に自らを晒すならば、「彼」という契機と「汝」という契機は同一化する。我々は力動的なものの中に(すなわち、ひとつの第三の実在に関する知の外に)いることになるのである。〉 このことは、(155頁)ひとりの個人〈人格〉にとって、あるいは多分、神にとってすら、とても明瞭なことである。しかし、私がひとつの「もの」を、諸々の性格を有するものとして、そして、この「もの」が所有するこれらの性格の外では定義され得ないものとして、扱うのは、ひとつの混同と類推によってなのであるということは、あり得ることである。多分、「もの」(主語)という観念は、完全に除去されねばならないものなのであろう。そしてこのことを、私は信じようとする傾向にあるのである。この実体論は、私自身のことに関しても同様に正当化し得ないものだと、人は言うだろうか? だが、私が自分を「私」として思惟する限りでは(そして、すべての決意、すべての行動は、このことを前提している)、私は自分をひとつの全体として扱っているのである。私が愛し、愛される、等、したりされたりする程、同様に私は自分をそのように扱っているのである。こうして我々は、つぎの重要な命題に達する。すなわち、「ひとつの実在がひとつの全体として扱われる程、この実在は、問いと答えとによって行われるような思惟の最中にあって超越的なものなのである」、という命題である。意識とこの実在との間には、ひとつの二者相互間的(dyadique)な関係しか成り立ち得ないのである(〔この二者相互間的な関係は〕より正確には、反省にたいしてそのような関係として現われるところのものである。なぜなら、我々が二人でしかないならば、我々は或る意味で唯ひとつだからである。というのも、認識論者たちの偽-二元論は、実際のところ、ひとつの三元論であるのだから)。二者相互間的な関係、これは、私の以前の論究においては私が「参与」(participation)と呼んだものである。こうして、私の現在の反省と少し前の反省との間に、完全な一致が成立する。こうして、人は分かり始める、「神を信じることは、実在的なものと二者相互間的な関係を保つことであろう」、ということを。だが明らかなことは、この大変抽象的な公式は、明瞭化され特定化されなければならないということである。
 神、それは、実在[la réalité]であり、しかも、三人称のもの[elle]として扱われることは絶対に出来ない限りでの実在である。このことは、私が、「神について可能な判断というものは存しない」、と主張していた時期に、私が言おうと欲していたことではないのか? だがこのことはもっと深掘りする必要がある。「汝」において〈の次元で〉は、判断は存しないのか? 私が誰かに、「きみは善いひとだ」[tu es bon]と言う場合に〔も〕。
 だが、銘記すべきであると私に思われるのは、「汝」の次元でのあらゆる判断は傾聴されるように定められている、ということである。「彼」の次元ではひとつの目的性が存していて、この目的性は「汝」の次元での判断においては存在しないものである【訳者:ここでの最後の「汝」は原文では「il」となっており、前置詞「en」に伴われている。これは文法的にもありえないことであり、「toi」とすべきところを誤植した、と訳者は判断し、「汝」と記した】。人は、この後者の次元での判断は、情報教示のために充てられているものだ、と私に反論するだろう。しかし正にこのことが、「汝」の次元での判断には適用されないのであり、少なくとも第二義的にしか適用されないのである。「汝」の次元でのあらゆる判断は、私と対話者との間のひとつの関係を表現するものであり、ある向きは、この関係は同様に、「彼」の次元についても知られているはずだと言いたいだろう[ainsi que la volonté que ce rapport soit connu de lui]。(「きみは善いひとだ」=教示しているのは、「私はきみが善いひとだと思う」ということ)。要するに、信じる者と神との間には、個人的〈人格的〉な関係しか存しないだろう。そして、信仰の外に自らを置くことは、神を思惟することを自らに禁じることであろう。
(156頁)
 とはいえ、このすべての理論は、信仰に関するひとつの反省であり、しかも、主体の客体への関係へと信仰を変換することはないことを前提するものである。よく見なければならない。
 一九一八・十二・十四。
 現実存在[existence]と述語づけ[prédication]。述語づけの対象[objet de prédication]であり得るものしか、〔つまり〕目印をつける[repérer]ことの出来るものしか、現実存在しない(ひとつの存在判断[jugement d’existence]を述べるためには、諸々の述語を使って目印づけをしなければならない)。ここから、「神が存在すると言うことには意味がないという事実」と、「神に諸々の性格を帰属させること、神を彼に変換することの、不可能性」との間の、ひじょうに明瞭な関係〔が生じる〕。
 しかし、神を思惟するこのようなやり方は、神を全的に私に依存させることに帰着するものではないのか? というのも、私がそれによって対象を理解するところの行為から独立しているものとしての対象のみが、〔対象として〕捉えられているのであるから。ここから、つぎの、あきらかに馬鹿馬鹿しい問題が出てくるのであるが、かといってこの問題を呈示しないのは難しい。すなわち、「私が神のことを思わない限りでの神は、何であるか?」という問題である。ただし、(「神のことを思う」という言葉が大変な曖昧さを秘めているだけでなく)そのことを問うことは、再度神を第三者に変換することであるのは明らかである。(つづく)


つづきは《ガブリエル・マルセル 形而上的日記 第二部 翻訳2》を検索して御覧ください。



 



ヤスパース『哲学』翻訳 第二巻「実存開明」「第三章 交わり」1

2023-08-12 15:43:57 | 翻訳
ヤスパース(6-1)『哲学』翻訳(第6部)第二巻「実存開明」「第三章 交わり」

ヤスパース『哲学』翻訳(第6部-1)第二巻「実存開明」「第三章 交わり」

      古川正樹 訳

2023.4.18~


第三章

交わり


根源としての交わり (50頁)


根源としての交わり

 なぜ交わりがあるのか? なぜ私は私独りではないのか? という問いにたいしては、自己存在への問いにたいしてと同様、核心が言い当てられるべきだとすれば、納得のゆく答えは殆ど不可能である。「私は他者との交わりにおいてのみ存在する」という命題の意味は、たしかに、客観的にも主観的にも、了解行為と行動とにおいて互いに結合している現存在のこととして受け取られ得るものである。そしてその場合、この命題の意味はひとつの規定的なものであって、相互の関係によって存在している[Miteinandersein]という事実によって表示され得るようなものなのである。しかし、この命題意味は、実存的に思念される場合には、言表上では逆説的となるような、自己存在の根源を言い当てるものなのである。この自己存在は、自分自身からして本来的であるものであるにもかかわらず、自分からでは、そして自分のみでは、本来的であるものではないのである。このような実存的な交わりは、(51頁)かの現存在的交わりを自らの肉体として有することになるのであろう。この肉体において実存的交わりは現象し得るのである。
 1.現存在の交わり。— 交わり[Kommunikation]とは、すなわち、他者たちと共に生きることであり、このような生は、現存在において多様な仕方で遂行されるものであるが、諸々の共同体的関係において現に存している。これら共同体的関係は、観察され、それらの諸々の特殊性において区別され、それらの諸々の動機と効果とに関して見通しが利くようにできるものである。共同体のあらゆるあり方は、現存在にとって不可欠であるゆえに、現存在における可能的実存にとって〔も〕不可欠なものであるが、しかし、そのあり方そのものは、決して既に、私が可能的実存として本来的に欲するところのあり方なのではない。むしろ、この共同体のあり方はすべて、観察されるものである交わりの限界に臨んで尋問されなければならないものである。心理学的で社会学的には現実のものである諸関係は、研究の対象である。〔これにたいし、〕真の交わりは、そこにおいて私が本来的に初めて私の存在を知るところのものであり、私はこの私の存在を他者と共に生み出すのである。このような真の交わりは、経験的に手許にあるようなものではない。この真の交わりを開明することは、哲学的な課題なのである。
 a) 共同体における人間の純朴で疑いを懐かない現存在は、自らの単独的な意識を、自らを取り囲む人間たちの一般的な意識を以て埋もれさせてしまうものである。彼は自らの存在について問わない。そういう問いを発することはそれだけで既に不和分裂を突発させるものだろう。たとえ人間が衝動力と本能の確かさとに拠って自らの利益を見いだすことを知っているかもしれないにしても、それでもやはり、人間を拘束し人間が知っているところのあらゆるものは、共同のものなのであって、この共同のものに、人間自身の現存在意識は基づけられているのである。共同体的生の実体、彼がその一員であるところの人間集団の世界と思惟は、個別的人間の特殊な自己意識に対峙したひとつの他のものとして、尋問と吟味が可能なものとして、あるのではない。純朴な現存在としては私は、皆が為すことを為し、皆が信じることを信じ、皆が思惟するように思惟するのである。諸々の意見、目標、気掛かり、喜び、といったものが、一人の者から他の者へと、本人がそのことに気づくこと無しに伝播する。何故なら、皆の根源的で無疑問な同一化が起こるからである。各人の意識は晴朗であるが、各々の自己意識はひとつの帳(とばり)の下に覆われているのである1。〈1. このような原始的状態は、相対化された背景としては常に現実に存続しているものであり、全体としてひとつの可能性であり続けているが、斯くの如き原初的状態の心理学的-社会学的な探究調査は、様々な観点の下で、タルデ、ル・ボン、レヴィ-ブリュール、プロイス等によって為されている。〉 — 自己は、このような共同体を媒介として生きている限りでは、まだ交わりの中に立ってはいない。何故なら、自己はまだ自己自身として自らを意識してはいないからである。私が交わりを欲するのであれば、私はこのような無意識性の中に再び潜り込もうとは思わない。
 b) 自我[das Ich]が自らを意識するものとして他者たちと自らの世界とに自分を対峙させることが出来る場合、そこにはひとつの飛躍があるのである。自我は自らを区別し、(52頁)このことによって、ひとつの根源的な独立性を摑み取るのである。この飛躍は、明晰で強制的な、普遍妥的な論理的思惟を発展させることと結びついており、この思惟においては、最初は夢想のように思える世界が、様々な対象と合規則性とへ結晶化されるのである。これら対象と合規則性とは、規定されて固持されるべきものであり、繰り返し認識され得るものなのである 1。〈1. 自我意識と論理的思惟との事実的な発生と展開という問題は、ひとつの有史以前的な問題であり、月並みな事柄を越え出るあらゆる点においては、実証的な伝承が欠けているので様々な仮定が頼りであるような問題である。〉
 自我が独立したものとして解き放された後の問いは、どのようにして自我と自我とが相互に了解し合い、互いに交際するのか、という問いである。かの、原初的現存在において最も明瞭で無疑問なものである共同体が、消滅したと、我々が考えるならば、存在するのは、現存在する自我原子としての人間たちと、悟性から悟性へ、現存在から現存在への関係としての彼らの関係とであることになる。すなわち:
 第一に、ひとつの思惟内容としての、ひとつの客観的事象を、共同で了解することを通して、自我から自我へのひとつの了解行為が存在する。この了解行為においては、ひとつの適切性がそのものとして理解され承認されるのである。あるいは、そこにおいてひとつの目的がその目的に従属する諸手段とともに共同で摑み取られるところの、行為が存在するのである。このような諸々の共同体は非個人的なものであり、そのような共同体においては、あらゆる自我は、その形式的な自立性にも拘らず、別の自我と原理的に代替可能であり、すべての自我は点の如き存在として相互に交換可能なのである。
 第二に、分離された自我が、あらゆる他の自我を事象として取り扱うという可能性が存在する。諸々の事象内容を共同で了解すること、並びに、他者の諸々の動機を心理学的に了解することが、人が自分のために保持する何か或る目的に基づいて、他者をそのために所有しようと欲するところのものへと、他者を持って行くための手段としてのみ、使用されるのである。他者は、自分自身の意志の伝達を通して、平等な位階を持つひとつの現存在として承認される、ということはなく、この他者にたいしては、支配されるべき自然客体にたいするのと同様な影響行使が、その最後の意味を他者は理解していないところの、諸々の手はずを講じることによって、また、その諸目的を他者は知らないところの、他者の処遇と彼との付き合いによって、為されるのである。ここでも、いかなる個人的な関係も生じることはない。しかし、人が、たとえ全的に或る事象へと向けられて、他者をただ事象においてのみ観じている場合でも、この事象を共同で了解することにおいては他者を固有の自我として非個人的には通用させているのに、ここでは他者自身が事象となり、あらゆる伝達と関係は、ただ、事象を支配する場合と同様に、他者を支配する手段としかならないのである。このような関係が相互的なものである場合、ひとつの闘争が生じる。この闘争は、両者のうちの誰が、秘匿と見せかけの交わりという手段によって、統制される事象となるか、という、そのための闘争なのである。
(53頁)
 c) このような交わりにおいては、私は意識一般である悟性として思惟されているだけである。しかし、このような普遍的な合理性の可能性は、そこにおいて私が更に実存として可能でありつづけているところの、単なる媒体なのである。「合理」[ratio]によっては、私は確かに私自身ではないが、「合理」が無ければ、私は私自身となることは出来ない。私が交わりを摑み取るのは、誰にとっても同一であるような諸事象においてなのであるが、私は、事象を純粋に把握することによって、既に諸事象を越え出て〔交わりを〕摑み取るのである。
 というのも、人間は、決してひとつの単に形式的な悟性自我ではないからであり、決して単に生命力としての現存在ではないからである。人間は〔そういうものではなく〕、ひとつの内実[Gehalt]の担い手であり、この内実は、原初的な共同体状態の暗闇のなかに保たれるか、あるいは、精神的な、意識的となるも決して充分には知られない全体性を通して、実現されるかするものなのである。理念としてのこの全体性は、悟性には明瞭な規定性と合目的性とを共同的なものとして包み越えるものであるが、陰に籠ってはっきりせず衝動に憑かれている個別者の自己中心的な利害関心とは、本質的に異なったものなのである。この、理念としての全体性は、規定的で根拠づけ可能な諸目的によって導くのではなく、ひとつの意味の中へと嵌め込むことによって導く。この意味の中では、個別者は自らが世界へと拡張されているのを見いだすのであり、この世界に貢献〈帰依〉することが彼を充実させるのである。
 統括する理念は、それ自体、いかなる対象的な事象でもないが、それでも、理念の全体性によって一般的であり、それゆえ、理念の非個人性のために、諸々の主観の内での実現に結びついている。これら主観は、理念を、高揚した非対象的な意味において、自分たちの『事象』と呼ぶのである。外側から見れば原初的共同体のような観を呈するものが、理念の肢体となり得るのであるけれども、そうなるのは、自我一般という意識的な独立的自己が媒介部分となることによってのみなのである。この自己は、その際、その原初性と無疑問性を、徹底的に変容させる。一つの全体 — 特定のこの国家、この社会、この家族、この大学、この職業 — という理念における共同体は、私を初めて、ひとつの内実に満ちた交わりの中へともたらすのである。
 とはいうものの、私の私との同一化〈私の自己同一性の確認〉は、この〈そのような〉交わりにおいても、まだ脱落している〈未だ生じていない〉のである。たしかに、世界現存在の客観性のなかでの私の生は、内実を伴う諸々の理念への参与を通してのみ、充実可能なものである。だが、個別的な個人[der Einzelne]は、ひとつの独自な自立性[eine Eigenständigkeit]を保持しているのであって、この自立性は、この客観性を突破することがあるのである。ゆえに、この自立性は、この個人が経験的な個体としては全くこの客観性に吸収されようとも、この客観性に尚も対峙しているのである。理念とその実現〔の場〕における、実存を通しての交わりは、たしかに人間を、悟性や目的や原初的共同体よりも大きな、他者への接近の中に入らせはする。しかし、『私自身』と他の自己との絶対的な接近、この接近においては(54頁)端的にいかなる代替可能性ももはやあり得なくなり、この接近は理念の立場からは、もしかしたら個人的な接近として低く評価されるかも知れないところの、この絶対的な接近は、そのようにして〈いままでのような仕方で〉可能になるのではない。——
 社会学的な諸関係は、その、諸主観に錨留めされた諸側面に従って、つぎの三つの、互いに基礎づけ合う諸方向において、追究される。すなわち、原初的な共同体性の方向において、即事象的な合目的性と合理性の方向において、〔そして〕内実が理念によって規定されている精神性の方向において、である 1。〈1 諸理念の分析は、史実を様々に解釈することによって為されている。これら解釈は、いろいろな時代、文化、民族、制度の『精神』あるいは『諸原理』を把握しようとするものである。これら解釈が、モンテスキュー、ヘーゲル、ランケのように、相互にどれほど遠く隔たっているかもしれないにしても、そうなのである。科学としての社会学が本来的に成果をあげるのは、既述の三つの方向において、事実的に歴史のなかで出現するすべての諸力の、知られたのでも欲せられたのでもない諸結果を指摘することによってである。そういう成果のある場合というのは、社会学が、それら諸結果を規定的に捉えることに成功する場合であって、〔そういうことは〕普遍妥当的に決定的なものとしては第二のグループ〔即事象的な有用性と合理性〕でのみ成功することなのである。〉 にもかかわらず、社会学的関係のどのような特殊な諸現実が考察の対象になろうとも、〔研究者において〕満足が生じるのは常に、何かを、純粋に大衆心理学的に原初的共同体からして解釈したり、純粋に合理的かつ目的に規定されたものとして解釈したり、純粋に理念的にひとつの全体性からして解釈したりするような、境界的〈極限的〉な場合においてのみであろう。問題であるものが、諸々の共同的な労働目標(職業連帯、仕事仲間)であろうと、教師と生徒、医師と患者、上司と部下、売り手と買い手、窓口係と顧客、の間の関係であろうと、契約の際の交渉相手、裁判の前での担当部局と敵対者であろうと、議会での討論やそれと類似の討論の秩序であろうと、祝祭での社交や催しであろうと、友情、仲間意識であろうと、闘争での仲間意識や連帯であろうと、すべての場合において、ひとつの心理学的な現実が基礎[Grundlage]であり、合目的性と悟性が、通用性を有する媒体[Medium]であり、全体性の理念および越え包むものへ帰属性が、多かれ少なかれ意識的な、秩序を形成する絆[Bindung]なのである。この絆は、否認するに到るまで希薄になることがあるかも知れないが、少なくとも、可能なものではあり続けるのである。——
 とはいえ、〔これら〕三つの、客観的となる交わり様態を現前させることにおいて、諸々の限界が感得可能となったのである。これらの限界において、実存的交わりへの方向がはっきりと現われるのであるが、この交わり自体は未だ遭遇されないのである。素朴-実体的な共同体の場合は、限界は、自分自身に拠って立つ自我であった。この自我と他の自我との交わりの場合は、〔この種の自我は〕代替可能な点のようなものであるから、更なる限界は、諸々の全体性の包越的な理念であった。これらの全体性の内で、これらの自我は活動的に作用し、これら全体性を通してこれら自我は、因果的にではなく理念的に結びついているのである。諸理念の許に立つ交わりの限界(55頁)は、今や終極的なものであり、この限界こそ実存である。先行する諸々の交わりのあらゆる段階に結びつけられて、このように現象しながらも、実存はこれらの交わりのいかなるものの中にも終結していない。自ら根源的である実存は、唯一実存にとってこそ必要な諸々の交わりの中に立っているのである。これらの交わりは、実存そのものにおいてのみ、可視的ではなくとも経験可能であるがゆえにこそ、客観的な諸々の交わりと対峙しているのである。私は実存においてこそ私の全本質を投入して存在するのであって、私の現存在を投入して既に存在するのでも、一般性に変換可能な諸形式を通して存在するのでもないのである。
 2.実存的とならない交わりへの不満。— 私があらゆる交わりにおいて特殊な満足を経験するにしても、どんな交わりにおいても絶対的な満足というものはない。というのは、私が自分の交わりの個別性を意識して、それによってこの交わりの限界にぶち当たる時、私をひとつの不満が襲うからである。私はただ、ひとつの規定された方向に在っただけであり、単なる現存在として、自我一般として、ひとつの理念的な全体の機能として、特定の性格として、組み込まれてはいたが、私自身として在ったのではなかったのである。
 それゆえ、交わりにおける不満は、実存への突破のための、ひとつの根源なのであり、この突破を開明することを求める哲学的思惟〈哲学すること〉にとっての根源なのである。あらゆる哲学することが驚きをもって始まり、世界知が懐疑をもって始まるように、実存開明は交わりの不満の経験をもって始まるのである。
 不満は哲学的反省にとっての出発点であり、この反省は、「私が私自身として存在するのはただ、その時々でかけがえのない他者を通してのみである」という思想を了解しようと欲するのである。
 a)意識一般の交わりと現存在の伝承とにおける不満。— 意識一般として私は既に他の意識と共にある用意ができている。意識が対象無しには無いように、自己意識は他の自己意識無しには無い。ただ一つの孤立した意識などというものがあるとすれば、それは、伝達を欠いているものであり、問いも応答も欠いているものである。したがって、〔そもそも〕自己意識を欠いているものなのである。この自己意識は、そのような伝達や問いと応答によって、言葉として既に自分自身を他者から際立たせることにおいてのみ、存在するのである。自己意識は他の自我において自らを再認識しなければならないが、この再認識は、自己との交わり[Selbstkommunikation]において自らを自我として自分自身に対峙させて、普遍妥当的なものを捉えるためなのである。— しかしこの交わりは、まだ任意に代替可能なものであり、単に媒体であって、自己の存在ではない。この交わりにおいて私は誰ででもあるのであって、つまり普遍的な自我一般なのである。私はこの自我一般であることを確かに欲しはするが、私は私自身であることをも欲するのであり、単に誰ででもあることを欲するのではない。 
 というのも、既に経験的現存在として私は、相互に作用し合う他の現存在を通してのみ、存在するのである。ひとりの人間は、出産と(56頁)遺伝のみによって存在するのではなく、彼に彼自身の世界をもたらす伝承を通して初めて、現実の人間なのである。孤立した人間存在というものは限界表象としてのみ在るのであって、事実的なものではない。この孤立人間存在は、発育不良だったのだと考えられるかもしれない。すなわち、以前は聾啞者は精神薄弱〔と見做されていたの〕で、本当の白痴から区別されていなかった。聾啞者が手話を習得し、そのことによって彼らにも伝承が伝わるようになって以来、彼らは全き人間となった、と。— だが、このような伝統がただそれだけのものならば、私は、人間存在の歴史的内実とどんなに交わっても、それを通して私が私自身となるような本来的な交わりの内にはいないのである。客観的な伝統の中に諸々の個人は存在するのであり、これらの個人はこの伝統を私にもたらしてくれるが、このような伝統の中では、私自身は代替可能なものであって、客観性それ自体の中で何かが変えられることもない。しかし人間は単に容器であるより以上のものである。人間がただ、伝承されるものを受け入れるだけならば、人間はそこで窒息してしまうしかないだろう。自分で摑み取ることで初めて、人間は自分自身となるのである。
 b)私独りだけであることへの不満。— 私が交わりの蹉跌に対峙して私自身を摑み取り、私独りで自立しようと試みるならば、不満は — 今や飛躍的に — 強まる。不満は絶対的で窮極的なものとなるのである。私が、あたかも既に私のためには真なるものを知ることが出来るかのように、「生の意味」を『私独り〔のもの〕』として捉えようと試み、そして私が、なるほどよく他者たちを世話し、私には彼らのために正しいと見えることを彼らに為すけれども、しかしその仕方が、あたかも彼らが私とは最も内面的なものにおいて本来関係がないかのような仕方である場合、私は紛糾してしまうのである。私は〔その場合〕真なるものを見いだすことが出来ない。というのも、真であるのは、ただ私にとってのみ真であるのではないものであるからである。私は、他者を愛することを通してでなければ、私〔自身〕を愛することは出来ない。私がただ私であるのみならば、私は荒廃してしまわざるをえない。
 たしかに、ひとつの根源的に真なる衝動というものが私の内にはあって、それは、私独りに拠って立とうという衝動である。私にとって交わりが破砕した場合、私はそれでも私自身として不可侵に生きることが出来るのでありたいのである。しかし、私が、事実的にであれ、準備の不足によってであれ、あり得た交わりを裏切り、〔そして〕不満がもはや交わりへの意志へと転換されなかった場合には、私は無の中へと入り込んだのである。この場合、不満は、あたかも私は存在の外部へ落ちたかのような意識となる。この不満の意識は、不気味となった現存在と共に自分独りであることを前にして、恐怖する。私は、絶望して決意した自己存在の自己充足を哲学することで、自分を助けようと努める。そして私は、そのようにして、私が知らずに私の否定する自由によって私に招いたものを、ただ、ひとつの憶測上不可避なものとして、肯定するのである。現存在は私にとって暗いものとなる。
 それは、私独りのみに拠って立つことの可能性を巡っての、ひとつの内的な闘いなのである。〔そして結局、〕私は、生の意味に、私(57頁)独りだけから到達することを、断念するはずである。闘いは、交わりにおいて、交わりに結合していることを通して、その都度、私の自己存在の決断へと至るのである。交わりは、私の可能的な自己存在の深みからのものであるが、この交わりにおいて、他者における同じ可能性によって語り掛けられて、要求されているのである、「私であるところのものに私は成れ、その都度唯一な他者と共に」、と。
 c)他者への不満。— 他者が彼自身であろうと欲しないならば、私は私自身となることは出来ない。他者が自由ではないならば、私は自由でいることが出来ず、私が他者をも確信しているのでないならば、私は自分を確信していることが出来ない。交わりにおいては、私は自分が私にたいしてのみならず、他者にたいしても責任があると感じている。あたかも彼が私であり、私が彼であるかのように。他者が、〔私が彼と出会うのと〕同様に私と出会う場合に、私は初めて、交わりが始動するのを感じる。というのも、交わりの意味にも私は、私自身の行為のみによって到達するのではないからであり、他者の行為が迎え出なければならないからである。他者が、私を出迎える者である代わりに、彼自身を私にとって客観とするような場合においては、私は、永遠に不満な苦しい関係の中に入らねばならない。他者が自らの行為において自立的に彼自身とならないならば、私も、そうならないのである。他者を私に服従させて配下に置くことは、私を私〔自身〕へともたらすものではなく、他者が私を支配することもまた、同様な結果となる。相互に承認し合うことにおいて初めて、我々は両方とも我々自身として育つのである。我々は共にのみ、誰もが到達しようと欲しているところのものに、到達することが出来るのである。
 d)交わりへの衝動。— 交わりが機能しないことは、私にとって本質的に私の咎となる。たしかに、交わりが明らかに到達されるのは、合目的的な悟性の善意志のみに拠るのではないが、それでも、自己存在を投入することを以てなのである。というのも、私は交わりにおいてのみ、自ら私へと到来するのであるから。私が自分を控えており、相対的で個別的な交わりを既に窮極的な可能性として扱うならば、交わりは決して成功することはない。自らが自分にとっても他者にとっても決定的な要因である、という意識は、交わりへの最高の準備へと駆るのである。
 ひとりの人間へのあらゆる関係は、その各々の関係の、規定的である故に限界づけられた実在性を越え出て、我々〔自身〕に関係してくることがあり得るものである。可能的実存相互の出会いにおいては、世界の内でのすべての理解可能性を踏み越えるような本質的に重要な意義の意識、実存相互の触れ合いあるいは擦れ違いの意義の意識が、しばしば我々がこの意識を正しく了解しなくとも、〔我々に〕押し迫ってくる。我々から差し出された手が本来的にではなく単に共同体的なものとして摑み取られた故の、喪失したかのような無駄遣い〔の感情〕。我々がひとつの交わりを(58頁)破砕せざるを得ない、あるいはこの交わりの破砕を忍ばねばならない、という意識。あらゆる敵対存在の重圧 — 現存在の損害の可能性とは全く無関係であるけれども。あらゆる不機嫌と不和を、我慢可能な場合には、死亡事件のように解消しようとする傾向。憎んでいる者に、その者が死んでしまった後になっても、何かをしてやりたいと思う心根を前にしての恐怖。こういった諸々の感情は、ひとつの実存的な意識を指し示すものであって、この意識にとっては、交わり〔こそ〕は本来的な存在であり、単に時間的な結びつきではないのである。交わりにおけるあらゆる喪失と不発は、本来の存在喪失と同様である。存在とは、互いに共在することであり、この共在は単に現存在の共在ではなく、実存の共在である。だがこの共在は、時間の内では、存続するものとしてではなく、過程であり、危うい冒険であるものとしてあるのである。交わりにおいて私にとって生成したり不発だったりするものは、したがって、そのようにして、窮極の心根に触れるような内面的で物静かな仕方で、起こるのである。したがってまた、既に現実のものとなっている現存在的な交わりへの不満は、一層深くて実存的である交わりへと私を覚醒させるところの、棘なのである。
 e) 実存的交わり。— 交わりを通して私は私自身が出会われるのを知るのであるが、この交わりにおいて他者は専ら特定のこの他者である。すなわち、唯一性が、この〔特定の他者の〕存在の実体性の現象なのである。実存的な交わりは、模範として示される〈予め制作される〉ものでもなければ、真似られる〈爾後的に制作される〉ものでもなく、端的に、その都度の一回性においてあるのである。実存的交わりは二つの自己の間のものであり、この二つの自己は、ただ特定のこの自己たちであるのみであって、代表者たちではなく、ゆえに、代替可能な者たちではない。自己は自らの確信を、絶対的に歴史的な、外部からは承認不可能なものとしての特定のこの交わりにおいて、持つのである。このような交わりにおいてのみ、相互的な創造における自己にとっての自己が在る。歴史的な決断において、この自己は、交わりへの結びつきを通して、自らの自己存在を、孤立した自我存在としては止揚したのであり、交わりにおける自己存在を摑み取ろうとするのである。
 「他者が彼自身であり、彼自身であることを欲し、そして私が彼と共にあり、彼と共にあることを欲する場合に、初めて、私は私の自由において私自身である」、という命題の意味は、可能性としての自由からのみ、摑み取られるものである。意識一般および伝統における諸々の交わりは、認識可能な現存在的必然性の諸々であり、これらが無ければ、無意識的なものの中へ沈み込むことは避けられないことになろう。一方、実存的交わりの必然性は、自由の必然性でのみあり、それゆえ、客観的には理解し得ないものである。本来的な交わりから逃れようとすることは、私の自己存在を放棄することを意味する。私がこの交わりから私を引き離すならば、私は他者もろとも私自身を裏切るのである。
 3.実存的交わりの諸限界。— 実存的交わりの実現は、ひとつの(59頁)無理強いされないものに結びついており、この無理強いされないものは、起こらないことがあり得るのである。〔そしてまた〕実存的交わりの実現は、この実現の現象のひとつの客観的な狭さと結びついている。
 a) 交わりが起こらないこと。— 「私は他者と共にのみ私自身となり得る」という確信が、私の存在意識の根源に存する場合でも、この確信は、〔同時に、〕あたかも、交わり無き人々にたいする一種の有罪判決としては退けられねばならないものであるかのように、傾聴されるのでなければならない。友を見いだすようにと、どんな人々にも通達されているということであってはならない。人は常に〔友を〕求めたが、一度も得られなかった〔ということもある〕。すべての人間が幻滅させたのであり、他の人は運が良かったから友と出会ったのである。人自身は確かに〔出会いへの〕準備をしているのだが、誰も来てくれない〔ということもある〕。
 そのような考え方では、交わりは、外的な事件のように人に当たったり当たらなかったりし得るところの、ひとつの客観的な出来事にされるのである。あたかも人に友が出来るのは物質的な富のようであるかのように。あたかも受け入れる準備は当たり前なことであるかのように、そして、友がいないことはひとつの事象が欠けているようなものであるかのように。けれども、友を見いだすことは、単に受動的な出来事ではなく、それ自体、可能的実存のなかに根拠づけられているのである。友を見いだすことは、現象の次元では、交わりを敢えて行なうことによっても、先走ることを躊躇することによっても、共通の楽しみや関心による集まりの中での単に社交的な触れ合いを、交わりと混同しないという誠実さによっても、同じ様に準備されるのである。友を見いだすことは、孤独を〔人生の〕初期に苦痛に充ちながらも耐えること、自らを守り、待つことが出来ること、によっても、準備される。これらすべての逆は、真の交わりの根源を妨げるのである。真の交わりは、客観的に固定された諸理想を手にして近づき合うことによっては、不可能となるのである。自由な実存との交わりは、いっさいの窮極的な基準を避けることを求める。あらゆる検査は副次的なものに留まり、ただ交わりの媒体となるのみであって、交わりの条件とはならない。「他の人々は神や聖者のようであるべきである」という、本能的な欲求は、いっさいの交わりを妨害するものである。広い視野の現実性と、絶対的な真剣さの可能性とが、内的に緊張している場合にのみ、友は与えられているものである。
 だが、私が自己満足的に、友と交わりを私の功績として、私に帰するならば、私は、もっと深い非真理の中に沈み、本来的にはこの二つを失うだろう。窮極的に私のみに拠るのではないものを、私は私に帰してはならない。確かに、無制約的な実存の一層大きな力が存在し得るのは、幸運が欠けていた場合こそである。
 此処、根源においては、咎についても功績についても語られるべきではない。此処では、欠乏についてのいかなる弁明も存しない — というのも常に私にも欠けているものがあったから — また、(60頁)想像されただけの充実による改善状態のいかなる正当化も存しない — というのも私に帰せられないものが常に付け加わらなければならなかったから。あらゆる実存的なものは、私が目的性をもって欲したり欲さなかったりし得るような諸々の客観性の、外部にあるのである。交わりの歴史的に一回的なものは、ひとつの全体であるが、この全体は、私自身が既に存在して、今や何か或るものを更に得ようとすることによって生じるものではなく、私自身がこの全体のなかで初めて本来的に生成するような全体なのである。しかし、非客観的な全体としては、この交わりは無根拠[grundlos]である。交わりは実存の根源〔そのものであるから〕である。交わりにおいて私の自由が大切である程、交わりにおける功績や咎が存在する。私は、育っている萌芽を軽率に放棄したり、その萌芽の傍らを通り過ぎたりすることがある。あるいは私は、この萌芽が直ちに枯死してしまうように生きることがある。頓挫して発展しなかった交わりに臨んで、諸々の咎の感情に苛まれる場合もあれば、交わりが実現したのに、理解出来なくなった贈り物のようで、自分の功績ではないという意識が私を一杯にする場合もあり、また、〔交わりが〕実現されなくなって再び孤独の意識が私を充たす場合もある。しかしこの孤独は窮極的なものでは全くないのであって、私は孤独を真実に突破しようと努めたが故に、この孤独のなかで私は自分にひとりの友を、超越者そのものにおいて創造することになるのである。
 b) 交わりの歴史的な狭さ。— それはあたかも、万人が万人にたいして要求を持っているかのようである。ひとつの交わり意志にたいして自らを拒むことが私の咎であるように、現実的な交わりの中へ踏み入ることは、他の諸可能性を排除することを結果として有する。私はすべての人間を得ることはできないのである。
 だが、私は、最大限可能な多数の人々と交わりを求めることによって、既に交わりを壊しているのである。私が万人に、すなわち、私に出会うすべての者に、公平になろうと欲するならば、私は自分の現存在を諸々の表面的なもので充たし、空想的な普遍的可能性のために、制限されている故に各々唯一の歴史的可能性であるものにたいして、私自身を拒むことになるのである。
 交わり的な存在意識の根源には、この存在意識の現象の客観的な狭さが、不可避的な咎として結びついているのである。しかしこの〔現象上の〕狭さにおいて、真正な広さもまた初めて生じるのである。


実存的交わりの開明

 自己充足への傾向に抗して、意識一般の知で満足することに抗して、個人の我意に抗して、自らを自らの内に閉ざそうとする生の衝動に抗して、哲学することは自由を開明しようと欲する。この自由は、常に〔自由を〕脅かすものである(61頁)現存在の独我論あるいは普遍主義を前にしながら、交わりを通して根源的に存在を摑み取ろうと欲するのである。この哲学することは、私自身からして自分に呼びかける、私を開いたままに保ち、そうすることで、実現された交わり的な結合を無制約的に把持せよ、と。哲学することは、可能性を守ることに努めるものである。この可能性は、意識一般の独我論や普遍主義においては、慰め無きままに否認されるものなのである。
 1. 孤独 — 統合。— 私が私自身に到る場合、この交わりには二つのものが存する。すなわち、「私であること」と「他者と共にあること」である。私が自立した者として独立的に私自身でもあるのでないならば、私は他者の中で完全に私を失うのである。〔この場合〕交わりは私自身もろとも同時に廃棄されてしまう。逆に、私が自分を孤立させ始めるならば、交わりは次第に貧弱で空虚になり、交わりが完全に打ち砕かれるという極限的な場合には、私は自分であることを止めてしまう。私は点のように空虚になって〔言わば〕気化してしまっているからである。
 孤独は社会学的な孤立と同じではない。ほぼ原初的な状態で、自立的な自己意識も無く、自らの共同体からはじき出される者は、依然として内面的にはこの共同体の内で生きるか、非存在の暗い絶望意識を持つかである。彼は、護られながら孤独であるのでもなければ、締め出されて孤独であるのでもない。何故なら彼は、「自分自身にとっての自分」ではないからである。
 発達した状態のはっきりした意識において初めて、「私自身であること」は「孤独であること」を意味すると言ってよいようになる。だがそう言ってよいのは、私は孤独においては未だ私自身ではない、というあり方においてである。というのも、孤独は可能的実存の準備意識であって、この可能的実存は交わりにおいてのみ現実的〔実存〕となるからである。
 交わりは、その時々に、二人の間で生じるのであり、二人は結びつき合うが、依然として二人であるに留まらざるをえない — この二人は孤独から互いのほうへ来るのであるが、それでも、孤独を知っているのは、ただ、二人が交わりの中に立っている故にのみなのである。私は、交わりの中に歩み入ること無しには、自分となることは出来ず、孤独であること無しには、交わりの中に歩み入ることは出来ない。交わりによる孤独のあらゆる止揚の内で、ひとつの新たな孤独が成長するのであり、この孤独は、私自身が交わりの条件であることを止めること無しには、消えることはあり得ないのである。私が、自分自身の根源から私であることを敢行し、それゆえ最も深い交わりの中へ歩み入ることを敢行するのならば、私は孤独を欲せざるを得ない。たしかに、私は自分を放棄して、距離感無く、他者のなかで〔言わば〕液化することがあり得る。だが、自己がもはや自己存在と距離を置くこととの硬さ[die Härte des Sslbstseins und Distanzierens]を欲さないならば、そういう自己は、せき止められずに浅い流れのなかで力無く流れ去ってしまう水と同様なのである。
 現存在においては、自分自身を熱情的に捧げることと、厳しく孤独のなかで自分を保つこととの、両極性は、実存的に(62頁)止揚され得ないものである。可能的実存は、現存在においては、ただ、二つの極の間の運動としてのみあるのであり、この運動は、その根源と目標が暗いままのひとつの行路のなかのものなのである。私が孤独を、常に新たに克服するために、敢えて受け入れようと欲さないならば、私が選ぶのは、混沌とした溶解であるか、自己無き形式と路線での固定化であるかである。私が敢えて帰依することを欲さないならば、私は硬直して空虚な自我として打ち砕かれるのである。
 したがって、自己の現存在においては、不安静も留まりつづけるのであって、この不安静はただ諸々の瞬間においてのみ解消され、じきに新たな形態で生じてくるのである。だからといって、このような運動は、希望無く駆り立てられているような、いかなる無際限な反復でもない。この運動において可能的実存は方向と上昇を摑み取り、この方向と上昇との目標と根拠は、いかなる洞察にも存続しているものではないけれども、超越行為にある実存にとっては開明可能なものとなるのである。
 孤独のこのような交わりに反対して、この交わりとは根源的に疎遠なひとつの根本態度が、対立する。すなわち〔この態度は〕、「そのような交わりは単に、孤独な者たちの共同体という、希望無き試みである。そこでは単に、我意が強情な自己存在があるのみであり、この自己存在は、真正な共同体の内に存するところの真理にたいして、自らを閉ざす。罪ある孤独者は、ひとつの哲学的営為を、孤独の仲間を持つという自らの妄想として、自分のために作り出すのである」、と〔言おうとするのである〕。だが、それでは真正な共同体とはどのようなものなのか、という問いにたいしては、これが答えとなる:「すべての人間たちを結びつけ得るもの」、と。これこそが、啓示された真理であり、信者たちの共同体においては、この真理に従順に従わねばならないのである。あるいは、それは、正当な世界整備の理念であり、すべての力を唯一の意志に導かれた権力へと排他的かつ国家国民的に統合するという理念、万人の幸福としての制圧的な世界形成の理念、等々である。人間は自分自身から撤退しなければならない。私が全体に奉仕するならば、私は真の共同体の内にいるのである。自己存在は自己喪失であることを意味する。〔そう、この態度は言うであろう。〕
 両者、交わりへの哲学的態度およびこの敵対者たちは、「真理は、共同体を創設するものである」という命題を確信している。宗教と哲学は、次のことに関しても〔見解が〕一致している、すなわち、単に了解可能なものは、ただ、見せかけの共同体を、客観的に知られるものにおいて建てるだけである、ということに関して。了解可能なものは、本来、理解不可能なものの内における共同体にとって、媒体なのであって、この理解不可能なものを了解可能なものは、明瞭化の無限な過程へと引き入れるのである。だが、知られたものとしての単に了解可能なものは、自己存在から離されているゆえに、無拘束となる。この知られた了解可能なものが主要事となると、共同体をゆるがせにする。すべてを明澄な水のように合理化するならば、共同体としての交わりは消え去っているであろう。
(63頁)
 共同体を創るところの理解不可能なものの、場と根源に関して、分離が始まる。この理解不可能なものが存するのは、ひとつの哲学する現存在にとっては、事実的に相互に出会う人間たちの自己存在の現実においてであり、ひとつの従順な現存在にとっては、客観として固定化された神の啓示においてか、マルクス主義のような世界像の権威的な正当性においてかである。私にとって価値があるのは、生身の人間たちへの私の交わりの歴史的現実のほうであることがあろう。その場合、私が自分であるのは、私が客観的真理として聴取し得るもののおかげであるより以上に、その人間たちの自己存在のおかげなのである。あるいは、私は人間たちへの私の可能的な交わりを、ひとつの一般的な「万人への隣人愛」の中に沈み込ませることがあろう。その場合、この万人への隣人愛は、自らの支えを、神性への私の無世界的な愛において持つか、あるいは人類の使命という、ひとつの合理的であるにもかかわらず理解不可能なほど暗い意識において持つかなのである。私は、自己存在を交わりにおいて獲得するために、常に新たに孤独を敢行するか、あるいは私は、自分をひとつの別の存在において究極的に止揚しているかなのである。
 この分離は、「万人の共同体」という可能性への態度のなかで深化させられる。経験的な考察において、たしかに、繰り返し、つぎの命題、すなわち、「より多くの人間たちが何か或るものを了解する程、そのものは内実を持つことが益々少なくなる」、という命題は真理であることが、思い知らされる。しかし、哲学的な真理は、すべての人間を、彼らとの交わりが要求され続けるところの、可能性ある他者たちとして見るのであるから、この哲学的真理にとっては、つぎの要請は止揚することの出来ないものなのである、すなわち、「最も深い真理は、すべての人間が了解することが出来るであろうようなものであり、その結果として、ひとつの唯一の共同体となるであろうような真理である」、という要請がそれである。このようなディレンマにおいて、つぎの根本心術が、他の心術と分離するのである。すなわち、「暴力的に統一を強要しようと欲し、全く表面的な理解をもって、それどころか理解無き服従をもって、自己満足する」ところの心術が、「真理のために何ごとをも欺瞞的に先取しようと欲せず、それゆえ、事実的であってただ真正な交わりの内でのみ、俯瞰し得ない過程において克服されるべきものを、承認する」ところの他の心術と、分離するのである。なるほど、自らの秩序の内で現存在の可能性を気遣う共同体は、万人を了解するという目的を持っていなければならない。だが、この共同体は、正に其処で私が本来的存在の意識を獲得するような共同体ではなく、人間世界の秩序〔と言うべきもの〕であって、其処では、理解されるようにならないものが相互に敬意を払い合いもし、また、拡大してゆく交わりの内でますます接近し合ってゆくという課題がいつまでも存しているのである。
 孤独と交わりとの緊張における実存の可能性は、選択であって、この選択は、(64頁)誰にとっても普遍妥当的なものとして思念されているのではなく、自己存在にとって無制約的なものとして思念されているのであり、人間にとって接近可能な存在を人間において摑み取ることとして思念されているのである。
 2.開顕化 — 現実化。— 交わりにおいて私は私にとって他者と共に開顕する。
 この開顕化は、しかしながら同時に初めて、自己としての「私」の現実化なのである。およそ私が、開顕化は生まれつきの性格のひとつの開明であると考えるならば、私はそのような考えによって、実存の可能性を見捨てるのである。この実存の可能性は、開顕過程において自らにとって明澄になることによって自らを更に創造するものなのであるが。対象的な思惟にとっては、当然のことながら、前以て存在しているもののみが開顕化することが出来る。だが、生成をもって同時に存在をもたらすような開顕化は、無から現出するかのようなものであり、それゆえ、単なる現存在の意味におけるものではない。「私は生まれつきそうなのだ」という観方に私が立つならば、私の素質を私は人生において認識するかもしれない。だが、私は私であるところのものに留まり続けるのである。そのようにして私は心理学的な考察によって自分に関わり〈態度をとり〉、「完全な経験的知というものは既に早くから私に関して、私が何であるかを私に言うことが出来るだろう」ということを前提するのである。このことは、諸々の素質や特性については適切なことであり、これら素質や特性を知ることは、私の状況における「方向定位〈定位・方向づけ〉」(Orientierung)に属することなのである。だが、可能的実存の決断する意識は、この所与性を摑み取るのである。この所与性に関して明晰さを探求することは、ただ、実存的開顕化の前提であるのみであって、この開顕化によって、世界の内で、私が経験的現存在としてそれであるところのものが明瞭になるのみならず、私自身であるところのものが明瞭になるのである。このような開顕化にとって、与えられたものの状況における実在的な諸限界を承認することは、つぎのことを意味する、すなわち、「私は与えられたものにおいて、やはりただ、ひとつの別の実現の〔ための〕素材を得るのみなのだ」、ということ、「したがって、与えられたもののそのような承認は、いかなる知も究極的ではないからといっても、しかし同時に、経験的な眼差しにとってはありそうもない、あらゆる限界を踏み越える可能性を、含み持つのだ」、ということを。— 実存的な「開顕性への意志」は、見かけ上は対立し合うものを、自らの内に含んでいる。すなわち、「経験的なものについての仮借なき明晰性」と、「これを通して、私が永遠にそれであるところのものに生成する、という可能性」。また、「経験的に現実的なものの不可避なるものによる縛りつけ」と、「この不可避なるものを、摑み取ることにおいて、〔別のものに〕変えるという自由」。そして、「既在を承認すること」と、「あらゆる固定化された既在を否認すること」〔、このような、見かけは対立し合うものを含んでいるのである〕。
 このような「開顕性への意志」は、交わりにおいて自らを全的に敢行するのであり、この交わりにおいてのみ、自らを実現し得るのである。つまり、この意志は、あらゆる既在を差し出すことを敢行するのであるが、その理由は、そうすることにおいて自分自身の実存が初めて自らに到来することを知っているからである。これに対して、「閉鎖性への意志」(覆面への、諸々の防御手段による未然防止への〔意志〕)は、ただ見かけ上交わりへ歩み入るのであるが、(65頁)〔交わりへの意志として〕自らを敢行するのではない。何故ならこの意志は自らの既在を自らの永久な存在と混同しており、既在を保全することを欲しているからである。閉鎖性への意志にとって開顕化は破壊であろうが、自己存在にとっては開顕化は、可能的実存のために単に経験的に現実的なものを摑み取り克服することなのである。というのも、開顕化において私は自分を(存立する経験的現存在としては)失うのであるが、それは自分を(可能的実存として)獲得するためなのであるから。閉鎖性において私は(経験的存立としての)自分を守るのであるが、(可能的実存としての)自分を失わざるをえない。開顕性と実存的現実性とは、「相互に無から生じるように見えながら自分たち自身を支え合う」という関係にあるのである。
 開顕化としての現実化の、この過程は、孤立した実存においてではなく、ただ他者と共にのみ遂行される。私は個別者としては私にとって開顕的でも現実的でもない。交わりにおける開顕化の過程は、かの唯一無双の闘争であり、これは闘争ではあるが同時に愛であるような闘争なのである。
 3.愛しながらの闘争。— 愛として、この交わりは、どのような対象にでもお構いなしに当たってゆく盲目な愛ではない。そうではなく、この交わりは、見透す力のある、闘争しながらの愛なのである。この愛は問いただし、難しくさせ、要求し、可能的実存に基づいて他の可能的実存を摑み取るのである。
 闘争として、この交わりは、実存を巡っての単独者の闘争である。この闘争は、自分と他者との実存を同時に[in einem]巡る闘争なのである。現存在闘争においては、あらゆる武器の利用が通用し、策略と欺きが不可避となるが、これは敵としての他者に対抗する態度なのである — このような他者は、ただ端的に他者なのであり、対立的に作用する自然に等しい —。一方、実存を巡る闘争において問題なのは、これとは無限に異なったものである。すなわち、余すところ無き開放性が問題なのであり、すべての権力と優越性とを締め出すことが、自分自身の自己存在と同然に他者の自己存在が、問題なのである。このような闘争において、この両方の自己存在は、〔相手に〕率直に自らを示して問いたださせるということを敢えてする。実存が可能である場合には、実存は、(部分的には客観的となりつつ、現存在の動機からは理解不可能なままな)闘争しながらの自己献身を通して、(けっして客観的とはならない)このような自己獲得として現象するであろう。
 交わりの闘争においては、ひとつの無比な連帯性がある。この連帯性が初めて、かの法外な問いただしを可能にするのである。なぜなら、この連帯性が、敢行を支え、共同の敢行にし、成果を共同的に保証するからである。この連帯性は闘争を実存的交わり〔の次元〕に限定するのであるが、このような交わりは常に、その都度の二人の者の秘密なのである。このようにして、公然性のために身近な友人たちが存在し得ることになり、この友人たちは最も決定的に(66頁)実存を巡って互いに格闘するのであるが、この闘争においては収穫と喪失とは共同のものなのである。
 
〔つづきは、《ヤスパース『哲学』翻訳(第6部-1)第二巻「実存開明」「第三章 交わり」》を検索して御覧ください。〕


根源としての交わり (50頁)
1. 現存在の交わり —(51頁) 2.実存的とならない交わりへの不満 —(55頁) 3.実存的交わりの諸限界 —(58頁) 

実存的交わりの開明 (60頁)
 1. 孤独 — 統合 —(61頁) 2.開顕化 — 現実化 —(64頁) 3.愛しながらの闘争 —(65頁)