高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

この世は神さまの作る演劇だと思ってみる

2024-08-25 03:10:11 | 日記

この世は神さまの作る演劇だと思ってみる


2024年07月10日筆

 
自分本位に生きていると、どうしても ゆとりを持った観方ができなくなります。そういうときには、すべてはじぶんの責任であるような気もして、安らかでもなくなります。自己責任の意識も、ゆとりをうばうわけです。そういうばあい、思いきって、じぶんの意志によると思っているようなものも、すべて神の自作自演の演劇だと観じてみるのがいいな、と最近ぼくは思っています。演劇だから、予想外の、えっ、何でこんなことが、と思うようなこともあるかもしれません。そういうこともふくめて、見えざる筆者である神の思惑がはたらいているのだと観ずれば、思いもかけないゆとりが心に生じます。自縄自縛の苦しみから脱しようとすれば、神の観点を想定して、神さまが劇を創作していらっしゃるのだ、と思ってみる、「信仰」が必要なのではないかと、最近気づくようになりました。

「自己への退却」ということを書いていますが、「神への退却」は もっと能動的な行動だと言えるかもしれませんね。このことが最近の気づきの頂点だと思われます。

 
 
 
 
 

高田さんの誕生日八月十九日

2024-08-25 01:37:33 | 日記

高田さんの誕生日八月十九日


2024年08月19日筆

 
高田博厚さんは千九百年八月十九日に生まれた。その精神の普遍性のゆえに敢えて何処と言う必要はない。日本人のために生まれたのだ。そして他の面では様々ある西欧も、高田さんが相手にするのは その普遍性を本質とする文化面である。そういう文化面における芸術・美術である。高田さんに限って言えば、かれは貧乏のどん底をなめ尽くした時代がとくに若い頃あり、美という〈綺麗〉な面のみ見てきたどころではない。高田さんが私淑してきたミケランジェロやルオーの美もまた、魂の苦難と懊悩を経て浄化され生まれてきた「魂の美」である。そして高田さんは、日本では〈坊ちゃん〉と言われて括られる文化人にたいしても、寛容というよりもむしろ彼らとこそ同胞的で親しかった(白樺派との親交等)。天性的な、「人間」のみを見る度量と態度があったからである。
 かれの格闘した「美」とは何か。人間の魂を証するものであり、綺麗ごととは真逆のものである。「飾ることは罪だ!」というルオーの言葉が中核に光る、高田さんの「ジョルジュ・ルオー論」を主論として書いたぼくの『形而上的アンティミスム序説—高田博厚による自己愛の存在論—』もまた、理解をこれからも待つであろう。何がこれをぼくに書かせたのかを思うとき。
 
 
世間との対峙ということは、いまのぼくには、というより もともと、どうでもいい。美というものが世間を捨てられる信仰でありうるか、その意識の集中度こそ問題なのだ。その集中度で自分からも解脱できるから。
 
 
「高田博厚」そのものが、日本の歴史に出現したひとつの形而上的美である。その文章世界は、造形を上回るか、文章世界の証を造形は垣間見させるものだろう。それほどかれの文章は惹き、魅惑する。かれの造形を鑑賞するためには、かれの文章世界を知り、我有化していなければならない。これがかれの強みなのか弱みなのか、その判定にぼくはそれほど興味はない。だから、高田博厚という存在そのものが、ひとつの美ではないかとぼくは思うのだ。 
 
 
 
 
 
 



出られないトンネルは無い

2024-07-15 21:43:52 | 日記

出られないトンネルは無い


2024年07月15日 19時筆

自分に向って

 
出られないトンネルは無い。それがトンネルであるかぎり、トンネルの定義からして。われわれの状況をトンネルのようなものだとしか思えないかぎり、われわれは本性的に希望を、つまり信仰をもっており、そのかぎりで生きているのである。だれも信仰をもたないなどと言える者はいない。これは人間の本性なのである。

 
 
 
 
 
 

因果応報は反撥の法則

2024-07-06 03:03:33 | 日記

因果応報は反撥の法則


2024年07月06日(土) 02時筆

 
人間は、服従しないで反撥するから人間なのだ。意外に思われようが、この反撥心によって因果応報の世界も成り立っている。誰かがぼくを侮ったとする。ぼくがその瞬間、なにを、と反撥心を起こすなら、応報の結果をもたらす原因が入力されたのである。どんなに時間がかかろうとも、それほど時間がかからなくとも、ぼくはその者に必ず報いる未来を経験することになる。不思議なことに、ぼくの生はそういう因果応報の連続だった。それを起こしたのは、ぼくの反撥心という意志だったことに、いま、思い当たっている。だからこれを書いている。こういう種類のことは言われておらず、そして、相当重要な気づきだと思うからだ。有名なウサギとカメの童話も、カメの反撥心という意志がもたらした逆転劇だというのが、その本質である。意志の力というものを過小評価してはならない。純粋な断定である意志(訳しているマルセルの形而上学日記にちょうどそのことが言われている〔183頁〕)には、あたかも護り神が控えているかのようだ。だから、誰をも舐めてはならない。このことをイエスも言っているのだ(イエスが実在したかどうかではなく、その言ったことの真実性を問題にしている)。ぼくが不当に誰かを舐めても、同じことが起こる。そしてその逆襲に部分的にふくまれている不当さをぼくが感じて反撥すれば、今度はぼくの側からの逆襲が相手を襲うだろう。これが因果応報なのだ。因果応報は智慧(真実に気づくこと)によって乗り越えられねばならない。われわれは〈ごっこ〉をしているのではないのだ。そして、ただ権威に服従しているだけの者など、さらに要らない。
 
 
 
 
 

ベートーヴェンと音楽

2024-07-02 15:42:33 | 日記


ベートーヴェンと音楽

2024年07月01日(月) 筆

 
最近あまり話題にならなくなったベートーヴェンについて改めて思うことがある。聴こえるからこそ愉悦をあたえる音楽を聴けなくなったベートーヴェンの、音楽にたいする関わり方が、普通のものであるはずがない。普通は、聞こえるからこそ音楽への熱意が生じ、持続される。ベートーヴェンの場合は、聞こえなくなったからこそ熱意が燃え立ったのではないか。彼は、たしかに、精神で聴こうとしたのであり、その逆説的な熱意が、彼をして聴くを得さしめたのだ、と思われる。聞こえない音楽を聴いて感動するベートーヴェン。聴くという行為もそこまで高まりうるのだ。人間の可能性を彼は開示した。
 
彼の教訓は、奪われたもの、与えられなかったものを、精神によって取り戻し、獲得する、ということである。
 
 
高田さんがベートーヴェン像をつくらなかったのは惜しい。モデルの現存は絶対条件だったのか。