高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

”「人間」を護る”

2023-05-20 23:23:30 | 高田博厚の芸術哲学

”「人間」を護る”


「高田博厚」

 
2021年06月07日

高田博厚 芸術論

 
高田さんは、いちばん恐ろしいことは「人間」が無くなることだ、と書いている。これは、人間が「自然」や「神」と自分とを照応させることをかんがえなくなることだ、と言い換えられるだろう。この根本的な文化課題について深く思いを巡らすことが、ぼくがぼくとして生きる課題でもある。 
 
 世のなかはおかしなことばかりで、ぼくの遭遇した事件も、いまの禍も、高田さんが経験した戦争も、人間を人間ならぬものへと背かせ呑み込もうとすることでは同じである。人間から矜持を奪おうとする。 「芸術は反運命的なものだ」 とアンドレ・マルローは言ったが、これは、宿命に抗して己れの運命を成就する、と言っても同じだとぼくは思う。己れの運命さえ持ち得ないのが、いまの世の大方の人間である。 
 
 高田さんは、争乱の渦中においても先ず自分の「人間」を護ろうと、デカルト的な決意で臨んだ。それがどれだけ「個」を超えて普遍的な意味をもつものか、われわれがその「遺品」を前にして感じ思うのは、そのことでなければならない。『無言館』のそれと同じである。 
 
 
 





”〈愛〉と〈詩・芸術〉の人間存在論 覚書”

2023-03-26 22:57:00 | 高田博厚の芸術哲学

”〈愛〉と〈詩・芸術〉の人間存在論 覚書”

2023年03月05日(日) 02時30分33秒

 
テーマとして見いだした大事で核心的な問題は、意識して繰り返し問い、つまり言表して、展開しなければならない。この言表展開をぼくはやろうと決意した。
 すなわち、
 
「〈愛〉と〈詩・芸術〉の人間存在論」 である。 
 
 

2023年01月27日(金) 13時43分46秒
 
人間は愛なしでは生きていられない、とよく言われる。それは、人間が本来、時間・空間を超えた本質を有しているからであり、時空を超えたものへの参与なしには自分の本質と一致しないからである。それを最もよく啓示してくれるのが愛の経験なのだ。最も内面的であるがゆえに外部的なもの(時空)を超えている人間本質、それは主体性と間主体性という両極性において現われる
 愛は本来、時空を超えた形而上的なものである。そしてそれは人間の本質と一致する。ゆえに人間は愛なしには、つまり時空を超えた自らの本質なしには、人間らしく生きていられない
 このこといっさいは、真剣に真面目に受け取められねばならない。
 そしてここに詩と芸術の意味がある。愛の、形而上次元の、扉を開くもの、確かめるもの、として、詩と芸術はあるのである。詩と芸術によって人間は人格的な愛に直接に目醒めもするのである。
 ゆえに愛と詩・芸術には、人間の存在論が懸っているのだ。
 



””マルセルは何故戯曲を書くのか””
 
2023年03月12日
 
戯曲は、人間の心に寄り添う(あまりに濫用されている言葉だが)訓練と快楽であり、まさに親密性の実現ではないか。親密性とは間主体性が意味するところのものである。ただの二人称関係ではなく、超関係的な境位である。そこには神的なものがある。たとえその描くものが壊れた世界であっても、それを描く行為は間主体性の境位のみから出来るのであり、戯曲の経験そのもののなかにその境位の感得はあるのだ。
 
演劇創作でも、彫刻でも、通常の自我を超出したメタフィジックなもの(それを魂の境位と呼べば、純粋自我でもあるもの)への行為が、芸術行為であるとは言えないだろうか。
 

 
3.23 
 
〈愛〉のために時を使うときこそ、じぶんは居るのであって、ほかはすべて自己満足、自己放棄だということは、教育はけっして教えない。〈詩人や芸術家〉は、それを知っている者でなければならないだろう。そのことを思いだすために、週休日はあるのであって、これは深い知恵である。神を思う日というのは、自分の魂を思う日、じぶんの愛するひとに集中する日、ということと同じである。すべての社会的拘束を離れる日。これはすばらしいことである。日本人はまだそのことに充分目醒めていないことが、日本人につよい「甘え」の原因にもなっていると言える。土居健郎の「甘えの構造」は、甘えを否定しているのではなく、人間には自立と甘えのバランスが必要だと言っているのである。このバランスを得ることは、魂の秩序あってはじめてできるのだというのが、ぼくの変わらぬ思いである。このことは、人間の生活におけるメタフィジックな次元の必要に覚醒させるものであり、これが、知性である。
 
 
3.26

彫刻のような孤独な行為も、魂に向かって単なる主体性を超える行為であるかぎり、本質的には間主体的な行為であると言えないだろうか。意図を超えた行為。だから宗教的な、メタフィジックな行為であると高田博厚によっても言われるのだ。
 
「神」と言うにはじぶんの力が足りないゆえに「メタフィジック」と言うと高田博厚は言っている。これは「形而上日記」とじぶんの思索帳を言うマルセルと同じである。自分が自分の魂に行動することは本質的に間主体的な行為であり、ゆえにメタフィジックな、宗教的な行為なのである。マルセルの演劇創作と本質は変わらない。
 

超越者は、俯瞰できないほど多様な形態において自らを啓示する、というヤスパースの言葉を、これに重ねることもできる。 マルセルの間主体性という観念は、メタフィジック一般を広義に示すものと解することができる。
 

ぼくのすきな高田博厚とマルセルをつなぐ一本の糸が見いだされたと感じられるだけでこれほど温かい満たされた気持になれる。  人間行為に関する具体的かつ普遍的な形而上的観点が浮き立ってくるからである。 
 

間主体性こそは、美 と 愛 と 信仰 の本質である。

 



”自分の「高田博厚の世界」” '17

2023-02-04 17:30:17 | 高田博厚の芸術哲学

”自分の「高田博厚の世界」”


 

2017年07月28日 

 
ネットで高田博厚の作品も検索できるようになったのは、いいようで、大衆レベルの目線を介して触れるのがよくないようで、両面ある。ネットを利用することと、ネットの雰囲気を再び締め出して自分のほんらいの「高田博厚の世界」に戻ることとを、自分のなかで意識して行い、自分のほんらいの世界の境位を意識して保ち深めるのは、とうぜんである。 
 
 
 
芸術というのは、ほんとうに知性のある者が携わるべきなのだ。ところが、すくなくとも日本では、すこし知性のある(けっして本当の知性とも思えないが)者は、知識のほうに逃げてしまう。結果、あまり知性のあるとはいえない者が芸術に携わり、世間も、そういう者たちを持ち上げざるをえない。芸術の現実にわれわれが常住的に覚える不満は、単純に、こういう事情に起因しているようにぼくには思われる。
 高田博厚は、ほんとうに知性のある者が まともに芸術に取り組めばこれだけのことができるということを証する稀な例であると思う。 
 
 
 
 
 
 


美とは、魂の永遠を感じさせる形象的象徴である

2023-01-31 02:58:05 | 高田博厚の芸術哲学

美とは、魂の永遠を感じさせる形象的象徴である


(高田博厚 芸術論)

 
これが美の基本定義。ゆえにこれを追求する美学は根源的に形而上学と関係する。
 
 
いじょうはぼく自身の言葉だが、高田博厚論に入れておく。内容的にふさわしい。
 
 
そして愛は魂であるということも。
 
 
 
 
近日、ぼくの哲学も堅固な明瞭さを得てきたことに基づいて、上のことを書いた。