高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

ヘルダーリンの国家観 および 国への意見 

2022-02-28 01:12:55 | 日記

ヘルダーリンの国家観 

《「・・・国家は、その権力を用いても実現が不可能のことを、要求すべきではない。愛と精神によって実現されるもの、それは命令ずくで実現されるものではなく、国家は、そういう世界には手を触れないでいるべきだ。・・・天に誓ってぼくは言いたい。国家を道徳の学校にしようと思う者は、自分がどんなに大きい罪過を犯しているかを知らないのだ。いずれにせよ、人間が国家を天国にしようと思ったことが、国家を地獄にしてしまったのだ。

 「国家とは、生命の中核をつつむ固い殻であって、それ以上の何ものでもない。それは人間の花と果実に充ち充ちた庭園にめぐらす石塀なのだ。

 「だが、庭園にめぐらす石塀もなんの役に立とう、もし地面が乾ききっているだけならば。それを救ってくれるのは、天からの慈雨だけだ。

 「おお、天から注がれる慈雨よ。感激よ。おまえは諸国民の春をわれわれにふたたびもたらすだろう。国家の命令でおまえを呼び出すことはできない。ただ国家は、おまえが来るのをじゃましないでおればいい。そうすれば、感激よ、おまえは来るだろう。・・・黄金の雲の中におまえはわれわれを包み、この有限の世界を高く越えてわれわれを運んでゆくだろう。そのときわれわれは驚嘆して、たずねるだろう。このわれわれがかつてのわれわれ、あの見すぼらしい存在、星たちに向かって星の世界に行けば春があるのかと尋ねた憐れむべき者と同じ存在であるかを。――きみはたずねるのか。いつになったら、そうなるかと。・・・ 神性の感情が目ざめて、人間に崇高さを、その胸に美しい青春をもたらすときだ。それがいつであるか――ぼくにその予告はできない。ほとんど見当もつかない。だが、それは来る、きっと来る。死は生の先触れだ。そしてわれわれがいまこの病室で眠っていること、それが健康の目覚めの近いことを証明している。そのときにこそはじめて、われわれはわれわれの存在を確立する。そのときにこそ、真の精神をもった者たちの世界が見いだされる」》 

詩人 ヘルダーリンの唯一の小説『ヒュペーリオン』より


すこし長々と引用しましたが、国家のあり方について深く示唆するものがありますのでご紹介いたしました。いわゆるコロナ禍は、すでに、軽度のインフルエンザと変わり無く、国は、国民ひとりひとりの人間としての生活に口出しすべきではありません。普通のインフルエンザにたいする用心と同じでよく、三密・とくにマスクは、現在特別に意を用いるべきものではなくなりました。ワクチンと称する未治験遺伝子作用薬などは言語道断です。国民が人間らしい生活をすることを妨げるすべての作為政策を国は撤廃する時期です。最初の一年くらいであれば、敢えて協力してもよかった。しかしその後は、公はたわけごとばかりです。国家はなにを為すべき機構であるか、基本に立ち返って、ふざけた操作から目を覚ましていただくために、一筆いたしました。怒るなどという次元ではもはやありません。


上の意見に なお付け加えさせていただきたいことがあります。

 従来の意味でのワクチンではない遺伝子作用未治験薬の接種は言語道断であるのでここでは問題としないとして、いま問題としたいのは、三密回避やマスクの習慣づけが、どれだけ人間の本来的在り方、すなわち「実存」を、疎外しているかということの、真摯な意識が、行政にはまるで無い、ということです。行政がすることといえば、最初から、医療機関、医者を大事にせよということだけです(それをメディアに鼓吹させています)。それを梃子に、社会と国民生活全体を機械的に統制する、そういうことを日本の行政も、まったく無神経にやってきました。これには、コロナ禍対策という純粋意図だけでは理解できないものが初めからあります。医療機関の維持や医師の生活も、他の社会組織や人間の生活と同様、大事でしょう。しかし医療機関や医師のために社会全体があるかのような当初からの行政の態度には、度を越したものがありました。社会的観点から見れば、医師たちは、かれらの生活の方途として、職業として、医師・医療の道を選んだのであり、それはほかの道を選んだ市民にたいして何ら優越する地位に立ったことを意味するものではありません。社会的な貢献の志を問題にするなら、一部を除いてどんな職業にも等しく志を抱かせる本質は厳存します。私が学者の道を選んだのは、学問の培う教養こそ社会で最も大事なものだと言えるという私の信念からです。どんな職業にでも、各々、そういう信念は抱くことができます。医師にも、消防士にも、自衛隊員にも、無数の職業の従事者に、信念を抱く資格と理由があります。メディアに、〈医師は尊敬したほうがよい〉などと鼓吹させるどういう意味があるのですか。自分で選んだ職業には、命を懸けるのは当然のことです。そういうことよりも、現在、危機にあるのは、人間の本来性、実存であることを、意識し、常に、人間の「自分」の本来的な在り方への配慮を忘れない施策を講じることが大事です。その結果起こるかもしれない国へのしわ寄せは、甘受すべきだと私は思います。いろいろ問題はありましょうが、そういう態度が基本的に大事なのです。その反対のことが、これまでされ放題になってきました。あまりにも言われてこなかったこのことを、ここではっきり申し上げておきたいと思います。


謹言 



運命の愛を断つことができるこの世

2022-02-27 20:42:33 | 日記


2022年02月23日(水) 筆


 
運命の愛を感じるからといって、この世で結ばれるとはかぎらないことを、学校で教えないなら、何のために学校があるのか。これはぜひ、心得ておいてほしいことだ。 この世は、この世で企てられること自体によって、運命の愛でも断つことができるのだ。この世においては。だから形而上的次元への覚醒が呼び起こされることにもなるのだが、この世では運命の愛も断たれること自体は、酷いことだ。運命の愛も、この世では、この世に勝てない。この世では、きれいな花があると、その花が運命的には誰のものなのかを頓着することなく、この世の都合と欲で、平気で簒奪してしまう。そして、運命の愛は、これに勝つ力がない。純粋であるほど、そうである。純粋な愛を覚える者が、その愛を護るために、世間知で動くものか。その純粋さのために、いつもまんまと世間の計略に負かされてしまう。闇討ちに遭うのだ。魂への配慮に集中している神や天使は、この世においては、この世に勝つことまで面倒をみてくれない。勝つといっても別の次元においてのことであって、この世での勝利ではない。その厳しさと酷さに、あなたは耐えることができますか。愛に油断しないことができますか。これいじょうの矛盾はない。学校や教科書はおしえない。 しかしこれはぜひ知っておいてほしい。 
 
 
 
 
 



罪と罰との存在論的解消へ至る思惟

2022-02-23 00:52:38 | 日記

2022年02月19日(土) 筆 


 
ぼくは集合容喙現象と呼んでいるシンクロ現象を多量に経験しているので、世界観も、そこから推測する独自のものを、純粋哲学と並行して思惟しつづけている。たとえば、罪と罰の問題にしても、じぶんが為した罪の報いとして罰があるという普通のかんがえ方とは別に、そうではないのではないか、罪も罰(と思われる現象)も、善悪に頓着しないのに善悪の観念だけは理解している創造主あるいはその分身であるかのような魔物が、戯れに起こしている同時(共時)現象であり、自由に行為しているつもりの我々も、この現象の駒としてそこに組み込まれている、と捉えてもいるのである。宇宙に唯一存在しているのは神のみであり、この神のみ唯一の実体であると理解するスピノザの哲学は、すべての世界現象において唯一の原因である神が、自然のみならず人間の自由においても働いており、形而上的には神の自由のみが在るのであり、我々人間の自由と感じられているものはじつは神の自由に基づく必然である、と理解させるものであり、旧約聖書に記されている、エジプト王に罪を為さしめるために王の心を頑なにさせることが出来る創造主の力を、合理的に理解させるものでもある。この場合王とエジプトへの罰も、神の力による「罪-罰」共時性現象にほかならず、人間の相互因果の次元を超越して、王とエジプトのためにも我々をして祈らしめる境位へ導くものがある。ここでは、真の責任主体は神のみであり、人間は、敵味方とも、神の自由によってその気にさせられて動かされる駒にほかならない。厳密には罪も罰も、形而上的には無いのである。 だから、ぼくには、どんな宿敵どうしでも、その因果を超越して、いわば平然とした相互承認を抱き合い得る可能性と自由が、逆説的だが、われわれのうちに生じうると思われるのである。そういう境位までわれわれが超越すれば、である。神の観想に明け暮れるスピノザのような人間には、それができたはずであろう。