高田博厚 芸術論
いまの状況においてこそ読むべき価値をもつ重要論考である。
ぼくの課題 「高田博厚における自然と神」 に強烈に示唆をあたえる諸観点をぼくはここで書いている。 おどろくべきことに、いまより意識と分析がクリアーである。いまするべき論述の根拠をここに求められる。
2016年07月16日(土) 15時
「高田博厚における神」
本論の趣旨は、一般に混同され同一視されている「創造主(天)」の観念と「神」の観念とを分かち、比較思想の営みのひとつの淵源を示すことにある。
人間は自然界・生物界の力動的秩序を観想することでその根源にひとつの有意志的存在を思念し、これを創造主または神と呼んできた。この神は我々の生存自体を支配し左右する存在であり、故に古来、感謝と同時に畏怖の対象であった。自然というものに我々への恵みと同時に非情な意志を感じ、時に残虐な生贄さえ捧げてきた人類の歴史がそれを示している。
しかし一方で人間は、自然の中に、そして多分人間のみが、本来は苛酷な生存闘争の展開である生命現象の中にも、「美」を感じ、これを表現しようとする。その経験と創造を通して人間は己が「魂」に目醒める。何故なら、自然そのものの中に生への意志は在っても、この意志の現象の中にも美を感ずるのは、我々人間の意識においてのみであることが、そこで気付かれるからである。ここに、神と呼ぶほかない存在に我々が出会う全く異なった境位がある。この境位に導いてくれる古今独歩の魂の燈台が、高田博厚(たかた・ひろあつ、一九〇〇 - 一九八七)である。
高田は、長い滞欧生活を通して芸術創造の根源を会得した彫刻家として知られている。同時に彼は博学な思索家として、人間の魂的真理の反省と啓発によって、特に戦後日本の精神層(例えば森有正)に本質的な影響を与えた。その人間思索の中核には「神」への独自な問いがあり、我々は自らの魂的孤独の生を通してのみ神を「触知し得る」とする。己が魂を証する創造的人生は、この人生と共にのみある神を求め神に近づいてゆく道である。
これに対し、創造主(天)という理念存在に我々は、生命界の単なる一因子として対面するのみである。この存在は我々に何よりも、全体の発展維持のための奉仕と自己犠牲とを要求する。この全体の具体形が社会共同体であり国家であるが、生存のための闘争という生物界の原理をその根本状況としている。この全体主義的生命原理からは決して、個としての生命の尊重・尊厳の観念は出て来ないことは、生物界と我々の政治的社会現実とにおいて不断に確認される。
この事実を踏まえた上で、ならば我々が自明の普遍的倫理と見做している、個の生命の相互的尊重は、何を根拠とするのかを問わなければならない。この根拠は、生命創造の世界意志とは異なる、個々の我々の人間意識において、見出される他はない。個の生の運命がいかに産みかつ破壊する悪魔的原理に支配されていようとも、単なる生以上の、魂と呼ぶほかないものの生が、魂にとってのみ在る神と共に、個の命に担われて現存する――この意識こそ、この「美を懐く魂の尊さ」の感情こそ、「命の尊厳」という普遍的倫理観念の根拠である。高田の人間思索はここへ導く。
2013.2.11
以上は以前書いたものの写しであるが、原稿用紙三枚分におさめている。分量を意識しているので、その制約はある。何か付加することもあるかも知れないが、この形で一応紹介して、任と感じるものを果たす。
なお、これはいま思っていることであるが、人間は、ただ現存在しているだけでは、自己の存在の尊重を主張する何の権利もない。尊重と尊厳に価するものとならねばならない。絶対価値は「実存」であって、人間は一般に「実存の可能性」として尊重されているにすぎない。それ自体において無条件で価値があるわけではないのである。精神的、魂的内実の価値を故意に毀損する者は、死刑に処すべきだと私の直接的感情は告げる。私の理性は、執行猶予を提案するが、矯正の可能性を前提した上でであり、感情が基づく原理に反対しているのではない。
記
ぼくは、2010年、五月の青空のような平和な心境で、自分の普段の学問営為をしていた最中に、まったくの無関係な横槍の強制的暴力で、この世に生まれてから自分の営々と平和に積み上げてきた持続的生活を絶たれた。この暴力者共が、どんな自分勝手な理由を仮に持ち出したとしても、この暴力を為した時点で、いかなる自己正当化もできず、裁かれるべく定められているのである。自分達が悪であることを自証している。どれほど平静を繕っても。ぼくが拠るべきものは、自分の判断いがいにはない。相手はおそろしい知恵者である。ただ、知性はぜったいにない。あらゆる詭弁を排して、ぼくはこのことを明証的に直観し、直接的に確信している。
きょう〔15日〕は昼間、ものすごい睡魔で眠り、夢をみていて、何度も夢と現実をとりちがえていた。現実では起りえない不合理に気づいて、これは現実ではないと判断しては、夢から目覚めるということをしていた。そのなかで、夢でも現実でも変わらないこともある。ステンドグラスの様々な色彩光が部屋の壁や床などに映されるのを見ており、その夢の光景をいまでも思いだす。ぼくもまだ色彩夢を見るのだ。憂鬱な雰囲気ではあったが美しかった。ここに記せるのはこういうことくらいだ。夢ではぼくも苦痛ではなく普通に生きて知覚している。夢のほうが生きている。死んでも夢と現実の区別があるのだろうか。死とは、生と死の区別、夢と現実の区別が無くなり、それらの共通要素のみで成る世界に生きることではないのか。芸術の世界がそれだろう。
魂とはそういうものなのか。魂には魂こそ真実であって、夢と現実の区別も 生と死の区別もない。そうあってほしい。生きて感覚される魂であってほしい。
すこし休憩をしよう。
高田博厚氏の〈神〉 - 2012.12 -
三年程前、・・・拙著『形而上的アンティミスム序説 ――高田博厚による自己愛の存在論――』を上梓させて頂いたが、その中で述べた、彫刻家高田氏の求める〈神〉の特性を、自然界の創造主として神と呼ばれる存在との対比において感ずることが、最近多い。
後者の神は、我々人間の生存自体を支配し左右する存在である。故にそれは古来、感謝と同時に畏怖の対象であり、時に人間は残虐な生贄さえ捧げてきた。自然というものに、人間への恵みと同時に非情な意志を感じたからである。
しかし一方で人間は、そしておそらく人間のみが、自然界の中に「美」を感じ、これを表現しようとする。それによって人間は自己の「魂」に目醒める。何故なら、自然自体の中には生命意志は在るであろうが、本来は苛酷な生存競争の展開である生命現象の中にも美を感ずるのは、人間の意識においてのみだからである。
この事と直接に繫がっている重大な感情または観念が「命の尊厳」である。この観念はおそらく美の感情と同時的に、魂的に覚醒した人間意識においてはじめて生まれた。我々は何故殺し合ってはならず、互いの命と健康を尊ばなければならないのか。ここで問われているのは、自然界の掟と対立すらする我々の普遍的倫理の根拠なのである。
美を懐く魂の尊さ――この感情こそ、その根拠であることを私に教えてくれたのが高田氏である。この感情の窮極に触れられる存在が彼の〈神〉であった。人間存在そのものの中にある矛盾を高田氏は見据え、真の理想主義の孕む悲劇性に耐えつつ、大画家ルオーの「魂の美」の道に、己が仕事を通しての自己探求と人間愛の方向を見出した。私は、このような方向に見出され感得される〈神〉に、優れてキリスト教的な、人間の魂を慈しむ愛の神のかたちを、あらためて確認するのである。
落ち着きを装ってはいるが、まだ最も苦しい異常状況の只中にある時期に書いたものである。節の最初に掲げた翌年二月日付の文と重複しているところも、それとは別の独自なところもある。この2012年12月の文は、或る公刊雑誌の付録に印刷して公開された。 いずれも、ぼくのいまにいたる根本発想の一貫した原形を示すものである。
すこし休む前に、この文も付加記録しておく。休むというのは、個人的にやっておくべきこと、等あるからである。