繰り返し一貫して言ってきた、神と創造主は異なる、ということだ。高田さんもこれに気づいていた。「神」と「運命」とは異なるのだ。だから、アンドレ・マルローの言うように、「芸術は反運命的」なのである。巷でも、地球の生体系を創造した存在は、愛に反する型の異星人である、と、比喩的に語られる。しかし生そのものに内在しつつ、外的生存体系によって自己疎外を強いられている魂の本質は、愛なのである。高田さんもこれを認めていた。愛に照応して思念される存在(そのかぎりで観念である存在、しかし生ける存在)が「神」なのである。高田さんは芸術行為においてこの「神」を思念し、この「神」が作品において触知されることを窮極とした。
この動きのない作品は、絶品であるとぼくは思う。作れと言われて作れるものではない。この充実と品格は、おのずから成るものでしかない。
以下は、2017年07月02日(日)に記した。
パラスのトルソ 1969年 鎌倉 (石)
豊科近代美術館
「トルソがそれだけで完全作品になるためには、よほどの力量、というより作者の内面的充実がいる。単純に見えるから、そこに無量のものを満たすのがむづかしいのである。古代作品にはこれがあった。」
東松山市の没後30年記念高田博厚展もきょうで終わりであるが、ぼくは行かなかった代わりに、予想外にすばらしいこの図録(1992)を古書として購入し、驚喜している。作品集として、文書禄として、まさに一級品である。撮り方と、先生の文章の選択の仕方が、ただものではないのである。想像もしない充実したものである。そのなかから さしあたり上のトルソの一葉と、これと向かい合わせの先生の一文を紹介する。そうでなければ全部を紹介しなければぼくは気が済まないであろう。