相手の感情だけでなく、自分の感情の言い分も聞いてやれ。この格率が妥当する人間はきわめて稀である。たいていの人間は、この反対の格率(「自分の感情だけでなく、相手の感情の言い分も聞いてやれ」)を採用すべき者たちであって、その無法ぶりは全くおどろくべきものである。怒
このようにして、多くの者は、自分のできないことばかりを相手に要求している。知性が無いからである。事実、自分を謙遜している者は常に同時にその謙遜に反したことをやっている。(自分に留まっている者は稀である。)
知性の無い者が、良識だけは発揮しようとすることは、おそろしい。この世の誤りはすべてそこから生じていると言ってよい。狂信の源である。
解っていてその反対を為すのと、解らないで同じことを為すのとでは、害は後者のほうが無限に大きい。狂信から為すからである。
狂信よりも、あまのじゃくのほうが無限に優れている。 ぼくはたかだか、あまのじゃくに甘んじようとするだけである。ときどきはあっぱれなことをするだろうが、自惚れはしない。神のようになろうとはしない。キリスト信者だって、内実を伴ってそれができた者はいない。なぜなら、信者になった時点で、何か錯覚しているとぼくは思うからである。
「神のごとくなりなさい」というイエスの言葉には、ぼくは反対だ。できもしないことだからである。あるいは、イエスの言う意味は、もっとちがうものである。彼も怒ったではないか。偽善者を増やしたいのではあるまい。
神にたいする唯一の義務は、自分自身であることである。ほかのなにものでもない。すべての正しい根源は、「自分自身であること」にある。あるいは、「自分自身」であるべく努めること。これを迂回するから、すべては蹉跌する。日本人の殆どはまだそういう知性のレベルに達していない。