高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

孤独と、フランスで知った「人間への信頼」による友情

2024-10-28 23:05:33 | 高田博厚の生

孤独と、フランスで知った「人間への信頼」による友情

2024年10月27日(日) 22時
高田博厚と芸術

 
高田さんがフランスに渡って、フランスの知識人たちに「友人」として次々と紹介されたことは、よく知られているが、ここで注意すべきことは、彼らが高田さんを「友人」として迎え入れたにしても、高田さんがどういう人物かを知っていた訳ではない、ということである。では、その「信頼」は何に拠っていたのかというと、彼らの「人間」への信頼に拠っていた、と高田さんは注意している。そして、「これがフランスなんだな」と、親友片山敏彦と慨歎しているのである。こちらは色の違う東洋人であるのにである。普遍的な、人間への信頼、というべきであろうか。こういうことは、西洋の他の国でも同様にあるものではないだろう。これは深い省察を要することで、日本で日本人どうしの間では不可能なことである。(道徳的と云われる日本人は互いに余りに非礼であり、信頼以前の問題がある。)だから高田さんたちは感動しているのである。モラリストの人間観察・省察を文化として集積させているフランス人が、日本人より人間への見方が甘いわけではあるまい。おめでたい観念的人間観に知識人たちが染まっている訳ではないだろう。
 
こういう点について、ぼくもよくかんがえてみたい。
 
 
 
《フランスの家庭に残っている集会日いわゆる「サロン」を私ははじめて見た。そしてマルティネにはじめて会い、彼は客間にいる皆に私を紹介した。私は彼らの温かい応対ぶりにまごついた。まだ一言もフランス語をしゃべれない。・・・ 彼や彼らは私のなにを知っている? ・・・ 遠いところから一東洋人を迎える、これが「社交」なのか? 日本では互いにめったに示し合うことのない「人間関係」の善意に、私ははじめて触れて戸惑ったのであった。ロランの「信頼」もこれなのか? 私個人に対してというよりも、「人間」に対しての信頼なのか? 甘いと感じたこちらの方がひねくれているのだ。》
高田博厚著作集II、173頁(「分水嶺」III「パリ」)