高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

高田さんの日

2024-06-19 22:42:32 | 日記

高田さんの日


2024年06月18日筆 

高田博厚と芸術

 
今朝は近年にも憶えがないほどよく眠れた。この十年余、薬害の影響で昼夜逆転の生活をしつつ、当然、疲れた、休みが必要だ、と繰り返して言いながら、疲れを溜める一方の生活をしてきたが、その疲れがとれたような安眠だった。きのう(17日)は高田さんの命日だった。きのうの間、そのことは繰り返し思い出しつつ、その都度忘れていた。ぼくは、何十年も前の高田さんの葬儀の日にも、会場に赴く途中で、生きていない高田さんと対面してどうするのだ、大事なのは生きていた高田さんだ、と思い直して、引き返したような人間だ。だが、昨日は、高田さんのほうから、宜しく頼む、と言ってきてくれているような気がした。ぼくも、日課のことは忘れて高田さんに捧げる(集中する)日を週一日つくろう、と思った(毎日の日課はそれと両立するほど軽くなく、これに引きずられるなら、ぼくも何のために生きているのか分からなくなる)。
 

 
思索性が如実に現れている高田さんの彫刻は、彫刻という創作領域そのものが沈黙を本質とするものだけに、逆説的な、言葉にすれば無限に多弁な特質をもつ彫刻である。言葉になったときの緻密さが勝負であるような。そういうものをかれの彫刻そのものが孕んでいる。そういう制作がかれの生そのものであった。だから「神」が感ぜられるまでに至る彫刻なのである。この神は善悪を超えた、「美」としか言えないものであろう。(高田さんが彫刻家であるに先立って思索家であり、生涯、物書きであったことは、必然だっただろう。頼まれて書いたとはいえ、動機が不断に与えられたこと自体が、書くことが宿命であったことを物語る。)
 
 
 



高田さんを思惟するための高田博厚本

2024-06-08 15:38:00 | 日記

高田さんを思惟するための高田博厚本


2024年06月08日(土) 

自著講読

 
高田博厚さんをも、「もの」なしで思惟(瞑想)することはできない。高田さんをかんがえるためにぼくがつくった「もの」が、ぼくの書いた高田本なのである。 
 
 
その価値は全く新品同様であることを確かめながら再読している。
 
 
 
紹介文
 
《 彫刻家・高田博厚先生の思想と共に生きる電子欄(ブログ)です。
自著『形而上的アンティミスム序説 ‐高田博厚による自己愛の存在論‐』(2009)の初志を、集合的容喙(遠隔人心操作)と強制薬害の重篤な被害状態にも拘らず、継続実践します。
 
本書は、著者の intimisme métaphysique 〔形而上的アンティミスム〕とよぶ哲学理念の許、彫刻家にして思索家である高田博厚(1900‐1987)の根本思想を初めて本格的に明らかならしめようとする貴重な試みである。その意義は普遍的かつ根源的であり、人間の創造的生の条件が稀な真摯さで反省されている。学問・芸術の魂的原点の確認の為に、また、人生の意味の正面からの示唆を得る為に、「人間」であろうとする総ての人々に開かれた永続的価値をもつ書である。》
 
 
 
ぼくは哲学者であるが、哲学者としての自分を徹底することで、高田さんの真の友となりうるのである。そういうことが解っているから、この欄でもむしろ自分の思惟と思想を掘り下げることを中心とし、そのなかで高田さんを語ることを、じぶんの正道だと心得ている。ぼくの高田本がまさにそのような構成であるように。
 
 
 
 
 



器量と場 決断的自由

2024-06-07 14:20:57 | 日記

2024年06月05日(水)


器量と場


 
何でこういう目に遭うんだろう、ぼくがまだそれだけの器量でしかないからだ、と思うよりも、(あれこれ理由をつけて)ぼくに相応しくない場にのこのこ出て来るからだ、だから軸が外れた分だけの目に遭うのだ、と思うほうが正しい。
 
 
義務的見聞は止めて自分の場に留まるのがどれほどよいことか。なのにぼくは、なぜあのひとたちは出て来ないのだろう、と、ひとのことを言っている。
 
 
 

本来的な決断的自由は、天がそれに味方し 世が跪くことによって知られる



人間は自分本来の場に納まっていなければ、敬意をもたれることも落ち着くことも(咎意識なしでいることも)できない。その場が自分本来の場であるかどうか、すなわち天に認可されているかどうかは、不思議なことに、じぶんの感覚で分る。それはまるで、自分本来の充実した、自分の決断に拠る自由は、自由そのものなのにそれこそは予め天から認可されているものであるかのようだ。そこには、天と、世人通念との、亀裂そのものが確認できる。ここにおいて、世は、不思議なことに、天に勝てずに我知らず跪いている。
 
 
 
 


皇室の力は一億日本国民の力

2024-04-16 03:39:37 | 覚書


2024年03月27日筆

 
いわゆる闇の力も、日本の皇室の力には一歩譲っている、ということを聞いたことがある。マッカーサーも天皇を尊敬したと云われる。こういうことに世界の裏の謎を想定する必要はない。一億の日本人が日本人であるかぎり皆懐いている皇室への敬意、もし皇室に外力が触れるなら爆発する一億のエネルギーを、日本人のどんな表面的な(皇室への)恭順の態度にも看取する外国は、恐れているのにほかならない。皇室の力は、一億日本国民の力である。これほど明白な秘密はない。
 
 
 
 
 

ロシアが正しいのは分かっている

2024-03-26 03:32:10 | 特報

(2024年03月12日 20時筆)
 
 

ロシアが正しいのは分かっている。だから、政治的歴史的な主張一点張りはもうやめましょう。飽きてしまいました。ロシアの魅力は本来ほかのところにある。広い意味での文化こそ永続する力であり魅力である。ロシアにも、そのことを、国内的ばかりでなく対外的にも忘れないでほしい。

 
たとえば、あまりここでは言いたくないけれど、今度日本の新作ゴジラが何処かの国で視覚効果賞をもらったそうだ。ロシア版ゴジラが出来たら、ロシアの映像作品の地球一のレベルの高さから、間違いなくものすごい傑作になるだろう。そういうものを世界に提供することが、なにより政治的バリアーの突破になることは疑いない。いまのロシアが対外的に政治的自己主張・西側批判に傾くのは完全に理解しているけれど、完全に脱政治の作品こそが本来のロシアの魅力の発信源であったことを思い出してほしい。
 
日本も無意味な〈制裁〉ごっこを止めてロシアに謝罪しなさい。