高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

ガブリエル・マルセル 形而上的日記 第二部 翻訳1

2023-05-27 22:53:07 | 翻訳
129頁

第二部


 一九一五・九・一五。— 現在のほかには、時間の起源は存しないし、存することはあり得ない。現在のみが、人が時間にたいして割当て得る、唯一の限界なのである… 持続したものである以前に与えられている時間、というのは、幻想である(空間が、踏破される以前に現存するものであるように)。時間は現実態においてしかあり得ず、空間は可能態においてのみある、と言うのが正しいのではないだろうか? 時間はつぎのようなひとつの場所とは全然似ていない。その場所のなかに諸々の意識が挿入されて、その場所との関係においてはこれら諸々の《挿入》は偶発的であるような場所とは。時間は、そのようなことの否定そのものである。
 けれども、時間の内的限界、これは時間の実在そのものなのだが、この限界は、想像力には、運動するものとして現われる ― 何の中を? かくして、ひとつの〈時間-場〉という観念が生じるのだ。

 一九一五・九・一八。— … 時間が客体として思惟され得るのは、空間と共にのみである。しかし空間は時間の中でのみ与えられ得る。
 時間は我々にとって運動によって象徴される。運動はそれ自体、踏破された空間によって象徴される。だがその場合、人は本質的なものを捨象している。適語が無いので私はそれを現勢性[actualité](現存在に対応する)と呼ぶ。

 一九一五・一〇・一五。— 予知能力[divination]の可能性は、思惟をその観念〔としての〕対象に集中させる関心の本性[nature](度合いではなく)と繫がりがある。しかし他面において明らかなのは、関心というものの客観的力学は、それ自体において不可能である、ということだ。この関心というものは、実在している必要がある — そしてこのことは、量についての言語のなかでは表現し得ない。この意味するところは、むしろ、精神がそこに全的に参与していなければならない、ということである(単なる好奇心は、好奇心が消すことのない気掛かり事の只中で、孤立したままのものであるから)。ゆえに、本質的〔に大事〕なことは、観念の、精神それ自身への、緊張した関係[le rapport de l’dée en tension à l’esprit lui-même]なのである。

 一九一六・四・二。— … 今日、この明るくて素晴らしい春の日に、私はふと気づいた、《オカルト》と言われる学の諸概念、この諸概念に対して(130頁)《理性》は反抗する振りをするのだが、この諸概念は、実際には、我々の最もありふれた… 最も公認された諸経験の根元に存するのである、と。そういう経験とは、感覚的経験、意志の経験、記憶の経験である。意志が示唆として《作用する》こと、言うなれば魔法のような示唆として作用することを、誰が疑うだろうか? そして、諸々の物体は、表出とは言わないにしても、現出であり、物質化ではないだろうか? そして最後に、記憶の経験は、時間の事実的かつ実在的な否定を含意してはいないだろうか? これらすべてのことは、あまりにも明白である。我々の心理学の薄明にとって、あまりにも明白なことである。

 四・一三。— … 間違いなく私は現在、つぎのように思う傾向にある、すなわち、心理学の中心的な諸々の謎、それらの謎を我々の現代の科学、その見かけ上の慎重さは就中、怠惰と臆病さで出来ているのだが、そういう現代の科学は、慣習あるいは要請を用いて塞ごうと試みているのだが(私は就中、並行論のことを思っている)、そのような謎が解決され得るのは、全く超[extra]心理学的あるいは基底[infra-]心理学的な観点によってでしかないであろう、と。かくして、内界と外界との間の神秘的な関係は、全然交渉し合わない諸世界相互の全く抽象的な関係として理解されねばならないどころではなく、〔この神秘的な関係こそ〕多分ひとつの中心 — ひとつの本質的な事実であって、この事実と比べれば、それらの世界そのものが抽象でしかないであろう。このこと〈この考え〉は間違いなく新プラトン主義のなかに在るものであり — また、とりわけベルクソンにおいても在るものである。だがベルクソンは、彼が心理学のものではない或るものに向かって導かれていたことに気づいたであろうか — その或るものは彼岸のものであろうか? 確かに正しいことは、彼にとって物体〈身体〉は物質化であるということだ。しかし彼はこのことが導くすべてのことを充分に観じたであろうか? 彼の態度にはまだ内気さ〈遠慮〉がある。記憶についてのあの深遠で理解し難い理論においても同様である(それどころか事は更にもっとはっきりしている)。
 … 保存する、とは、どういうことか? 保存という観念は、共時的である[synchronisme]という観念を、より正確には、複数の並行する持続[durées parallèles]という観念を、含意している。保存される或るものとは、印として役立つ他のものと同時に持続するような或るもののことである。「〔複数の〕並行する持続」ということで私が理解しているのは、目前の諸客体のうちの一つの客体の一状態に、いつも、他の客体の共時的な一状態を対応させることができる、ということであり、かつ、この他の状態に関する確認が前者の一状態を発生させるのでは全然ない、ということである。ベルクソンは純粋記憶の保存について語りながら、並行する持続という観念は、身体と記憶とに適用できる、と提起しているが、これはつまるところ、記憶は現に存在している、と言っているのにほかならない(記憶が現勢するにせよしないにせよ、である)。言い換えれば、現勢化は、現勢化された記憶〔そのもの〕と比較して、偶発的なものであることは、(131頁)ひとつの出来事の客観的な確認がこの出来事〔そのもの〕と比較して偶発的であり得るのと同様なのである。

 四・一四。— 問題はつぎのように定式化される、すなわち、何か或る時間的な一続きのものが複数与えられている場合、これら一続きのものの間には、つぎのような関係が存在するであろうか? と。この関係というのは、これら一続きの中の一つにおいて作られた各切断面に、他のすべての一続きにおいて、共時的な一切断面を理論上対応させることが出来るような、関係なのである。
 解決は、規定という観念を深めることに存すると、私には思われる。すなわち、もし、これら一続きが、相互の間で同類な諸規定に関係しているなら、あの共時状態[synchronisme]はまさしくあり得るものであることは、確かである。しかし、もし、このような諸規定が同類なものでなければ、問題はすべての意味を失う。掘り下げなければならない。

 五・四。— 今晩は、驚異的な密度で、つぎのことを《実感した》:
 一. 感覚[sensation](直接的な意識)は無謬であって、感覚のなかには誤謬のいかなる余地も無い。
 二. この意味において信仰[foi]は感覚の本性を帯びていなければならない(この意味において形而上的な問題は、思惟によって、そして思惟の向こうに、ひとつの新たな無謬性を、ひとつの新たな直接なものを、再発見することである)。
 三. 感覚の〔有する〕直接的なものは、どうしたって、ひとつの失われた楽園である。感覚の弁証法、感覚の演劇は、反省され、解釈されたものでなければならず、このことによって、間違いというものが生じ得るのである。間違いは、反省とともに世界の中に登場するのである。だが他方、反省されていない感覚というものは、誤り得るものの次元以前のものである。
 問題なのは、知性作用[intellection]が、思惟の次元において、感覚の直接的無謬性を共有していないかどうかを知ることである。実のところ、すべての反省、すべての弁証法は、この直接的無謬性を消去するものに、抗し難く引き寄せられている — そこではこの無謬性が自らを否定するところのものに。

 五・一四。— 今日、私は、混乱してはいるが強力な仕方で、つぎのことを理解した。すなわち、諸物体[les corps]の実在性は、介在の実在性でしかなく、そうでしかあり得ない、ということ。諸物体は互いに介在し合い、介在され合う、ということ、をである。事実、身体[le corps]は機能として、結び合わせることと分離することとを同時に有する。しかし身体は何を結び合わせるのか? 何を分離するのか? ここに謎は充満している。共通感覚あるいは科学の所与〈データ・既知事項〉では、あきらかに不充分である。私に分かるすべては、つぎのことである。すなわち、結び合わせるもの(あるいは分離するもの)は、結び合わされるものと、いわば同類でなければならない、ということである。ゆえに、身体は、思惟によって、例えば心的なものと空間的なものとを結び合わせるものとして理解されることは出来ないのである。身体が思惟を空間世界に結び合わせるのは、思惟が地歩[position]である限りでのみ(132頁)(ところでこのことは甚だしく曖昧なことである)か、もっと言うと、外的世界が空間から逃れる限りでのみである。こう言うことも同様に明晰ではないが。もっと先へ進まなければならない。つまりこういうことだ: 身体が空間的なものを空間的なものに結び合わせるのは、身体がそれ自身空間的なものを有している限りにおいてであるのなら、身体が心的なものを心的なものに結び合わせ得るのは、明らかに、身体が心的なものを有している限りにおいてのみであり、身体が感覚力を担って[chargé de sens]いる限りにおいてのみ、身体が感覚機能[sens]である限りにおいてのみである…

〔訳者註: 1916年の以後の日記が空白になっている。1916年冬から翌年にかけて、マルセルは超心理学的体験をしたらしい。〕

 一九一七・一月。— 無神論はひとつの裏返しの神義論であり、展開のまずい護教論である…
 人間が神について発するあらゆる判断は、人間に舞い戻る。《汝は存在しない》、これは人間の評決である。そして、この評決を宣言する彼 — 彼は、それでは存在するのか?

 一九一七・二月。— 不死についての覚書。
 私に決定的に思えるのは、二つの仮定が、あるいはむしろ二つの態度が、そして二つのみが、不死の問題に面しては可能だ、ということである(ここに、無論のこと、「門-剣」[Porte-Glaive 1]の最終場の深い意味がある)。〈1. 「聖像破壊者」の第一版。〉第一の態度は、二年前にはまだ私の態度だったものであり、この態度に私は多分立ち返るであろう — アベルの態度である。すなわち、不死の真理というものは存しない、というものであり、実際、不死〔の真理〕は、定義〔しようとすること〕によって、あらゆる可能な検証から逃れてしまう、とするものである。彼岸に関する検証というものは、不死をこの世の次元に逆戻りさせる。ゆえに、不死は信仰によってしか、そして信仰にとってしか、存在しないのである。精神的秩序とは、我々はこの精神的秩序を物質の偶有性に対比して超越的なものとして思惟するよう義務づけられている、というものである。我々はこの精神的秩序に、この秩序をそういうふうに思惟することを条件としてのみ、参与するのである… 不死への信仰は、「神」[Dieu]への信仰と同様に、我々の自由の行為そのもののなかに含まれているものだろう。ただ、認めなければならないことは、このような形の許では、〔この問題は〕曖昧であることである。すなわち、この精神的秩序は、単に諸理念の永遠性ではないのか? しかし私が先へ進むほど、確信することは、不死の問題は個人的な言葉遣いで提起されなければならないということだ。ヘフディンクの語る諸価値の保存、これは重要なことではなく、それどころか私には、あの言葉どもが何か意味を示しているのかさえ、実際にはそれほどはっきりしないのだ。あるいは、私は〔いわば〕合法的に要請するが、私が断定するところのものは、結局、ひとつの抽象的で空虚な原理でしかない — あるいは、私は、どちらにせよひとつの事実である或ることを断定するが、このことを私は要請する権利があるのか? この問題は私に何年も前に既に提起されていたものである。私は、どんな条件でひとつの純粋思惟が要請をすることが出来、それはどんな限界のなかで出来るのか、と、しばしば自問したものである。はっきりしているのは、事実という観念はここではとても曖昧なままだということである。私は言うことが出来るだろうか? 未来の生は(133頁)ひとつの事実である、と — 来夏に私がするであろう — あるいはしないであろう — 旅行と同じくらい不確かな事実なのに。どうやって、この軽率な実在論から逃れるべきだろうか? 内容の無い断定体系に嵌まり込まずに。私はこの板ばさみを、愛に訴えることによって乗り越えようと試みたことがあった。《愛は自らの対象が永遠であることを欲する》と唱えることによって。しかし、ここではまだ多分、我々はどちらつかずの状態なのである。おそらくは、愛する者は、愛されている存在の実在を時間の外に、時間の上に、置いているだろう。ところで… これは「砂の宮殿」の問題であり、この問題は悲劇的なまま残っている。私には、祈りのなかにこそ、祈りという観念のなかにこそ、一種の神秘的な解答が存するように思われる。この解答は甚だ深いものなので、私はこの解答を完全には把握しないでいる。祈ること、それは、他者たちの実在が、私からは独立したものでありながら、それでもいくらかは、私がこの実在を措定する行為に依存することを、要請するものである。〔つまり、祈ることは、〕私の措定行為が、いわば、この〈彼らの〉実在に貢献するものであることを、要請しているのである。それに、とても確かなことは — 最も単純に心理学的な意味において — 我々自身が、かなり、他者たちの思惟によって作られている、ということである。
 〔不死の問題に面しての〕第二の態度は、もっとずっと明晰な態度であるが、ロッジのそれである。どんなに逆説的にこのことが思われるかも知れないにしても、この第二の態度は、私には根底のところでライプニッツの態度と一致するように思われる。先程の超観念論的な意味にではなく、実在論的な意味に解された不死は、絶対的に個人的なものでしかあり得ない。アリストテレス的な主張を弁護するのは、私には難しく思えるのであり、この類の主張は、第二の態度にとって何の意味も無いものである。ロッジの実在論は、確かに私をもう少したじろがせるものである。だが私に習慣づいているのは…

 一九一七・二・九。— テレパシーに関する覚書。
 すべての意識伝達[communication de consciences]が一般に含意しているように思われること〈もの〉:
 1° 自らにとって明確に表現されたひとつの思惟。私の理解するのは、自分自身を意識する思惟のこと、自分自身と意思疎通する思惟のことである。
 2° この思惟をひとつの物質的体系へ変換すること。この体系は記号として機能し、物質の一般的法則に従うものである。
 3° 何らかの伝達の環境、仲介作用体。
 4° 最初の〔物質的〕体系を(あるいは、この体系を再現するひとつの体系を)、ひとつの思惟へと再変換あるいは再転写すること。
 5° 最初の思惟と多かれ少なかれ同一であるこの思惟が、他の意識にたいして現われること。
 この観点からは、自発的〔で自然〕な表現、普通の言語活動、手紙での往復書信、有線あるいは無線の電信、こういうものの間に、関心を惹くいかなる差異も存しない。すべての場合において、適合した装置によってメッセージがキャッチされ、再転写される必要がある。
(134頁)
 我々がテレパシーの実存〈実際に存在すること〉を、〔本来〕可能な議論無しに承認すべきであるように、承認するならば、我々は完全に新しい何かに直面していることになる。事実、困難は、普段思われているであろうように、伝達作用を有する場や因子に関するものではなく、つぎのような問題に関するものなのである。すなわち、メッセージの到着と発信にはどうしても介在しなければならなかった、取決め事の暗号やシステムは、ここ〔テレパシー〕では欠けている、という問題である。つまり、どうも、メッセージが存するのではなく、「視ること」[vision]が存するように思われるのである。この点が深く問われなければならない。事実、おそらくこう反論されるだろう、ひとつの取決めのシステムが存するのだが、そのシステムは全体としては暗黙のものとして留まっているのだ、と。こういうもの〈こと〉はいかなる意味も呈示しないと、私は思う。私が強烈に何かを思念している、あるいは、ある何らかの状態を体験している、と仮定しよう — そして、私が、当の思念あるいは状態がイギリスに居る私の友人に伝わるように祈願する、としよう。もし〔ここで〕、是が非でもひとつのメッセージの伝達が存することを人が欲するのなら、つぎの事どもを想定する必要があるだろう:
 1° 私の思念が、ある特別な霊的放射力を与えられていること。
 2° この放射が、全方位的に為されること、ただし、この《波動》は私と協和している存在〔者〕によってしかキャッチされないであろうこと。
 3° この存在は、正確に言えば、私が私の状態あるいは私の思念がそれへ伝達されるように望んだところの存在であること。もっとも、この〔存在の〕意識があるひとつの意識によって規定されることを仮定するのは、最初に措定された原理に反することであろう。この意識は与えられているのでなくてはならず、メッセージの放射に先立って現実存在しているのでなくてはならない1。〈1. 私の意識と私の友人の意識との間にあるひとつの媒介作用をもつ意識を介在させたところで、得るものは何も無いであろう。というのも、いかにして私はこの媒介者と伝達し合うのかを知るという問題が、新たに措定されるのであるから、等。〉
 4° この霊的放射、あるいはむしろ、この放射によって生み出される有機体の変容は、それ自体、《名宛人》によって、意識の言葉に再転写される、ということ。この再転写〈再書き替え〉は、彼が暗号を有していない(私もまた暗号は有していない)だけでなく、彼がその上、問題の放射によって彼の有機体〈身体〉に生み出された効果[effet]をまったく意識していないのに、行なわれるのである。
 誰がここに、テレパシーを往信〈通信〉の一形式として、メッセージの一つとして見做すための、くたびれさせる構成が、苦しくて余計な努力が存するのを、見ないであろうか。一方の者の思惟が直接に他方の者に押し当てられるのであって、後者に伝達されるのではない、ということを、根拠の無い要請を思いきって投げ捨てて承認するほうが、遙かにもっと単純であろうというのに。それにまた、(135頁)多分稀にであるが、否定できない、つぎのような心理学的経験が存しないであろうか、すなわち、精神が他の精神とひとつの思惟を共有していると意識する、という経験が。これ〈この経験〉を私は精神的接触[le contact spirituel]と呼びたいと思う。ようするに、ひとつの観念が、原初的に〈もともと〉私の観念ではない、ということ、この観念自体が全然《個人のもの》ではなく、副次的にしか限界づけられておらず、帰属化も局在化もされていない、ということが、あり得るのである。この局在化は、観念というものの一種の内的な欠陥のせいであるかもしれない。ようするに、ひとつの観念はひとつの意識以上のものとして自らを位置づけることは出来ないのだ。私はこう言おうとしたのである、すなわち、我々が自らを位置づけることが少ないほど、我々はいっそうよく存在するのだ、と。だが、このことが本当であるとは、私は確信していない1。〈1.少なくとも、ここまで述べてきたことは、人が諸々の意識をひとつの意識の内部の諸々の観念と比較することによって、明らかとなることである。これら諸観念は、これこれのものとして規定される諸意識が現われるなら、相互に直接的な関係に置かれ得るものなのである。〉

 一九一八・七月。— すべての評価というものは、可能な交換に拠るものであり、ゆえに、自ら以外の他のものと通約され得る〈約分できる・同じ単位で計れる〉ものにしか関わらない。
 それにまた、評価の問題は、創作者にとって、彼を自らの作品に結びつける絆が解かれた場合にしか、提起されない — 創作者がもはや固着していないものにとってしか、あるいは正確には、もはや創作者に固着していないものにとってしか。
 ゆえに、この全く相対的な意味においては、評価〈価値〉は、交換可能なものにしか存しない。すなわち換金できるものにしか…
 しかし愛は、反対に、唯一のものに関わるのである。〔つまり〕自分としか共通基準を持たないものに関わるのである。すなわち、愛の循環論法…
 神秘なものとは、存在するあらゆるものに、無限な価値を明らかにするものであろう。いかなる交換も、いかなる代替も、受けつけないのである… 「存在」[l’Etre]とは、「愛と存在」[l’Amour et l’Etre]の外に思惟されうるものだろうか?

 一九一八・七・二三。— 感動は、多分、内に秘められた行為でしかなく、《外に発せられる》[≪sort≫]ことのない行為でしかない。
 興味を惹く示唆がある: 一つの規定的な現在と幾らかの数の未来との間には、つぎの〔場合の〕関連と同じ関連が存することがありはしないだろうか、すなわちこの〔場合の〕関連とは、ひとつの創造的な想像力の内懐(ぶところ)で、同時に、いわば繋がって見いだされる諸観念相互の間に建てられる関連であり、しかもこれら諸観念は相互に継起的にしか展開されないように定められている、という場合である(例えば、ひとつの劇の諸場面である。私は、私の劇の第一幕と第五幕の一場面とを同時に見いだす〈思いつく〉ことがあるのである)。言い換えるならば、純粋な即興曲であろうところの一つの宇宙という(ベルクソン的な)観念と、時間の内で一つの永遠な内容を展開するであろうところの一つの世界という観念との間には、ひとつの可能的な媒介するものが存するのではないか? かくして、予言〔すること〕[prédiction]は、この予言を理解し得るために、(136頁)完全な歴史的先規定[prédétermination]なるものを信じる必要は無いままに、厳密に理解可能なものであろう。結論として、この観点からすれば、ある点まで互いに含み合う諸状況[situations]というものが存することになろう1〈1.より正確には、互いに他方の通路になっている。〉 — 〔そして〕この含み合いは、この諸状況相互の間にいわば諸々の余白を残したままにしているのである(ひとつの歴史〈物語〉において、その始まりと一二の先行する挿話と、そして—おそらく—終結しか知られていないような場合の、そのような歴史において諸々の余白が存するように)。この想定は諸々の困難を引き起こすことを、私は認めないのではない — とりわけ、歴史の具体的な諸契機を、それらの契機のものである包含力の非常な不均等さのゆえに、その諸契機の間では相互に同類ではないものとして思惟する、という困難を。これと比較し得る不均等な展開力は、ひとつの交響曲における主導テーマと副次テーマの展開力である。言っておかねばならないのは、このことは、たぶん形而上学者には難しいだろうが、歴史家や心理学者には明白だ、ということである。命運を分かつ決定的重大事件[des dates critiques]というものが存することは確かなことなのである。
 いかにして最初の状況が後の状況を引き寄せる(呼び寄せる)ことができるのか、その間の諸状況をではなく、と問うのも当然なことである。ここでも、想像力の心理学は、それは可能なことであることを我々に示している。それどころか、こう問うことさえ当然であろう、すなわち、後の状況(歴史的な意味では未だ現勢的ではないが、形而上的には現勢的な)こそが、歴史的には後の状況を規定するように見えるであろう諸状況を規定するのではないのか、と。私は、この想定こそ、どんなに奇妙であっても、歴史というものをより良く把握させることが出来るものであるという、とてもはっきりとした感情をもっている。
 もうひとつの困難は、つぎの事実に存する、すなわち、私が状況[situation]と呼ぶものは、《当事者たち》の一人が状況について持つ意識には、あるいは、この当事者たちの意識の総和には、還元されないことは確かだ、ということである。つまり、我々はここでは、《総和》とか《併合》とかいうものがあり得ない次元にいる、ということである。この状況の統一は、この状況に《組み込まれて》[≪impliqués≫]いる者たちには、本質的には与えられているものであると思われているが、同時に、彼らの能動的な介入を許容している、それどころか呼びかけているものであると思われている。注目すべきは、このことは、すべての反省(思惟)行為に関して、それがどんな反省行為であっても、真である、ということである。そこには、《自己自身》[≪soi-même≫]という根本的に曖昧な概念に内在する何かが存するのである。私は、私自身にとって、ひとつの状況であり、この状況は私を越え出ていて、私の能動性を惹起するのである… そして無意識的なものとは、〔状況のなかに〕位置づけられている者[situé]と比較しての状況のこの超越性の象徴より他のものではないのである。人は、それでも、この状況が、(137頁)思慮に富む意識にとっての客体となる、と言うだろうか? だがこの状況は、深められた反省には、完全には客観化され得ないものであると思われるのである。もし、この状況が私にとってすっかり客観的なものであるとしたら、この状況は私の状況であることを止めるであろう。この状況が私の状況であるのは、私の〔生きる事柄の〕脈絡のなかで、私が他処で言ったように、〔私に〕《粘着し》続けるものによってのみである。神[Dieu]にとってこのような粘着は砕け散るものだと人は言うだろうか? だがそのように定義される神は私にとって何の重要なものでもなければ、私も彼〈神〉にとって何の重要なものでもない、と気づくのは容易いことである。それ〈神〉は、汝[toi]となることが決して出来ないであろうような彼[lui]でしかないのなら、何ものでもないのである。神が、非人称〈没個性〉的な真理として解されるならば、神とは、おそらく、最も貧しく最も生気の無い虚構である。神は、私が自分の〔人生の〕脈絡を客体と見做しながらそこに入り込むところの過程の、不当に現実化された限界であることになる。私は喜んで断定的に言うだろう、すべての、存在から存在への関係は、個人的なものであり、そして、神と私との間の関係は、存在から存在への関係でなければ、厳密に言えば、存在の自分との関係でなければ、何ものでもない、と。このことを私の精神に知らせる特異な経験とは、つぎのような経験、すなわち、経験的な汝は彼へと変換され得るのに、神は絶対的な汝であり、けっして彼にはなり得ない、という経験である。—— 祈りの意味〈感覚〉[sens]。—— 科学は実在的なものについて、三人称でしか話さない。
 つまるところ、この、歴史の解釈は、絶対的な目的原因論を意味するものではないだろう。条件にすぎない条件や、実際の目的に従属する手段、といったものは存するだろう。だがこの歴史解釈は、なによりも、状況の力動論という観念に拠っているであろう。この状況は個々人の運命を超越しているけれども、ある意味では、それらの運命にとって、ひとつの素材でしかないであろう。そしてこの、生ける、矛盾のある二元論は、まさに、実在するものの中心に確かにあるのである。つまり、すべての精神的な生は、本質的にひとつの対話なのである。
 学者というものは、彼を客体に結びつけている関係をすっかり捨象してしまうものである。同様に、私が誰かについて三人称で話す場合、私はその人を独立した人として — 不在者として — 分離された人として、扱う。もっと正確に言えば、私は彼を、暗黙裡に、進行中の対話、私自身との対話であり得るこの対話にとって、外部の者として定義しているのである… 私には、実在、宇宙を、私が私自身と続行している対話と比較すれば第三者であるものとして扱う傾向があるのである。宗教的な生は、このような関係が変貌することによって直ちに始まるのである。こういったすべてのことは、もっと深めてみなくてはならない。そこには、ほとんど探究されることのない世界が存するように思われる。彼として判断することは、この判断が表現する教え方や情報がどんな種類のものであれ、本質的に重要なことを示すものである…
 どのような条件で私は二人称を用いるのであろうか? ここでの要請は、(138頁)先に私が言及した要請とは逆のものである。私が二人称で面するのは、ただ、どんな仕方であれ私に応答することができるものと私が見做すもののみである — たとえその応答が、ひとつの《知的な沈黙》であろうとも。いかなる応答も不可能である処では、《彼》にとっての余地しか存しないのである。
 ゆえに、応答という観念は鍵である。
 私自身の私自身との二重の関係は、何処から〔生じるの〕であるか。
 すべての応答は表徴[signes]によっており、すべての表徴は、多かれ少なかれはっきりと出された問いへの応答であるようだ。問いと応答との間には、出会いの場が存しなければならず、この場は、問いによって選ばれたのでなければ少なくとも受け入れられた — これは同じことだ — のである。問いは、応答する者が応答の諸要素を其処で汲まねばならないであろう或る一定の略号[code]を含意している。そうでなければ、この応答は問いの外部に外れてしまい、応答であることを止めてしまうであろう。
 いったい、問うとはどういうことなのか? それは、相対的な無規定状態を修正しようと試みることである。すべての問いはつぎのものを含む:
 1°ひとつの選言的判断。
 2°諸々の選択肢のうちの唯一つのものが真であり通用する、という断定。
 3°どの選択肢に決めるべきか判らないことが認識されていること。例えば、雨が降っているのか? — 雨が降っているか、いないか、この二つの選言肢のうちの一つが真である。どちらだろうか? このことが理解させるのは、(弁証法と呼ばれるものとは対照的な)交わりのひとつのあり方(?)[un mode de communication (?)]である。この交わりは、質問と応答によって成るものではないので、表徴[signes]の媒介によって果たされるものでもないだろう。この種の交わりは、いかなる暗号にも、いかなる略号にも拠るものではないから、どうしても偶発的なもののように生じるだろう。この種の交わりに、私はほんとうに啓示[révélation]という名を付けたい気がする。
 応答という観念の分析。
 どのような諸条件で応答は有効であるのか?
 一方で、応答は問いに充分関係せねばならない。別言すると、問いは理解されているのでなければならない(正確にすべき)。他方で、応答は、欲せられた明瞭化を提示しなければならない。最後に、この明瞭化は根拠があるものとして現われなければならず、任意なものであってはならない。つまり、応答する者は、彼にとっては二者択一は存在しないような状況のなかにある、と見做され得るのでなければならない(このことは、勿論、彼の反省が状況の実際の複雑さを判っていないことに因るのではない)。
 問いを理解するとはどういうことか? それは明らかに、先ず問いを自分自身に提起することであり、もっと言えば、(139頁)問いを発している者の心的な状況のなかに自分を置くことである。私は、私自身の問いにしか、言葉の全き意味で答えることは出来ないのである。答える者の意識は、問いと答えとの集会場[le meeting-ground]である…
 ところで自然は実験者の問いに応答しないのであろうか? もっとも、私が話題にしている出会いが生じる[ait lieu]場合のみのことだが。実験者の役割は、偶然で偶発的な、提起された問いそのものに正確には関係しないような応答を生じさせるかも知れないすべてのものを、振るい落とすことだろう。だから、問いは可能なかぎり曖昧さを除去されたものでなければならない。問いの曖昧さは、応答を解釈できなくするからである。良く練られた実験においては、すべてがあたかも問いが理解されているかのように — そうでないことはあり得ないかのように — 生起する。
 応答は、二者択一〈諸々の選択肢〉が存するような、もっと言えば、行動の幅[des marges]が存するような秩序においてでなければ、あり得ない。これを私は、「あるいは」[ou]の秩序と呼ぼう。これらの選択肢は、指名されることができるのでなくてはならない。そして応答は、受け入れられなければならない選択肢を強調しに来るのである。応答はこの意味で本質的に印あるいは信号である。気づかねばならないのは、この〔受け入れられた〕選択肢は有用性をもたねばならないことである。この選択肢はひとつの獲得を意味する — それは我々が少なくとも或る一定の限界内で使用することが出来る何ものかである。なぜなら我々はそのものと合体したのであるから。反対に、応答ではないすべての知は無益なものであることを人は示すことができよう1。〈1. それにしても、これはなおも知なのであろうか?〉
 問答[la dialectique]が可能である世界は、ゆえに、分化した諸経験の世界であり、経験相互が補完し合うことのできる世界である。私が時間の瞬間に、そして空間の一点に、固着して[attaché]いる程、私の経験はどうしても《充実》[≪erfüllung≫]を必要とする。すなわち、問いと応答とのシステムの媒介を必要とするのである(これは感情の秩序とは反対のものである。そこではこういった言葉は何の意味もない。もっと一般的に言えば、私が在り方の秩序と呼ぼうとするものとは、反対のものなのである)。
 客体性は、ひとつの問答システムが現実に存在することと結びついているが、逆に言えば、このシステムがひとつの客体性を想定しているのである。それにしても誰が、客体性の絶えざる強化であると言われるような客体性のことを言うだろうか。たとえば、特急でローマからナポリへ行くのにどれだけ時間がかかるか、私が尋ねるとする。私の問いはつぎの断定を前提している、すなわち、ローマはナポリと鉄道で結ばれているのであり、そして、(140頁)これこれの条件で旅程をこなすには一定の時間を確実に要する、という断定を。このような問いは、予め事実(私が「彼」と呼ぶもの)において答えられているものとして自らを提出するのであるけれども、その答えを受けとることができるのは、ただ問答〈対話〉の途によってのみ、「汝」の媒介によってのみなのであり、つまり、もっと広くて補足的な経験との交わりに入ることによってのみなのである。生活が私自身に呈するよう私に強いるすべての質問は、まさに斯くの如きものなのである。例えば、「私の腕時計はどうしたんだろう?」この問いは、自分が事実において答えられているものであることを知っている。すなわち、私の腕時計は何処かに在るのだ。さて、多分私は、私がその腕時計をどこか思いがけない場所に置くのを見たであろう誰か(ひとりの汝)に尋ねることができるという機会をもつだろう。ところでこの汝は、私の経験そのものが最初忘れられていてその後突然蘇ったものであり得るのである。独り言は、ただ対話を単純に真似ているのではない。あらゆる対話が、意味ゆたかな[fécond]ものであるためには、ある一定の瞬間には独り言とならねばならないのである。そうでなければ、問いと応答は、出会うことはないだろう。出会いというものは、ひとつの理解のなかでしか起こり得ないのであるが、一方では、この出会いそのものによってこそ、理解は定義されるのである…
 この出会いは、実際には、自らが規定されていないものであることを知っていたひとつの判断を、規定することである。しかしこの、自らを規定されていないものとして知っているということは、単なる判断の限界を越え出ているのではないのか? この自己知は、既に反省である… 問うことは、現実態となった反省である。ならば、何がこの反省を惹起するのか? この反省は欲求あるいは意図に結びついているのではないだろうか。私は自分の腕時計を見たいのだが — 見つからない。この、与件に関する欲求軋轢こそが、私に反省を強いるのであり、この軋轢こそが、可能態としてのこの反省なのである。つまり、反省とは、《自分にたいする》この軋轢なのである。だからすべての問題は、《しなければならないのだが… しかし私はできない》を含意しているのである。この《しなければならないのだが》なのである、これが留め具を外して始動はされるものの直ぐに抑止される行動を伴って、「私はできない」ということ、私が自分の意のままにできる必要手段を有していないことを、確認するよう私に強いるものは。
 これらすべてのとても基本的な考察は、形而上学的な観点からすれば、大きな重要性を持っているのは明らかだと私には思われる。応答があり得るのは、問いそのものが問いとしては実際には自己消滅する場合のみである。そして他方、すべての理論的断定は、こう言ってよければ、諸々の問いと応答との集合の上に成り立っているのであり、〔その場合、〕これら問いと応答の詳細は捨象されているのである。そして同時に、すべての理論的断定は、ひとつの無限な質問事項の、あるいは、無限にある質問事項の、出発点なのである。付け加えるなら、主体がこの理論的断定に寄せる関心のみが、この断定が惹起する諸々の問いのなかから、主体に〔或る問いを〕選ばせるであろう。
(141頁)
 それにしても、はっきりしていることは、我々は抽象のなかにいるということだ: 誰が問うのか? 誰が応答するのか?… 気づくべきなのは、我々が理論的な秩序において高まるほど、この問題はその意味を失うということだ。対話〈問答〉は、こう言ってよければ、非人格化される(例えば、形而上学者がひとつの反論を予想し論じるとき、誰が? という問いは何の意味もないものである…)。だが、思考の低次元においては、応答は、こう言ってよければ、明瞭にされていない脈絡に粘着しているのである — この脈絡が、抽象〈捨象〉されなければならないものなのである。出会いの土地は平坦化されていない(例: 《あと五分で到着ですよ》と都会人に言う山岳人)。この平坦化〈平均化〉は、繰り返し言わねばならないことだが、すべての真の客観性(うまく作られた暗号の必然性、等)の条件である。
 重要なことは、この「誰が?」という問いは、独り言と私が呼んだものにとっては、考えられるどんな次元でも、絶対に示されなくなる、ということに気づくことである(自分の感覚について自問する心気症者の次元でも、自分自身と議論する形而上学者の次元でも)。「私が」[le je]は、まさしく、この、「誰が」[qui]という問いを出すことの拒否に応ずるものである。なぜなら、《その場処ではない》≪il n’y a pas lieu≫からである。高度な反省のみが、この応答の秩序の客観性そのものを疑うだろう。このことはもっと正確にされねばならない。だがこのことは明らかに、「誰が」という問いを発しないのが不可能であるような領域のことである。すなわち、証言という秩序のことである。それなら、これは、重さ、保証、署名の問題である(繰り返すが、反省によってのみ、この〔反省という〕方法を私自身に適用することによってのみであろう、私が私自身の署名の価値を自問するのは 1)。〈1. だが、このことによって、私は自分を私として扱うことを止めるだろう。〉「誰が」ということは、ゆえに、本質的にひとつの署名、ひとつのスタンプ、ひとつの識別印であり、その価値は在らねばならないが、自発的に問われることはないのである。子供はおそらく、人が彼に言うことを信じることから始める。対話はひとつの独り言であり、子供は他者の応答を自分の応答のように扱う。一方、大人は — すくなくとも学者は — 自分の応答をひとりの他者の応答として扱うだろう。「誰が」という問題は、ゆえに、信頼性〈信用性〉の問題であり、そしておそらく、この問題は実際には最初に、受けとった応答と期待していた応答との間の不一致が存するかぎりでしか、呈されないだろう。
 応答の絶対的な印[marque]という観念〔が考えられ〕、この応答は現実そのものであろう(至高な印、基準である印)。この印を帯びるものすべては真である。この印こそが真理を告げることを、人は根本において承認するだろう。(142頁)しかしここで正確にせねばならない。普通の応答が我々に現われるのは、(正しいにせよ違うにせよ)何が存在するのかを示すものとしてである。ゆえに我々は、事実と、事実に関する応答との間の、差異を呈するのであり、この応答は我々によって、その事実[lui]と我々との間の媒体として取り扱われるのである。この差異は、いつか無くなるのであろうか? そうは思えない。いつも我々は、媒介する行為を目撃する。科学実験の場合には、媒介者、質問者として機能するのは、実験そのものである。「事実」は我々にとって、ひとつの純粋な「彼」であるに留まり、「汝」ではない。言い換えれば、「現実」は我々にとって、けっして答えない或るものとして定義されるように思われる。しかしこの或るものからすべての答えは汲まれねばならないのであり、誰かが自らの友人に調子はどうかと尋ねるという単純な場合ですら、そうなのである。ここからひとつの新たな問題が生じる: いかにしてこの現実は、この純粋な「彼」は、応答を養い、誘発し、あるいは単純に言って、許すのだろうか? 最も興味深く、最も決定的な場合と思われるのは、問いが個人的な経験に関するものである場合である。私が誰かに、《あなたは満足ですか》? と尋ねるなら、私の問いはそれ自体、事実において応答されているものとして生じているのである。応答は、私の選言命題[disjonction]の中にひとつの規定を導入しようとするものである。《事実》は、応答に先行して存在するものとして思惟されており、この応答の機能は、この事実を解放するか、もっと言えば小売りすることにあるように思われる。しかし、ひとつの応答を求めながら、私の問いは、自らが理解されていることを想定している。私の問いは、自分自身と応答とが出会うだろうという要請[postulat]を含意しているのである(ここには、満足という観念の同一性がある)。ゆえに、問いは、ひとつの理解力のなかに正確に映し出されているものとして呈出されているのであり、この理解力は、問いを事実(《彼》)と突き合わせて、事実を応答の形にして小出しに提供するのである。明らかなのは、この突き合わせこそ、定義するのが重要なことであろう、ということだ。私の問いは、他者が、自分は満足だろうか? と自問するようにすることに向けられている。だが、どのようにしてこの他者は自分自身に応答するのだろうか? どのようにして純粋な彼は、自らを解放して、いわば、問いの前に進み、問いに応答するのだろうか? もっと言えば、どのようにして純粋経験は自らを対話法〔すなわち問いと応答〕の中に差し入れるのだろうか? この純粋経験そのものが質問されねばならず、ひとつの《汝》となり、応答しなければならないのではないか。それにしても我々はひとつの無限後退の中に拘束されてしまうのだろうか? 純粋経験(存在様態)のこの応答それ自体は、どうやって産出されるのだろうか? 記しておくことが不可欠であると私に思われるのは、このような特殊な場合においては、この応答は是が非でも産出されるわけではないだろう、ということである。すなわち、純粋経験は応答するのを拒否することがあるかもしれないのだ。だが、純粋経験が拒否するにせよしないにせよ、明らかなのは、純粋経験が言わば転向させられて、純粋経験自体が(143頁)人格へと変えられる必要がある、ということである。〔そして〕この人格が、問いを発する意識と出会う場を持つか、あるいは反対に、持たないかなのである。少なくとも、この人格〈あるいは意識〉は、この出会いの場が存在するか否かを認めるための反省は充分に出来る。いずれにせよ、問いはひとつの呼び掛けとして、聞かれるかもしれないし聞かれないかもしれない合図として、働く。ここに、私が分からないので私は答えられないという場合を熟考する理由がある。呼び掛けは放たれた、だが何も答えない。反対に、もし対話者が知っているなら、彼の(客観的な)知は、答える汝へと変換されるのである。私が、デカルトはいつ死にましたか? と質問されるとする。一六五〇年です、と私は答える。このことは何を意味するか? 答えているのは事実そのものではない(永遠な真理、全くの彼)。〔答えているのは〕対話者に変貌する限りでのこの真理なのである。さらに自問すべきである、永遠な真理とこの真理のひとつの認識との間には、設けられるべき区別が存しはしないか、と。だが、この問いそのものはうまく呈示されてはいない。深めなければならない。気づくべきことは、デカルトは一六五〇年に死んだとかプラハはボヘミアの首都であるとかいう真理は、あり得る問いへの答えとしてしか定義され得ない、ということである。私はプラハがボヘミアの首都であることを知っている、と言うことは、本質的には、ボヘミアの首都はどこですか? という問いに私は答えることができる、と言うことなのである。ゆえに、ひとつの知(誰かの知)は、かくかくしかじかの状況において提供することのできる諸々の応答の集まりとしか見做され得ないのである。真実な知とは、当然のことながら、ひじょうに多数の様々に異なった状況において利用できる知のことなのである。だが同時に、この知は現実態であると言うのは不適当であるように思われ、この知は可能態でしかないと主張するのも言い過ぎであるように思われる。中間の概念が見いだされるべきであり、すなわち構成されるべきである。この意味においてなのである、知は力であるというのは(他方で私は示した、応答はひとつの印、すなわち合図であり、この合図は利用され得、行為を方向づけることが出来る、ということを。この行為とは、ここでは認識の爾後的進歩のことである)。
 私が気づくのは、ここまで述べてきたことに、想起の努力の本質に関する問題のような、最重要な諸問題が結びつくことである。私がひとつの忘れた名を探すとする、つまり、問うとする。私はその名を、ここで現実と私自身との間の媒介者の役をする辞書のなかに探すことができる。私は、私の問いが答えられるものであることを知っている(例えば、私は「救われたローマ」の著者の名を見つけださないが、この著者が実在し、ある名を持っていることは知っている)。だが、私自身への私の呼び掛けが聞かれるようには思われない。それでも私は、自分が(144頁)知っていた(つまり、もしかしたら知っている)ことを知っているものをしか、思い出そうと努めることはないのである。最初に提出された問いには、何かが答えねばならないのではないかと思われる。すなわち、《現在》が、もっと言えば、《我々にはそれが有る》〔といったもの〕が、〔答えねばならないだろう〕。つまるところ、この呼び掛け〔:この問い〕は、模糊とした内面の多様なものに向けられているのであり、この多様なものは、私の恒常的な「汝」なのである(この汝は、私がこれを私と呼ぶのでないかぎり、あるいは — 化け物じみているが — 私の私と呼ぶのでないかぎり、「彼」に変換されることはないだろう)。最初の応答が発せられるのは、この多様なものからであるように思われる。そして続いて、あたかもこの内面的な多様なものが私のために、記憶が立ち現われて「私だよ」と言う瞬間まで探し求めてくれるかのように、すべては成り行くのである 1。 〈1. 忘れられた記憶とは、声が出ない記憶のことである。 1925年の覚書。この探索が何から成っているのか、もっと詳細に調べなくてはならないだろう。この探索は、それを表面に浮かび上がらせるのが問題であるところの要素との関連において、一種の自己再調整をすることである。〉
 要するに、ひとつの科学実験のようなものが行なわれるのではないかと思われるのだが、問うていた当事者は、自分の呼び掛けを放った後即座に、その実験に参加するのを止めるのである。それでいて、極限において応答は直接的〈無媒介的〉なのである 2。 〈2. 再調整が不必要である場合。内面の多様なものが、求められている要素が第一面に来るように自発的に整えられる場合。〉
 弁証法〈対話法〉的観点 — これは実験〈経験〉の観点でもある — からすれば、つまり、思惟〈思考〉が問いと応答とによって前進するような世界においては、「純粋与件」というものは存し得ないことになる。つまり、いかなる問いもいかなる応答も含まず許容しないような純粋与件のことである。この「直接なもの」、これは純粋に無意味なものであろうが、この直接なものは、弁証法〈対話法〉のなかには何処にも入り込むことができないのである。そしてこの弁証法もまた — 定義からして — この直接なものから生じることはできない。しかし言うまでもないことだが、このことは全く抽象的な世界に関して言われているのであり、そのような世界を〔実際に〕享受するということは不可能であろう。
 享受においては、媒介するものと媒介されるものとの同一性が存するように思われる(「汝」が「彼」と混ざっているのであり、汝が両者の一つの表現でしかないどころではない)。私は物の記号とではなく物そのものと「交わり」 3〈3. 一九二五年の覚書。— この、交わり[communication]という術語は、もっと後で見るように、全くもって不適切である。〉の状態にあるのであるが、このこと自体によって、物は単に理論的意味での物であることをやめるのである。〔つまり〕物は意味されるものであることをやめるということである。この意味においてこそ、芸術は、愛と同様に、啓示なのであり、芸術は〔神的な〕賜(たまもの)を内包しているのである。ところで、全くの単なる「彼」においては 4〈4. 一九二五年の覚書。— より正確には、「彼」との関係が存続し、ある「汝」に関する干渉を内包する関係が存続するすべての次元において〉、賜の問題は存しないであろう。そしてこのことによって明らかとなるのが、我々がそれによって客体の独立性を断定するところの行為の本性である。我々は、客体が我々に差し向けられているとか、我々が客体のために存在しているとかいうふうには、認めない。反対に、(145頁)芸術作品は、ひとつの単なる物(ひとつのカンバス、黒く汚された紙、等)ではない限りにおいて、我々に向けて本質的に方向づけられている。芸術作品は自らを我々に啓示するのである。作品は我々を当てに〈我々に配慮〉している。つまり、我々は作品のために存在しているのである。ここには、合目的性の問題への、ひとつの興味深い移り行きが存するのである。

 一九一八・八・二三。
 「私」としての判断においては、主体の役割を演ずるのは、状態の直接性(主体の不在 — 主体への無関連、《無関連性》)である。このことは正確に述べなければならない。「私は疲れている」。〔ここには〕純粋で単純なひとつの感じ[un feeling]が、すなわち、ひとつの絶対的なものが存する。あるいは、ひとつの絶対的なものを模倣する何か、関係づけられず媒介されない何かが、存するのである。「私」としての判断においては、正確には、この無関連こそが、「彼」の役割を演じ、この無関連に、述語となった「感じ」が関係づけられているのである。そういうことであれば、人は次のように対話するわけだ: 《誰かが疲れている。— 誰が? — 私》。このやりとりは、もしこの《私》がもうひとりの対談者、この者にとって《私》は特別な誰か、つまり斯く斯くの者であるのだが、そういう対談相手に向けられていないものであるのなら、〔このやりとりは〕何の意味も無いものだろう。そして、私が私自身にとって斯く斯くの者になるのは、私がその者にとって斯く斯くの者であるところの他者という媒介者観念によってのみなのである。原理において厳密には、私は絶対に、私にとって斯く斯くの者であるのではなく、「私」は、斯く斯くの者の否定そのものである。このことによって明らかに生じるのは、「私」とひとつの思惟一般(カント派の思惟一般)との間に実在するところの、少なくとも外面的な類似である。もちろん、この思惟一般もまた、斯く斯くの思惟ではなく、あらゆる判断がそれに拠るところの思惟である。
 だが、この「私」は常に、それにとっては私自身がひとりの「汝」であるところの、ひとりの汝に面して[en face d’un toi]、自らを措定するもののように思われる。そして、まさにこの対話との関連で、まさにこの対話との比較において、ひとつの「彼」が、即ちひとつの独立した世界が、あるいは少なくともそのようなものとして—多分想像上で—扱われる世界が、定義され得るのである。ここに、ロイスの三元論[trialisme]の深い射程がある。この三元論は、充分に明示されなかったように私には思われるのである。あらゆる独立した現実性は、と私はもっと理解し易い言葉で言うが、ひとつの第三者として扱われ得るし、そう扱われなければならない。そしてもし、ひとつの第三者はひとつの対話を想定しているとするならば、あらゆる対話はひとつの第三者を自らに与えるものだと言うことも、そのことに劣らず真である。
 私が垣間見るように思うのは、純粋な対話法が愛へ向かうゆっくりとした経過のようなものである。〔その経過においては〕「特定の汝」[le toi]がだんだん深く「あるひとつの汝」[un toi]となるのである。実際、この特定の汝は、本質的に「あるひとつの彼」[un lui]であることから始めるのであって、この「彼」は、もしこう言うことが出来るのなら、「汝」の形式しか持ってはいないのである。私が鉄道列車のなかで一人の見知らぬ人に出会うとする。我々は、気温のこと、戦争の報道のこと、等について話している。だが、私がこの人に向き合っている間ですら、この人は、私にとって《誰か或る人》[≪quelqu’un≫]、《そこに居る人》[≪cet homme-là≫]であることをやめない。彼は、まず最初に「斯く斯くの人」[un tel]なのであって、この人について私は(146頁)少しずつ、その経歴を、彼の取り巻きや隣人たちを、知るようになるのである。そして、彼が私にとって斯く斯くの人である限りは、私は私にとっても斯く斯くの他人に思えるのである(このことが深く理解させるのは、「自分を意識している」[self-conscious]という英語の表現の意味である)1。〈1. 一九二五年の覚書。— 概ね、私の話し相手が私にとって外面的であるほど、私も同時に、その程度に応じて、私自身にとって外面的であり、私が意識するのは、私であるところのものではなく、私の性質あるいは私の誤り、私の特徴、といったものなのである〉 他人は自らを私に、私のものである諸記号と〔いわば〕交差するところの諸記号によって、伝えるのであり、それだけのことなのである。だが、〔ここで〕生じるかもしれないことは、次第しだいに、私は私自身と対話していると意識する〔ようになる〕ということであり(このことは、他者と私とが同一であるということも、それどころか私には同一に見えるということさえも、全く意味しない)、すなわち、次第しだいに、かの絶対的なもの、《非関係性》[unrelatedness]であるところの絶対的なものへの、参与が為されるということなのである。つまり、我々は次第しだいに、斯く斯くの者、斯く斯くの他者であることを、やめるというわけである。我々は単純に《我々》なのである 2。〈2. 一九二五年の覚書。— このことに結びついているのが、かの経験、〔すなわち〕汲み尽くされない富の経験、永続的な《再び(アンコール)》の経験であって、この経験は倦怠の反対そのものなのである。そしてこのことに気づくことは、持続[la durée]について作らなければならない概念にとって、大変に重要なことなのである。〉 哲学の古い言葉では、「それは私にとってどんどん客体ではなくなってゆく」、と言ったことだろう。だがこの表現の仕方は曖昧で理解しにくいと私は思う。私の愛する存在は、私にとって第三者であることが、可能な限り少ないのである。そして同時にこの存在は、私を私自身に露わにする。というのも、この存在の現前の効果は、私が私にとってどんどん「彼」ではなくなってゆくようなものだからである。私の内面的な防御は、私を他者から分離する仕切りと一緒に崩れるのである。〔こうして〕私の愛する存在は、ますます循環[le cercle]の中にいることになる。この循環と比較すれば、この循環の外部に、第三者である者たちが存するのであり、この第三者たちは他者である者たちなのである。だが、第三者であるという認識は、その者を、第三者であることをもって消し去りはしない。そして逆もまた然りなのである。すなわち、こう言ってよければだが、存するのは、互いに他を覆い尽くすことのない範疇(カテゴリー)の諸々なのである。多分、「認識」[connaissance ]と「慣れ親しみ」[familiarité]とを、後者の言葉をその元々の意味〔:「親密さ」〕に解して区別する必要があるだろう — 慣習的な意味にではなくて。さらに、「慣れ親しみ」と「愛」[amour]との間にも、まだ、立てられるべき他の区別が存しないとは言えない 3。 〈3. 私はつぎのように信じるほうへ傾いている、すなわち、私は私〔自身〕の魂について、あの愛の関係、この関係の対話法は知性的な噴出であると同時に或る程度の否定であるのだが、この愛の関係が私と私自身との間に、鮮明で専一的となる位に確立される場合においてしか、語ることは出来ないのである、と。ただし、言葉というものは欺くものである。ここでは、諸々の用語や、諸用語間の関係といったものは、存しないのである。存するのは、実際には分解し得ないようなひとつの集まりなのである(この集まりこそ、自己との親密さ[l’intimité avec soi]であって、内面的な生[la vie intérieure]なのである)。〉

 一九一八・十二・八。
 述語形成の行為のなかに含まれていると思われる、「もの」への「思惟」の関係のことを考えると、つぎのように指摘するのが適切である、すなわち:
(147頁)
 1°) 「もの」は、決して、諸々の術語の総体のようには見做され得ない。記号の「+」は、収集というもの(諸々の関心の並べ立て)の全くの心的な形式にしか関係しないのであれば。
 2°) 術語は、ひとつの規定された問いへのひとつの応答の象徴化、固定化でしかない。したがって、「Aはpである」とは、ただ、iという関心との関連で、Aはpと答える、ということを意味しているだけである。
 3°) Aが、諸々の述語a、b、c、d、の外で何であるか、と自問することは、一つには、Aのその他の諸々の術語は何であるか、と自問することである(このことは多分、列挙される諸々の術語が何であれ、ある意味をもつだろう。なぜなら、〔術語を〕余すところなく列挙することは考えられないことであるかも知れないから)。もう一つには、Aが、考え得る問いのいかなるものでもないようなひとつの問いにたいして応答するところのもの、すなわち、問いのひとつの不在にたいして応答するところのものは、何か、と自問することである。だが我々は知っている、その応答は正確には零ではない、ということを。それは「これ」[ceci]なのである。Aは、「これ」という指標〔が指し示すもの〕から規定され任命された、ひとつの術語(あるいは諸々の術語のひとつの総体)なのである。そして、この指標こそが唯一、Aにたいして、Aの見かけ上の実体性を授けるものなのである。1 〈1. ここでは、「A」と「一つのA」[un A]とを区別すること。「一つのA」に関係するすべての判断は根本において仮言的[hypothétique]〔甲が乙ならば丙は丁である、というように、他のものを予想している判断。Un A、un autre A、というふうに〕である。「A」に関する判断は定言的[catégorique]〔甲は乙である、というような判断〕である。〉
 ゆえに、Aは諸々の応答のひとつの集まりに還元される、などと言う権利は、人には無い。諸々の問いそのものが、「これ」という基礎の上でのみ、〔つまり〕直接的な呈示という基礎の上でのみ、可能なのである。

 一九一八・十二・十
 明らかに、「もの」[la chose]は、保存されるものではない。我々が死すべきものであるのは、〔我々が〕「もの」[choses]である限りにおいてであって、身体[corps]である限りにおいてではない。
 この曖昧な一文(フレーズ)は、私がここに再録しているひと集まりの日付を入れていない諸反省に拠っているものであり、これらの反省の、おそらく部分的には相矛盾した性格にも拘らず、そうしているのである。
 保存されるものとして思惟され得るものは、厳密には、散逸したり失われたりするものとしても理解され得るもののみである。
 保存とは、散逸に対抗する力の行為を含意するものである。すなわち、保存とは、全体にたいして外的あるいは内的なものとして思惟されるような、ひとつの具体的な統一を含意するものなのである。ゆえに、この全体はそれ自体も、別の意味において、ひとつの具体的な統一であり、あるいは少なくともそのような統一として扱われるものだということになる。
 保存という観念は、保護という観念、および価値という観念を、含意している。つまり、全体は、全体そのものにとっての全体として、あるいは全体を保存する作用体にとっての全体として、価値があるということである(私は目下のところ、この区別を深めることはしない)。
(148頁)
 持続性が存するのは、それによって私が全体を全体として(単に集合体としてではなく)思惟するところの行為 — それによって私が全体にひとつの価値、ひとつの質を特定するところの行為 — それによって私が全体を保存するところの行為、そういう行為が為されている間においてなのである。
 例えば、一通の手紙を、投げ捨てたり引き破ったりしないで、保存する行為である。
 いずれにせよ、場の同一性が強調されているか、あるいは、もし、場が生み出されるならば、場の変化が捨象されているかなのである。
 表面的には、誰かによる「もの」の保存と、それ自体による自己保存との間には、深い差異が存するように思われる。そして、第一の場合が、第二の場合よりももっと単純であるように見える。だが、もっと深い反省は、全くそうではないことを示すのである。
 私が一通の手紙を保存しようと決める〔とする〕。このことは何を意味するか? 一つには、私がこの手紙をひとつの価値を示す具体的な統一として措定することを意味する(何らかの次元での価値なのだが、ここでそれを正確にするのは無益である)。それから、この措定行為は、散逸させる力を否定することを意味する(この散逸力をこれ以上明示することはしない)。この散逸力が発動するには、この手紙がひとつの集合体でしかなく、斯く斯くの場所に必然的に結びついているわけではない、という事実があればそれだけでよい(そのためにこの手紙は引き裂かれたり、不注意によってでも、紛失されたり等することがあるわけである)。だが、実際には、私がこの手紙を保存できるのは、私がこの手紙を同時に物理的客体として思惟するからでしかなく、私が、この手紙が私に与えられている仕方と、手紙が散逸するかもしれない諸要因とを、斟酌するからでしかないのである。ゆえに、「この手紙」の保存の根底には、「この手紙の観念」が存する。この「観念」は、この「手紙」の外部にあるのではない。「手紙」と「観念」は、ひとつの自律的な統一体[un ensemble autonome]を形成している。保存は、この統一体の働きと結びついているのである。この統一体の生ける中心、それは、この手紙の価値であり、能動的な質なのである。私が想像力によってこの類の統一体を構成する限りにおいてしか、私は決して保存ということについて語り得ないであろう(この類のというのは、それによって集合体が或る程度集合体としては否定されるか、単に集合体であることを否定されるところの、質のことである)。一連の重要な帰結がここから生じる。その第一のものは、保存という観念が、全体性として解された宇宙に適用され得るのは、宇宙がひとつの総和、並べられる諸要素のひとつの総体としては見做されない、という条件においてのみである、ということである。

(149頁)

記憶への適用

 こう人は問うだろう、記憶は自らを保存するのか、あるいは、記憶を保存する傾向のある或る能動性が存するのか、と。だがこの区別は意味が無い。記憶は霊魂的[psychique]な能動性の外部にあるのではないのである。(翻訳2につづく)
 

 
 



ヤスパース『哲学』翻訳 第三巻「形而上学」「第三章 超越者への実存的関係の諸々」4

2023-04-17 16:12:46 | 翻訳
〈ヤスパース『哲学』翻訳 第二巻・第三巻〉

(116頁)
 

多なるものの豊かさと一なるもの

 
 「一なるもの」[das Eine]には多様な意味がある。一なるものは、論理的なものにおいては、思惟され得ることとしての統一性〔あるいは単位性〕である。一なるものは、世界の内では、現実的なものの統一性であり、自然においても歴史においてもそうなのである。一なるものは、実存にとっては、其処において実存が自らの存在をもつところの一なるものである。なぜなら、この一なるものは実存にとって一切であるからである。
 形而上学においては、「一なるもの」が探求される。この一なるものが、思惟可能性としてそれであるような統一性〈単一性〉を超えて[über]超越することによって探求されるものであろうとも、〔あるいは〕世界の内で統一性を摑み取ることによって探求されるものであろうとも、〔あるいは〕「実存的に一なるもの」として歴史的な自己存在の無制約性であるような統一性から[aus]超越することによって探求されるものであろうとも、である。これら諸々の路は互いに交差している。すなわち、これらの路は共通の展望のために互いに出会うことがあるのである。差し当たりは各々自分だけで個別の路であるにしても。
 1.一なるものの実存的根源。— 実存開明においては、行為の無制約性が感得可能になるのであるが、それは自己存在と一なるものとの同一性によってであり、この一なるものを自己存在は現存在において摑み取るのである。問題である一なるものが私にとって存する場合にのみ、私は本来的に自分なのである。対象の形式的統一が自己意識にとって対象が思惟可能であることの条件であるように、内実に満ちた一なるものは、自己存在にとっての無制約性の現象なのである。だが、思惟可能性が普遍妥当的な真理の関連に属している一方、実存的な一なるものは、他の諸真理を自らの外に持ちながらも、自分ではその諸真理ではないような真理なのである。存するのは、すべての諸真理が其処へ止揚されるようないかなる知られ得る全体でもなく、(117頁)ひとつの、決して全きものとなることはなく、一度たりとも外部から思惟可能とはならない存在における、これらの実存する諸真理の限界無き可能的交わりなのである。
 実存的な統一性は、第一に、自己同一化における歴史的規定性としての限界づけであり、この自己同一化は、排他性によって存在の深みを明示するのである。たしかに、現存在における実存は、一なるものを欲するとともに他なるものをも欲することがあり得る。実存は、取り替えたり、試みにやったりするものだ。実存は挫折し、そして新たな試みをいろいろとやってみる。しかし、これらすべてのことが現存在において適切なのは、ただ、私が現存在において自分自身である限りにおいてではなく、私が現存在を用立てる限りにおいてのみなのである。私が私自身である場合、私は、外側から見ればひとつの制限された現実であるところのものとの同一性においてのみ、そうなのである。私が存在するのはただ、私が可能的実存から歴史的に生成し、自分を現存在のなかに沈潜させる場合のみなのである。逸脱すると、多様なものに気を散らして分散する[Zerstreuung]ことになる。すべてが他のようでもあり得るとすれば、私は私自身ではないのである。私がすべてを欲するならば、私は何も欲していない。私がすべてを体験するならば、私は存在へと至ることなく、無際限なもののなかで流れ散ってしまうのである。
 統一性は、第二に、理念としての全体である。諸々の全体性としての諸理念に関係しているものは、自らの統一性を、特定のこの理念という相対的な全体において持つのであり、この理念が無ければ、偶然なものの単なる多様性であるだろう。ゆえに、統一性からの逸脱は、部分への、そしてこの部分の絶対化への逸脱であり、したがって、路も目標も無く相互に戦い合う、諸々の任意な対立への分裂に逸脱することである。
 分散しないように護る実存的な統一性と、無際限に多様化しないように全体性を通して護る理念による統一性とは、一致するものではなく、緊張関係にあるのである。諸々の理念は実存たちによって担われるが、実存の統一性は、理念が硬直あるいは鈍麻している場合には、この理念を突破するものである。諸々の理念は、精神のコスモスとして思惟されるならば、精神的な世界のひとつの像を示すものである。しかし、見かけ上の全体性を前にする場合には、実存たちは消滅するのであり、そして実存たち無しでは、この世界はいかなる現実性も有さないのである。精神的世界の像が、諸々の理念的全体性の自由な浮遊となっている場合には、この像は私自身ではない。このような精神的世界の像は、なるほど、可能性としては私以上であるが、現実性としては私以下なのである。
 統一性は、第三に、選択を通しての決断として、実存的根源の統一性である。没落は、不決断なものへと、そして決断しようとしないことへと赴くことである。私は存在へも私自身の意識へも至ることはなくなり、単に私の現存在を守るだけの前のめりの千鳥足の状態なのである。この状態では、私が決断の因子となる代わりに、私に関して決断が下されるのである。
(118頁)
 それゆえ、根源の統一性が意味するものは、歴史的規定性であり、理念的な全体性であり、決断性である。没落とは、散漫へと、孤立化する絶対化へと、不決断性へと、陥ることなのである。
 現存在、これと私は歴史的規定性として、諸理念によって充実させられて、決断的に同一となったのであるが、この現存在が私にとって絶対的となる場合、それでも現存在として絶対的となるのではないのである。実存的となる瞬間においては、歴史性のなかで、歴史性の超越者が出会われる。一なるものは現存在として超越者への路となり、一なるものの内密さは、超越者への関係に立っているという確信となるのである。というのも、一なるものは、根拠づけられ得ないものであるように、言表され得ないものでもあるからである。あらゆる言表はただ表面上の統一性に的中するのみであり、有限性における客観化なのである。言表は単なる客観性として数的統一性におけるものであり得、一なるもの無しであり得るのである。すなわち、ある有限的なものの固定化であり得るのであり、この有限的なものに私は超越者を欠いたまま力ずくで結びついているのである。一なるものは、現存在の有限性のなかで鼓動する心臓であり、知られざるひとつの光の照射である。各人は自らの光線のみを有しており、その光線は交わりのなかで各人にとって明瞭となる。比喩においては、あらゆる光線は一なる神性から来るとしても、それでもやはり、一なる神は万人にとっての客観的な超越者になることはない。一なる神はその都度ただ、一なるものにおいて超越する実存にとって、一なるものの脈動として存在するのみである。
 一なるものがけっして触れることがなく、多様な現存在の肯定性を絶対的なものであると見做し、すべてのものは代替できることを可能性として採用し、それを越えて死が存することを忘れる者のみが、つぎのように言うことができるだろう: 生において自分の心をただひとりの人間やただひとつの事柄に余りにも懸けすぎることなく、多くの人間たちと多くの事物を愛するという広い根拠を自分のものとするということは、適切なことである。というのは、ただひとりの者が失われると直ちに全体が疑問視されることになれば、他者たちの死と破壊は、余りにも、まさに破滅的に、自分自身の現存在を見舞うことになるであろうから。自分の愛を分散し、何ものも余りに愛さないようにすることで、自分を防御することになるのだ。
 このような、現存在には適切な基準に拠る、内在的次元に留まる考え方は、一なるものにおいて超越者を経験することとは、最も決定的に対照的なものである。この一なるものは、現存在としての実存を、現存在を包み越えながら、自らと同一的なものとして立てるものなのである。
 2.世界における統一性。— 世界定位において私に接近可能となるものは、私がそれ自体の内で関連し合っている一なるものとして捉え得るもののみであるので、ひとつの統一性の関連の中に収集されないものは、その異質性において理解されずに留まっている。体系的な統一性の要求が自らの基準とするものは、諸々の知識の単に無際限な収集とは区別されている認識である。統一性は、(119頁)研究者に方向を与える力であり、この力は、この力そのものがそれによって初めて可能になるところのあらゆる分離を超えた処で、この分離が無基盤なものの中に陥らないよう見張っているのである。
 とはいえ、統一性、全体性、世界における形態、といったものが存在することによって初めて、体系的な世界認識が可能になるとはいっても、やはり、このような諸々の統一のいかなるものも、それ自体としては、超越者であるような一なるものではないのである。世界における諸々の統一は、方法的な諸々の観点へと相対化されるか、そうでなければ、この諸々の統一自体が、超越者である一なるものへの関係によって内実に充ちたものとなるかなのである。
 したがって、世界の内での統一性が本来的に真であるものになり得るのは、研究の観点としてでもなければ、すべての諸事物の相互作用である空間的な絡まり合いとしてでもない。さらには、合理的に見通せるような相互了解の共同性としてでも、世界国家のような人間的諸事物の秩序としてでも、また、宗教的信仰の客観的な統一性を信じると表明することにおいてでもない。そうではなく、ただ、それ自体が超越者に関係づけられているものとしてのみ、世界の内での統一性は、本来的に真であるものになり得るのである。それ以外のどんな統一性も、自らにとって相対的な統一性であり、外面的な統一性として、欺瞞的なものなのである。
 3.論理的なものにおける統一性。— 私が統一性を思惟する場合、統一性は先ず、数としての一であり、この一によって多なるものは数えられるようになる。統一性は次に、単位であり、この単位において諸対象のひとつの多様性はひとつの全体なのである。そのような全体としてこの多様性は把握可能となるものである。統一性は第三に、自分を自分に関わらせる人格性における自己意識の統一性である。超越者は、これらの統一性のどんなものにおいても、超越者自体に相応しく思惟されることはできず、一なるものとしてすべての統一性を超え出て求められるものであるが、その場合、これらの世界内での諸々の統一性は、超越者の束の間の様相であり続けるのである。
 a) 神性は、数的に一であるもの[numerisch Eins]ではない。というのも、そうであるなら、即刻、思惟し得る可能性が存することになり、ただ一なる神が存するだけではないことになるであろうから。また、数的な一は、多なるものと対峙するものであるから。ところで神性は数的な一でもなければ、原理的に数えることのできる多でもあり得ない。数としての統一性は、形式的であるゆえに常に外的な統一性であるに留まるのである。
 さて、超越者が、数的に一であるものとしても多なるものとしても思惟されるはずのものであるのなら、算術可能性を越え包む意味において数多なるものであると同時に一なるものであるために、一定の数なるものは終了しなければならない。我々の表象行為は数的な一性と多性をどうしても用いて行われるのであり、それゆえ、この〔一性と多性の〕両者が同一であると思惟されるような不条理を通して超越することが為される場合には、この両者は共倒れにならざるをえない。このことが感得させるのは、数的な一性を神性に適用することは、数的な多性を適用することと同様、不適切であるということである。(120頁)一と多を越え出て、超越者である一なるものへ超越することによって、志向されるものは、数が表現し得るものよりも深いものでなければならない。
 b) 多の統一としての一性[Einheit]は、単に総体としてあるのではなく、質的に、一性へ至った多性として、全体性あるいは形態[Gestalt]として、あるのである。このような一性は、ただ多性によってのみあるのであり、そして、このような多性は、ただこのような一性の内でのみ相互に関係づけられたものとしてあるのである。このような一性は、世界の内において、特定のひとつの事物としての各々の対象の統一なのであり、そのような事物とは例えば、ひとつの道具、特定の有機体としてのひとつの生きもの、ひとつの芸術作品、といったものである。そのような諸々の統一は、私が対象的に私の前に立てられたものとして観ずる造形物である。そのような統一は、有限な俯瞰可能性よりも以上のものであるに応じて、美として我々をこの一なるものである超越者へと惹きつけるように見える。しかし神性そのものは、この統一ではあり得ない。なるほど、神性は其処において偉大な客観性を有する像にはなったかもしれないし、私はそのような客観性と、讃嘆しながら観察するという関係を有し、その輝きのなかで安らぎもする。だがそこに欠けているのは、現存在において統一を妨げ、私〔の心〕を捉えながらも破滅させる現実的なものなのである。というのも、この統一において示されるものは、もはや超越者ではないからである。この超越者に私は、反抗と帰依、没落と上昇、昼の法則と夜への情熱といった、解決できない二律背反を通してこそ関係づけられているのである。
 c) 数的な一と、ひとつの全体という統一性は、これらを観じて思惟する主観にとってあるものであり、これらそのものにとってあるのではない。これらは、これらが互いに関係し合っているという意識があるからといって、互いに作用し合っているわけではない。意識、自己意識、人格性は、我々がそれでありうる統一性であるが、対象としてはもはや論理的に適切には思惟されないものなのである。
 統一性としての超越者は、我々自身がそれであり得る統一性よりも不充分な統一性において我々に現象することはあり得ない。人格性は、その限りにおいて、統一性としての神性になければならないであろう最小限のものである。とはいえ、人格性は、他の人格性と共にのみあるのであるが、神性は神性自身のようなものと共にあるのでもない。人格性は実存なのであり、まだ超越者ではなく、正にそれにとってのみ超越者が存在するところのものなのである。
 人格性は、その現前性において同時に究め難い統一性であり、そのような人格性の統一性において超越することが為されるのである。このことによってこの統一性は、自らの存在の重みと、自らを越え包む意義の微光とを保持するのであるが、超越者が人格性となることはないのである。
 4.一なるものへと超越すること。— 我々が、我々にとって近づき得る統一の諸形態へと眼差しを戻すなら、どんな統一の形態にも、超越者への関係はあり得たのである。(121頁)一なるものそのものを形而上学的に摑み取ることは、実存的に一なるもののなかに根差している。超越者への関係は自らの現存在空間を、世界と歴史との一なるもののなかに持っている。一なるものの論理的諸形態は表現手段なのであって、それ自らの合理的意味を超越者無くしても持つのである。
 一なるものは、一なる世界のことではなく、万人にとっての一なる真理のことでもなく、すべての人間を結びつけるものの統一でも、我々がそのなかで互いを了解し合う一なる精神でもない。論理学と世界定位における一なるものの通用性と、そして、諸々の特定の統一性において超越することは、その形而上学的な意味を、実存の一なるものに基づいて初めて持つのである。
 つぎのようなことが問われる: どうして神性は一なる神性としてそのような魔法〔のような吸引力〕を有しているのか? どうして一なるものは、あたかも他の仕方で在りようが無いかのような自明さを持っているのか? どうしてこの一なるものは、超越者が神性として一なるものでないとする場合には、妨害や喪失のようであるのか? その理由は、私は超越者である一なるものにおいて私の本来的な自己存在を見いだすからであり、この自己存在は一なるものである超越者を前にして[vor der einen Transzendenz]初めて、そして此処でのみ真実に、消え去るからである。
 現存在における可能的実存としての私に、私がそれと同一となることによって私自身に至るところの一なるものが顕現するなら、その時私は、この一なるものが現象することに拠って、一なる神という、思惟できない仕方で一なるものであるもの[das undenkbar Eine des einen Gottes]に遭遇するのである。あらゆる諸統一が自らの相対性を感知されるに任せている一方で、実存的に一なるものは、自らの無制約性において根源であるままであり、この根源は、そこから神がすべての実存の歴史性の一なる根拠として観られるような根源なのである。私が一なるものを生において無制約的に摑み取るに応じて、私は一なる神に信頼することができる。私が、私の生の歴史的現実において、実存として一なるものへと超越するということが、一なる神性へと超越することの条件なのである。私がこの最後の飛躍の後で一なる神を確信して生きるということは、逆に、私が私の世界における一なるものをも無制約的に捉えることの、根源なのである。私にとって超越者が存在するのは、私の現存在の持続性における一なるものが存在するに応じてのみなのである。
 このようにして、一なる神は、実存的に一なるものを通して、その都度私の神なのである。排他的に一なる者としてのみ、この神は近い〈親密な〉ものである。私はこの神を全人間たちの共同体において持つのではない。この一者の近さは、私が超越することの様相なのである。だが、最も確かな顕現ですら、客観的には単にひとつの可能性であり、私に充分なだけであって、この神が私にとって一なる者[Einer]であり得る仕方でのみあるのである。この近さは、世界のほうから私にたいして、疎遠な信仰と、他の人々にとっての他の神々とを伴って歩み寄って来るものを、揚棄することはないのである。ところで私がこちらの世界を見遣ると、一なるものは私にとって遠いものであり、(122頁)まったく近づき難いものなのである。実存の一なるものにおいて、一なる神性が感得されるようになる場合、この神性は、特定のこの瞬間の歴史性の、翻訳不能で交われない「近さ」に入るか、最も抽象的な到達不可能性という「遠さ」に入るかの、いずれかとなる。たしかに、この一なる神性は、私と同一となることは決してなく、最大限の近さにおいても絶対的な距離を保っている。それでも、この神性の近さは顕現と同様なのである。これに対して、遠さのほうは、差し当たって世界現存在を貫通する超越行為をするという課題を克服しても尚、この世界現存在の非完結性、分裂性、多重性、統御不可能性のために、この課題の彼方にある、そういう遠さのである。一なる神が見いだされるとすれば、それは、諸々の力の諸形態が世界現存在において諸々の超越者として相争う、その諸様相〔そのもの〕を超出することによって初めて、見いだされるところのものだろう。
 全体への衝動が現存在において他のものに衝突するように、統一性への衝動は超越者において神性に衝突する。この神性は万人に同じ顔を見せるのではない。私が、一なるものを見遣って自分の力を獲得しつつ、他の人々に抗して行為する場合、私の神を唯一の神と見做すなら、それは不遜というものである。真実な実存は、「近き」の神を越えて「遠き」の神を視界から失うことはあり得ない。この真実な実存は、抗争において尚、他者が神と結びついていることをも見ようと欲するのである。神は私の神であると同様に、私の敵の神なのである。寛容は、限界無き交わり意志においては積極的なものとなる — そして、闘争が運命であるという意識において、この交わり意志が効かない場合には、この運命意識は決断でなければならないのである。
 近き場合でも、遠き場合でも、一なる神性は端的に認識されていないものである。一なる神は限界として存在するのであり、一なるものとしてのみ絶対的である。多重な諸形態、暗号文字の多様性が、神性だと見做されると、人は任意性に陥る。すなわち、多なる神々が、私が何を望もうともそれはすべて、何らかの仕方で正しいのだと認めてくれることになるのである。私の恣意は一つのものから他のものへと向かうが、一なるものは、多なるものという小さな貨幣に分割されて、もはや無制約的なものではない。超越者の多性と対峙しながら、私は依然として、私がその多性を自ら生み出すのであることを知っている。だが、限界としての一なるものは、いかなる仕方でも私自身ではないところの存在であり、この存在に私は、本来的自己としての私に関係することによって、関係するのである。この存在が私と異ならないならば、私は超越者に関係しないで、ただ私に関係するのみであり、しかも自分であることはないであろう。唯一、私の存在を通してのみ、すなわち、私次第である実存の一なるものの現実を通してのみ、私は自分を、私自身ではないところの一なるものに向って開くのである。
 美的に多なるものにおいては、統一性とともに無制約性は失われてしまう。たとえ客観的には、多なるものが依然として、美しい形像において(123頁)対象的な統一性に繫ぎ止められていようとも、私にたいし、即座に他の美しい諸形像も示されるのである。一なるものは、実存においてその都度排他的なものとなるのであるが、悟性にとっては対象的に規定可能ではないのと同様に、一なる神は、対象的に一なる者として接近可能なのではない。一なるものを、裏切ることなく守るためにこそ、一なるものの客観化は避けられなければならないのである。知ることと観ることにとって、現存在と諸暗号との豊かさが在るのであるが、この豊かさは、具体的な現前において、一なるものの歴史的形態になるのでなければ、建て前と遊びであるに留まるのである。
 確かなものは、私が経験するところのものであり、私が為すところのものである。すなわち、それは、人間たちとの事実的な共同体であり、自分自身への態度をとる事実的な内的行為であり、外に向ってゆく諸々の行為である。神が何であるかを、私はけっして認識しないだろうが、私であるところのものを通して、私は神を確信するようになるのである。
 一なるものである超越者が万人にとって一般的な超越者ではないように、超越者は孤立化した単独的個人の絶対的に交わりと無縁な超越者に留まっているのでもない。超越者は、最も深い交わりを打ち立てるものとなるのである。だがそれはいかなる普遍的な超越者にもならない。人が、真なる神性は人類を普遍的に結合し得るものであると宣言するならば、それは実存にとって、超越者の通俗化なのである。最も突っ込んだ交わりは、狭く限定された仲間どうしにおいてのみ可能である。ここでのみ、超越者はその深みを、それぞれに歴史的な形態において開顕するのである。今日においてすべての者たちを結びつけるのは、もはや神性ではなく、現存在に関わる諸々の利害関心であり、技術、普遍妥当的な悟性の合理性であり、最も深い水準の一般的に人間的な衝動性であるか、あるいは、ひとつの統一という暴力的な理想郷の諸々であるか、あるいは、相互に全然関わるところのない、本質の異なる者たちの共存を寛大に目指すという、ひとつの方向意欲としての消極的な統一であるかである。超越者を最も普遍的なものとしてその中で生きることは、超越者そのものを失うことである。むしろ、一なるものは現存在においては、他を除外することによってのみ現象するのである。万人にとっての一なる世界と超越者、という諸ヴィジョンは、闘争という限界状況の諸々における実存の現実的な力を前にしては、溶け去ってしまう。限界状況において実存は初めて、超越者を自分の超越者として我がものにしなければならないのである。それは、真正な交わりに基づくことによって初めて、万有との可能的統一という歴史的な広がりの中へ突き入るためなのである。
 5.多神論と一なる神。— 多なるものは自らの権利を欲する。根源的には、至る処で多神論が存在している。多神論は、現存在においては、止揚され得ない意味を有しているのである。というのも、現存在における実存にとっては、超越者の現象が可能であるのは、常に束の間のものであるゆえに概観できないほど多様な形態においてだからである。しかし同様に根源的なことは、(124頁)多神論とともに、一なるものとしての神性が思い描かれていたことであり、それも日常や祭式においてではなく、背景としてのみ思い描かれていたのである。〔人間が〕実存することによって関係づけられる現前的な神性としてでもなかった。野生諸民族すべての神話的な父。ギリシャ人における、あらゆる人格化と規定性との根底に存して、これらを包み超え、ただこれらで代理される神的なもの一般。諸々の統一的集団への神々の集合、一つの最高神を有する神々の国家への、神々の集合。最後に、単に最高神でもなければ、それと並存して他の諸民族が他の神々を有するような単に一なる神でもなく、唯一の、すべてを支配する神であるような、一なる神。すなわち、哲学的な理性を通して思惟された、ギリシャ哲学の一なる神、および、根源的にはどんな哲学も無しに魂の孤独のなかで経験された、ユダヤ預言者たちの神 — これらは、このような一なるものの史実上の諸形態なのであって、この一なるものは、歴史的な過程のなかで自らを多神論から解放しているのである。
 私が向き直る「一なる」神の簡素な諸表象は — この神が自らを私に啓示するにしても隠すにしても —、言葉にされたものとしては再び素朴なものである。表象は規定的な表象となるが、それは、全能な、遍く現前する、全知なものとしての神性の表象である。また、愛しかつ怒るものとしての、正義でありかつ恩寵を下すもの、等々としての神性の表象である。しかし、表象が無ければ、あるいは、思想が無ければ、神性は一度たりとも我々の非知にとって存在することはないのである。非知は神性への実存的関係の表現であるというのが本当なら、神性は実存にとって、束の間の諸表象や諸思想の形態で現象する、というのもまた本当なのである。
 しかし明らかなのは、その際、一なる神を絶対的に一なる、自らの内で完結している神、この神自身ではない何ものをも自らの外に持たない神、として思惟する思想は、そのままでいることはできない、ということである。というのも、世界が存在するからであり、私自身が存在し、私は可能性において反抗と帰依にたいし、没落と飛翔にたいし、自由であるからである。私は超越者をただ昼の法則においてのみ経験するのではなく、夜の暗闇において〔も〕経験する。多なるものが一なるものに対抗して立ち上がり、諸々の現存在世界の多種多様性が人間の歴史の統一性に対抗して立ち上がるのである。だが、多なるものをそれ自体として存在にすることは、同様に不可能なのである。多なるものは神性そのものの中に取り入れられるが、それは二律背反に拠って真なる存在の中への飛翔を見いだすためなのである。
 しかしここで生じる諸思想と諸表象があって、これらは、明晰に思惟されるなら純粋な不条理の諸々であるが、歴史的な凝結〈あるいは具体化〉としては、最も深くて知られ得ない秘密なものの表徴[signa]なのである。一なる神性は言わば(125頁)自らの生成のひとつの過程の中へと入るべきなのであり、自らの一性はともかくとして、ひとつの多性を許すべきだというのである。三位一体説は、神の一性を、神の自立的な諸人格とは区別して思惟する。すなわち、三つの人格の同等性を、父への子の依存性にも、これら二つへの聖霊の依存性にもかかわらず思惟し、永遠な存在を、子と聖霊との産出としての生成にもかかわらず思惟する。この思想は不適切な数的地平で思惟されるならば、思想上、一が三に等しいという信仰が要求されることになる。このような不条理は、人格的な自己意識の比喩を通して持ち上がるものではない。このような自己意識においては、私は自らを分裂させるものの自分に帰還するが、即座に自分を新たに分裂させるのであり、〔このように〕ひとつの円環過程として、このような自己閉鎖の安静にありながらも常に不安静な、私の現存在を持つのである。〔つまり〕私自身が三つの一つ〈三位一体〉[einer der drei]なのである。〔問題の不条理は、このような自己意識の比喩によって持ち上がるものではない〕というのは、このような比喩においては、自己意識の一性は超越することの路として受け取られるからである。だが、この自己意識はただ他の自己意識と共にのみ在るのであり、〔問題の〕不条理は依然として、一なる人格が三つの人格でありかつ三つの自立的人格がやはりただ一なる人格でのみあるはずである、という形態においてあり続けるのである。
 これは、とつおいつする思想であって、諸々の不可能性のなかで超越が為される限りでは真であり得るが、信仰内容として固定化されると非真理であり得るのである。
 6.一なる神性の超越者。— 一なる神は、思惟されると必然的に諸々の不条理へ通じるが、これら不条理を超越することで私はこの神を感じとるはずなのである。この一なる神は実存的な関係においては、私に応答する御手であり、私が真であり本来的に私自身である処では、私に応答するのである。この神は近き神であり、遠くても正当に私に報いるのである。子供のように敬虔であることは、あらゆる問題性と暗号とを飛び越えることであり、この二つによって壊されることはない。すなわち、この敬虔さのなかには信頼があるのであり、いかなる問いももはやない — そこでは私は飛翔しているのであり、昼の法則に従っており、世界の内に留まり、神性が何を送って来ようとも同意するのである。
 このような神は、この神が存在するのだという意識を通して、〔人間が〕死ぬ運命であることに耐えることを教えることが出来る。不死性は〔この世の〕有為転変においても飛翔の際の存在意識として留まり続けるかもしれないが、〔他方で〕苦痛、世界の内では、私が愛するすべても私自身も残り無く死ぬ運命にあるという、この苦痛も、承認されて欺瞞無く摑み取られるのである。このようなことのための力が、一なる神の永遠性を前にして、可能なのである。この神は、たとえ近づき難く隠れていようとも、存在しているのであるから。
 その場合、飛翔があっても人間の生は取るに足らないことへの絶望から、解放されるのである。一なるものである存在が在るということで充分なのである。現存在としては残り無く過ぎ去るものである私の存在は、もし(126頁)私が生きるかぎりは飛翔にのみ留まる場合でも、どうでもよいものである。世界の内には、すべてのものと私自身との無常性を、納得のゆくものとして、また耐えることのできるものとして私に現象させるような、いかなる現実的で真実な慰めも存しない。慰めの代わりに在るのは、一なるものの確信としての存在意識なのである。
 一なるものの確信において人間は、一なるものは真理を欲するということを知る。諸々の恐怖が、人間の不安や、不安の聖職者的な解釈を通して、あらゆる世界で拡がっていた。それらの恐怖は、神を侮辱したかもしれないための地獄的な不安の諸々なのであるが、これらの恐怖や不安は、私がほんとうに真であるならば、落ち去ってしてしまうのである。神はいかなる欺瞞も欲さない。この世界で現象するあらゆるものは、神の代理のようなものであると自称しているとしても、つぎの如き問いに服するのである: それはどのようにして現実であるのか、どのようにして生じたのか、何を、どのようにして結果するのか、と。私が何か或る「神の作品」 — 世界であるところのすべてのものは、一瞬はそう呼ばれるべし — を容赦なく徹底的に研究する場合に、私は神を侮辱しているのではない。私が神を世界の内で疑わしく思う時、私が反抗する時、そして私が夜への情熱の暗闇のなかで神の怒りを把握する時、かの一なる神は私の純朴な意識にとって背景として、ひとつの子供らしい表象として、存在しているのである — というのも、本来的に人間であり続ける者は、子供であり続ける者なのであるから —。一なる者としての神は、疑わしくて散り散りに引き裂かれた世界の内では認識され得ない、ということは、真理であり続ける。この世界の内で、この神は、私の真実性が承認する諸様相を甚だ多く呈示するので、一なるものは繰り返し沈み込むように見えるほどなのである。
 一なる神は、私がこの神を思惟するかぎり、いわば生気なく青ざめたものである。この神は思想としては全然、強制的な〈是が非でも認めなければならないような〉ものではない。万有が、このような神に反対する声を発している。この神は、あらゆる中間項を飛び越えて、ただ先取りされているかのように把握されているだけである。それゆえ、子供らしい表象のみが適切なのである。この表象が最も、客観的であるには欺瞞な感性的現実であると呼ばれることが少ないのである。
 しかし一なる神は、私があらゆる懐疑の後で、私の善意志のために、私の昼存在のために、共振を其処で見いだすところの根拠である。この根拠は、私の孤独のなかで私に近づくものではあるが、それでもけっして現存在となるわけではないのである。
 この一なる神が私にとって限界として感じられ得る場合には、この神はあらゆる相対性の上に立っており、真正な交わりを担うのである。この神は、真なる実存が他の実存との交わりにおいて飛翔の際に自分自身にとってそれであるところのもの以外の何ものをも、自分のために要求しないように見える。この神は、代価も祭儀もプロパガンダも要求しないように見えるのである。世界の内で私と出会うのは実存のみである。神は世界の内では神自身として存在することはないのである。
 祈りは、隠れたるもの〈神〉の中に突入してゆく一種の厚かましさであって、これを人間は最大に昂じた孤独と困窮においては敢行するかもしれず、(127頁)〔一方、〕これは、毎日の習慣と形式化した慣習としては、疑わしい固定化であるものである。このような固定化には哲学は同意しないのである。神の近接が日常的に確かであるとすれば、神との関係はその深みを奪われるであろう。神との関係の深みというものは、こういった日常的な近接を疑っているものなのである。〔そのような神の近接があるとすれば、神の〕超世界性は止揚されてしまい、得られる安らぎと満足は、実存には余りに容易いと思えることになろう。というのも、神が隠されているということは、人間は様々な疑いと困窮によって苦しむべきであるという要求のように見えるからである。
 神性の幇助[Hilfe]は、実存にとって、私の呼び掛けにたいして何かをもたらしたり妨げたりするであろうような性格をもつものではない。神性の幇助は、暗号のなかで示されはするが、隠れたままに留まっているものなのである。暗号は、そのなかで神性の幇助が最も直接的かつ決定的に自らを示すところのものであるが、私自身の行為なのである。しかし、祈りは、絶対的意識が超越者に関係づけられていることの確認として、いかなる客観的な形式にもならない、交わり無き実存的現在であり、絶対的意識の歴史的な一回性毎にあるものなのである — 一なるものへの飛翔として。
 とはいうものの、既にそのような言葉が、もし究極的な安らぎの表現として通用するつもりなら、過ぎた[zu viel]ものである。一なるものへの飛翔は、ひとつの庇護性となってしまうことだろう。この庇護性において私は、現存在世界をその無際限な多様性と疑わしさと多義性のままにしておくのであり、世界にたいするこのような不忠実において私は、軽々しい調和のために、現実から身を引くことになるであろう。というのも、一なるものは、ひとつの神性のようなものであって、この神性はこの世界の中に疎遠なものとして来て、私が実存的に一なるものに基づいて自分がこの神性と一致していると感じる限りは、私を助けるのである。しかし、ひとつの別の世界から私に来るように見えるところの、この神性の近さは、自らの遠さを私に忘れさせてはならないのであって、この遠さを通しては、この世界は散り散りに分かれた状態で、神性がそれであるところのものなのである。
 一なるものは、最高で最後の避難場処であるが、現実に基づく可能的実存の全き緊張において摑み取られていない場合には、実存的な危険になり得るものである。一なるものは、そこから一なるものが出会われるところの根拠に基づいてのみ、すなわち、実存の現存在における一なるものの無制約性に基づいてのみ、真なのである。決してこの一なるものは、あらゆる先行するものがそれを以て克服されているような、持続する安らぎとなるものではない。私の超越者との一致から、私は再び現存在において現われ出なければならず、反抗へ、没落と夜の可能性の諸々へ、多なるものへと、戻る路を見いだすのである — この路は、私が時間現存在の内に在る限りは、反復されざるを得ないのである。というのも、あらゆる安らぎは、自分はかき乱されたくないと思う単なる現存在の幸福意志へと、速やかに変化するものだからである。


〔「多なるものの豊かさと一なるもの」 ここまで〕

「超越者への実存的関係の諸々」翻訳終わり ‘23.4.17

 ===

 詳細目次 

反抗と帰依 (71頁)
 1.憤怒 —(71頁) 2.知欲の中での決断の停止 —(72頁) 3.知欲における我々の人間存在は既に反抗である —(72頁) 4.反抗する真理意志は神性へ呼びかける —(73頁) 5.自己自身を欲することにおける割れ目 —(74頁) 6.帰依 —(75頁) 7.神義論 —(75頁) 8.神性の秘匿性のための時間現存在における緊張 —(79頁) 9.諸々の極を孤立化して高める過ぎることの破壊性 —(80頁) 10.諸々の極の孤立化における無意味な逸脱 —(80頁) 11.信頼の無い帰依、神を見捨てること、神無しでいること —(81頁) 12.最後には問い —(81頁) 

没落と上昇 (83頁)
 1.没落と上昇における私自身 —(83頁) 2.私が評価するように私は生成する —(84頁) 3.依存性における自己生成 —(87頁) 4.超越者のなかに保たれた過程の方向は、何処へ行くのか定まっていない —(88頁) 5.過程であり全体であるものとしての私自身 —(89頁) 6.守護天使と魔物 —(90頁) 7.不死 —(92頁) 8.私自身と世界全体 —(94頁) 9.世界過程 —(95頁) 10.歴史における没落と上昇 —(97頁) 11.全体というものにおいて完成される没落と上昇 ―(101頁)

昼の法則と夜への情熱 (102頁)
1.昼と夜との二律背反 —(102頁) 2.一層具体的な記述の試み —(104頁) 3.取り違えの諸々 —(107頁) 4.昼の疑わしい根本前提の諸々 —(109頁) 5.あり得る罪[Schuld] —(110頁) 6.実存をめぐって闘争する守護天使と魔物 —(112頁) 7.両方の世界の総合への問い —(113頁) 8.神話的な開明 —(114頁)

多なるものの豊かさと一なるもの (116頁)
1.一なるものの実存的根源 —(116頁) 2.世界における統一性 —(118頁) 3.論理的なものにおける統一性 —(119頁) 4.一なるものへと超越すること —(120頁) 5.多神論と一なる神 —(123頁) 6.一なる神性の超越者 —(125頁)





ヤスパース『哲学』翻訳 第三巻「形而上学」「第三章 超越者への実存的関係の諸々」3

2023-02-01 16:06:38 | 翻訳

(102頁)
昼の法則と夜への情熱

 反抗および没落においては、否定的なものが肯定的なものに対立していた。この否定的なものは、或る時は、無の存在へと溶解する路として、無価値であるように見えていたのであり、或る時は、運動のなかでの分節化として、肯定的なものにとっての条件であるように見えていたのである。この運動の緊張から、超越者への関係が実現するのである。この否定的なものは、しかし、二律背反のなかで、終極的に、それ自体が肯定性であるような破滅作用となり得るものなのである。すなわち、その以前においてはただ否定するものであるように見えていたものが、真理となるのであり、紛糾しながらではあるが、今や、ただ唆(そそのか)すものであるのではなく、訴え掛けるものとなるのである。そして、このような真理を回避することこそ、ひとつの新たな没落となるのである。我々の存在は、現存在のなかで、二つの力へと関係させられているように見える。我々は、この二つの力の実存的な現象を、昼の法則と夜への情熱、と名づける。
 1.昼と夜との二律背反。— 昼の法則は、我々の現存在を秩序づけ、明晰さと一貫性と忠実を要請し、理性と理念とへ、一なるものと我々自身とへ、結びつける。昼の法則は、世界の内で実現するようにと、時間の内で建設するようにと、現存在を無限の道程上で完成するようにと、要請するのである。— だが、昼の限界に臨んで、ひとつの他のものが語る。この他のものを追い返したからといって、いかなる安らぎも許されはしない。夜への情熱は、あらゆる種類の秩序を突破するのである。夜への情熱は、無の無時間的な深淵の中に飛び込むのであり、この深淵は、自らの渦の中にすべてのものを引き込むのである。歴史的な現象としての、時間の内における構築のすべては、(103頁)夜への情熱には、表面的な欺瞞に見えるのである。明晰さは、夜への情熱にとって、本質的なものに押し迫る力のあるものでは全くない。夜への情熱は、むしろ自己を忘却することによって、明晰ならざるもの[die Unklarheit]こそを、本来的なものの無時間的な暗闇として摑み取るのである。自己弁明の可能性を一切求めることのない、ひとつの理解不能な「せざるをえない」に基づいて、夜への情熱は、昼に敵対して不信仰で不実となるのである。夜への情熱にたいして、課題や目標が語りかけることはない。夜への情熱は、無世界性の深みの内で成就されるもののために、世界の内で自らを破滅させようとするような、衝動なのである。
 昼の法則は死を限界として知っているけれども、実存が飛翔において自らの不死性を確認するかぎりでは、昼の法則は死を根本において信じているわけではない。行為することによって私は生のことを思っているのであって、死のことを思っているのではない。現存在において存在を歴史的に継続して建立することへと差し向けられながら、私は死において尚も、あたかも死が私の前に立っていないかのように、特定のこの現存在のことと、その現存在から作用が生じることを思っているのである。昼の法則は、死が敢行されるに任せておくけれども、死を求めはしない。私は死への勇気を持つけれども、死は私にとって友でも敵でもない。しかるに、夜への情熱は、自らの友でも敵でもあるものとしての死にたいして、愛しかつ戦慄するという関係を有するのである。夜への情熱は、死に憧れ、同時に死を阻止しようと努める。死は夜への情熱に語り掛け、この情熱は死と付き合う。可能性無く生きるという現存在への苦痛、そして、無世界的な生の歓喜、この両者は、自らの夜に基づいて死を愛するのである。この情熱は、死における横溢を知っている。この横溢が最終的に消え去っても、まだ、すべての迷いと苦しみの後での墓における待望の安らぎの意識が残っている。どんな場合でもこの情熱は、生への裏切りであり、すべての現実性と可視性とにたいして忠実が無いことなのである。影の国がこの情熱にとって、其処でこの情熱が本来的に生きる故郷となるのである。
 私が既に根源的に現存在と疎遠であるわけではなく、理性と建設とを嫌っているわけではない場合でも、私が昼を摑み取りながらも人生を続けてゆくうちに、私にとって、夜の国が、生長してゆくひとつの世界となる。この夜の世界において私は、今はまだ遠いにしても我が家に居る如くになり、そして遂には、私が高齢となり、ひとつの現存在世界が疎遠なものとなって私を締め出すとき、夜の世界は人生の追憶として私を迎え入れるのである。昼の法則は、私にとって汲み尽くされることによって、自らの内実を私にたいしては失い得るのである。現存在における私の存在は疲労し得るのであり、夜への情熱が終極のものとなり得るのである。
 現存在における歴史的な存在の手堅い経緯においては、開顕化への意志が導き手となっている。自らを閉ざしているような反抗は、開顕化に抵抗する。ところが夜への情熱はというと、開顕化を欲するにもかかわらず、自らを明かすことが出来ないのである。夜への情熱は運命を摑み取るが、この運命は、この情熱が視ながら欲しかつ欲さないような運命であり、それゆえ必然にも自由にも見えるようなものなのである。この情熱は(104頁)言うことが出来る、「ひとつの神が、私が為すように運命を為すのだ」、と。この情熱は一切を敢行するが、現存在の諸目的の世界においてのみならず、この情熱が種々の秩序や忠実や自己存在を毀損することで実存そのものを破滅させるように見える処においてこそ、一切を敢行するのである。目標は、存在の深さなのであり、この深さは、人間を現存在の外部に晒し、打ち砕くものである。この目標は、意味無きものの中へと瓦解することなのである。自分自身の天運へと駆り立てられているという不安のなかでは、熟慮と選択は止んでいるように見えるのであるが、それでも一切は、これ以上はない仕方によってのように、選択され、熟慮されているように〔も〕見えるのである。何ものも、この情熱の為す決意には太刀打ちできないように見えるのであるが、この決意は、別類の決意には不可視なものに留まりながらも、あらゆる運動を自らの内に秘めていたのである。壊滅作用は人間を全的に占領する。尚も残っていた建設意志さえもが、自ら欲するように見えていたものとは反対のものを引き起こすように見えるとき、〔この壊滅作用に〕奉仕させられるのである。
 この情熱は、根源的に不明瞭なままに留まる。不明瞭さは、この情熱にとって苦痛であるが、秘密でもあるのであって、この秘密は、禁じられたものや覆い隠されたもののあらゆる魅力を凌駕するものである。この情熱は、すべてが暴露され明瞭となることを求めるが、それは、真の、暴露不可能な秘密に、純粋に気づくためなのであり、〔そのようにしてこの秘密を、〕わざと秘密をこしらえて煙幕によって通俗な経験的実際性が暴露されるのを防止しようとする自我欲から、区別するためなのである。この情熱は、不明瞭であっても完全に確信を有しており、たしかに不安を持ってはいるが、この不安は、運命の必然性における無限な不安なのであって、この運命のなかでは、この情熱は忠実を破り、絶対的な秘密がこの情熱を不明瞭なまま死の中へと駆るのである。
 そのようにして、この情熱は自分自身を摑み取ることによって、自らの存在を無のなかで確信し、浄福であって不浄であるままに、自らが裏切りかつ破壊するものを現存在における自らの死をもって償うのである。この情熱は、自らが死を欲する場合にのみ、自らが同時に真理であることを知っており、この情熱がこの情熱自身の超越者の中へと引き裂くことはなかった者にとって、真理であり続けるのである。
 2.一層具体的な記述の試み。— 夜への情熱の現象を一層具体的に記述することは、挫折するものである。なぜなら、あらゆる規定的に言表されたことは、昼の明るさの中へと移行し、そのことによって昼に属するようになり、昼の法則に服するようになるからである。熟慮というものにおいては、昼が優越している。不明瞭性を明瞭性にすることは、不明瞭性自身の根源である不明瞭性を、止揚することであろう。したがって、夜への情熱のあらゆる具体的な現象は、描写されると、わざとらしくて凡庸なものとなり、弁明であり得るものの領域の中に引き入れられて、見かけ上は解消されるのである。というのも、昼は、かの夜の世界を承認したくはないからである。昼は夜の世界を欲することは出来ず、一度たりとも、可能なものとして許容することは出来ないのである。その限りにおいて、夜の世界は強制的洞察可能性から隔てられているので、昼は、(105頁)夜にとって超越的実体であるところのものを、全く無価値で無意味であり非真理なものであると言明することができるのである。
 夜から私は自分に来たのである。大地との結びつき、母性、血縁、人種、これらは、私を取り囲む暗闇の根拠であって、この根拠を昼の明るさは変質させるのである。これらは、母の愛と母への愛として、故郷愛と家族感と自分の民族への愛として、昼の歴史的意識の中へと受け入れられる。しかし、このような根拠そのものは、ひとつの暗黒の力のままなのである。このような謂わば黄泉の国の近親存在の誇りと反抗は、互いに出会った実存たちの相互扶助としての友情における精神的な課題に対して、謀反を起こし得るのである。この黄泉の国の力は、自らが相対化されることを許容せず、結局は自分自身を強要しようとするのである。そして私は、この力に基づきながら遂行される昼の実存的交わりにおいて真理を摑み取るのではなくて、私を産んだところのものの中に私自身を撤回すべきだ、とするのである。
 性愛は、それ自体においては理解不可能な枷(かせ)である。昼の法則は、性愛の現実を、実存的な身近さの表現にし、この身近さの感性的な象徴にするが、そのことによって性愛の現実を相対的なものにもするのである。だが、この〔夜への〕情熱への消耗性の帰依は、一切を裏切りつつ、自らのみを欲している。暗黒のエロスは、絶対的なものとして承認されるならば、現存在そのものになど、何の顧慮も払わないのである。エロスは、盲目的な性生活ではない。この盲目的性生活はむしろ一夫多妻的な衝動生活であり、情熱に欠け、したがって実存的な力は無い。エロスは、そのようなものではなく、実存的交わりを欠いたまま貫徹される、現在がすべてであるような性的本質への合一なのであり、この本質が唯一一回的である場合に、この本質そのものの本来的存在となるようなものなのである。あたかも超越者においてのみ忽(たちま)ちの出逢いがあるかのように、現実と実存とは飛び越えられるのであり、この出逢いにおいては自己存在は自ら解消するのである。了解行為の路を欠いたままであるにしても、この情熱はやはり無制約的なのである。互いに出逢った者たちの理性的存在者としての開明を欠いたままなので、この者たちの一方あるいは両方が、彼らを破滅させる超越者の中に崩れ落ちることになる。実現すべき諸課題を伴っての〔相互〕開顕行為としての交わりの過程は、彼らにとって、非真実で、自らを制限してしまう、ひとつの絶対化にほかならないものとなってしまうのである。自分自身の沈没こそは、罪[Schuld]として経験されるものではあっても、より深い真理なのである。
 性愛的な情熱が、生活と忠実とへ実存的に結びつけられることによって、昼の中に受け入れられると、この情熱のほうでは逆に、愛する者たちの上に暴力を及ぼすことによって自分〔情熱〕自身を欲することがあるのである。この場合、愛する者たちは、自分たちの愛を、昼の愛としては、〔すなわち〕忠実としては、つまり本来的自己としての自分自身を、裏切って死へと渡すことになるのである。この愛する者たちは、理由も行先も知らぬまま、ひとつの情熱的に摑み取られた永遠を意識しており、この永遠が、この(106頁)世においては、為された裏切りのために即座に死を要求するのである。実存が — 裏切りを為してしまっているのに — 死を見いださない場合、その現存在はこの世においては、もはや拒絶されており、見捨てられているのである。
 心中[Liebestod]においては、二つの可能性の間でひとつの選択が遂行されているであろう。すなわち、〔互いに自他を〕開顕し合うことによる自己生成の過程としての愛と、暗黒な無現象における完成としての愛との間での選択が。裏切りをさせるような情熱の可能性の前に立ったということは、他のすべてを疑問視したということであって、このような情熱のための裏切りは、この場合、倫理的な過誤として現象するのではなく、ひとつのそれ自体永遠な裏切りとして現象するのである。しかしこのような裏切りを前にしては、この裏切りが現実のものであると見える処では、沈黙する狼狽だけが生じるのではなく、理解不可能なものを前にしたのと同様な敬意が生じるのである。なぜなら、このような裏切りそれ自体が、自らの超越者を持っているように見えるからであり、このような超越者の可能性は、世界の内で幸運にも自らを完成させるあらゆる愛の独善を、排斥するものなのである。
 というのも、昼の法則が、差し当たって、交わりにおいて、また、諸理念を通しての生において、課題や理念や現実化において、無比な幸福の意識を与えるとするならば、このような明晰な世界の終極に臨んでは、真の明瞭さでもって、追い遣られていた魔物たち[Dämonen]が呼びかけるからなのである。
 私が目を見開いて服従していた夜は、無ではなく、単にこれだけのものとしての悪でもない。善と悪は、まだ決断がある処では通用するにしても、この善と悪との彼岸においては、夜は昼にとってのみ悪であるにすぎず、この昼のほうでも、昼がすべてではないことを感じているのである。私が昼に信頼しつつ夜から身を引くことによって、私は咎無き真理の絶対的意識を有しているのではなく、私が、要求をしていたひとつの訴え掛けを回避したということを、私は知っているのである。昼が、そして忠実が、摑み取られたとき、ひとつの超越者に聞き従うということが為されなかったのである。
 昼においては、過程としての公明な交わりがあり、夜においては、共同的な破滅における瞬間的な合一としての交わりがある。この共同破滅においては、暗黒が自らを剝(む)き出しにし、そして自らの翼を打ち鳴らして、自らの内に引きずり込むのである。〔ここで〕起こったことは、夜の中に包み込まれたままであり、夜はこの起きたものを呑み込んでしまったのである。愛人たちが存し、彼らがこのような可能性のなかで向かい合い、しかも魔物に聞き従わなかった場合 — 彼らはこの起こったことを知ったということにはならないだろう、なぜなら、存在したのであるものが語り出されていないのであるから。この愛人たちは、昼の法則と彼ら自身とに聞き従ったのである。だからといって、彼らの世界において今や意識の動揺が止む、というのではない。正しい路〔を歩んでいるの〕だという確信の最たるものでも、自らを語り表わそうとするならば、物怖じを感じてしまうのである。あたかも、何かが秩序の中に収拾されていないかのようなのであり、この何かはけっして秩序の中には入り得ないものなのである。善そのものが、もうひとつの別の世界に反するという罪[Schuld]を通して獲得されたにすぎないようなものであった、ということである。
(107頁)
 夜からの諸々の要請は、決して充分に根拠づけられないままに昼の中に採用せよというものだが、そのような諸要請は遍く拡がっているものなのである。祖国のために嘘をつくこと、ひとりの女性を得るために虚偽の宣誓をすること、これらはまだ、道徳と権利との個別的諸秩序への違反として概観できる行為である。しかし、ゲーテがフリーデリケにたいしてしたような、自分の創造的生の広がりのために、結婚の絆を解消するという行為は、彼自身にとって決して明瞭にも正当化されるものにもなってはいないのである。同様にクロムウェルは、彼の国家の力のために、非人間的であることを引き受けた。だが彼は、まったき安らぎを全然見いださない良心と共にあったのである。そのような諸情況においては、歴史的実現そのものが、つまり昼そのものが、自らの諸秩序の毀損の上に成っているものなのである。この、政治的に行為する人間たちの意志において明らかとなることは、失敗した場合の政治的人間たちが自分たち自身の滅亡を摑み取るときに、夜の訴え掛けはどのような空間を占めるのかということである。すなわち、これら政治的人間は、ひじょうに沢山、現実の歴史的現存在を敢行し、この現存在のためにひじょうに沢山、人間の生を犠牲にするので、その結果、彼らがその中でその為(ため)に行為したところのものに拘束されて、彼らの現存在は彼ら自身にとって失われる羽目になるように現象するのである。
 3.取り違えの諸々。— 衝動や快、新しいもの好き、陶酔、といったものは、たとえ夜の現象の諸形式であり得るにしても、夜の深さなのではない。反抗に基づく自己破壊欲求も、準備ができていないので他者に対して自己を閉ざすことも、一般的なものや全体に対して自らを単独化させる我意も、〔単に〕破壊的な評価を〔他に〕為して無内実なまま自らに重みを与えたがる虚無主義(ニヒリズム)も、夜の深さではない。これらの逸脱〔の諸様態〕は、実体の無い否定的なものであり、現存在において掃いて溜める程あることによって、真の夜の世界を覆ってしまうのである。あるいは、これらの逸脱は、真の夜の世界を、単に悪しきものとして、水泡のように消え去るもの、特殊で束の間の情熱、単なる恣意として、放っておくのである。しかし、実体的なものとしての夜は、深淵のなかで消滅するような路であり、このような深淵は単に無ではないのである。死は、このような夜の法則であり、この法則は昼の世界が無へと瓦解するに任せるのである。原理において根元的に昼の法則を夜のために毀損するような者は、もはや本来的に、即ち、建設的に幸運の可能性において生きることは、出来ないのである。そのような者は、自ら為した裏切りで永久に砕かれており、もっと生きようと欲したところで、もはやいかなる無制約的なことを為す力も無いのである。真の〔夜への〕情熱は、あらゆる種類の秩序と内密な関係にあるものであり、これらの秩序をこの情熱は壊そうとするのである。したがって、この情熱が直接に死の中へと赴かない場合には、この情熱は、死の、ひとつの生きられた比喩となって、生あるかぎりは続くけれども、生を選択しながらも忠実をはるかに凌駕して倒壊してしまうようなものとなるのである。この情熱は自らについて知らないけれども、〔この情熱に憑かれた者を〕愛する隣人は、この情熱に関して知ることがあるのである。この情熱は(108頁)夜への忠実であって、この忠実は、応答無しに留まる問いかけの過程の中で内的に無反省のまま苦しむ実存なのである。このような情熱は、反転する実存のように見えるのであるが、そのようなものであるとしても、それは、快楽や陶酔に我を忘れることとは、遠く隔たっているのである。恣意や反抗、あるいは、従順な帰依。これらは、そのような反転する実存の一時的な媒体であることはあるが、あの、不壊の中核を伴っており、この中核は、砕かれそうになる限界に臨んでは、自らを慎むのである。—
 夜の世界は、人間が死の中へ赴くにせよ、あるいは、人間が、死と類似したものにおいて、あの、どんな現実においても非現実な実存として生きるにせよ、無時間的である。一方、昼の世界は、歴史的に建設して自らを産出してゆくものである故に、時間的である。そうすると、単なる、夜に対する逆襲は、夜を否定せんがために抗うものであり、〔そのことによって〕夜そのものと同様に無時間的となってしまう場合には、夜自身の法則のものとなるという結果を示すことになり、歴史的な実存たち〔の集う〕昼へと到来することは無くなってしまうのである。そのようなものであるのが禁欲[Askese]であり、禁欲は、あらゆる紐帯から、両親、大地、所有から、解いてしまうものであり、すべての生の歓喜と性愛を悪魔のものであると見做し、精神的であると云えばただ、何ものにも縛られていないという意味においてのみであり、昼の世界ではないという意味においてのみである。禁欲は、実存の精神的現存在の建設である歴史性を破壊する。何故なら禁欲は、夜のなかにあるこの現存在自身の根拠を根絶しようとするからであり、ただ、すべてを抽象化した上での「あれか-これか」を知っているだけか、もしくは何も知らないからである。禁欲の精神性は、大地を欠いており、それなのに世界の内で真なる存在を全的かつ即座に、一般的で正当なものとして実現しようとするのである。歴史性とは、ひとつの貫通できない素材において自由に基づいて牢固とした生成をすることである。一方、禁欲は、歴史性をその根拠から切断し、真なるものを無時間的に現在において持とうとするのである。かくの如くして、問題となっている逆襲は、単なる破壊となるしかなく、自分が闘おうとしていた夜の中へ落ちるしかないのである。この逆襲が、現存在を破滅させることによって、自らにとって生じ得ることは、この逆襲が闘おうと対峙していた根拠に、この逆襲は突然の転換によって再び盲目的に仕えるようになる、ということである。この場合、この逆襲は、全く大地に囚われてしまって、最も紛糾した自己欺瞞となってしまうのである。—
 別の水準にあるのが、配慮無き生命的な現存在意志である。この意志の視界は、狭くはあるが、世界の内で力と通用性と享受とをもたらすものが何かを、端的にはっきりと視るものである — この現存在意志はただ自分のみを欲している。この意志は、自らにとって道理ある筋道[Weg]へと通じるものを、暴力的に押し退ける。この意志は、自らの目標を達したなら、解釈を変更する。野蛮であったもの、この意志の現存在を基礎づけていたものは、沈黙をもって取り扱われ、忘却されるようになる。自らの子供たちのための母親の盲目的な衝動、夫たちの、互いのための〔同様に〕盲目的な衝動、人間の、自らの赤裸々な現存在のための、自らの性愛的な満足のための、このような衝動は、透明さの無い野蛮さにおいて、其処であらゆる(109頁)交わり〔への〕意志[Kommunikationswille]が砕け散るところの硬直した障壁であり得るのであり、激怒的な暴力、超越者を欠いている故にいかなる夜でもないような、何ものにも傾聴しようとしない暴力であり得るのである。
 (新年につづく)
 〔この〕盲目的な現存在意志に対立するのが、自らの世界の内で自分自身が透徹したものになるような人間の、明るい空間である。このような人間には、〔夜への〕情熱においても尚、明瞭さと、周囲への配慮[Umblick]とが、自分に固有なものなのである。このような人間からは、ひとつの「私」が語っており、この「私」があるかぎり、交わりの可能性は決して無くなることはない。このような人間の内には、信頼性というものがあって、この信頼性とは、彼は、私が常に出会っていたような彼自身に再びなるだろう、ということを意味するものである。彼は、没落と上昇とが持つリスクから常に逃れようとする緊張〔を生きているの〕であるが、彼の内には、しっかり据えられたひとつの自己意識の安静な明朗さもまたあるのである。彼が問いと議論とを中止する場合でも、問いと議論との媒体のなかに、ひとつの無制約的な法則を承認したままなのである。たとえ、この法則がどんな最終的で内容的な公式化からも身をかわすとしても。彼は断じて折れないように見えながらも、無限に柔軟に見える。彼の内に存するのは、いかなる不可触な点でもなく、控えることをしない準備なのである。彼に開明されるのは、昼の法則であり、そして彼は、他者の、夜における真理の可能性を〔も〕理解しているのである。
 4.昼の疑わしい根本前提の諸々。 昼における生の根本前提は、つぎのようなものに見える。すなわち、限界無き開顕化の途上で、誠実な意志にたいして、超越者〔から〕の充実と、この意志の存在〔から〕の純粋に立ち現われる真理とが、生成する、と。しかし、この前提は、夜の世界がしかと視られた場合には、疑わしくなる。
 善なる意志は、昼においては、現存在の最終目的である。他のすべては、この最終目的たる善意志への関係においてのみ価値があるのである。とはいうものの、善意志は、傷つけること無しには行為することが出来ない。善意志は、避けられない咎[Schuld]という限界状況に引き渡されているのである。常に問われていることは、善意志が具体的な歴史的状況において何を欲しているか、ということである。善意志は一般的な形式としてあるのではなく、自らの充実を伴ってのみあるのであり、この充実において善意志は、自らをより深く了解する場合には、別の〔夜の〕世界に触れているのである。善意志が自らを自分自身だけで完成させようとするならば、善意志は自らの限界を感得するようになる。善意志が、この限界に臨んで超越しながら、自分自身を疑問視するならば、善意志は、ただ自らの現存在の現象においてのみ絶対的であるような、昼の法則として留まり続けはするが、この法則は夜に境を接しているもの〔であることが明らか〕なのである。昼の本質として私は、正しいことを為そうとする善き良心を有している。だが、この良心を夜へ拘束する咎[Schuld]に躓いて、この良心は挫折するのである。
 昼において私は現存在を美しい世界の豊かさとして見、生の享受を知る。この生の享受は、私の現存在の像において、世界の建設において、古典的な完成と悲劇的な破滅との偉大さにおいて、形成された現象の充溢において、自らを反映している。しかし(110頁)自然と人間たちがこれらの素晴らしさを有するのは、私がそれらの鏡である場合においてのみなのである。それは美しい外観であって、眺めながら自らの祝祭を祝う人間の観点にたいして、いわば上演されるような外観なのである。世界というものは、ただそのように眺められるだけなら、浮遊するひとつの夢想である。そのような世界に完全かつ究極的に帰依することは、形像を形成するために実存の現実から逃れることであり、突然の変転があれば観想者自身を夜の絶望へ引き渡すものである。この夜の絶望は観想者の背後に伏しているように見えていたものなのである。
 昼は夜に結びつけられている。何故なら昼そのものが、終極において真実に挫折する場合においてのみ、存在するからである。たしかに、昼の前提は、歴史的生成において肯定的に建設する、という理念であって、この生成においては、存立するものが相対的に持続するものとして欲せられるのである。だが、夜の教えることは、「生成するあらゆるものは破滅させられなければならない」、ということである。何ものも存立したままでいることはできないことは、単に時間における世界の成り行きであるだけではなく、まるでひとつの意志が、いかなる本来的なものも存立するものとして生き永らえるべきではない、としているかのようなのである。挫折とは、先取されることはできないが、遂行されざるをえない経験であって、完成されたものは消滅するものでもある、という経験なのである。真正に挫折するために現実に生成することが、時間現存在にとって最後の可能性なのである。時間現存在は、自らが基礎づけられていた夜の中に沈み込むのである。
 昼が自己充足しているならば、挫折しないことは、ますます無内実となることであり、その無内実性は、昼にたいして終極的に挫折が外から疎遠なものとしてやって来るまで、増大するのである。なるほど、昼は挫折を欲することは出来ない。だが、昼そのものが自らを充実させるのは、ただ、昼が、自分では欲さないもの〔挫折〕を、内的な必然性においては知っているものとして、自らの内に受け入れる場合のみなのである。
 私が昼の限界を夜に臨んで捉えている場合、私は、法則性を有する単なる秩序や形式的な忠実において、歴史的な実存の内実を実現し得るのでもなければ、夜の世界の中に倒壊し得るのでもない。夜の世界という限界に立つことは、超越者を経験する条件なのであるけれども。なるほど、夜の謎を前にしての希望の無さこそが初めて終極的な超越者を魂の中にもたらすのではないか、という問いは、そのまま存続する。ここにおいて決断するのは、いかなる思想でもない。そして、決断するのは単独者であっても、けっして単独者一般ではなく、また、けっして、他の人々のために決断するのでもない。一方、昼の実存は、深い躊躇(ためら)いのなかに立っている。この昼の実存は、誇らしげな自己確信や、自分の幸運の自慢を、避けて控えるのである。この実存は、どんなに開明してもその朧(おぼろ)さが深まるだけの、現存在の絶対的な苦痛のことを知っている。この現存在の苦痛は、理解し難いものを無言で遂行しているのである。
 5.あり得る罪[Schuld]。— 実存は自らの可能性を守り保ちたいと思う。〔自己の〕実現に先立っての実存の自己抑制は、根源的な強固さなのであって、この強固さとしては、この自己抑制は、適正な瞬間のために当座は自己を守り保つことを(111頁)意味している。自己抑制は〔逆に〕、機を摑み取ることを敢行しないならば、弱さなのである。そのため、青春期においてのみ私は真実に、純粋な可能性のなかで生きるのである。実存は自らを任意なものの中に浪費することを欲さず、自らの現存在を本来的なもののために消費することを欲する。決断が成熟する時期になり、歴史的に機を摑んで自分を実現し得るはずの時期になっても尚、私が自分を、今や疑わしいものとなっている私の一般的な可能性に、不安げに貼り付けにするような場合に初めて、この、私の昼の運命の中に歩み入ることの拒否によって、私は私から逸脱するのである。職業、結婚、契約といったあらゆる縛りを前にしての躊躇、あらゆる撤回不能な結びつけを前にしての躊躇は、私が現実的に生成することを妨げ、その結果、私は終いには、私のなかで根源であり得たであろうものを、単に可能なだけの実存として、空虚の中に流れ去らせてしまうのである。そのようにして時が空費されるならば、私は夜の深淵の中にも崩れ落ちることにはならない。私が自分を躊躇するならば、私は自分を昼にたいしても夜にたいしても拒むことになるのであり、私は生にも死にも至ることはないのである。
 ただ思い違いをしてのみ私は、実現化以前の、限界を欠いた可能性のなかで生きるのであり、〔その際、〕幅広く、〔いわば〕人間的で自由に、あらゆる狭さにたいして優越感を抱きながら、だが実際には空虚に、要求だけは多く、遊び半分の観察のなかで生きるのである。〔これに反して〕実存は、現存在において限界づけ結びつけることへの意志である。この意志は、状況の中へと前進して押し迫ってゆき、この状況の中で決断が為されなければならないのである。すなわち、あらゆることが可能であるという状態から、唯一無比の狭いものが生まれるのである。このような押し迫りは、一義的に明瞭な能動性のものではない。私の諸々の可能性を制限しながら私を実現することは、ひとつの闘争であって、この闘争において私は自分の自己生成にたいし、依然この自己生成が私に敵対するものであるかのように、距離をとるのである。私は、自分が私の運命を〔いわば〕私から奪い取〔って自分のものにす〕るに任せるのである - 私が今や昼の中に歩み入ろうが、自分を夜に委ねようが。ところで罪[Schuld]とは、現実を避けることなのである。
 しかしこの場合、より深い罪は、その都度、他の可能性を拒絶することにある。〔夜への〕情熱に自らを任せる帰依においては、道は没落へ通じている。この道を行く者は、生を建設的に摑み取ろうとする愛にたいして、自らを拒んでいるのである。しかしこのような者が建設行為にある場合には、彼は死への帰依に、自らを拒んでいるのである。
 実存は、そのようなものとして、罪を意識している。昼の法則においては、罪は、ひとつの他のものが自らを明かすような限界に臨んで、あるのであり、この他のものは、拒絶された可能性として、〔昼を〕根本的に疑問視する行為に出るのである。〔夜への〕情熱においては、罪は、根源的にこの情熱に従属することとして、ある。この情熱は、自らの深みにおいて、言葉にすることも出来ない罪を、はっきりとさせられる行為にもならない贖罪行為を、知っているのである。
 〔この〕罪の開明は、〔夜への〕情熱や昼の、非真実な弁明のための方途なのではない — というのも、この情熱と昼の両者とも、すべての弁明の彼岸にある、無制約的なものにおける原理として、立っているのであるから — 。ましてや〔この罪の開明は〕、生き(112頁)かつ苦しむすべてのものを通用させようとする感傷性ではない。そうではなく、この罪の開明は、〔夜への〕情熱を前にしての戦慄から生じたのであり、この罪の可能性に関する知もまた、そのようにして生じたのである。この開明は、自らを限定して〔他を〕追い返す昼の世界の罪意識に的中しようとするものなのである。一方、夜〔の世界〕においては、哲学すること〔そのもの〕が為されないのである。
 6.実存をめぐって闘争する守護天使と魔物。— 魔物によって呪縛されて私は、夜に類縁的な愛に引っ張られる。〔一方、〕そのような愛に触れることを敢えてすることなく、私は、飛翔の明るさをもつ愛の熱烈さへと、守護天使によって導かれる。呪縛された愛は、自らが途方に暮れていることを知っており、あらゆる地上的な媒体を失って、全的に超越的になるのである。このような愛は破滅において充実を欲する。〔一方、〕守護天使の導きの明瞭さをもっている愛は、自らが路の途上にあることを知っており、交わりにおいて他者の理性的本質との信頼し得る一致を有しており、世界の内で生きることを欲するのである。
 魔物は、実存の現象が、実存自身の超越者のなかで溶けるに任せる。〔この場合〕実存は自らの運命を求めてはいなのである。既に子供は苦痛に満ちた魔法を知覚することが出来、この魔法を放射することさえ出来る。その場合この魔法は諸々の変化〔の現象〕を起こすにちがいないものであり、これらの変化を子供は自ら成熟した〔精神〕段階になっても、否定も肯定もしないで、理解できないながらも受け入れているのである。運命の成り行きは、魔物に従った実存が、〔運命の〕路の途上で、知っても欲してもいないような無慈悲で非情なものの中に陥るに任せる〔ことがある〕。実存は、容赦のない必然性を経験し、この必然性を実存は、蒙るのと同じ位、〔自ら〕作りもするのである。実存は、他の人々〈実存たち〉の愛しながらの護りと諸秩序の保持とのなかで、ひとつの現存在形態としての自らに達することが出来る。それにも拘らず、この諸秩序の外では実存が従わなければならない魔物は、相変わらず存しているのである。運命に先立つあの魔法は、子供には野生性と戯れのなかに隠されたままである。いつかは魔法は、守護天使が護って魔物にその限界を定める時、あの穏やかなものに変換されるが、この穏やかなものもやはり、洞察力に満ちた愛であるには、いかにこの愛に最大限近く思われる場合でも、遠く及ばないのである。
 これに対して、昼の公明な実存は、自らの守護天使の導きの下に、自らの現象において、自らの時間的現実の明晰な表現へと、自らの内面と外面の同一性へと、達するのである。この実存は、自らが何を言っているのかを思惟し、自らと一致している、なぜならこの実存は明瞭性への〔具体的な〕この路の途上において自らを愛しているからである。この実存は自らと争っている、なぜならこの実存は、すべてを尋問と批判に服さしめることで、すべてを疑わざるをえず、すべてに傾聴して自らをどんな他者の立場にも置いてみることができるからである。この実存は、妥当なもの、形態〔を有するもの〕、一般的な言表可能性を、人間としての人間に伝達できるために探求する。この実存は自らが自由であることを知っており、自らの運命を、理解が可能な途上にあるという理念を伴わせて能動的に摑み取るのである。この実存は(113頁)明晰さによって硬質であり、援助が必要なほど華奢である。この実存は闘争を求める、なぜなら闘争は、其処でこの実存が自分自身に到る媒体であるから。この実存は自分自身を通ってゆくのであり、このことにおいて自らが強い者であることを感じている。この実存は他者を介してゆくのであり、自らの守護天使を呼びもとめながら、自らの圏内に魔物が入って来る場合には、この魔物に面して怖がる自分を感じている。この実存は信頼できる存在であり、全的に特定のこの〔具体的な〕世界の内で生きる者として、他者の真の「運命の伴侶」となる者である。忠実が、この実存の本質であり、忠実を失えばこの実存は自分自身を失うのである。この実存が生きるのはただ、活動的に世界の内で諸々の課題を自分自身の本質的な課題として摑み取ることによってのみである。
 昼と夜の両極性が、たとえどんなに図式化される〔結果になる〕としても、この両極性が思惟されることによって、自らの超越者に関係させられている現存在の疑わしさは、考え得る限界にまで高められたものとなっている。私は、何が存在するのかを知らないのである。昼の存在者としての私は我が神に信頼を置いているけれども、私には捉え難い疎遠な諸力を前にして不安でもあるのである。夜へと頽(くずお)れて、私は深みへと帰依することになるが、この深みにおいて夜は、私を破滅させて呑み込みつつ〔同時に〕充実もさせるような真理へと、変化するのである。
 7.両方の世界の総合への問い。— この二つの世界は相互に関係し合っている。二つの世界を分離することは、ただ開明の一図式にすぎず、この図式そのものは、弁証法的な運動に陥るものである。昼にとって問題であるところの「一なるもの」が、一般的なものの明瞭性に反抗して立ち上がって自ら無法則性となる場合には、昼の法則であると見えていたものが夜の深淵へと逆転する。夜であると見えていたものが昼の根拠となるのは、夜への没頭がひとつの建設行為へと転換される場合であって、この建設行為は、自らの暗黒な根拠を知っているけれども、今や、〔その〕嘗ては自分自身の根源であったものを拒絶して、それと戦うのである。
 人は両方の世界の総合を思惟したく思う。しかしこの総合はどんな実存においても遂行されることはない。その都度歴史的な一回性において成るところのものは、単に客観的にいかなる完成でもないばかりか、主観的にも砕かれているのである。ひとつの総合という理念すら、不可能である。というのは、実存たちの現象としての現存在という意味での存在は、多様なものの世界のなかでは、単独者の規定性なのであって、この単独者の意味は窮極的には言表されることも模倣されることも出来ないからである。総合は、一般的に可能なものとして思惟されるかぎりでは、問いであって、課題ではないのである。ただ無制約的なものとしてのみ、〔これら〕二つの世界は、それら世界そのものなのである。これら二つの世界のどちらに私が専念しているかは、具体的な行為持続が、どちらかへの決断として解釈される限りにおいて、この行為持続によって私に示される。どちらかの行為持続を私は絶対的に優先していたのであり、そして、どちらかの行為持続を他の行為持続と比較してただ相対的にのみ許容しているのである。夜は、自分自身に触れさせることのないまま都合よく行く限りで、相対的な合目的性と秩序を耐えて遵守することが出来る。昼が許容するのは、(114頁)限界づけられて訓練された冒険と陶酔であり、無制約的な真摯さも、深淵を見遣ることも無く、〔単に〕無拘束にやってみるだけのものである。— 〔昼と夜の〕総合という見かけの幸運は、不足なしには無いか、裏切りなしには無いかの、どちらかである。深淵を前にして回避することによる不足は、昼の実存をして、どこか根拠を欠いたものにする。〔一方、〕昼の法則を、個別の人間を、現存在の建設を、あらゆる忠実を、裏切ることは、夜をして、公明でない罪を負った暗いものにするのである。これらに対して、誤ってすべてを実現すると思われているが、本当のところは無であるような、首尾一貫性が無く表面的で底の浅い考えが、いつでもあるだろう。実存の深さは、実存が自らの運命を知る場合にのみ、あるのである。こう言うとする: 私はいかなる事情通でもない、というのは私は死の門にも夜の法則にも触れたことはないのだから、と。あるいはこう言うとする: 私は生を損なった、というのは私は夜に従い昼の法則を破壊したのだから、と。同時に昼の生であり夜の深みであろうとすることは、ひとつの欺瞞である。窮極の真理というものは、他のものを前にして恥じ入る敬意なのであり、負い目[Schuld]の苦痛なのである。
 実存の危機においてのみ、決断が為される。危機においては、反対の方向にあるものが可能なのである。〔すなわち、〕昼を見捨てて、死への愛を、生と仕事への意志の代わりにするか、あるいは、夜から昼へ帰還して、其処で夜そのものを根拠とするか、の、あれかこれかが可能なのである。それにしても、いつ、どのようにして、それが可能なのか、どこで永遠な決断が既にあるのか、どこでなら引き返しがまだ可能なのか、こういうことが分かるのは、いかなる知でもなく、ただ、自らの歴史性の内にある個別的人間〈単独者〉のみなのであり、しかもそれを自らにたいしても窮極的に言うことは決して出来ないのである。というのも、私が知ることの出来た後でそのなかから私が選ぶ、というような、二つの路さえも無いのであるから。そんなものがあるとしたら、それは、開明の働きとしての論究から図式の対象的な固定化への没落であって、その没落によってそのような選択が出来るようになったところで、そのような選択はいかなる実存的な選択でももはやないだろう。〔昼と夜という〕二つの世界は、けっして明瞭にはならない両極性であり、一方の世界が他方の世界に触れて発火するのである。私はこの二つの世界を開明しながら対置させるが、思惟においてこれら世界の存在を認識することは出来ないのである。
 8.神話的な開明。— 神話的な開明もまた、二つの力を形像的に対象化することによって行われる。とはいっても、あの捉え難さを有する対象的な形態は、二つの力の両極性へと単純化されることに囚われてはおらず、むしろ差し当たりは、数多の神々へと迫ってゆき、その後、神性と反神性の力という二性[Zweiheit]へと凝集し、そして遂には、神性[Gottheit]そのものへと窮まって、神性の怒り[Zorn]としてこの神性は経験されるのである。
 多神教は、一者[das Eine]が背景に留まっている世界である。私が多くの神々に仕えることによって、私はあらゆる生の力に(115頁)その各々の権利を与えることがあり得る。すべてのことが、その各々の時宜に、その各々に適った場で、それらが両立し得るかどうかが問われることなく為されるということは、それらすべてに、その各々に属する神的厳粛さを与えることであり、あらゆる可能性の実現を承認することであるが、永遠な決断は知られてはいないのである。ここにおいて、夜への情熱は、限界づけられてはいるが肯定的な自らの実現を見いだすことが出来る。なるほど、昼の諸力との争いは、察知できるものとなることがあるが、この争いは、超越者における永遠な闘いであるようには、原理的になることはない。地上的な諸神性が天上的な神々と並んで立っているのである。限定された場所に結びつけられて、これら諸神性の諸深淵において暗黒なまま、これら諸神性においてその都度瞬間的に、大地が絶対的なものとなるのである。酩酊の神々が自己忘却を神聖化し、夜への奉仕が束の間、神秘的な法悦あるいは酒神的な野生性において実現される。踊りながら破壊するシヴァ神が存し、この神の礼拝には夜への情熱が真理の意識を与えているように見える。
 夜の肯定性は多神教において言わば素朴に受け入れられている。しかし「二つのもの」という対立が、超越する意識の形式になる場合、夜は反神性的な力となり、自ら神に、ただし非真実な神になる。超越者の二元論が、あらゆる思惟可能な諸対立から、各々の対立を一つずつ、否定的なものとして措定する。人間はこれら諸対立の闘争において、一つの側に立つ。〔すなわち〕神と共に反神に対して立ち、光と共に夜に対して、天国と共に大地に対して、善と共に悪に対して、活動的な建設と共に破壊に対して立つのである。夜が絶対的原理としてはもはや信仰されない処では、夜は悪魔として生き永らえるのである。
 にもかかわらず、二元論的思惟が経験するのは、自分は超越者においてはいかなる対立も確定することは出来ない、ということである。一方においては、諸々の対立は、判然と思惟されることによって、昼の世界の内でのように、善と悪といったような諸対立となり、他のものを新たな反定立を通して捉えるという課題が残り、この反定立は再び同じ仕方で自らの明瞭さのために昼へと舞い戻るのである。他方においては、諸々の対立は、自らの意義において相互に反転する(自己主張と自己への帰依、精神と魂、存在と無の存在)。夜を特徴づけるはずであったものが、昼となり、また、その反対となるのである。
 それゆえ、超越しつつ形像化する最後のあり方は、夜を神性それ自体の中に置くことである。この神性は「一なるもの〈神性〉」に留まるが、その測り知り得なさのままに、その意味の理解し難い諸々の御心を遂行し、我々の路では決してないような路を行くのである。ただ見かけ上は〔この〕『神の怒り』[Zorn Gottes]は報復として理解し得るようになることがある。この怒りは神性のひとつの暴発として見做され、この神性は恥ずべき事どもにたいする報いを子々孫々にわたって及ぼし、(116頁)自らの怒りを全諸民族と世界の破局において啓示するのである。人間は、「神の怒り」を静める諸々の方途を考え出そうとするが、その方途はまず魔術的な諸手段によるものであり、それから、反魔術的になって、罪なき生によるものとなる。そして人間が経験することになるのは、この「罪なき生」は実行不可能であるということであり、あるいは、この怒りは、人間がいかなる規定的な誤りも自覚しないのに、人間を襲う、ということである。このゆえに、神の怒りという感性化は消滅せざるをえない。神の怒りに暴君の機嫌は似つかわしくなく、目には目を、歯には歯を、を要求する裁判官の法律上の正義も同様に似つかわしくない。これらの諸像は、最も深い把握不可能性の単なる表徴へと色褪(あ)せる。この把握不可能性を、超越作用を有する意識は〔事実として〕確認することは出来たのであるが、「神は自らの怒りの『容器』を神みずから創り、予め設定する」、という思想〈考え〉によって開明することは出来なかったのである。私が夜の存在者としてそれであるところのもの、その私を神は神みずからの怒りにおいて創ったのである。私が夜への情熱に従う処では、神の怒りがそれを欲したのである。このような思想はそれ自体において崩れ落ち、ただ『神の怒り』という言葉の力のみが留まりつづけるのである。


〔「昼の法則と夜への情熱」ここまで〕
 

 ===
 
 詳細目次(作成途上)
 
反抗と帰依 (71頁)
 1.憤怒 —(71頁) 2.知欲の中での決断の停止 —(72頁) 3.知欲における我々の人間存在は既に反抗である —(72頁) 4.反抗する真理意志は神性へ呼びかける —(73頁) 5.自己自身を欲することにおける割れ目 —(74頁) 6.帰依 —(75頁) 7.神義論 —(75頁) 8.神性の秘匿性のための時間現存在における緊張 —(79頁) 9.諸々の極を孤立化して高める過ぎることの破壊性 —(80頁) 10.諸々の極の孤立化における無意味な逸脱 —(80頁) 11.信頼の無い帰依、神を見捨てること、神無しでいること —(81頁) 12.最後には問い —(81頁) 
 
没落と上昇 (83頁)
 1.没落と上昇における私自身 —(83頁) 2.私が評価するように私は生成する —(84頁) 3.依存性における自己生成 —(87頁) 4.超越者のなかに保たれた過程の方向は、何処へ行くのか定まっていない —(88頁) 5.過程であり全体であるものとしての私自身 —(89頁) 6.守護天使と魔物 —(90頁) 7.不死 —(92頁) 8.私自身と世界全体 —(94頁) 9.世界過程 —(95頁) 10.歴史における没落と上昇 —(97頁) 11.全体というものにおいて完成される没落と上昇 ―(101頁)
 
昼の法則と夜への情熱 (102頁)
1.昼と夜との二律背反 —(102頁) 2.一層具体的な記述の試み —(104頁) 3.取り違えの諸々 —(107頁) 4.昼の疑わしい根本前提の諸々 —(109頁) 5.あり得る罪[Schuld] —(110頁) 6.実存をめぐって闘争する守護天使と魔物 —(112頁) 7.両方の世界の総合への問い —(113頁) 8.神話的な開明 —(114頁)
 
 
多なるものの豊かさと一なるもの (116頁)
 
 




ヤスパース『哲学』翻訳 第三巻「形而上学」「第三章 超越者への実存的関係の諸々」2

2022-11-28 17:50:50 | 翻訳



(ヤスパース『哲学』翻訳 第二巻・第三巻)

 
 
(83頁)
 
没落と上昇
 
 超越者を私が摑み取るのは、私が超越者を思惟したり、何か或る規則的に繰り返し得る行為を通して超越者と関わり合ったりすることによってではない。私は超越者へ飛翔したり、超越者から離反的に没落したりするのである。私が実存的に一方を経験するのは、他方を経験することによってのみである。すなわち、上昇は、没落の可能性と現実性とに結びついており、同様に、没落も、上昇の可能性と現実性とに結びついているのである。数千年来、太古の諸思想は、人間の落下と登攀とを超越的な次元で関連させてきた。
 1.没落と上昇における私自身。— 絶対的意識において私はなるほど存在を確信しているが、しかしそれは時間的に持続する完成の安らぎにおいてではない。むしろ私は自分を常に自己生成あるいは自己喪失の可能性のなかで見いだすのであり、多様なものの中に分散している自分、または、本質的なものの中に凝集している自分を、様々な懸念や心配の中に無理やり引き入れられている自分、快楽で自己忘却している自分、あるいは自己現前している自分を、見いだすのである。私は、本来的自己が存在しない荒野を、そして、非存在であるこの現存在からの飛翔を、ともに知っているのである。
 私が自分を絶えずその中で経験するところの危険状態というものは、その意味が、実存的な逸脱を公式化するあらゆる試みによって触れられるところのものである。すなわち:
 a)絶対的意識としての根源とは、自己生成としての能動的運動のことである。ここで没落とは、(84頁)無時間的な存立としてであれ、規則づけられた受動的な運動としてであれ、固定化されたものとしての単に客観的なものの中に陥ってしまうことである。
 根源とは、充実した内実のことである。没落とは、形式化と機械化によって空虚な形骸に固執するようになることである。
 根源は実存の歴史的持続性として存在する。没落は、恣意的なもの、作られたもの、合目的的なものに向かうのであるが、そうなるのは、これらがもはや自らの根拠を、自らを包み越えて自らに魂を吹き込むものの中に持っていない限りにおいてなのである。
 いずれの場合においても、没落によって、ひとつの単に客観的なものが存在として受け取られているのである。その客観的なものは実存の機能として初めて真理を有するのであるけれども。固定化、形式化、製作されること、これらすべては同じことなのである。
 b)絶対的意識において根源であるものは、内実の位階秩序に関する決然とした態度である。ここで、没落とは、無制約的なものが制約されたものにされたり、制約されたものが無制約的なものにされたりする、逆転のことである。
 c)絶対的意識において根源であるものは、本質と現象の同一性において真実のものであり、結果において、ものを根拠づけるものである瞬間が及ぼすところの、それ相応な影響を固持する忠実として、自らを明らかにする。この場合の没落は、単なる主観性としての体験や身振りといった不実なものの中に現われてくる。この主観性は、なるほど瞬間においては現実であるが、この主観性の意味が仮象に留まるゆえに、不実なのである。あるいは、この場合の没落は、私がもはや自分において活かしていない諸内容を通用させたり、承認したり、言表したりすることとしての、不実さとして現われてくるのである。
 d)絶対的意識において根源であるものは、現前する無限性として自らに関わっているものであり、そのことによって充実しているものである。この場合の没落は、単なる繰り返しの無際限性へ赴くことであり、この場合の繰り返しは、もはや、不断に新しい現前的な自己産出ではないのである。
 2.私が評価するように私は生成する。— 私の落下と上昇の過程においては、私にとって単純に現存しているものは何も無く、すべては、あり得る評価に服している。私は、自分の行為に、自分の内的な態度に、私に交わりにおいて他者が出会う基である現存在に、そして私に現われるすべてのものに、評価を下しているのである。私が評価するように私は存在し、生成する。上昇に私があり続けるのは、私が自分のもつ諸々の価値判断を固持し、吟味し、克服することによってである。しかし私が、私にとってまだ以前はともかくも本当であった価値づけに固着して自失すると、私は没し去ってしまうのである。
 価値判定は、定義可能な規範概念に基づいてのみ、明晰な規定性を獲得する。この規範概念は、有限な基準として、その都度の観点から、事物を価値判定させるのである。不都合な素質や病気による業績減少や、生あるもののあらゆる反目的論性[alle Dysteleologien des Lebendigen](85頁)は、悟性に照らして明晰化され、識別される。このような、規定された目的概念や規範概念に即して得られる、強いられた価値判定とは対峙されるような価値評価というものがあり、この価値評価においては我々は、規定されず、強いられないが、それでも明白な位階というものが、観相学的本質においてあらゆる事物にはあることを、観想するという経験を、歴史的にするのである。この位階観想は過程的なものであって、窮極的なものではなく、配列するのではなくて、根源的に開明するのである。この観想は知識とは関わらず、直観に近いのであり、証明されるものではなく、ただ判然とさせられるものなのである。諸々の規定的な規範概念からは、現存在するものの多様な階級秩序が、多数の諸観点の許で生じるのであるが、この諸観点は、ただ自らに関係させてのみ、その都度規定的な位階関係を普遍妥当的に固定するものなのである。しかし〔これとは別に〕、その時その時にはそれが唯一のものであるところの観相学による、無制約的な、自らを決して閉じることはない諸々の位階秩序というものがあり、このような位階秩序への眼差しは、実存から生じるものなのである。
 このような諸々の実存的な価値判定が、ただ、時間における生成としてのみあるにしても、やはりこれらの価値判定は、客観化の方向へ向かうのである。歴史的な諸状況と選択行為とにおいて観ぜられた位階を、一般的な価値づけへと合理化することは、我々にとって、我々が本来的に為すところのものを開明的意味で知るための唯一の路なのである。限界無く得ようと努められる、このような合理化は、実存の、将来において歴史的なもののために、その時その時根拠を与えるものであるが、しかしそれでも、この合理化が、絶対的で歴史的な実存そのものにまでは決して突き進まないものである限りは、やはり相対的なものであるに留まるのである。というのも、客観化された位階秩序というものは、定義可能な目的に拠る価値判定と同様に、根源的に摑み取られるものとしての諸々の位階秩序とは、同一視され難いからである。
 それゆえ、価値評価が、強制的なものとしては、ただ相対的にのみ、前提された諸々の規範概念に沿って可能であるのなら、一方、もう一つの価値評価、すなわち、無規定的ではあるが、本来的な本質を思念するゆえに、深みへと迫ってゆく位階認識は、規定的に客観化されることによって、万人にとって客観的に妥当するものとして現われる場合には、欺くものとなる。この位階認識は、自分自身の上昇と没落の意識と内密に関連しているものとしてこそ、成っているのであって、この意識が、そのような価値評価行為の能動性において、ひとつの表現を見いだしているのである。私が価値評価する処では何処でも没落と上昇を観じているのであるが、そのような観想をするままに、私は自ら既にその没落と上昇〔の運動〕に参与しているのである。様々な位階秩序づけは、自分自身の本質を打ち込んでするのでない場合には、非真理となる。価値づけの形をとる没落は、次のような諸々の路において生じる。すなわち:
 a)私が真実に評価するものを、私は愛するか、もしくは憎む。なぜなら私はそのものを愛したいから。というのも、私はそのものと可能的交わりにおいて向かい合っているからである。なぜなら、私はそのものを、単に存立している存在として評価しているのではなく、そのものの生成する可能性と一緒にして初めて、評価しているからである。そして私はそこに参与している。なぜなら、真の評価づけは、その力から言えば、愛しながらの闘い[liebendes Kämpfen]なのであり、決して単に(86頁)固定化ではないからである。これとは逆に、私が不実となるのは、私が、自分を孤立させつつ、存立しているものに関して、私とは関係のないものであるかのように、妥当だと思い込まれた価値判断を下す場合なのである。このような不実な価値判断は、自分自身の本質を硬直した観察者へと堕落させることによって生じるのであり、この観察者は、自らが審判者のつもりでしゃしゃり出ているのである。このような価値判断は、交わりの無い状態への没落を意味している。
 b)真実な価値評価は、持続性を有する自分自身の上昇の契機であって、この持続性は、合理的な一貫性としては充分に規定され得なくとも、忘却することをしない真実の証と忠実[Bewährung und Treue]として、現象するものなのである。しかし、逸脱は、恣意が価値判定と有罪判定をする場合に生じる。これらの判定は、単に合理的であるにすぎない思想や、単に束の間の一時的にすぎない感情に、基づくものであり、そういう判定に人間は責任を持つことはなく、そういう判定を自ら忘れ、偶然なものと見做すのである。
 c)私が、評価される者自身と完全に共に在るような評価こそは、真実のものである。しかし、評価と判定を他の動機のために私がただ口実とするなら、私は、自分と他の者たちとを実際の目的に関して欺くことによって、没落するのである。例えば、私がひとりの人間を感動したからといって賞揚する場合、私が彼を愛しているからそうするのではなくて、そうすることで他の人々の感情を害しようとして、私はそうすることがあるのである。私は、ひとつの実存から現象して来るものを憎み拒絶することがあるが、そうするのは、私が自分自身には、そうやって実存から可能になる諸基準を、吟味無しで適用しようとするからである。私が何か或るものを、見くびったり讃嘆したりしながら、知にしたいと思う場合、さまざまな議論が無際限に生じるが、そのような議論においては何処かで見掛け倒しの、価値評価への訴え掛けが起こり得る。しかしそのような価値評価は不適切なものであり、とりわけ不適切なのは、不透明でありながらその価値評価では一致して見える人間大衆の、その時その時の平均的なものとして準備されているような価値評価なのである。
 d)真理は、客観化において自分自身に関する明晰性を探求するところの、評価づけである。諸々の客観化は、いつでも、自己開明に必要な手段なのである。諸々の基準と価値表が、実存の空間に属する。しかし、一般的な価値位階秩序の図表で落ち着くと、脱線することになる。歴史性をもって私に対峙するものの中に無限に深く入ってゆくことで、そのもの自身に基づくそのものの諸価値を、自分自身が高まることによってそのものと一緒になって発見する、ということをしないなら、つまり、武器を持たない開かれた闘いであるこのような交わりを為さないなら、あらゆる個別的なものはただ、一般的なものに関する持ち合わせの整理棚の中に整頓されて、それで片づいたことになってしまうのである。硬直することが没落なのである。どんな思惟された位階秩序の歴史的根源も、無制約的決断を妥当な客観性へと移動させることには、我慢しない。私が意識して没落と上昇との可能性のなかに留まる場合のみ、この可能性はあらゆる客観化を越え包み、いかなる安らぎも得させないので、真の評価づけがあり得るのである。
(87頁)
 3.依存性における自己生成。— 能動的な自己反省において私は常に、私が既にそれであるところの私の存在にぶち当たる。すなわち、私は、私がそうでありたいものを、直接に欲することはできないのである。
 私は自分が私の身体に依存しているのを観ずる。しかし私が私の身体の研究において捉えたものを私自身だと見做すと、私は自分をひとつの物にしてしまい、この物は私にとって因果的事象生起の一結果へと夢想的に解消されてしまうだろう。この事象生起は、私をして、技術的な段取りを介して私から、私が欲するものを作成できるようにし得るのである。こうなると、本来的存在の意識としての私の内的な態度が、製造可能なものであることになってしまうだろう。
 このような思想が無意味であることは、自我への問いにおいて明らかとなる。この自我は、上のような段取りの実施を目指すものであり、自分が達したい自己存在のあり方への意志を有しているのである。というのも、この、そのことを欲する自我そのものは、もはや製造可能なものとしては思惟され得ないのであり、〔この自我において、〕そこからしてこそ研究が為され、欲され、製造が為されるところの、根源が捉えられているからである。実際にも私は自分の自由を、私自身を救い出そうとする日々の努力において意識しているのである。なるほど、それが無ければ自由は止むような、諸々の現存在条件というものはある。しかしそういう諸条件は、自由そのものがそれによって生み出されたり、自由の内実がそれによって導かれたりするようなものではない。この点において、単に受動的な経験にはまったく近寄れないものがあるのであり、私は私自身に掛かっているのである。上昇と没落は過程なのであり、自由の根源から駆り立て合うものなのである。
 しかし、没落と上昇は、それらのもつ先行するものに結びついている。私は自分を何時でも無前提に変えることが出来るのではない。常に、私は既に根拠を置いているのであり、既に生成しているのであり、更に途上にあるのであって、そのようにして、その都度自らの瞬間を持っている諸々の飛躍のなかにあるのである。そこでは私は、前進したり後退したりし、絶えざる能動性にあって、ほんの気づかれない程度にではあるが成長したり堕落したりしているのである。
 私が既に私自身によって、歴史的なものに結びつけられたひとつの存在へと生成しているように、私は、私がそのなかで生きるところの世界へと方向づけられている。だが私の本来的な自由が自らの深みに達するのは、私の世界の事実的な現前的現存在が摑み取られ、我有化されて、変容させられる処においてなのである。この特定の現前的な人間世界の現存在の規定性に即し、特殊な諸情勢と諸状況に即して、私を見舞うもの、このものから私は、無世界的な自由の中へと逃れようと単に試みることは出来るが、それでもやはりこの自由は常に他のものによって妨げられるのである。一方で私は、この私を見舞うものを、私に属するものとして引き受けることが出来るのであって、この場合、私はそれを私自身の責任として引き受けるのである。
 自分自身の根拠と世界に結びつけられているところの、自己依存ともいうべきものにおいて、私は自分を飛翔させるか堕落させるかである。しかし、(88頁)私がそこにおいて、諸々の逸脱形態を思惟することによって形式的に開明するところの、ひとつの方向を確信するほど、私はこの方向の由来と目標を知ることが少なくなる。私が飛翔する時、私がこの今において欲することを、私は具体的に知ることが出来ている。だが私は、この方向を、一般的なものとして知るのではない。
 4.超越者のなかに保たれた過程の方向は、何処へ行くのか定まっていない。— 私は、没落が何処へ行くのか、上昇が何処へ行くのか、知らず、そして私は、没落と上昇において、むしろ私の閉じることのできない世界と、逃れようなく結びついているので、私は支えを超越者においてのみ持っているのである。この超越者に私は、私の没落と飛翔の過程のなかで気づくのである。この過程が根本的に示すことは、現存在における存在の本質なのであるが、これが示されるのは、ただ、実存が自らの超越者に自分が根づいていることを信じる場合のみなのである。その場合にのみ、実存は、自分自身でありつつも、他者へと開かれたままで、本当に決然とした実存となるのである。隠れたるものの現前である絶対的意識が鈍るときにこそ、実存の行為も不確かになるとともに不自由になる。すなわち、暴力的な行動という不正直さになったり、途方に暮れて混乱するだけの正直さになったりするのである。実存は超越者への関わりを、意志することは出来ない故にただ準備状態で固持することが出来るだけである。この準備状態において超越者は嘗て一度は実存のなかで語ったのである。
 しかしそうなると、私の本来的な諸目標もまた、超越者へと関わっている[transzendent bezogen]ものでありつづけることになるが、これらの目標は、だからといって、超越者に規定されるのではない[nicht transzendent bestimmt]のである。私がそういう目標として呼ぶものは、魂の純粋さ、私の存在実体の歴史的現象、私によって充実可能な現存在圏の全体の中において歴史的規定性に基づいて為される責任ある行為、などであるが、そういう目標は、表徴[signa]ではなくてそれら自体として在るべきだとされるならば、すべて流れ消えてしまうものなのである。というのも、これら目標は、そのように言表されると、まるで何も言われていないかのようなものであるからである。私の超越的な人生目標は、どんな客観的な形態においても、私に直観されるようなものになろうとはしない。人生目標は、不変で誰にとっても同一なものであるとは、思惟され得ないのである。
 私が — 表象不可能なものを空虚な観念のなかで思惟しつつ —、飛翔は何処へと通じるのかを知ろうと欲するとしたならば、そして私が、自分で行為を開始する以前に、存在をその存在の意味において見抜くことが出来たとするならば、私は実存には縁の無い非歴史性の中に陥ることになるだろう。あらゆる目的は個別的であり、それ自体としてはまだ飛翔へ通じるものではない。しかし、全体というものの意味もまた、最終目的として知られるようなことがあれば、歴史的行為の現実性を廃棄してしまうであろう。そして根本において一切は終わったことになり、何ものももはや生起する必要はないことになるだろう。つまり、時間性は余計なものであることになろう。知ることの意味が導く処が、遂には最終目的と、それと共に全体とが、究極的に認識されるということなのであれば、私は、(89頁)可能的なものについての私の知と、因果的に実現可能なものと、意味が可能なものとの、増大をもって、自分をこの非現実へと接近させることになるであろう。全く逆に、私の絶えず探求する知欲を通じて、歴史的経験が、先取可能なものの中にではなく限界づけられないものの中に向かって行くようにすることを為す代わりに。しかし私が全く自分の知を、理知化するほど空虚にしているのに、既に完成されたものとして扱うのならば、その場合の態度は次のようなものでしかないだろう。すなわち、いずれにせよ、生起するものはすべてあり得るものなのであって、すべてのものには意味がある、という態度 — あるいは逆に、すべては根拠づけられるのであるから、本来的には無意味である、という態度である。この場合、あらゆる規定性は欺瞞であり、あらゆる思想は嘘であり、あらゆる決然とした意欲は党派勢力であることになる。つまりすべては取り違えられているのである。
 また、飛翔はひとつの知をもたらすが、この知は、思い誤って飛翔という一つの道の知となると、没落に通じる。このような知となった道は、他の道を排斥するようになる。私は自分の存在の統一を、自己満足の安らぎのなかで獲得するが、二律背反の緊張を失うのである。しかし実存的には、上昇は、現実的あるいは可能的な没落と結びついている。時間現存在が存するかぎり、超越者への関係性は究極的に所有として獲得されることはないのである。自分への満足が同時に私自身への呼び掛けの形をとらず、挫折の意識でもあるのではないならば、この満足は既に、住み慣れた現存在の無頓着として、喪失である。高齢者には多分許されるであろう、自己完成しようとする生の観照は、それ以前のあらゆる瞬間においては、緊張欠如への没落となるのである。
 5.過程であり全体であるものとしての私自身。— 没落と上昇は、時間現存在における過程としてあるのだから、私は存続的な安らぎのためにこの過程から逃れようとしてもやはり時間現存在に留まるかぎり、私はなるほど既に没落しているのである。しかし私の全体存在は、だからといって、まだ、単なる過程のためだけに全く拒否されるべきものではない。過程において私は存在へと過程を超越するのであり、この存在から過程は自らの方向を受けとるのである。私は支えを超越者にのみ得ることができるのであるが、この超越者は私のために私自身の全体性をも包んでいてくれるのである。現存在においては私は、全体となろうとする意欲として在り、ただ超越者においてのみ私は、全体であることが出来るのであろう。
 死は、なるほど、事実としては、私の時間現存在の単なる終止である。しかしながら、限界状況としての死から私は自分へと突き戻されるのである。そして、私はひとつの全体であって、単に終わりであるのではないのではないか〔と問うのである〕。死は単に過程の終わりではなく、私の死として、私の全体存在への、つぎの問いを仮借なく呼び出す。すなわち、今となっては私の生は生成し終えてしまい、過去のものであり、未来はもはや過程としては存在しないのならば、私とは何であるのか? という問いを。
(90頁)
 とはいえ、時間現存在においては没落と上昇は窮極的な決定に至ることはなく、相互に交代するのである。私はいかなる全体になることもなく、あらゆる見かけ上の完成は挫折するものである。止揚不可能な限界を超越して私が目指すのは、解放の可能性のみであり、其処では私は全きものなのである。私の生は、罪責と破滅とで砕かれた全体性であるに留まる一方で、私の死は、砕かれてある状態を知られざるものへと止揚するはずなのである。
 全体性無き時間現存在において哲学的に自己責任で生きることは、自分が自由であるべきであることを知っている人間の宿命である。存在から放り落とされたように、人間を全体性無き現存在の不気味さが襲うのは、全くの無であるような無の可能性を前にしての戦慄を敢えて口に出すような問いにおいてである。私は、護られもせず、手中にある — 何の手中に? 私はそれを知らず、私が自分に突き戻されるのを見るばかりである。すなわち、私の決意からのみ、私は自分の飛翔か喪失かの可能性を見るのであって、この決意において私は最も決定的に私自身であり、しかも同時にただ私自身であるのではないのである。
 全きものであることが、神話的に私の現存在の中に入ってくる — 私が過程をより決定的に摑むほど、このことはいっそう明瞭に感じられ得る — 私を導く私の守護天使として、そして、私が本来的存在としてその中に歩み入るところの不死性として。私の守護天使において私は、全きものとなり得る者としての私と和解するのである。私の不死性の観念においては私は、現存在としての私にとって、私自身が投げかける影なのであり、この影が没落と上昇において過程として現象するのである。つまり、そのような影として私は私にとって、自己存在では明瞭になりながらも、現存在では暗闇なのであって、全体性であり得るのは実存として超越することによってなのである。
 6.守護天使と魔物。— 人間たちは、現存在過程において飛翔することによって獲得される自分たちの存在の現象を通して、語り掛け合う。しかしこの、現存在において存在に的中する交わりが、どれほど深く進もうとも、私は独りに留まってもいるのである。自己存在の硬さが無ければ、私は流れ去ってしまい、それでは本来の交わりは出来ないであろう。自分との孤独において私は自分を二重化し、私自身に語り掛け、私自身に傾聴する。私の孤独において私は独りではない。ひとつの別の交わりが遂行されているのである。
 これを心理学的に解釈して通俗化することはできる。だが、そうすることによっては、内実(Gehalt)が的中されることはない。内実あればこそ、自己対話において超越的現実性がひとつの拘束性(Verbindlichkeit)を有するものとして感得可能なのである。この拘束性は次のように神話的に客観化される。すなわち:
 自己対話の運動において、守護天使あるいは魔物は、私の本来的自己の諸形姿のようなものである。これらが私に身近であるのは、(91頁)ひとつの長い歴史を私と共有している友人の如くであり、また、敵の形姿を纏って要求したり誘惑して誤導したりする。これらは私を些かも安らいだままにしておかない。ただ私が、現存在の透明さを欠いた衝動性と合理性とに囚われて、そのような単なる現存在へと堕落する場合にのみ、この二つの形姿は私を見捨てているのである。
 守護天使は明瞭さの中へと導き、私の忠実の根源であり、私のなかで実現と持続を欲するものの根源である。守護天使は、〔人間によって〕作り出される世界の明るい空間における法則と秩序とを知っている。守護天使はこのような世界を指し示し、この世界において私の理性をして統治させ、私が自分の理性に従わない場合は非難し、私が理性の限界に臨んで異世界の中へ突き進もうとすると、諌止するのである。
 魔物は、私を不安にさせるような深みを指し示す。魔物は私を無世界的な存在の中へと導くことを欲し、破滅させようとして助言することがあり、私が挫折を単に概念的に理解するだけにしておかず、私が単刀直入に挫折に満たされるようにするのである。魔物は、いつもは否定的であったものが肯定的であり得るものであることを知っている。ゆえに魔物は、忠実と法則と明瞭さを破壊することができるのである。
 守護天使は、「特定のこの形態」において私に更に明示されてくる「一なる神」であり得る。というのは、このような神はその本質においてとても遙かなものなので、その神自身としては、そもそも私とは親密になり得ないものだからである。魔物は、神的かつ反神的な力のようなものであって、その暗黒さにおいていかなる規定性も許容しないものである。魔物は悪ではなく、守護天使に導かれる路の上では視ることのできない可能性なのである。私にとって守護天使は、確信というものを生み出してくれるものである。一方、魔物は、見抜くことのできない二義性を有するものである。守護天使は決然として明確に語ってくれるように見えるが、魔物は規定性を有しない内密な強制力として、同時に現存しないものであるかのように見える。
 守護天使と魔物は、一つであり同じであるものの分裂のようである。すなわち私自身の全体性の分裂のようである。この全体性は私の現存在においては完結し得ないものであり、ただ自らを神話的に客観化することによってのみ、私に語り掛けるのである。守護天使と魔物は、現存在において実存が自らを開顕する路の上での「魂の導き手」であり、自らは覆い隠されたままの道しるべであり、あるいは先取りなのであって、こういう先取りとしては私は彼らを信用してはならないのである。私の路の上で私は決して明瞭性の固定的な限界に突き当たるということはなく、絶えず別の形態で再浮上するような明瞭性の限界に突き当たるのである。そのような限界に臨んでいるとき、守護天使と魔物は、彼らの声を聞かせるのであるが、時間現存在において彼らの全体性が私にとって窮極的に顕らかとなることはないのである。— 
 神話的なものの場合において常にそうであるように、存立化すること[Bestandwerden]は、つぎの場合、すなわち、夢想的な迷信から、ドッペルゲンガーのような幻覚妄想に至るまでの場合でも、非真理なのである。私がただ漫然と時を過ごすだけの生活をしている場合には、(92頁)そのようなものはそもそも現存しない。そのようなものは — 現存在を欠いてはいるが — 実存的な瞬間においては、確信生成の分節化としての自己開明の形なのである。〔そしてまた、〕そのようなものは、あらゆる実存は闘いながらの交わりにおいてのみ在るということの、〔そしてまた〕実存は自分自身と〔の交わりにおいて〕も闘っているということの、神話的な客観化なのである。〔ドッペルゲンガー:「(同一人で)同時に違った場所に現われる[と信ぜられる]人、第2の自我、生き霊(イキリョウ)」相良守峯編新訂独和辞典。〕
 7.不死。— 没落は、無の中に滑り落ちるという暗い意識を伴って起こる。〔これに対し、〕飛翔は、存在の覚知を伴って生じる。
 不死は、断じて、時間的な生の必然的な結果ではなく、形而上的な確信としては、未来において別の存在として在ることではなく、既に永遠において現前している存在、として在るのである。不死は存立するものではなく、私が実存する者として不死の中に歩み入るのである。飛翔を獲得する自己存在が、その飛翔によって不死を確認するのであって、洞察によって確認するのではないのである。不死はいかなる仕方でも証明されない。というのは、あらゆる一般的な反省が出来ることは、不死が誤りであると論駁することだけだからである。
 実存が限界状況において自らの勇敢さを勝ち得て、限界をひとつの深みへと変えるならば、死後に更に生きることへの信仰に代わって、飛翔における不死意識が実存に生じてくる。感覚的生命の衝動は、常にただ生き延びることしか欲さないが、だからこそ希望無く死にゆくものでしかない。時間における持続が、この衝動にとっては自らが不死であることの意味なのである。しかし不死はこの衝動にとって在るのではなく、可能的実存にとって在るのであり、実存の存在確信はもはや時間における無際限な持続の意識ではないのである。
 しかし、この存在確信が、感性的で時間的な不死表象と同一であるような表象において開明されるならば、そのような表象を固定化すると、なるほど、単なる現存在の非信仰から生じた表象と近くなっている。そのような表象は自らの真理を、象徴的代理として浮遊することによって有し得るものである。その象徴的代理の意味は強力で現実的であるが、その象徴的代理〔として〕の現象は一時的で無のようなものである。そのような表象とは例えば、完全な明晰さを有する魂どうしが永遠に愛し合いながら観照し合うとか、限界無く新たな諸形態へ移って活動しつつ生きつづけるとか、死の表象と復活再生との結合とかの、表象なのである。
 哲学的思惟においては、このような象徴的表現[Symbolik]にたいし、時間的持続が現実的に意味あるものであると認めることは、不可能であるが、この象徴的表現によって、感性的な生の渇望が自らの安心を見いだすのではなく、実存的な内実が自らの確認を見いだす限りにおいては、この象徴的表現を受け入れることは意味あることでありつづけるだろう。問いと(93頁)疑いとが入ってから初めて、哲学的思想は自らの妥協無き権利を持つことになるのである。その場合、存在は、死の彼方に在るのではなく、現存在の現前的な深みにおける永遠として在るのである。
 不死が、実存の飛翔の形而上的な表現であり、一方、没落が本来の死を意味するならば、このことは次のことを言っているのである。すなわち、実存が無価値なのもでないならば、実存が単に現存在であることはあり得ない、ということを。
 私は、たしかに、現存在としては、私の現存在から目を転じることは出来ない。私は無としての死がこわいのである。しかし、私が実存として飛翔において存在を確信している時、私は、無を前にして硬直することなく、現存在から目を転じることが出来るのである。この故に、人間は、高揚した諸瞬間の熱情状態においては、自分の感性的で時空的な現存在が死ぬことは確実であることを知っているにもかかわらず、死の中へと赴くことが出来たのである。若者は、自らの実存が、まだ、有限性のために様々に配慮するという責任意識の紛糾の中に陥ったことがないので、その実存の飛翔によって、しばしば高齢者よりも容易に死んでいる。感性的次元での離別の苦痛は、生き残った者にとって、不死の魂という光輝〔をもつ表象〕において、なるほど、束の間のあいだは克服され得て安らぎに至ることはあった。とはいえ、この安らぎは、亡くなった者が顕現することへの無限な憧れを、止揚することはなかったのである。なぜなら、現存在というものは、思い出の超越的な仮象においても、けっして完全ではあり得ないからである。
 しかし、私が不死について — むしろ沈黙しようとするのではなく — 語るならば、私は客観化を為さざるをえない。そしてこの客観化を私は時間のなかでのみ為し得るのである。あたかも私が、現存在としては死なざるをえないのに、時間的に持続してゆくかのように。この場合、私がこの客観化を象徴〔にすぎない〕として消滅するに任せても、現存在としては崩壊するからといって、不死の現実性が止むのではない。というのは、私は、実存がその最後の瞬間としての死において、現存在であることを止めるからという理由で、消滅するのだとは、主張することが出来ないからである。それ故、私は永遠を客観化することも出来なければ、否認することも出来ない。ということは、私が、「私は現存在でのみあり得る」、と言う場合、私は、「まだ何か他のものが存在するが、このものもやはり、またも現存在するものとしてのみ思惟可能なものである」、と言っているのでもなければ、「私は死と共に無となる」、と言っているのでもない、ということなのである。たしかに、不死の形而上的観念の対象性は、表象〔の次元〕においては常に時間内現存在として在るものではあるが、このような暗号[Chiffre]は、不死意識において消滅することによって、現前的に現実的なものの確信となるのである。
 死の苦痛が、死にゆく者にとっても生き残る者にとっても解消されないものである場合、この苦痛はただ、実存的な飛翔のもつ現実性によってのみ、軽減されるのである。このような飛翔は、行為の敢行において、(94頁)力を尽くす英雄的態度において、別離に臨んでの快活な〔いわゆる〕白鳥の歌において — そして慎ましい忠実さにおいて、生じているのである。
 飛翔から語るのである — 知にとってすべてが沈む時に — つぎの要求が。すなわち、すべてが死とともに終わる時、この限界に耐えて汝の愛において捉えよ、すべてがもはや存在しないという事態は、汝の超越者という絶対的な根拠において止揚されている、ということを! — 終極において沈黙が、自らの硬さの中に、不死意識の真理を護っているのである。
 8.私自身と世界全体。— 実存がその歴史性においては自分自身を全体性として視ることがない様に、実存は、自らが現存在として属しているところの全体なるものの道程をも視ることはない。けれども、実存自身の飛翔あるいは転落の可能性は、実存をして、この全体の道程について問わせるのである。実存は、無論、孤立した個別的な実存として自分であるのではなく、実存を包み込むものの中に在って自分なのである。この包み込むもの[das Umfassende]は、実存の意識にとっては、限界づけられることなく広がりゆくものであって、〔ここにあっては〕様々な限界は、あたかも実存が、自らの前へとどんどん押して近寄らせてゆくかのようなもの〔として乗り越えられるもの〕なのである。そういうわけだから、この包み込むものは、もし近寄ることが可能だとすれば、世界全体なるものにおいて初めて到ることが可能なものであろう。根源と究極の諸物、世界過程と人類史、といったようなものの神話的な諸表象は、ここに自らの源をもつのである。
 実存は現存在としては、現存在に〔いわば〕拘禁されている故に、実存にとって、現に存している何ものも、どうでもよいものではあり得ない。世界は、実存の舞台であり、素材として、制約として、そして、包み越えながら時間の内においては結局勝利する現実性として在るのだから、世界という存在は、実存自身の存在であるかのようなものなのである。
 世界現存在は、私に至る所で関わるものであるが、だからといって私は自分を世界現存在と決して同一視することは出来ない。私は、私を脅かす疎遠なものとしての世界現存在に対して戦う。だが世界現存在は私に役立つこともある。世界現存在はそれ自体において固有な存在なのである。私は自分を、一つの部分としての世界現存在から分け隔てるが、それは、私が他の部分を摑み取って、その部分に現存在としての私を編入することによってなのである。この部分は私自身の客観性となり、そのようなものとしてのこの部分と私は一つになったのである。しかし、私に属しているものを超え出て、私の実存の魂が現存在をよりいっそう我有化してゆくほど、私が他者に結びついていることが、ますます感じられるようになるのである。私がより深く押し入ってゆくほど、私は、最初は疎遠だった者とも、いっそう連帯的になるのである。というのは、疎遠な存在が、私にとって、絶対的に疎遠であらざるを得ないとは思われなくなるにしたがって、私は、私自身を孤立化することが罪であると、いっそう感じるようになるからである。理想郷的な晴朗状態においては、私はもしかしたら、再び万有のなかに私自身を見いだすようになるかもしれず、そして、世界であるところのものは、私の運命でもあるようになるかもしれない。
 私の現存在と共にのみ世界は私にとって存在し、そして私は世界現存在無しには存在しない。私があらゆる個別的な世界像と(95頁)眺望とを超え出て現存在というものをはっきりと意識するならば、私は限界状況のなかで実存しつつ、ほかならぬこの現存在への問いを立てることが出来るのであり、しかもここではこの問いは、この問いそのものが同時に私自身の現存在への問いとなるように立てられるのである。虚無主義的な無力〔感〕において世界を思想内で打ち壊し、いわば試みに、世界を逆行させたり、あるいは、私自身を破滅させたりする代わりに、私は現存在〔というもの〕と、現存在のなかでの私の現存在とを、問う[in Frage stellen] のである。このことによって私は全体なるものをひとつの過程として視るのであるが、この過程は受動的に流れゆくものではなく、この過程には私が能動的に参与しているのである。この、現存在を問うことは、現存在そのものから可能であることではなく、現存在の内在性を外れるようにして、問いの根源を実存のなかに有しているのである。ここから初めて、〔問題の〕問いが、現存在の中へと能動的に踏み入ることの表現として、生じるのである。根源からして介入するということが無ければ、過程は静止状態〔の如きもの〕となり、為されるものがあってもそれは単に経験されるだけであろう。可能的実存は、自分自身の没落と飛翔からして、ひとつの全体への眺望を獲得するのであり、この全体の中へ可能的実存は自らの現存在と共に完全に絡み合わされているのである。私はこのような全体を、まるでそれ自体が没落と上昇においてあるもののように、把捉する。私が、あらゆる諸事象は〔それ相応に〕評価され得るものであることを、自分にたいして明澄にする〔ことができる〕限りにおいて、私は、私自身の存在から、現存在の転落と上昇の可能性を見遣る〔ことができる〕のである。
 9.世界過程。— 現存在全体は、にもかかわらず、接近し得ないままに留まるのであり、この現存在全体の没落と上昇を認識として確定することは不可能である。ただ様々な神話と思弁においてのみ、実存にとって世界過程が圧縮されて様々に表象されるのである。
 意識一般を媒介とすることによっては、実存はただ世界定位へ達しただけであった。この世界定位は、世界全体なるものを先取することを一切放棄することによって、否むことのできない強制的な認識のみに甘んじるという根本態度を実現して、遂行されるものなのである。すなわち、世界定位とは、閉じられることのない現存在のなかで具体的な知を個々のものとして獲得することなのである。実存が、このような真の即事象性[Sachlichkeit]の態度をけっして失わないようにしつつも、この態度を〔敢えて〕踏み越えて、世界全体を探求するならば、常に神話的なものである全体なるものという暗号思想が、いかなる仕方でも世界認識を促進するのではないにしても、実存的に現存在において経験可能なものを、超越者が導きをしているように思われる場合には、表現するに至るのである。飛翔と没落は、この場合、単に私自身においてのみの可能性であるとは思えないのである。
 世界定位にとって、窮極的な地平は、無際限性から無際限性へと運動する物質であり、物質は特殊な現存在のどんな始まりにも先行しているのである。これにたいし、現存在を実存的に凝視する場合には、現存在は自らの根源と根拠とを問われるのである。〔この場合、〕世界というものの成立が物語られることになるのであろうか? 〔それには〕いろいろな可能性があるのである。
(96頁)
 私は、世界が常に繰りかえし繰りかえし循環して生じ、再び混沌の中へ逆戻りするのを視る。そうしてこの混沌から世界は新しく発生するのである。世界は、常に在ったのだから、何の根拠も有しないのである。— または、私は世界を現存在として表象する。現存在は、発生する必要はなかったのであり、超越者の誤った決定によるものなのである。世界は無いほうが良かったのであるが、自らの根拠から没落したのだろう。ひとつの生成の快楽というものが世界現存在へと導いたのであろうが、この世界現存在が望んでいることは、後戻りさせられることが出来ることであり、その結果、自らの内に浄化されて安らう超越者のみが存在するようになることなのである。— あるいは、この決定は神性の創造意志であり、神性は自らの力と善と愛とにおいて自らを啓示しようと欲したのである。神性は、自らの本質が否定的なものの止揚によって最大限に実現されるようにするために、否定的なものを必要としたのである。— あるいはまた、世界現存在は、一なる存在の永遠な現在が循環するための一部分なのであり、常に同時に没落と上昇であり、いつも生成中でありながら目標に永遠に至っているのである。
 これらの神話は、〔内容が〕具体的となるほど疑わしいものであるので、我々は間もなくするとこれらの神話に飽き飽きしてしまう。それでも、これらの神話は我々にとって完全に疎遠なものではないのである。何故なら、現存在の解明不可能性は、諸事物への我々の親近感や疎遠感として、また、我々が抱く生への歓呼や現存在への戦慄として、我々に決定的に関わってくるものであり、そのような現存在の解明不可能性が、これらの神話によって、象徴的な表現で言葉となるのだからである。
 このような諸々の想念のどのようなものも、我々にとって、そのような内容上の規定性によって洞察だとか、信仰だとか見做され得るようなものでは、未だないのである。
 実存的に、世界全体に関するこれらの想念は、〔それとは〕正反対の意義を持っている。一なる世界過程というものが思惟されて、この過程の中ではまだ、生成するものによって決断が為されるとすれば、選択をする自己存在の最も高い緊張のために瞬間は強調されることになる。すなわち、何ものも後戻りさせられないのである。私が可能性を持つのは一回だけであり、一なるものが決断するのである。〔そして〕この一なるものはただ一つの神でのみある。いかなる霊魂輪廻も無く、〔ただ〕不死と死とが在るのである。上昇と没落が、窮極的に決断しているのである。
 これに対して、つぎのような諸想念、すなわ、常に既に目標に達している存在の永遠な現在を、包括者[das Umgreifende]として思惟する諸想念は、観想の安らぎを、緊張の無くなった信頼において与えるのである。
 〔上に述べた〕この二律背反、すなわち、瞬間瞬間に更に当面されてゆく決断と、失われ得ない永遠な現在との、この二律背反を超え出て、実存は到来するのであるが、この到来は、実存が自らの現存在において、飛翔によって獲得される決断の緊張と、それ自体が永遠な存在の現象であるとされるような泰然自若とした態度[Gelassenheit]とを、統一にもたらすことができる場合に、生じるのである。矛盾することが実存的には可能となるのである。しかし、(97頁)この統一に関する知と、そしてそれから、超越者の存在に関する知を、ひとつの矛盾無き形態においてもつことは、まさにその故に排除されるのである。
 超越者へのこのような態度において、私は世界全体の歴史性に向って開かれている[offen für die Geschichtlichkeit des Weltganzen]のである。世界は、たしかに、全体として別のようでもあり得るかのように、様々な諸可能性のうちの一つなのではないが、可能性を一緒に内包してもいるのである。しかし世界は、意識一般と実存が捉えることの出来るような仕方で、そのような世界自体であるのではないのである。世界の歴史性は究明できないものであって、〔世界の〕根拠は、いかなる知も見いだし得ず、いかなる実存も捉えることの出来ないものである。《最初に置かれている根拠とは別の根拠を、誰も置くことは出来ない。》このようにシェリングは、論理的な神話を創作しつつ、現実としての現実を前にしての敬意、また、現実が遍く生起することを前にしての敬意として、超越者における世界現実の歴史性に的中するものを、没落と上昇の可能性における緊張を実存にたいして緩めることなく、尚、言表することが出来ているのである。
 10.歴史における没落と上昇。— 現存在空間のなかで私は可能的実存として作用し得るのであるが、〔私は、〕世界全体を眺め遣ることで、この現存在空間を、単に範囲に関してではなく、性質に関して、踏み越えていたのである。
 歴史的存在者として私は、私の限られた世界の状況のなかでのみ現実的である。私は諸々の可能性を見ているが、これらの可能性は私の知識に基づいて初めてそのような可能性であるようなものなのである。〔そうして、〕私が私の知識に基づいて決定的に行為すればするほど、ますますはっきりと、限界に臨んで予測不可能なものが自らを示すようになるのである。私は単独的な人々と共に、〔相互に自己を〕開顕〔し合う〕運動のなかに立っているが、私がこのような交わりの中へと決定的に踏み入るほど、外部に存するすべてに対して交わりを欠く圧倒的なものが、いっそう感じられるようになるのである。了解可能な私の世界を充実させつつ、私は、未だ了解されておらず了解されることも出来ないものがすべてを包み込んでいる、その中にいるのである。
 しかし私の知と探求は、私の理解力と介入力の手に負える世界の限界を超えて、拡大するものである。しかもこの場合、私の知と探求は、世界全体に関わるのとは異なる仕方で、また、人類の現存在としての歴史に関わるのとも異なる仕方で、拡大するのである。この人類の現存在は、〔世界全体よりも〕私にいっそう密接に関係するものである。何故ならこの現存在は私の現存在を産出したものであり、そして現在も産出しているものだからである。そしてまた、この人類の現存在は、自らの諸現実と諸決断によって、同時に私自身の諸可能性を示しているものであるからである。
 世界全体として神話的に思惟されるものは、全く他なるものとしての自然の存在であるか、あるいは最初から人類の歴史に関係するものである。そこにおいて意識と知が生じ、人間世界が生成する。この世界を人間は自らの住居であるものとして、自らの言葉であり活動領域であるものとして、自分のために産出するのである。こうして世界が、— 我々がそこにおいて存在する我々の世界が、始まるのである。(98頁)したがって、世界全体なるものとして神話的に表象されたものは、我々には近づけないにしても存在としてぼんやりと語り掛ける他なるものを、〔我々に少しは〕近づけるはずのものであったのだが、じっさい、まさに、我々の作用力と責任がそこには及ばないところのものを現前させるものであったのである。そしてこの他なるもののほうでは、その存在の力と無限な富とで我々に関わり、我々を捉えて離さないのである。
 これにたいし、歴史においては、私は自分自身が様々に働き掛けることの出来る空間にいるのである。ここでは没落と上昇は、私自身であるところの現実がもつ存在様態なのである。しかし私は自分をただ人間たち〔人類〕の鎖における束の間の部分としてのみ見いだし、それ以前に私自身において飛翔を一義的には見いださないのであるから、私においても全体においても、飛翔と没落は同時にひとつの生起のようなものであって、この生起に私はなるほど力なく委ねられてはいるが、自然に委ねられるように委ねられているのではなく、常に人類次第でもあり、したがって私次第でもあるようなひとつの現実としての生起に、委ねられているのである。
 人間が歴史的に行為するとき、人間はそのときにのみ、自分が欲するところのものをはっきりと知っているのであり、そしてそのときにのみ、すなわち、自分の絶対的意識が出来事に滲み通り、出来事を超越的に〔超越者のなかに〕錨留めするときにのみ、人間は無制約的に欲するのである。その他の仕方では人間は、単に一時的な目標に従って恣意的かつ不確かに行為するだけであるか、あるいは、合理的な終極目標に従って暴力的に、おそらく破壊的に、行為するだけであろう。あるいはまた、人間にはただ、生命本能の確かさが残るだけであり、この本能によって人間は特定のこの個別者として、とにもかくにも出来事の海のなかで出来るだけ長く水面に浮きつづけるのである。
 超越者へと関係させられていることのみが、つぎのことを、すなわち、人間が葛藤状態のなかで自己を敢行し得、そして、何かが決断されなければならない故にひとつの現存在を滅びるに任せ得る、ということを、可能にするのである。というのも、その本質において諸々の妥協からのみ生きている不明瞭な存立は、没落してゆくものだからである。このような存立は、現実的であるために、即ち、そのような単なる現存在であるという非現実から上昇し得るために、自らの限界にまで駆り立てられて、自らが本来的には何であるのかを、言うに至らねばならないのである。しかし、あらゆる現存在は様々な妥協に基づいて相対的なもののなかで生きざるをえないので、何処で決断が為されるべきであり何処で為されるべきでないのかは、客観的には知り得ないことである。決断への意志は実存的なものであり、この意志を駆るものは、ただ運動や興奮や他の様になることや自己破壊を求める人々の忍耐の無さや不満ではなく、「現実は真であるべきである」という感覚なのである。ひとつの社会的あるいは個人的な存立が護られるべきであるかどうか、真理が思惟されるひとつの仕方が否定的に批判されずにおかれるべきであるかどうか、というようなことは結局、決断をする諸々の実存が超越者に関係づけられている場合に、明らかなことなのである。「時々、すべては再び全否定されて、(99頁)もう一度最初から始められなければならない」、というような言い方は、不実な言い方なのである。歴史的現存在においては、真実は、ひとつの存立を伝承的に保持することと、破壊の限界無き危険を冒すこととの間で、緊張しつづけることなのである。しかし、単なる経験や定義可能な諸目的からのみでは、いかなる決断も見いだされない。あらゆる根源的な決断は、没落と飛翔の現前としての超越者に根差すものである。つまり、史実的で現在的な現存在が、私にとって、経験的な現実の無際限な平面の上に存するのみではなく、透明になるような、あらゆる瞬間においては、このような現存在は、没落もすれば上昇もする存在のなかへと分節化されているのである。
 歴史における没落と上昇は、歴史を哲学的に読むことによって、我々に感得されるものであるが、〔我々〕自身の行為が共同的な行為として政治的になることによっても、現実のものであるのである。
 歴史を超越者の暗号として読むことは、現在における行動を活発にさせるための、観想的な補完である。感動させられた哲学者は、彼が経験的現実の諸要素を用いて人類史の神話として物語るところのものを、超感性的存在の暗号として読んでいるのである。そのような神話の最後のものは、ヘーゲルのそれであった。そのように見てもやはり歴史は、諸々の宇宙発生論の単に超感性的な諸神話とは区別されて、ひとつの、現実性における神話になる。世界の外側でのひとつの過程を案出することによってではなく、現実性の中に沈潜することによって、私はこの神話を経験するのである。まるで私が歴史の中で生きている者自身であるかのように、私が〔その者と〕身近になるならば、私は、たとえ一面的であっても今や実在的でもあるような、ひとつの交わりのなかで感動させられる。そのとき、歴史は、過去のものがあたかも更に未来であるかのように再び生成し得る、という意味において、現在となるのである。過去のものがもう一度、可能的なものとして浮遊状態になるのであるが、そうしてますます決定的に、過去のものにおける窮極的なものが、絶対的に歴史的なものとして受け取られることになるのである。ここにおいて、現実性そのものにたいする敬意が生じる。この現実性そのものは、超越者に関係させられていることによって、自らの深みを有するの〔だから〕である。歴史をこのように読むことは、歴史哲学〔となるの〕であり、この歴史哲学は、時間において時間を止揚するものなのである。
 このように理解された歴史においては、没落と上昇は、明確なものではない。〔歴史を〕そのまま直接に読むかぎりでは、没落と上昇は、絶えず別の仕方で何度でも繰り返し生じているように見える。つまり、歴史は、この二つのもの(没落と上昇)を示すことで、私に訴え掛けをしているのである。しかしそれから、歴史は再び両義的であり、諸々の時代の系列においては、すべては上昇でも没落でもあるように見えるのである。
 没落と上昇の意識は、可能的実存を、可能的実存自身の現在における行動へと投げ戻す。この行動は、〔可能的実存としての私によって〕観想されて(100頁)我有化された(私自身のものとなった)歴史空間のなかで、充実を得るのであるが、そうなるのは、この行動が、過去から生じるあらゆる反響によって、自らが現在における私の決定的な行為であることを、確認する場合なのである。しかし、歴史の読解と、現在の状況の中への後退的な飛躍との間には、緊張があり続ける。この二つは、別の根源から、一なるものである超越者によって結びつけられることがなければ、一つの焦点に収斂しない。〔歴史を〕読むことは、私が束の間のあいだ現在にたいして目を閉じることによって出来ることである。そして現在は、私が過去のことを忘れることが出来ることによって、再び現われる。というのも、現在の中にずっと嵌まり込んでいなければならないのが現在というものなら、現在は歴史の外に取り出されたままのものであるから。現実の状況の中に歩み入ることは、身体的に揺さぶられることである。これに対して、過去の状況を最も突っ込んで了解することすら、可能性の空間のなかで単に思惟することにとどまるのである。
 目的を有する行為は、単に世界の内での行動であり、あたかも世界というもの[die Welt]そのものが計画の対象や目標であるかのような創造や変革ではない。だから、どんな時代になっても不可能なことは、まるで世界が全体として形成されるはずであるかのように、唯ひとつの意識が、自分自身の万能の力で世界を包み込むことであり、そのような力は束の間の仮象にすぎないのである。それゆえ、この上に更に、世界の全体を前にしての畏れと同調するような、最も決断に満ちた行為というものが生じるのであり、そして、最も具体的に歴史を知ることとともに生じるのは、世界の成り行き全体についての抽象的な諸主張にたいする嫌悪なのである。人間は歴史に介入するが、歴史をつくるのではないのである。なるほど、人間には、自らの無力さにもかかわらず、つぎのような意識があり続ける、すなわち、すべてのものは生じるがままに在らねばならないわけではなく、別のようにもなり得るのだ、という意識である。— とはいうものの、すべてのものの根拠として置かれているものは現実そのものなのであり、まったく測り難いものなのである。
 全体というものは、しかし、過去のものの総体でもなければ、未来でもない。没落と上昇とは、各々現前的なものとして、現実なのである。超越者へと関係づけられていることは、単に歴史を〔超越者の〕暗号として永遠な現在にすることであるのみならず、単なる未来と単なる過去に反対して、純粋な現在のために立つことなのである。いかなる時も他の時のために相対化されるということはなく、また、いかなる時も、その時においてだけ永遠なるものが満たされたとして、絶対化されるということはない。それゆえ、能動的な実存にとってのその都度の現在のみが、本来的な存在の現象であり得るのである。真なるものは実存にとって、眼差しを釘付けにしたままにする過去に掛かっているのはなく、究極目標としての未来に掛かっているのでもない。そのような究極目標を招き寄せたり期待したりすることは、現在を空虚な移行にしてしまう。そうではなくて、真なるものは、瞬間的な実現に掛かっているのである。この実現によってのみ実存は、(101頁)実存に割り当てられた時間の空間にとって、未来の現実でもあり得るのである。現在のことを諦めることによって、より良き未来がもたらされるはずだと慰めて、現在の断念を正当化することは、欺瞞である。未来への関わりは、たしかに、現存在を維持し拡張する個々の技術的対策(訓練、学習、節約、建造)として、相対的な価値がある。しかし、この関わりが現存在の全体に拡張されるべきだとされるならば、この関わりは、自己存在の現実を回避することとなる。現在というものは、現在が永遠なものである場合に、現在そのものなのであり、この永遠な現在のなかに、あらゆる歴史は掬い上げられるのである。
 没落と上昇は、このような本来的存在の路なのである。この没落と上昇という路は、実体的な現在として在ったところの歴史が反響するなかで、自分自身の責任において経験され為されるのである。一なる世界計画なるものを知らないことが、行動の重みを増させるのであり、この行動は、ある一般的な知から適切なものとして導出され得ること無しに、存在の獲得と喪失によって、この重みに与るのである。〔なんとなれば〕この存在は、この重みを、自らの歴史性において自分自身の自由から実現しなければならないもの〔だから〕である。
 11.全体というものにおいて完成される没落と上昇。世界過程と人類史を前にして、終末への問いがどうしても浮かんでくる。終極の諸事象や、現存在の完成あるいは究極的な破滅についての、ある教説においては、神話的な諸解答が呈示される。
 終末への問いは非神話的に立てられ得る。人は未来について問う、未来はどのようなものであり得るか、また、どのようなものでありそうか、と。時間の空間が充分に長く想定されている場合には、始まりがあったものに関して、時間における一切の終末はそのものの滅亡であることになろう、と見做される。この終末以前には、見渡すことのできない様々な可能性が存しているのである。人間の歴史の生成において、限定されない進歩が信じられようと、平和化された惑星上での人間現存在秩序の究極目標が考案されようと、あるいは目標の無い無限の自己運動が漠然と捉えられ欲せられようと、— いずれの場合でも、終末あるいは無際限性が、後の諸世代によって体験される未来の実際の世界として思念されている〔だけである〕のであり、超越しつつ一切の諸事物の終末が探求されているのではないのである。
 この〔超越しつつ一切の諸事物の終末を探求する〕ことが、神話においては生じたのであり、神話は時間上の現実性を空想上の超感性性と一つにしたのである。その種の諸神話の内実は、単に時間的に考えられた生起事象を超出するものである。人がそれらの神話を経験上の予測のように見做して、時間的に規定された世界滅亡を待った場合には、人はその世界滅亡が起こらないことにがっかりさせられていなければならなかったのである。だが、この種の表象が感性的・時間的な面においては不可能なものであることが(102頁)認識されている場合には、問題であるのは、もはや、終末を時間の中に引き入れることではなく、終末を、超越することによって捉えることなのである。すなわち、終末論的な諸神話が輝きを失っても、本来的な存在への志向は依然として存しているのであり、この本来的存在は、飛翔のときには終末完成の暗号として、また、没落のときには全体的な破滅の暗号として、目前に立つのである。
 というのも、時間の内では、近づき得ない存在というものは、上昇と没落という二律背反を通して現象するからである。永遠なものは、時間現存在としては、決断を通して自らに至らねばならない。この決断そのものが時間的であるかぎりは、終末は未来のものなのであるが、決断が存在の現象であるかぎりは、終末は永遠な現在における完成としてあるのである。それゆえ、私は時間現存在においては決して端的に超越者の許に在ることは出来ず、ただ飛翔において超越者へ近づくことが出来るのみであり、没落において超越者を失いうるのみである。もし、私が超越者の許に在るようなことになれば、運動は止むことになり、終末が完成されて現存し、時間はもはや現存しないことになるであろう。時間の内においては、絶対的意識が完成された瞬間は、即座に再び、緊張した運動へと移行せざるをえないのである。


〔「没落と上昇」(Abfall und Aufstieg)ここまで〕

 ===

 詳細目次(作成途上)

反抗と帰依 (71頁)
 1.憤怒 —(71頁) 2.知欲の中での決断の停止 —(72頁) 3.知欲における我々の人間存在は既に反抗である —(72頁) 4.反抗する真理意志は神性へ呼びかける —(73頁) 5.自己自身を欲することにおける割れ目 —(74頁) 6.帰依 —(75頁) 7.神義論 —(75頁) 8.神性の秘匿性のための時間現存在における緊張 —(79頁) 9.諸々の極を孤立化して高める過ぎることの破壊性 —(80頁) 10.諸々の極の孤立化における無意味な逸脱 —(80頁) 11.信頼の無い帰依、神を見捨てること、神無しでいること —(81頁) 12.最後には問い —(81頁) 

没落と上昇 (83頁)
 1.没落と上昇における私自身 —(83頁) 2.私が評価するように私は生成する —(84頁) 3.依存性における自己生成 —(87頁) 4.超越者のなかに保たれた過程の方向は、何処へ行くのか定まっていない —(88頁) 5.過程であり全体であるものとしての私自身 —(89頁) 6.守護天使と魔物 —(90頁) 7.不死 —(92頁) 8.私自身と世界全体 —(94頁) 9.世界過程 —(95頁) 10.歴史における没落と上昇 —(97頁) 11.全体というものにおいて完成される没落と上昇 ―(101頁)


昼の法則と夜への情熱 (102頁)

多なるものの豊かさと一なるもの (116頁)



 


ヤスパース『哲学』翻訳 第三巻「形而上学」「第三章 超越者への実存的関係の諸々」1

2022-11-10 16:37:45 | 翻訳

(ヤスパース『哲学』翻訳 第二巻・第三巻)
 
 
ヤスパース『哲学』翻訳(第5部)第三巻「形而上学」「第三章  超越者への実存的関係の諸々」
 
 
(68頁)
 

第三章

 

超越者への実存的関係の諸々

 
 
反抗と帰依 (71頁)
 
没落と上昇 (83頁)
 
昼の法則と夜への情熱 (102頁)
 
多なるものの豊かさと一なるもの (116頁)
 
 
 
 超越者は、限界状況において実存が自分の根源から自らを超越者へと方向づける場合に初めて現前するものであるが、すべてを吸収する灼熱であり得るものであり、あるいは、依然としてすべてのことを言いながら、それから再び、あたかも超越者は全く存在しないかのような静寂でもあり得るものである。
 私自身の存在意識と結びついて、超越者は、私が超越者に向かって立つあり方に応じて、自らを明示する。超越者の存在を私は、ただ、いかに私が内的に行為しつつ私自身へと生成するか、その生成の仕方を通してのみ、把捉するのである。超越者は私に手を差し伸べるが、それは、私が超越者を摑み取るかぎりにおいてである。しかし超越者を強いることはできない。何処で、そして如何に、超越者が私に自らを示すかは、問われ続けることである。準備をして自制していることの能動性は、受動性ではなく、運命のなかで現存在を激情的に摑み取ることと同様に、決定的なことであり得るのである。
 しかし決して、超越者への関係は、計画的な実施のようなものには接近可能ではない。むしろ、超越者無しで生きることこそ(69頁)、私が為し得ることにおいて、営業の合目的性において、成功することであり、こういった営業は、最も本質的に大事なものをも屈服させ、破滅させるものなのである。存在のどんな透明性も無いまま、生をまぎれもない凡俗さにおいて現実的に感じることに成功し得るというのであれば、生はもはや疑わしきものではないことになろう。 
 だが、実存が、あらゆる現存在を超え出て、本来的存在に目を向けるとき、この本来的存在は、ただ束の間の暗号の諸々においてではあるが、実存の目の前に歩んで来るのであり、これら暗号において実存は本来的存在を自らに近づけ、言表したいと思うのである。 
 この論述は、それゆえ、限界状況を見遣りながら、諸々の実存的関係を現前させるだろう。それらの実存的関係において経験された超越者は、観ぜられ思惟されたものとして、対象的となるのであり、そして再び溶けて消えるのである。
 私が可能的実存として存在への関係へ歩み入るとき、この関係が一義的である処はどこにもない。すなわち:
 実存が、疑わしい現存在から、超越者に対峙して己れを立てるのは、反抗と帰依においてである。諸々の限界状況は、現存在において破壊しつつ明示するものであるが、これらの限界状況から、何故現存在はこのようであるのか、という問いが生じる。この問いは、現存在の根元に対する反抗へと導くか、あるいは、理解不可能なものへの信頼としての帰依へと導く。
 自分自身を実存は没落と上昇において捉える。そこにおいて実存は、超越者へと向けられるか、超越者を放棄するかなのである。自己存在の絶対的意識から、存在そのものは、沈没あるいは登攀として摑み取られるのである。
 だが、実存は飛翔において何であるのかは、現存在においてははっきりしないままに留まる。実存の可能性のなかには、理性的現存在として現象するところの、昼の法則と秩序への道が存する。だがこれに対して、ひとつの他の道が、夜への情熱として存しており、破壊することにおいて、一層深い存在を要求するのである。ここに、最も恐ろしい両義性が現れている。盲目的で単に生命的な現存在のように実存が自己満足し得ることは、あり得ないのである。
 真なるものの可能性は、一なるものとして自らを示す。この一なるものが私の超越者として私に語り掛ける場合に、この一なるものにおいて私自身が生成するのである。この一なるものを私が裏切るとき、私は無の中に没落する。しかし、自らの歴史的規定性をもつこの一なるものは、現存在の諸可能性の多様性によって再び問いに付されるのである。現存在においては、唯一の固定的で、客観的に確信されるような、実存一般の道は存在せず、在るのは可能性の不確実性なのである。この可能性の不確実性のなかでは、超越者は、人が知ろうと欲するかぎり、両義的で曖昧なままに留まるのである。 
 これら四つの実存的関係は、相互に駆り立て合って、実存を現存在において安らぎに至らせることがない。反抗と帰依は、それ自体においては一つとならないながらも、飛翔において融合するように見える(70頁)。がしかし、飛翔は、没落から初めて、そして没落の現実を前にして初めて、生じるのであり、そうして、自分自身も一義的となることはなく、昼の理性と無への情熱との対立へと自己分裂する[auseinanderfällt]のである。真なるものが両者において一なるものとして現前するかぎり、この一なるものは多なるものを、条件あるいは対抗する可能性とするものである。言表されてしまうと、どんな超越的関係も、二者択一的なものとなり、事実上緊張関係に立つものとなる。そしてその緊張関係になった超越的関係がその都度統一されることが、実存的現実というものなのである。この実存的現実をその緊張状態のまま思惟しつつ一つに取りまとめることは、そういうことが出来るとすれば、可能的実存において意識されるような本来的存在という、理解し得ないものを理解することであろう。しかし、我々は、思惟によっては、ただ、全体としては思想にとって接近不可能なものに留まるものを、様々な断片において開明することが出来るだけなのである。—
 〔超越者への〕四つの実存的諸関係のなかの、どんな関係においても、超越者を、暗号であるところの、神話ないし思弁的思想において対象的に現前化させる、という可能性が存している。すなわち:
 反抗と帰依からは、私は諸々の神義論において超越者を正当化することを思弁的に探求するか、あるいは、神義論を反駁することで反抗の根拠を探求するのである。
 没落と上昇のなかに立つことによっては、単独的個人は、超越者を彼の護り主として、そして彼の不死性として、その語ることに傾聴する。自由の過程は、神話的に、超感性的な存在過程の根源における可能性として、係留されるのである。
 生の理性的秩序としての法則性が、魔力としての情熱に対して緊張しているような生からは、二つの超越的根源という思想がどうしても浮かび上がってくる。私の善意志が服従することで私がそれに護られていると私が知るところの神に対峙して、冥界の神々のような暗黒の形姿が立っている。その神々に従うことは非理性的な罪[Schuld]の深淵の中に引き裂かれることであるが、この神々は、拒絶されると、復讐を強要するのである。
 「私は、現象においては、実存としての存在を、私の歴史的規定性のその都度一なるものと同一化してのみ、有する」、という確信において、私は「一なる神」という思想を摑み取る。しかし、現存在の様々な可能性という豊かさは、この豊かさ自体の超越者を主張するのである。すなわち、一なる神に対して多なる諸神が立ち上がることになるのである。
 実存的諸関係も、そこにおいて現われる超越者の諸暗号も、二律背反のなかに留まるものである。超越者の非対象的な存在は、現存在の現前するなかで様々な形態において現われる。これらの形態は、必然的に相互に結び付いた諸対立として、対象的となることで破壊し合うことによって、哲学することを刺激する棘であり続けるのである(71頁)。哲学することは、知において解決する代わりに、むしろ問いつづけることで、それらの形態が新たに出現するのを見るのである。誤った知による欺瞞を拒絶しつつ、人間は諸々の限界状況のなかで実存するように、自分の超越者への眼差しに映る諸々の二律背反のなかでも、実存するのである。このなかで人間は、様々な神話や啓示を超え出る飛躍を遂行する。哲学することは、それら神話や啓示に対して自らを際立たせることによって自らを遂行するが、それは、哲学することが、その通用形式では存立し続けられないだろうと思われる内実を、守りたいがためなのである。
 しかし我々が諸々の二律背反の一側面を独立させて思惟するならば、この一側面は心理学的体験としてか、あるいは神話的客体として、存立するものとなってしまっているのであり、自らの生命を失ってしまっているのである。諸々の二律背反における緊張のみが、己れの超越者へと関係する実存の真なる現象なのである。この緊張を思惟することが、形而上学としての、超越する働きをもつ実存開明の路なのであり、この路が、この目下の章において試みられるのである。 
 
 

反抗と帰依

 
 習慣によってぼんやりと生きつづけるなかで、諸々の限界状況が私に覆い隠されたままである場合、生は単に現存在である。超越者は盲目の魂の中には歩み入らない。だが、諸々の限界状況においてあらゆる欺瞞が止むとき、現存在の根源に対して投げ掛けられる憤怒が間近になってきているのである。それから、私は存在への帰依に引き返すかどうするか、という問いが生まれることになる。
 1.憤怒。— 現存在の現実に面して、これを吟味し評価することで、つぎの問いが生じ得る、すなわち、この現存在現実が在ることは良いことなのか、あるいは無いほうがより良いのか、という問いである。諸事物の経過は恣意的に見え、いかなる正義も世界を支配していない。善意の者にも悪意の者にも、高貴な者にも下劣な者にも、この世の経緯は無選択に不都合だったり好都合だったりする。諸々の限界状況において、すべてのものの破滅が開示されるのである。
 現存在は基盤無きものに見える。すべてのものは無である。自分を騙して何かを信じ込むかぎりで、人は耐えることができる。だが、何も本来的には存在せず、人は自分の現存在をほんの束の間生き長らえるだけであることが明らかになると、生は我慢のならないものとなる。私は無として現存することは欲さないからである。私は、幸福を幸福として摑むことを拒否する。幸福もやはり衰退の流れのなかの無の如き一瞬にすぎないのである。自らの現存在にたいする憎しみから、私は現存在の現実に反抗する。私はこの現存在を私のものとして引き受けることを欲さず、そこから私が出来したところの根拠にたいして憤怒する。私は、私の意志が無いのに私に与えられたものを、反抗から自殺する可能性をもって、独断的に返却するのである。
(72頁)
 2.知欲の中での決断の停止。— このような反抗を実現し得る私は誰なのか? 特定のこの現存在を欲さないことによって自らの存在を持つはずの者である。しかしこの「欲さない」という意識の中には、ひとつの自由が在って、この自由は、自らの性急さを理解することが出来るものである。すなわち、この自由は、過激な断念という限界から、自分自身を展開しようと押し出て来て、現存在において何かを試みる行為へと回帰することが出来るものなのである。この場合、反抗は、根源的な知欲の姿をとり、この知欲は妥協無く物事を研究し、問い、自分自身で出した答えを再び吟味に付すのである。現存在はもはや全体として価値判断されることはないが、しかし、現存在というものを経験するために、個人自身の本質を投入して絶え間なく歩み抜かれるのである。私は、あらゆる手段を用いて知へ至ろうと欲し、私自身が現存在として認識する者なのである。可能性は開いたままなのであり、現存在を拒絶するか、あるいは、再び根源的な同意をもって現存在の中に歩み入るか、である。反抗が、あまりに性急に、究極的な答えを得たと信じた後では、今や反抗は、絶えず問われるものとなったのである。 
 知欲のこの態度は、人間存在の不可欠な条件となる。問う者は自己存在なのであって、この自己存在は、ひとつの全体から引きちぎられているもののように、自らにとって現象する。この自己存在の自由は、「研究することが出来る」ということであり、自分自身の根拠からする行為を決心することが出来ることである。この全体は、彼には近寄れないものとなったのである。彼は、全体であるものの可能性すら、対象的な明晰さにおいて的確に思惟することができない。私の知欲と行為の自由において私の本質として私に現前しているものを、私は同時に、己れを引きちぎる我意として経験するのである。
 3.知欲における我々の人間存在は既に反抗である。— ゼウスが没落させようと欲し、荒廃状態にあった人間たちに、プロメテウスは意識と知と技術をもたらしたので、プロメテウスは有罪判決を受けるのである。人間を、限界づけられない発展の可能性を有する人間にするものは、プロメテウスの憤怒として示されている人間の根源である。プロメテウスは岩壁に繋がれながらも自分自身であり続け、無力であることの測り知れない苦痛の中にありながら、感動させる告発の叫びを上げることが出来、しかもこの無力さは権力に屈さず、神性のほうが態度を変えて、プロメテウスのほうも、帰依の態度になって和解し合う準備ができるようになるまで、持ち堪えるのである。
 これは、「人間となること」にまつわる太古の罪の神話である。このような根源性においてこの神話と唯一比較しうるのは、堕罪の物語である。人間をして初めて本来的に人間にし、人間の活動的な未来の全可能性を人間に与えるのは、「知」であるが、この「知」はアダムを楽園から突き出すのである。旧約聖書の神もまた、アダムの危険な隆盛に驚愕して言う、『アダムは我々の一人のようになった』、と。そして(73頁)彼を追放して、一度生じたものを更に続くものとし、もはや元に戻らないようにするのである。生成する自由の有する原罪は、同時に、強圧的な神性の有する原罪なのである。
 そのように人間は、神の世界の中に取り込まれるものである。人間の自由意識は、人間の可能的実存の比類なき真理として、失われることのないものであるが、それでも完全に真なるものではなく、人間を、不可解な仕方で、罪ある者とするものである。この自由意識を、人間はここで、神話において理解したのである。人間の価値と偉大さとは、自力の反抗のことなのである。そうでない場合は殆ど何処でも、諸民族の宗教において、神性の優位の前での無力と不安が、幸福と救いを求める人間の服従を決定しているのである。だが、人間のヒロイズムが、人間にとって、人間の本質の比喩である神的なものの存在の中に踏み入ったことは稀であった。この存在は、堕罪〔の神話〕においては僅かに示唆されているのみである。ギリシア人こそが、完全に決定的に、神々の現実性に拠って、人間が事実的に自らそうであったものを、敬虔に経験し、表象することが出来たのである。ギリシア人は、そこに、ひとつの「人間の尊厳」[Menschenwürde]を捉えたのである。この人間の尊厳は、それ以来、人間が自らに求めて為し得たもののための基準となった。たしかに、ギリシア人は、超越者が、彼らの神々の彼方の運命神[Moira]のなかにある新たな限界へとずれてゆくに任せた。この限界においてギリシア人は超越者に触れることはまだ殆どなかった。しかし、反抗と帰依をギリシア人は不滅の諸表徴のなかに描いたのである。
 己れを引きちぎる我意、限界無き可能性の中に入って行く知欲、その、このような罪は、人間実存の自由な自己存在を、その根源においては神から逸れて、そして神に反して、展開するのである。この、己れを引きちぎる意志は、しかし、それ自体神的である。この意志は偶然な路を行くのではなく、自分自身を変化させる神性へと還帰するのである。というのは、もしも人間の存在と行為が神性に反するものであって、自ら神的ではあり得ないとするならば、この人間の行為は支え無きものであろうし、それどころか不可能なものであろうからである。何らかの意味においてこの行為が神性そのものであり、神性がこの行為において作用し、あるいはこの行為をさせておくのでないならば。しかし、神話世界においてのみ、表象作用にとってふさわしい諸基準があるのであり、この諸基準において、神性の意志に抗う行為という不可能なものが、つぎの原理に従って思惟され得るのである。すなわちその原理とは、「自ら神でないならば、誰も神に抗しない」[nemo contra deum nisi deus ipse]、というものである。
 4.反抗する真理意志は神性へ呼びかける。— 知る行為において、現実としては耐え難いものが認識される。その場合、真理は、それが存在することによってすべてを打ち砕くようなものでは、あり得ない。私が遠慮の無い真理意志をもって、しかし、現実をそれがある通りに承認することしか出来ない、ということは、(74頁)私が現実を究極的に全的に知ることは決してないかぎり、私をして不断の問いのなかで前へ前へと駆り立てる。真実性への仮借なく一貫した態度は、それ自体、超越者へ本来的に関係する態度となるのである。[Die unerbittliche Konsequenz der Wahrhaftigkeit wird selbst die eigentliche Beziehung auf Transzendenz.]
 だが、神性の名において、否むことのできない経験的現実や洞察力のある理性を前にしては持ち堪えられないものが、真理として主張される場合、とりわけ、あらゆる現存在に存する不公正さを前にして、たとえ隠れてはいても実際には公正さが存しているのだと積極的に主張される場合、そこでは、ヨブにおけるように、真実性を求める意志が、このような形態の神性と争うことになる。というのは、真理への情熱は、自らの自由のなかで、自らが自らの神と一致していることを知っているからである。神性は、いわば弁証法的な運動のなかで二重化しているのである。ヨブは、彼が真理意志において帰依するところの神性を信頼しながら、つぎのような確信をもって生きるのである。すなわち、神性は、彼がそれに対して反抗しているところの神性において、彼を正義あるものとするだろう、という確信をもって。
 5.自己自身を欲することにおける割れ目。— 真理であるところの、自己自身を欲することにおいては、ひとつの割れ目がある。たしかに、単なる現存在の我意は、熱情なく、衝動的なものや、故意に自ら囚われるなら悪であるものの、無価値さのなかに留まっている。一方、自由が敢えて引き起こすところの、自己存在における割れ目は、自立的な本来的存在の熱情の条件なのである。この割れ目において、反抗は、実存の無制約性の可能性として、実存の根源なのである。この割れ目において、緊張が、自分自身にとっては暗黒なままでありながら、成長する。そして、嘗て存在というものが真摯に向き合われたからには、この緊張から、いつか再び、超越者が摑み取られ得るであろう。超越者への路は、まだ塞がれている。反抗が、いわば、自らの内に鬱積しているのである。反抗は、自らを超越者のなかで止揚する飛躍の途上に[auf dem Sprunge]あるのである。だが、反抗は飛躍のなかで凝り固まっている。反抗として私は可能性なのである。
 反抗は、固められた握りこぶしのようなものであって、開いてはならず、また、殴りかかることもできない。というのは、交わりの歴史性が現存在における実存の積極性となるよりも以前に既に、握りこぶしが自らを開くならば、それは、あの実存的関係においては、裏切りとなるからである。この実存的関係においては、能動的な存在と行為の形態で現実的となるべきものが、反抗として保護されているのである。反抗の可能性は、反抗の放棄によっては真実に止揚されず、現存在における実存の歴史的実現において初めて真実に止揚されるのである。これとは反対に、握りこぶしが、神性に命中しようと欲するかのように殴りかかるのであれば、反抗においてはただ絶望があるのみであって、この絶望において私は、無の中に向け盲目的な一撃を加えることで、可能性から否定的現実へと生成する。その場合、「否」においてもはや護るもののない反抗の罪責[Schuld]が、自己消耗することになり、この「否」は、欺瞞的に自己閉塞する知のなかで、破壊行為を為すのである。一方、護る行為である反抗の「否」は、「然り」を欲するものであり、(75頁)この「然り」のために「否」は用意されるのである。この「否」が差し当たり経験することは、緊張が増大することですべての存在が瞭然としなくなることであり、この経験によって、この「否」は「然り」のために用意されることになるのである。
 6.帰依。— 反抗が決定的になるところには、帰還の可能性がある。たしかに、何ものも帰還を強要しない。帰還の必然的は、洞察され得ることではない。しかし、自己存在は、己れが対立すると見えるところのものとの合一へと迫るのである。自立的な自由が忘れることの出来ない思想、すなわち、私が自分を自ら創造したのではなく、ゆえに私は最終的な存在であってはならない、という思想は、反抗における不安静であり、反抗を脅かすものである。
 反抗は、様々な一般的根拠によっては止揚され得ず、ただ己れ自身の[seinem]根拠においてのみ止揚され得る。私の自由に拠って私を私自身へと生成させるような神性のみが、私をして自己存在を通して反抗を克服させるのである。だがこの克服が成るのは、何か奇蹟のような超感性的作用を介してではなく、私が現存在において自分を一なるものに結びつけることによってであり、この一なるものに私は歴史的に無制約的な仕方で結び合わされ続けているのである。私がこの一なるものに帰依することによって、この一なるものと共にのみ、私は私自身となるのである。帰依が遂行されるのは世界の内においてであって、世界を介するのでなければ、超越者へは、いかなる路も通じていないのである。
 というのは、超越者は、現存在現実において私の帰依を欲するからである。反抗が幸福を、束の間のものであり欺瞞に結びついているからという理由で、拒んだというなら、帰依においては次のような意識が生成する、すなわち、すべての者には、彼が拒否してはならないものが、そのものの時宜に至った瞬間に、充実させられるはずである、という意識が。反抗において不幸が回避されたにしても、あらゆる現存在にたいする憎しみが生まれたというなら、帰依は再び次のように要求する、すなわち、この現存在は私に与えられたのであって、私はこの現存在を克服すべきである、私はこの現存在に耐えなければならず、耐えることを欲する、私が滅んでしまうに至る時まで、と。しかし、帰依においては、もはや、盲目的な現存在の幸福が経験されるのではなく、克服された反抗から摑み取られた幸福が経験されるのである。後者の幸福の上には、更に、到来する可能性がある災難という覆いが掛かっており、この幸福は、それゆえにこそ、単なる現存在には疎遠な深みを有している。— 克服された反抗から摑み取られた幸福が、そのように経験されるのと同様、苦悩もまた経験されるが、単に惨めなだけの苦しみが経験されるのではなく、克服された反抗の有していたような深みを持つ苦悩が経験されるのである。こうして、苦悩にたいして、そうでなければ〔反抗と帰依の過程がなければ〕得られたかも知れない幸福の輝きが、尚も示され得るのである。存在するすべては、その占める場では、現存在であり、私は自分を、私の占める場から引き離すべきではない。帰依は、生への用意であり、その生がどんなものであろうとも、その生を自らに引き受けようとするのである。その生がどのように到来しようとも。
 7.神義論。— 帰依は自らを根拠づけたいと思う。知欲である反抗にひとつの根源を持ち、反抗を養うものであるところの知る行為は、じつは、すべてのことを神性に基づいて理解し得るものにしたいと思う帰依にこそ、奉仕すべきものである〔、という思想が生じる〕。〔そのような思想である〕諸々の神義論は、(76頁)現存在の諸害悪や、避けることのできない罪への、また、悪意への、問いにたいする、様々な答えなのである。そのような問いは次のようなものである、すなわち、どうして神はその全能にもかかわらず、この世界を、このような諸害悪と諸々の不正義とが神から許されるように、つまり、悪が存在するように、創造することが出来たのか? あるいは、広義において、この問いは、どのようにして現存在において価値否定的なものは理解可能であるのか? というものなのである。現在の災厄を、子孫たちの幸福で埋め合わせること(例えばユダヤ人のメシア思想や、社会主義的理想郷におけるような)が、あらゆる希望が打ち砕かれたので、自己欺瞞に思われる場合でも、さらに、彼岸の世界による埋め合わせ(例えば、報いかつ罰する超感性的審判)が架空のものとなる場合でも、埋め合わせが必要なのではないかという問いは、常に新たに浮かんできて止まない。この問いにおいては、傍観者を満足させるような相殺が目指されているのではなく、帰依によって現存在においても卓越性が達せられる可能性こそが、目指されているのである。そのような可能的卓越性を、単独的個人は、一般的な答え〔となる思想〕のもつ影のなかに、再認識するのである。
 インドは、そのカルマ説において、非人格的な世界法則なるものを思いついた。魂の変転は、人間の魂を、生けるものの位階世界のあらゆる諸形態の中に入らせ得るものであるが、この魂の変転において、再誕と特殊な運命とのあり方によって、前世の生活で為された善と悪とが、報いられたり償いをさせられたりするのである。倫理的な賞罰の、隙間の無い仕組みが、すべての現存在を支配している。前世での現存在を意識的に思い出して前世に結びつくことは決してないのではあるけれども。すべての者は自分の運命を自ら生み出したのであり、自分の次の運命をも生み出すであろう。倫理的行為の意味は、より良い再誕を目標としており、終極的には、魂の変転の車輪からの解放を、再誕の揚棄によって、目標としているのである。
 このカルマ説は、引き延ばされた時間の表象によって、あらゆる実存的行為の永遠な意義にアクセントを置いている。この説は、分かりやすい暗号として、あらゆる災厄の意味を合理的な一義性において言表しているのである。神義論の問いは無用になった。なぜなら、いかなる全能の神性も存在するのではなく、存在するのはただ、現存在の法則と、非存在こそが努力して得られる存在であるという測り難さとだけであるからである。
 ツァラトゥストラ、マニ教徒、グノーシス派の人々は、二元論を唱えた。すなわち、神は全能ではなく、悪の力を自らに反して持つのである。二つの原理が互いに戦っている。災厄と悪意は、光の神性の存在を濁す闇の諸力の部分的勝利の結果である。世界は戦場であり、あるいは、世界自体が悪しき世界創造者の産物である。この悪しき創造者は、純粋な神性に対して立ち上がって、この不敬な作品を創り上げたのである。たとえ最後には善なる神々が勝利を確立するにしても、そこへ至る世界過程は、やはり(77頁)苦難と無意味さとで充満しているのである。この世界過程において、分散していた光の担い手たちは、一歩一歩、隠れていた状態から解放されて、善の力と悪の力との究極的な分離へと還帰するに至るだろう。善と悪との分裂は、純粋なものと不純なもの、光と闇、など、あらゆる価値対立において、再認されるのである。
 このような二元論は、現存在の最根源における二重化という、悟性の視点からは単純な解決である。その固定性と非弁証法的な粗雑さとによって、この二元論は、二元論であることそれ自体のゆえに、現存在を更に徹底的に思惟することをけっして許さない。その許すことといえば、ただ可能的なだけの様々な価値づけのすべてを挙げて、絶えず繰り返される諸事物の分類的包摂の外には、無いのである。しかし、この二元論が〔いわば〕弁証法的に展開されると、この二元論は、超越的に〔:超越者に〕基礎づけられた現存在としてのあらゆる現存在の闘争[Kampf]にとって、その単純さによって感銘深い暗号[Chiffre]となるのである。反抗と帰依は、二つの側面に沿って転向し合い得るものであり、この二つのものの両義性を、それらの可能性の様々な反転によって、昼の法則と夜への情熱として、経験し得るものなのである。
 運命予定説[Prädestinationslehre]においては、隠れたる神(deus absconditus)が、人間のあらゆる倫理的要請とあらゆる理解可能性の彼方に立っている。この神の意思は測り知り得ないとともに確固としている。この神意がすべての単独的個人にたいしてその運命を地上においても永遠においても決定しているのである。この世の正義の基準は、この神意には適用され得ない。この神意は、どんなその類の限定された意味をも無限に凌駕しているからである。地上での存在と行為は、単独的個人にとって、彼が何らかの自分の功績によって神の決定とこれとともに彼の運命を変えることができる、という意味を有しているのではなく、彼が選ばれた者であるか拒絶された者であるかがそこで気づかれる、象徴の意味を有しているのである。
 運命予定説は、根源的には、神義論問題というものが解き得ないものであることの言表なのである。しかしそうなると、運命予定説は、即座に、この説以上のものであることになり、その規定的な知と合理的な諸公式によって、議論を通して結論を引き出す仕方で、その合理的な諸公式から、理解不可能なものが積極的に理解されるような、ひとつの大規模な神学がつくられることになるのである。時間における決断の揚棄は、選択行為のもつ可能性を壊滅させるものであり、自由はもはや公式上は存在しないことになる。自由はただ、特定の考えからする事実的な行為としてしか存在しないことになるのである。
 これら三つの教説における様々な思弁が示していることは、理性にとって、否むことのできない答えというものは、神の存在への問いにたいしてと同様、義神論の問いにたいしても、存在しない、ということである。ひとつの公式を普遍妥当的なものにしようとすることは、甲斐の無い努力である。これらの合理的な(78頁)諸形式は、偉大な諸民族にとって、生を形成する意義を有したものであり、後の世の我々にとっても、おそらく、まだ少しの間は、表現の形式であることは出来るものであるからには、我々の努めることは、現在の歴史的な境位において、非知の知を通して、より深く掘り下げることである。これらの教説の諸内容への信仰の許に生きた人間たちの実存的な底力は、それらの諸内容の歴史的な真理を告知するものではあるが、諸教説の真理を我々にたいして証明するものではないのである。これらの教説が挫折した後では、むしろ、理解不可能性を理解することが試みられる。我々の意識は、もはや無疑問に、自らの神話的信仰内容を伴う歴史的実体に属してはおらず、もはやひとつの全体の知られざる深みから現前して安全に生きてはいないので、問いを投げかけることには、いかなる限界も知らないのである。我々の意識においては可能的実存として在る自由は、自らの超越者と共に、自分自身によって問われるが、それは、反抗と帰依の弁証法の眩暈のなかで、知による解決は全く不可能であることを、反省しつつ経験するためなのである。神話による神義論においては、解決は、知られないながらも信じられていたのであるけれども。
 罪過や争いや、あらゆる災厄は、何に由来するのか、という問いにたいして、なにか解り易い解決が我々に出て来るならば、限界状況は廃棄され、実存の可能性からは、それ自らの根源的な経験が奪われるだろう。単なる知のためのいかなる解決も無い、ということが、まさに、我々は諸々の限界状況としての我々の状況から出発して、単独的個人のその都度歴史的な飛翔を、交わりのなかで摑み取らなければならない、ということの根拠なのである。どんな神義論も失敗するということが、我々の自由の能動性に呼び掛けることになるのであり、この我々の自由は、反抗と帰依への可能性を保持しているものなのである。
 それゆえ帰依は、知ることを断念している。すなわち、帰依において私は、存在の根拠を信頼しているのである。帰依が真であるのは非知においてのみであり、帰依は、存在の中で、存在が知られ得ることなく、現存在が止揚されることなのである。帰依が自らを知りつつ正当化しようと欲する処では、帰依は非真実となる。だが、能動的信頼としての恭順は、非知のなかで超越者に眼差しを向けるのである。
 否定的なものにおいて本心を露呈する反抗は、研究行為をしつつ路を求めているのであり、この路の途上で反抗が抱いている信念は、いかなる神も存在せず、ただ、盲目的な自然法則や、有限な諸事物の総体などが、在るだけである、というものである。そこから反抗は、自らの知る活動に基づいて、嘲弄的にこう言う、「汝自身を助けよ、そうすれば神も汝を助けるだろう」、と。だが帰依は、このようにお返しをする、「帰依は知るということはない。それでも、神性が手を貸すのは、勿論、自ら行為する者にだけである。ただ自由への途上にある場合のほかは、何ものも授けられない。事実、私は私自身を助けるべきである。しかし私がそうする時、私は(79頁)帰依において信頼することが許される。このような信頼するということは、いかなる知にも基づくものではないが、生きることの敢行なのである」、と。
 ところで、帰依が、このうえ更に全体の調和について語ることがあり、災厄と悪とを弁明することがあれば、帰依は諸々の幻想のなかに自らを失うであろう。これら幻想で帰依は隠蔽行為をすることになろう。この事態から反抗は生じたのであり、この反抗の面前でのみ、帰依は真正な帰依であり続けることが出来るのである。真正な帰依は、いかなる知からも逃れることをしないのである。
 8.神性の秘匿性のための時間現存在における緊張。— 神性である超越者が可視的に語るとすれば、神性の前で恐れ入って服従することしか残らないであろう。問いは止んでしまう。秘匿性から現象の中に歩み入る全能の力の前に叩きつけられて、私は私の自由を喪失するだろう。反抗も帰依も不可能だろう。というのは、この二つとも、問いのなかで、秘匿された神性と向き合っているからであり、この問いの答えが、可能的実存の敢行なのである。
 我々は、相変わらず時間現存在のなかに在るのである。神性が、秘匿されたままであり、答えることをせず、あらゆる暗号を両義的にしておく限りは、この神性は人間を人間自身の自由へと突き戻しているのである。人間の運命は緊張であり、この緊張から出発して人間は、自分がそれへと向けて生きようと欲するところのものを、敢えて為すことをしなければならないのである。人間には、真理の探求において残されているものとしては、ただ、真理をこのような路の途上において見いだすこと、これあるのみである。神性は盲目的な帰依を欲してはおらず、自由を欲しているのであり、この自由は反抗を為すことが出来るものであって、反抗から初めて真の帰依に至ることが出来るものなのである。 
 それゆえ、緊張は解消されない。帰依は自らの根源を反抗のなかに保持しているのであり、信頼は問いを揚棄しないのである。終極的な合一は時間現存在においては不可能であり、そういう合一があるとしたら、それは非真実な先取であろう。実存は歴史的な現象においてのみ、自らの真理を、この緊張から自らにとって見いだすのである。その場合、実存は自らの「存在への信頼」[Seinsvertrauen]を、自らの「自己への信頼」[Selbstvertrauen]を越える途上において有する。すなわち、実存は自らの帰依を自らの反抗を越えて見いだすのである。しかしそれに劣らず実存は、自らの「自己への信頼」を、自らの「存在への信頼」を越える途上において有する。すなわち、実存は自らの反抗的自立性を、帰依を越えて見いだすのである。
 反抗は、その否定的本質においても、そもそもの初めから神へと方向づけられているので、神を否認することは、無関心となることにはならず、超越者へと関係づけられていることの消極的な表現なのである。反抗は—神を否認するにせよ呪うにせよ—それ自体、超越者に捕えられていることなのである。反抗は、疑問無き信仰よりも深いものであることが出来る。神と争うことは、ひとつの、神の探求なのである。あらゆる「否」は、「然り」が欲しいのであるが、しかし、真理と誠実とにおいて欲しいのである。あらゆる帰依は、真なる帰依としては、反抗を克服することを通って来てのみ、可能なのである。
(80頁)
 9.諸々の極を孤立化して高める過ぎることの破壊性。— 世界現存在において、緊張の一極を過度に高めることは、どんなに偉大な完成を目指していようとも、そのような完成は、時間の内に留まる実存にとって、不可能なものである。すなわち:
 実存は、反抗において自らの自由から、神に対し、あるいは神無しに、自らの意味を、自ら創造したものとしての世界において実現するために、巨人的に、自分自身に拠って立とうとする。世界は何かの役に立つのか、立たないのか、という問いは、実存にとっては、もはや如何なる意味のある問いでもない。問題であるのは、私が意味を創造することによって、私こそが役に立つものであることなのだ。つまり、私こそが、存在するところのものであるか、無であるか、なのである。
 〔これに対し、〕帰依の英雄主義は、自らの真理を、殉教者の自己破棄に持つ。ひとつの尊厳が、この破棄への意志に存するのである。この意志が実現するのは、世界に無関心な生が、世界の中で把持された超越者の真理に無制約的に帰依することである。
 しかし、自力の巨人と帰依の聖者は、世界現存在から出て完成の中へと歩み入る。この完成が、この両者を、交わりにとって接近できないものにするのである。この両者は、讃嘆の対象となることがあり得、また、可能的なものを定位するものとなるのである。
 10.諸々の極の孤立化における無意味な逸脱。— 私が自己存在の諸々の可能性を投げ捨てることによって単なる現存在になりたいと思って、一つの極に自分を孤立化するならば、私は無意味さへと逸脱せざるをえない。
 その場合、反抗は、私が自分の現存在をまさに私のものとして欲する、その仕方のために、起こされる。私は、生が続くかぎり、良心の疑念無しに生を享受することを欲するのである。私は、破壊と支配とを享受する力を欲し、私の現存在を邪魔する現存在に対する憎しみと復讐心から、力を欲する。このような憤怒は、もはや、反抗する自己存在の自由ではなく、断固たる主観性の恣意なのである。— もっと力のない諸形態においては、反抗は、浮遊状態に留まる代わりに、自らを、いわば固定的に切り離す(festrennnen)。反抗は、超越者の純粋像としての神性のために闘う代わりに、空虚な虚無主義の最終形態となるのである。反抗は、他人の不幸を喜ぶ気持ちのようなものとなる。すなわち、そこでは、人は世界をあるがままに見る、というわけである。神性にたいして、自分の現存在に即して、それが一般にあるがままの様子を示すために、人は平凡なものに服従する。このような憤怒は、ルサンチマン〔弱者の強者への無意識の妬み〕である。このような憤怒は、深みの無いままである。
 〔一方、〕帰依は受動性へと逸脱する。争うことの可能性は廃棄され、実存の時間的現象には、いかなる力ももはやない。実存は、存続的な調和を時間の中に採用したのであるが、(81頁)このような調和は時間の中では、現存在としては不可能なのである。このような受動性は自由を放棄してしまっており、現世的な諸権威に信心ぶって服従している自分を見いだすのである。
 11.信頼の無い帰依、神を見捨てること、神無しでいること。— 反抗と帰依は、超越者の前では自らが否定されていることを知っているところの、拒絶されているという意識における、自己存在の喪失の許で、結びついている。この意識は、信頼の無い帰依という絶望である。人間は超越者への自らの関係において、単におののいている自分を感じるのみならず、希望を持っていないのである。人間は自らが永遠に助け無く打ち砕かれているのを感じるのである。人間は、むさぼり喰う力に面している不安として、無である。(つづく)帰依は、そうはいうものの、信頼を包含していたのであるが、いまや、残り無き依存性のなかで、自らを喪失しているのである。一方、己れを肯定する自己存在のほうは、自分に敵意をもって優越する超越者の不気味さを前にして、戦慄しながら立ちつくしているのである。
 反抗は、神を見捨てること[Gottverlassenheit]においてあるのではない。神を見捨てることにおいてあるのは、無信仰であることとしての遠さの意識である。この無信仰性は、反抗することも、帰依することも出来ない。諸々の限界状況のなかでの覚醒に先んじる無自覚な状態が、この無信仰性なのではなく、この無信仰性はむしろ意識的な状態であり、この状態は、反抗をも帰依をも嘗ては為し得たが、いまやそれらを失ってしまっているのである。この状態が無関心さではない場合は、この状態は、自分に超越者が到来することを待っているところの空虚さなのである。いま言った無関心さにおいてなら、もはや如何なる真摯なものも私にとって存在しないが故に、私はもはや何も本来的に欲することはなく、喜ぶことも苦しむことも出来ないのである。神を見捨てることは、「神は死んだ」という意識に高まることがある。この意識はもはや如何なる反抗でもなく、しかし反抗のように可能性を自らの内に持っているところの驚愕[Entsetzen]である — 一方、問うことも絶望することもしない、ぼんやりとしていい加減な、だらだらと生きることのみが、あらゆる可能性を過ぎ去らせてしまうのである。
 人間が現実に、そして問うこと無く、神無しであり得るような場合があるとしたら、その場合には、反抗は止む。次のことが伝えられている、すなわち、《キリスト教化時代のスカンディナビア地方には、いかなるものも信仰せず、自らの強さを信頼していた人々がいた》、と。このことが言葉通りに事実であったとすれば、これによって、ひとつの無自覚的な現存在が性格づけられることになろう。この現存在は、先を見越すことも反省することもなく、完全に瞬間にのみ生きているのであり、未だ反抗することも知らない。なぜなら限界状況を知らないからであり、それでもやはり、野生の独立性をもつ現存在なのである。この現存在は、他のどんな現存在とも違って、反抗への可能性を自らに蔵していない。すなわち、神を情熱的に探求することへの可能性を蔵していないのである。
 12.最後には問い。— 反抗と帰依の緊張を解消するために知を客体化することは、実存から、実存の歴史的自由の呼吸を奪う。実存は時間現存在に在りつづけているのである。
(82頁)
 反抗は、本来的に人間的なものである。目を開いて諸事実を視て問う者は、「否」への路を見いだすであろう。帰依の信頼は、私がそこにおいて既に安らぎを有しているような、妨げられない予断であるなら、真なるものではあり得ない。帰依の信頼が真なるものであるのは、ただ、この信頼が、現実の現存在の希望無き恐ろしさに面と向かいつつ獲得される場合のみである。この信頼は、怪物ゴルゴンの、人間を硬直化させて石にする眼差しに、耐えたものでなければならないのである。
 本当に恐怖の中に入って試練を克服しない者は、信頼を知ることはない。信頼は誰にも押しつけられはしない。信頼は、信頼すること自体はいかなる功績にもならない、という意識を伴っている。信頼を有することは、それを有する者のいかなる上級価値でもない。信頼は、信頼して正しいのかという懸念と結びついたままなのである。
 信頼しない者は、単に身を引くか、あるいは逆に、真剣に信頼する者として、同様に信頼を有する他の者の最も身近に寄り立つのである。この他の者は、その者自身として存在し、現存在的運命の実存的な共同体を、相手である当の者と共に経験するのである。
 世界をいわば尋問することによって、私は言うなれば超越者を問うているのである。すなわち私は、天意が在るのか、在るならどういうものか、と問うているのである。その問いにおいて私が誠意を保ちつづけるほど、私はいっそう途方に暮れることになる。すなわち:
 私は、何が持続するべきであり生きるべきであるかを知らないし、何が没落すべきであるかを知らないのだから — そして、私が知るかぎりでは、一つのものが優勢であり続けることは決してないのだから — そしてまた、私は、持続するものはそのこと自体でより良きものであるのではなく、それどころか、ただ持続するだけのものは、しばしば最も拙劣なものである、ということを、一般的に知っているのであるから — 、私は決して、神性の応答を、事象生起の結果や行為の成果において知るのではないのである。没落は拒否を、そして聖別を、意味し得るのであり、勝利は課題であり得、あるいは逃避であり得るのである。
 次のような思いの発端が、ほんの僅かでもあると、私の態度は混乱したものになってしまう。そういう思いとは、神性が諸事物を一定の方向性をもって生起させることを私は期待できる、というのは、そうであってこそ意味があるのであり、そうでなければ意味がないからだ、とか — あるいは、このような高貴な生、このような善き意志、このような最善のものへの着手が、挫折することはあり得ない、とか — あるいは、私は何かに値する功績を成すか成さないかであって、それゆえ、私は期待してよいか、恐れる必要はないか、どちらかであるだけだ、とか — 、そういった思いなのである。こういった思いは、すべて、私の態度を混乱させるものなのである。こうなると、私は、近づき得ないものに押し迫ってゆき、摂理あるいは天意がそこから生じるところの本来的存在の中を瞥見しようとするか、あるいは、私は、いまだ優れて公正な思想を通してであろうとも、密かに摂理に影響を与えたいと思い、それどころか摂理に強制を及ぼしたいと思うのである。このような思惟のなかには、ひとつの洗練された魔術があり、この魔術は、魔法の技術をもってではなくとも、人間の存在と行為とをもって、神性を導こうと欲するのである。
 実存と理念のみならず、全的で途方もない、圧倒的な世界や、そのほかの、可能的実存を内的に(83頁)萎縮させ得るか外的に破壊するようなものをも、現存在は容れているのである。意味や権利や善行の諸表象に照らせば不可能であろうようなことも、端的に言って、すべて在り得ることなのであるから、反抗と帰依においては、様々な緊張があり続けるのである。したがって、実存が自己拒絶状態になること[existentielles Versagen]は、挫折の無意味さへの絶望においても、成功の誇りと満足においても、同様にあるのである。しかし、幸運な者においても、挫折する者においても、また、無意味さにおいても意味への意欲においても、これらの両方に、問うことがあり続けるならば、超越者への信頼が真実なものとしてあり得るのである。
 私が、神性は自己満足する者や傲慢な者や不寛容な者の側にも、狭隘さや盲目さの側にも在るのか、と問う場合、私は敢えて否とは言わないのである。そこに在るのは私の神性ではない。私は知っている、私の諸力に応じて私から、私のものではないその神性にたいする戦いが求められていることを。しかし私は、私がその神性にたいして勝利することを、期待は出来ないのである。隠れたる神性は、間接的に私に語り掛ける時、決して全的に私に語り掛けるのではない。この神性が私に歩み寄るのは、私にとってこの神性そのものではないものにおいてである。このものを神性は現存在させ、自己主張させるに任せる — そして、この神性は、もしかしたら私から、私がそれを拙劣で悪いものとして戦っているところのものの勝利と存立を見ることを求めているのかもしれないのである。
 
 

〔「反抗と帰依」ここまで〕

 
 
 ===
 
 詳細目次(作成途上)
 
反抗と帰依 (71頁)
 1.憤怒 —(71頁) 2.知欲の中での決断の停止 —(72頁) 3.知欲における我々の人間存在は既に反抗である —(72頁) 4.反抗する真理意志は神性へ呼びかける —(73頁) 5.自己自身を欲することにおける割れ目 —(74頁) 6.帰依 —(75頁) 7.神義論 —(75頁) 8.神性の秘匿性のための時間現存在における緊張 —(79頁) 9.諸々の極を孤立化して高める過ぎることの破壊性 —(80頁) 10.諸々の極の孤立化における無意味な逸脱 —(80頁) 11.信頼の無い帰依、神を見捨てること、神無しでいること —(81頁) 12.最後には問い —(81頁) 
 
没落と上昇 (83頁)
 
昼の法則と夜への情熱 (102頁)
 
多なるものの豊かさと一なるもの (116頁)