高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

「自然への感覚」は芸術への感覚と同じ

2020-04-05 17:10:16 | 日記

《 バッハとモーツァルトとベートーヴェンは、私にとって音楽の三位一体(トリニテ)であると、前にも書いたように思いますが、これは私がもっとも傾倒する音楽家だというだけではありません。また音楽史上、画期的な偉業をなしとげたという、意義のためでもないのです。人間の歴史の中で、さまざまな人が「美しいもの」、人間の魂から生まれて、人間の魂に触れるものを創った。さまざまの色合いで、「自分のできる限り」において、「無限」への贈りもの(オフランド)をした。それらに対して、自分が音楽通になったり、批評家になったり、あるいはまた音楽史家になることを警戒しつつ、音楽を「学ぶ」、ということは音楽に向かって私自身の精神や感覚を純粋にし、精緻にする。つまり音楽に魂を照応させ、それと「対話(ディアログ)」することです。そうすれば自ずと音楽の本質が理解されてくるでしょう。たとえば人間が「自然」を愛するということは、愛すべきものと命令されたり、教えられて愛するのではなく、自分を自然の中に置いてみて、もしなにか自分を引くものがあったら、自分から「自然」に近づいてゆく。すると「自然」の本質が扉を開き、私たちを迎えるでしょう。自然への感覚はそこから生まれます。音楽ばかりでなく、あらゆる芸術はそれと同じです。》 

高田博厚「音楽とともに」11 (著作集III、410頁) 










芸術創造における「自由」と「自然」の連関性 〔加筆〕

2020-04-04 17:27:20 | 日記


高田博厚「音楽とともに」10 (著作集III、407-408頁)


《戦後の芸術現象がたいへん概念的になり、ことに日本でははなはだしい。そしてその人々は、・・・ 「人間感覚」と「自然」との触れ合いの無限性を、智恵の駒の細工のように考えている。ちょうど戦後世界中に氾濫したいわゆる抽象芸術が、真の芸術が到達すべき「抽象」とは全く異なったものである、と同様の錯誤です。これは人間の理論の討論で理解し、承服されるべきものではなく、「自然」が人間の概念の錯誤を教え、訂正してくれるものです。そして人間歴史を通して、高き芸術が私たちを感動させ、啓示するのは、まさにこの点においてです。
 これを最も直接に教えてくれるものが、もっとも感覚的、感情的、内面的な芸術である音楽でしょう。感覚することがすでに「抽象」であり、音 自体が純粋抽象なのですから、それをより以上に抽象はできません。ただそれを「秩序」づけるだけです。そこで「自我」が秩序づけるか? 「自然」が秩序づけるか? 真の「形(フォルム)」の意味はここで理解さ〔れ〕るべきでしょう。「自然」はなんらの「象徴性」を持っていませんが、「人間」が触れる時に、「自我」の中に象徴が生まれる。これが芸術の根源でしょう。》

同10 (同、408-409頁)


音楽においては、「自我」と「自然」は一つのものだろう。だから、「自我」の質が重要になってくる、とぼくは思う。


《 芸術現象は社会的には、ただ推移変化する「流行」にすぎず、皮相な人間はこれを「新しい」としていますが、芸術の純粋領域においては、「推移」とは常に「本源」に戻ろうとする要求から生まれ、そこでは必ず「秩序」と「自由」が反省されます。バロック音楽は一つの巨大な「建築」であった。それに対する「自由」は、再び新しい建築を築くための一素材にすぎません。それならばこの「秩序」なるものはどうして得られたか? ただ漠然といわれている「伝統」か? それとも「自然」に当面する「自我」内部の秩序なのか?》 

同10 (同、410頁)

思惟が灼熱している名文。