高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

他者を大事にできない人間

2023-04-26 17:07:30 | 日記

他者を大事にできない人間  


 

 
他者を大事にすることができない人間、あるいはそれがどういうことかを理解できない人間は、じぶんがぐちゃぐちゃにされてよい人間、あるいは暗黙裡に、そうされてよいことを知りかつ欲している人間である。だから他者を大事にしないのであって、それはじぶんを大事にしないことの一実践なのである。そういう、不快の核であるような人間からは皆が離れてゆくのであって、じぶんはじぶんの行為の報いを受けるのにほかならないことを結局は知る者である。他に倫理や道徳を説いていて、それゆえじぶんは正しく、親切にされるのが当然と思っていたその者は。
 
ぼくが離れてゆく者からは、皆が離れてゆく。  
 
 
 



マルセルの言葉より 「汲み尽くされない富の経験、永続的な《再び》の経験」

2023-04-25 18:31:07 | 日記

マルセルの言葉より 「汲み尽くされない富の経験、永続的な《再び》の経験」

2023年04月25日

 
『 他人は自らを私に、私のものである諸記号と〔いわば〕交差するところの諸記号によって、伝えるのであり、それだけのことなのである。だが、〔ここで〕生じるかもしれないことは、次第しだいに、私は私自身と対話していると意識する〔ようになる〕ということであり(このことは、他者と私とが同一であるということも、それどころか私には同一に見えるということさえも、全く意味しない)、すなわち、次第しだいに、かの絶対的なもの、《非関係性》[unrelatedness]であるところの絶対的なものへの、参与が為されるということなのである。つまり、我々は次第しだいに、斯く斯くの者、斯く斯くの他者であることを、やめるというわけである。我々は単純に《我々》なのである 2。〈2. 一九二五年の覚書。— このことに結びついているのが、かの経験、〔すなわち〕汲み尽くされない富の経験、永続的な《再び》の経験であって、この経験は倦怠の反対そのものなのである。そしてこのことに気づくことは、持続[la durée]について作らなければならない概念にとって、大変に重要なことなのである。〉 』
 
146頁 「形而上的日記」 原著 (一九一八・八・二三 )
 
 
 
(《再び》の原語は≪encore≫(アンコール)です。持続的増大、反復、を意味するでしょう。訳業の苦労が一瞬にして報われたと感じる箇所が突如現われることがあるものですね。)





体操が非精神的となる場合

2023-04-24 22:11:00 | 日記

体操が非精神的となる場合

2023年04月24日

 
意識が外部に、つまり即ち身体に向っている場合である。その根本には、精神内容にではなく外的ノルマに意識が向いているという状態がある。そうすると意識が芯からずれて、人間は途端に疲労を覚える。これが疲労の正体なのである。そのとき人間は自分の外部である身体をも意識するから、そこで疲労回復や身体強化のために体操でもするかという発想は、本末転倒の発想なのである。 
 
 
余計なことをせずに単純に無為に休めばよいのである。そうでなければ遊ぶ。動物はそうしている。 
 
 

  


教養と創造

2023-04-24 19:00:58 | 日記

教養と創造

2023年04月24日
テーマ:自分に向って

 
「科学の限界から哲学が始まる」(ヤスパース)とは、「学問の限界から愛が始まる」ということだろう。ところで学問は愛にとって必要だろうか。学問が教養のことなら たしかに必要だ。そして教養という意味での学問はぼくはじぶんのために充分したし、そういう学問はこれからもする。それほどの必然性は見いださないということだ。ぼくの目標が愛であるのなら。もっと愛に時間をつかってよい。芸術創造などに。学問は海のように無際限であり、海を全部知ろうとすることは真摯であることではない。

推敲:
(「科学の限界から哲学が始まる」(ヤスパース)とは、「学問の限界から愛が始まる」ということだろう。ところで学問は愛にとって必要だろうか。学問が教養のことなら たしかに必要だ。そして教養という意味での学問なら、ぼくはじぶんのために充分したし、そういう学問はこれからも無論、習慣のようにする。だが、そんなに強い必然性はもう見いださない。ぼくの目標が愛であるのなら。むしろ、もっと愛に時間をつかってよい。芸術創造などに。学問は海のように無際限であり、海を全部知ろうとすることは、ほんとうに真摯であることではない。)
 

勉強の強迫観念から解放されよう、自分をもっと大事にして落ち着こう、という気持から書いたのである。 
 
 





うまくいったと思ったことで上手く行くことは決してない

2023-04-24 04:10:57 | 日記

うまくいったと思ったことで上手く行くことはない



 
人間、うまくいったと思ったことで上手く行くことはけっしてない。なぜならそう思った時点で、実現すべき当のものは、不埒な性質のものになっているからであり、実現の条件を欠いてしまっているからである。実現の条件とは、天を味方にしてしまうような無制約的な動機であり真摯さである。学問計画でも そういう姿勢がないと実現しない。全面的な敬虔さがなければ、まっとうではない。