8日に放送された月9ドラマ「信長協奏曲」で濱田岳が演じる徳川家康が三方ヶ原で武田信玄に敗れ、敗走する際に脱糞したとあったが、これは事実である。
1573年、甲斐の武田信玄は京を目指し兵を挙げた。その数は約3万であったとされる。まず狙うは浜松城にいる家康軍。その数はわずか8千。その時、信長は各地に包囲網を敷かれ、わずか3千しか援軍を送ることしかできなかった。
家康は籠城を決めるが、武田軍は家康の存在を無視するように浜松城の目の前を西(尾張)へと軍を進めた。
「城の前を敵が通るのを黙って見るのは武士の恥」と出陣し、武田軍の背後を突こうとしたが、これは罠だった。
武田軍は「待ってました!」とばかりに軍を反転させ当時、戦国最強と言われた騎馬隊で家康軍に襲いかかった。
数で下回る家康軍は当然こてんぱんにやられ、家康は浜松城への撤退を決意。命からがら逃げ帰ったわけだが、馬上で脱糞したと記録されている。この時、家康を追い詰めたのが山県昌景隊だった。彼は信玄が晩年、もっとも信頼していた家臣とされ、赤い色の鎧を身にまとった部隊は何度も殊勲を挙げたという。
浜松城に帰った家康は、「さても山県という者、恐ろしき武将ぞ。危うく命を落とすところであった」(三河物語)と言っている。
家康(徳川家)にとってバツの悪い話は江戸時代に処分されたというから、この敗戦の家康の無様さは相当なものであったと推測できる。家康は浜松城の城門を空けっぱなしにしとくように指示(そうすれば武田軍が何かの罠だと思い攻めてこないと思ったから)すると絵師を読んで自分の今の様を描くよう頼んだ。上の写真がそうである。(これは下敷きで名古屋市にある徳川美術館で購入しました)この敗戦を生涯忘れないようにするためである。
家康を破った武田軍と信長の戦いはそこまで迫っていたが、直接対決は実現しなかった。信玄が病死したからである(信長が実は現代からタイムスリップしてやってきた高校生の入れ替わりとか人物像はともかくとして、ドラマは史実通りに進んでいる。)
信玄亡きあと、昌景は後継者の勝頼を支えた。三方ヶ原の戦いから2年後の長篠の戦いでは味方が不利と判断して勝頼に撤退を進言したが一蹴され、織田・徳川連合軍の鉄砲隊の銃弾を全身に浴び戦死した。息絶えても馬から落ちなかったと伝えられている。
1573年、甲斐の武田信玄は京を目指し兵を挙げた。その数は約3万であったとされる。まず狙うは浜松城にいる家康軍。その数はわずか8千。その時、信長は各地に包囲網を敷かれ、わずか3千しか援軍を送ることしかできなかった。
家康は籠城を決めるが、武田軍は家康の存在を無視するように浜松城の目の前を西(尾張)へと軍を進めた。
「城の前を敵が通るのを黙って見るのは武士の恥」と出陣し、武田軍の背後を突こうとしたが、これは罠だった。
武田軍は「待ってました!」とばかりに軍を反転させ当時、戦国最強と言われた騎馬隊で家康軍に襲いかかった。
数で下回る家康軍は当然こてんぱんにやられ、家康は浜松城への撤退を決意。命からがら逃げ帰ったわけだが、馬上で脱糞したと記録されている。この時、家康を追い詰めたのが山県昌景隊だった。彼は信玄が晩年、もっとも信頼していた家臣とされ、赤い色の鎧を身にまとった部隊は何度も殊勲を挙げたという。
浜松城に帰った家康は、「さても山県という者、恐ろしき武将ぞ。危うく命を落とすところであった」(三河物語)と言っている。
家康(徳川家)にとってバツの悪い話は江戸時代に処分されたというから、この敗戦の家康の無様さは相当なものであったと推測できる。家康は浜松城の城門を空けっぱなしにしとくように指示(そうすれば武田軍が何かの罠だと思い攻めてこないと思ったから)すると絵師を読んで自分の今の様を描くよう頼んだ。上の写真がそうである。(これは下敷きで名古屋市にある徳川美術館で購入しました)この敗戦を生涯忘れないようにするためである。
家康を破った武田軍と信長の戦いはそこまで迫っていたが、直接対決は実現しなかった。信玄が病死したからである(信長が実は現代からタイムスリップしてやってきた高校生の入れ替わりとか人物像はともかくとして、ドラマは史実通りに進んでいる。)
信玄亡きあと、昌景は後継者の勝頼を支えた。三方ヶ原の戦いから2年後の長篠の戦いでは味方が不利と判断して勝頼に撤退を進言したが一蹴され、織田・徳川連合軍の鉄砲隊の銃弾を全身に浴び戦死した。息絶えても馬から落ちなかったと伝えられている。
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