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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

3)史上最大の決断 「ノルマンディー上陸作戦」を成功に導いた賢慮のリーダーシップ

2021年02月10日 14時39分54秒 | 読書・戦争兵器


アイゼンハワーは複数の人から、疲れるだけで何の意味もない前線訪問を止めるよう、たびたび助言されていたが、聞く耳を持たなかった。兵士たちの本当の気持ちをつかむには前線訪問に如くはないと考えていたからだ。

6月19日から22日にかけて、過去40年間で最大という規模の思いもかけない暴風雨がイギリス海峡一帯を襲った。上陸時を上回る量の艦船や装備が海の藻屑となった。大型の戦車揚陸艇でさえも航行不能となり、岸に打ち上げられるほどだった。
嵐が止んだ日、アイゼンハワーは飛行機に乗り、上空から海岸を隅から隅まで視察した。何百隻もの艦艇が難破している様子が見えたが、内心、胸をなでおろしていた。Dデイを6月6日にしていなかったら、次の候補は2週間後の19日だったのだ。
「あの時、作戦開始を決断できたことに対して、私は戦いの神様に感謝しております」

シェルブール港がアメリカ軍に明け渡されたのが28日のことだったが、ドイツ軍が徹底的に施設を破壊していたため、機能を回復させるまで2ヶ月を要した。

~ロンメルの直言に激怒したヒトラー~
苛立ったロンメルはヒトラーの周囲にいるドイツ国防軍の幹部たちに言った。
「あなたたちは前線を自分の足で訪問し、自分の目で状況を確かめるべきだ」と。
それからヒトラーに向き直るとこう続けた。
「閣下は勝利の確信を持って戦うべきだと言われますが、われわれは自分自身が信じられないのです。わがドイツ軍は孤立し。西部戦線だけではなく、東部戦線、そしてイタリアでも敗北しつつある。この現実から目をそらすことはできません。総統閣下、一刻も早くこの戦争を終わらせるべきです
ヒトラーが激怒したのは言うまでもない。
怒りに震えながら、ヒトラーは「あいつらが停戦交渉などに応じるものか」と言い返し、さらに立ち去るロンメルにこう言った。「貴官自身のことは考えるな、ただひたすらに敵の侵攻戦線に集中せよ」と。

6月22日、東部戦線においてもソ連軍が白ロシア(現ベラルーシ)奪還のために「バグラチオン作戦」を発動した。作戦名はかつてナポレオンと戦ったロシアの将軍の名に因んでいる。その日は、ドイツ軍がソ連侵攻を始めてちょうど3周年目だった。90万の兵力を持つドイツ中央集団めがけてソ連軍が真正面から戦いを挑んだのである。ドイツ軍は完全に虚をつかれ、3週間で35万人以上が戦死もしくは捕虜にされるという大敗北を喫した。

~相次ぐイギリス軍の敗北~
「エプソム作戦」

連合軍の場合は対照的で、6月6日から30日までに61,700名の死傷者を出したものの、その数を上回る79,000名が補充されている。

~ボカージュを突破した軍曹の知恵~
地形と植栽。一帯を覆う湿地と、ボカージュと呼ばれるこの地方独特の土手の上に丈の高い樹木が生い茂った生垣である。ノルマンデー西部地方に特有の風景で、現在も残っている。それは守る方に有利で、攻める方に不利な地形だった。
歩兵部隊は生垣の陰や樹上に隠れた狙撃兵の餌食になりやすく、機甲部隊は曲がりくねった小道を進むうち、待ち構えていた敵戦車や戦車砲に簡単にやられてしまった。生垣自体が頑丈なため、その破壊には大量の爆薬を必要とした。

どうにかこのボカージュの魔手から逃れる術はないものか。
第2機甲師団第102騎兵偵察大隊に属するキュリン軍曹が妙案を考えた。
2枚の短い鋼鉄製の刃を戦車の先端部分に溶接したのである。2枚の刃が大鎌のように土手と生垣を切り込み、生えている樹木を短時間で丸ごと切り倒すことができた。これは「ライノー《犀》」戦車と名づけられた。

~3度目のカーン攻略は正面から~
モントゴメリーはようやく腹を決めた。「チャーンウッド作戦」である。
艦砲射撃とイギリス空軍457機が2,300トンもの爆弾をカーンに落とした。
「レンガと瓦礫ばかりで、耕されたトウモロコシ畑のようだった」
「この状態を誰が招いたかを考えると、生き残った住民の顔を直視することは到底できなかった」

アメリカ軍はこれまでの戦いで得た教訓をさまざまな形で生かしていた。
例えば、歩兵を援護する戦車の車体後部には電話が取り付けられていた。そのおかげで、歩兵を率いる指揮官は砲塔によじ登ってその身を危険にさらさなくても、内部の戦車兵と会話し、砲撃目標を指示できるようになった。装甲部隊に対空連絡員を同行させ、戦車に乗車させたのである。彼らは無線機を使い、上空の爆撃隊と連絡を取った。これは誤爆防止に役立っただけでなく、空からはうかがい知れない攻撃目標を地上から指示することも可能にした。

Dデイ以降、連合空軍は橋や幹線道路、交通機関を叩き、敵の援軍を絶つ戦術航空作戦に移行していた。その際に活躍したのが戦闘爆撃機である。
イギリス空軍ホーカー・タイフーン:3インチロケット弾を翼下に装備
アメリカ陸軍P-47サンダーボルト:500ポンド爆弾を投下
同P-38ライトニング:5インチロケット弾

~戦線を離脱したロンメル元帥~
B軍集団司令部に戻るため、車に乗り込んだ。
1時間後幹線道路を走っていたところ、不運にもイギリス軍戦闘機スピットファイア2機に見つかり機銃掃射されてしまった。車は溝に落ち、ロンメルは車から投げだされて意識を失い、頭蓋骨骨折という重傷を負った。

さて、「グッドウッド作戦」である。
この名前は先の「エプソム作戦」ともどもイギリスの有名競馬場から取られたものだ。

7月18日午前5時30分から3時間にわたって、英米空軍の爆撃機2,600機がカーン東方の村々に山のような爆弾を降らせた。地上軍の作戦支援という目的の航空兵力としては史上最大規模であった。

~ヒトラー暗殺未遂事件~
驚くほど大きな書類カバンを手にしてた。
数分後にシュタウフェンベルクが退室したことに誰も気づかなかった。
12時50分、突然大きな爆発が起こり、部屋中が煙と火にまみれた。書類カバンの中に時限爆弾がセットしてあったのだ。当時、ヒトラーを含め24名がおり、ヒトラーの近くにいた4名が死亡、3名が重傷を負った。ヒトラーは立ち上がってこう叫んだ。
「私が神の特別の庇護下にないとでも言うのか?」

シュタウフェンベルク大佐はヒトラー暗殺の成功を確信していた。
ベルリンに到着した彼の報告を受け、陸軍内の反ヒトラー派はただちにクーデター計画の発動を準備した。政権転覆を狙った大規模反乱が起きた場合、それを鎮圧する非常時対応システムが首都ベルリンには用意されており、そのシステムをそのまま利用して首都支配を目論む「ワルキューレ作戦」である。
実行犯のシュタウフェンベルク大佐ほか4名の将校が直ちに逮捕され、シュタウフェンベルクを含む3名がその夜、銃殺刑に処された。
その後もゲシュタポは徹底的な調査を行い、事件に関与した者はもちろん、事件に関与はしなかったが、実行グループに共感を抱いていた反ヒトラー派の人々を、親族含め、根こそぎ逮捕した。その数、5,000名に達したと言われる。のちに、ロンメル元帥も陰謀への加担をヒトラーに疑われ、結局、自死の道を選んだ。

~味方の誤爆で相次ぐ犠牲者~
「コブラ作戦」

ドイツ軍は善戦したが、この戦いでは空軍力が物を言った。イギリス空軍の戦闘機タイフーンがドイツ軍戦車パンターに空対地ロケットを発射し、次々に破壊した。タイフーンへの恐怖から、ドイツ戦車兵が車外に飛び出してしまった。

パリ開放はDデイから81日目のことである。
ドイツが降伏するまでそれから8ヶ月あまりの戦いが継続することになる。

「ファレーズの戦場は文字通り最大の【場】の1つだった。道も畑も壊れた武器や死んだ人馬でいっぱいになり、この地域を通ることは困難だった。・・・その光景はダンテのみが描き得るものだった。屍を踏まなければ1度に数百ヤード歩くことさえできなかった」

祖国の首都パリに、どこの軍隊よりも先に1番乗りする。
これがド・ゴールにとって死活的な重要事項だったのである。

【パリ!パリは侮辱され、パリは破壊され、パリは苦しめられたが、パリは解放されたのだ。彼女みずからの手で解放され、彼女の国民の手によって解放され、フランス全体の支援を受けて解放されたのだ。・・・この真のフランス、この永遠なるフランスが戦ったのである。】

この日、パリから1,500キロ離れたドイツ国防軍最高司令部の掩蔽壕の中で、ヒトラーがテーブルを叩き、怒号していた。「パリは燃えているか」
ヒトラーの命令でパリの至る所に仕掛けられた爆弾は、ついに作動しなかった。彼の命令は、ドイツ国防軍大パリ司令官のコルティッツにより無視されたのである。
8月26日午後3時から凱旋パレードが行われ、パリは歓喜の波に包まれた。

そんなモントゴメリーが発案したのが「マーケット・ガーデン」と呼ばれた空挺作戦である。ドイツ国境に近いオランダ中南部、ライン川下流のアルンヘム川下流のアルンヘム付近などの川や運河に架かる複数の橋を空挺部隊が占拠、地上部隊と合流してルール地方を目指す、という大胆な内容であった。アイゼンハワーはこの作戦を許可した。
9月17日、3個師団分の空挺兵を満載した1,068機の輸送機と478機のグライダーが無数の戦闘機に援護され、オランダの空を覆った。次の瞬間、次々とパラシュートが開く様子を下から住民が見とれていた。ドイツ側の迎撃は1機もなく、対空砲火も貧弱で、作戦は順調にスタートした。
結局、アルンヘム占領は成功せず、この空挺作戦は失敗に終わった。

~ヒトラー最後の賭け、バジルの戦い~
ヒトラーは反抗の場を連合軍の兵力が最も薄い地点に決めた。アルデンヌだった。
アルデンヌといえば、40年5月10日にその火蓋が切られたかの西部戦線での電撃戦発祥の地であり、ドイツがフランスに対する一大勝利をものにするきっかけとなった場所である。
12月16日夜明け、ドイツでは「ラインの守り」と名づけられたその作戦が開始された。

攻勢を担当したのはドイツB軍集団で、司令官はモーデル元帥だった。兵力は3つの軍に分かれ、25個師団、25万7,000名の将兵と1,000両もの装甲車両で構成されていた。これに対する連合軍はわずか4個師団、8万3,000名、装甲車両も420ほどしかなかった。ドイツ軍の事前準備はほとんど気づかれなかった。反攻に関する一切の情報は無線ではなく有線でやり取りされたため、連合軍の暗号システム「ウルトラ」も察知できなかった。

アイゼンハワーの優れた決断は大きく2つあった。フランスやイギリスから予備軍を呼び寄せるとともに、南北両面から、ドイツ軍の侵攻地帯に向けて援軍をすばやく移動させたことだ。その予備軍のなかには第82および第101空挺師団も含まれていた。特に大きかったのは、パットン第3軍のザール侵攻を止めさせた決断だ。その6個師団をもってパットンを北上させ、ドイツ軍を叩いたのだ。

~パットンの活躍が活路を拓く~
「ドイツ軍がムーズ川を渡るのは断固阻止しなければならない。ジョージ、それをやってほしい。いつ進撃できるか」
「出撃日を遅らせてもいいから、小出しではなく、強烈な一撃を見舞ってほしい」
アイゼンハワーは過去、不祥事を起こしたパットンを2度救った。今度はパットンがアイゼンハワーのキャリアを救う番だった。

「アイク、そんなことをあなたがやったら、私はアメリカ国民に責任が持てない、辞任するしかない」
「ブラッド、アメリカ国民に責任があるのは君ではなく私だ。これは私の命令だ」
最高司令官しか吐けない値千金の言葉である。

すでに18日からドイツ軍の進撃は徐々に遅くなっていき、アルデンヌに「突出部(バジル)」を形成したまま勢いを失った。・・・のちの「バジルの戦い」と言われる所以である。

~ベルリンを取らないという決断~
次の目標はルール地方の包囲であり、その後は政治的にも心理的にも重要な首都ベルリンの占領であった。アイゼンハワーはここで重要な決断を行う。
ベルリン占領はソ連に譲る」というものであった。
彼がそう決めた理由はいくつかあった・・・
1つは、連合軍とベルリンの間の距離は480キロもあり、しかも途中エルベ川という障害があったのに対し、ソ連軍とベルリンの距離はわずか50キロしかなかった。どう考えても間に合わないと考えたのである。もう1つは、ライン川沿いの根拠地からわざわざベルリンに向けて部隊を割ると全体の機動力が損なわれ、本来の任務に不全をきたすと判断したからである。
また彼はドイツ北部のリューベックの奪取が重要と考えていた。デンマーク半島やノルウェーにいるドイツ軍を本国から断ち切ることができるからだ。

1944年6月6日のDデイから3ヶ月の間に、ドイツ国防軍は約24万名の将兵を失った。
さらに20万名が連合軍の捕虜となった。
同じく8万3,045名のイギリス兵・カナダ兵・ポーランド兵が犠牲となった。
アメリカ軍の犠牲は12万5,847名、連合軍航空部隊のそれは1万6,714名であった。
その後も戦地を移しながら無数の犠牲が続いた。
もちろん、民間人を含めたらその数はさらに増す。

第二次世界大戦において日本は「太平洋でアメリカと事を構える」という大きな戦略的錯誤を犯したと述べる。ではどうすべきだったかと言うと、ソ連の沿海州、例えば東部シベリアの要衝地ウラジオストックを加えるべきだったと主張する。結果はどうなるか。

アメリカ軍が「史上最大の作戦」を敢行する場所と日時について鳩首凝議(きゅうしゅぎょうぎ)してきたのは先に見てきた通りだ。
◆きゅうしゅ-ぎょうぎ【鳩首凝議】
人々が集まり、額を寄せ合って熱心に相談すること。
▽「鳩」は集める意。「鳩首」は頭を集めることで、人々が集まり額を突き合わせる意。
「凝議」は熱心に議論すること。「凝」はこらす、集中する意。

それらの条件を満たす候補地として、ヨーローッパ沿岸各地が隈なく探索された結果、最終的に残ったのがフランスのカレー地区とノルマンデー地区だった。
上陸地点が決まると、制空権を連合軍が完全掌握しドイツ空軍を寄せ付けないようにした。ドイツ空軍に特に甚大な被害を与えたのは、1944年2月20日から1週間行われた、ドイツ本土への集中攻撃「ビッグ・ウィーク」であった。多数の工場破壊によって戦闘機の生産に壊滅的な打撃を被り、ドイツ空軍の威力は大きく削がれた。同年4月、つまり上陸作戦敢行の2ヶ月前までに連合軍は制空権を獲得することに成功した。

アメリカ軍はイギリス軍がとっくに諦めた昼間における精密爆撃に徹底的に固執した。
理由は2つあった。
1つ目は映画「メンフィル・ベル」
の主役となった主力爆撃機B-17の性能が非常に高かったことだ。
50mm口径の強力な機銃が多数装備され、敵の攻撃を防ぐ防御装甲板も十分、敵襲によって相当深い痛手を負っても帰還が可能なほど機体が頑丈で、空力学的にも優れていた。
しかも、ノルデンというメーカーが開発した、イギリス軍のそれとはくらべものにならないほど高性能な爆撃照準器が標準装備されていた。アメリカ軍としては昼間の精密爆撃を止める理由がなかったのである。
2つ目の理由は、夜間の無差別攻撃を行うことで無辜の一般市民の命が巻き添えになることを恐れたからだ。しかもアメリカ国内にはドイツ国民が多く、ドイツへの無差別攻撃の敢行は世論の大きな反発を受ける可能性が大いにあったのだ。

44年半ば、昼間のベルリン上空を飛ぶ戦闘機P-51マスタングを見て、
ゲーリングは「われわれは戦争に負けた」とつぶやいたといわれている。
マスタングはノースアメリカン社が製造する単発戦闘機であったが、エンジンの性能がよくないという欠点を抱えていた。そこでスピットファイアの搭載エンジンとして名高いロールスロイス・マーリンのエンジンに変えたところ、性能が飛躍的に伸びた。

~第3次世界大戦の勃発を未然に防いだ男~
終戦後の1953年1月、アイゼンハワーは第34代アメリカ大領領に就任した。
「アイゼンハワーは朝鮮戦争を終結させた。米ソの敵対関係を安定させ、激化させなかった。ヨーロッパ諸国の植民地主義に加担せずに、ヨーロッパ連合を強化した。国際的には孤立主義を避け、国内的にはマッカーシズムから共和党を救った。経済的には繁栄を維持し、産業を均衡させ、技術革新を促進した。ただし、黒人の市民権運動には消極的であった」

8年間の大統領在任中、1956年ハンガリー動乱、57年のソ連によるスプートニク打ち上げ成功、58年のソ連が打ち出したベルリン中立化構想によるベルリン危機、60年のソ連が領空侵犯したアメリカの偵察機を撃ち落したU-2事件など一触即発の大事件が頻発したが、アイゼンハワーは「ありのままの現実を直観する能力」でそれらにうまく対処した。

当時、副大統領をしていたリチャード・ニクソンは回顧録で「多くのアメリカ人が実感しているよりもはるかに複雑でずるさを持っていた」とアイゼンハワーを評している。

一方、大統領の後継者としてはジョン・F・ケネディを指名したが、大統領退任時にアイゼンハワーはすでに70歳を超え、心臓疾患という爆弾を抱えていたため、十分な補佐ができなかった。ケネディは保守的に見えるアイゼンハワーに比べ、若々しい外見で理想主義を強く訴えたが、まだ若くて経験も浅く、政治家として必要なずるさも賢さも備えていないこれからの指導者だった。
彼の後継者のケネディやジョンソンには、小さな戦争体験はあるものの、史上最大の作戦に匹敵する大規模戦争の経験はなかった。

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