
ナポレオンも、最強ドイツ機甲師団も、旧日本軍もこれで敗れた!兵站とは何か?なぜ重要なのか?作戦上どう扱われるのか?なぜ主たる敗因になりがちなのか?なぜそれが繰り返されるのか?兵站を担当したことのある元陸将が過去の戦役を例にわかりやすく説く
序章 旧約聖書『出エジプト記』にみる兵站(そもそも「兵站」とは何なのか?
世界最古の兵站?)
第1章 兵站を読み解くカギ(兵站を心臓・血管・血液・細胞などの譬えで説明する
内線作戦と外線作戦―海洋国家米国とユーラシア大陸国家との戦いの基本構図 ほか)
第2章 太平洋戦争にみる兵站―海洋国家同士の戦い(「一二倍の国力差」があるのに、日本はなぜ日米開戦を決断したのか
石油の一滴は血の一滴―石油という最重要な兵站物資の確保 ほか)
第3章 海洋国家とユーラシア大陸国家との戦いにみる兵站(日露戦争
朝鮮戦争 ほか)
佐世保米軍基地は、海外で唯一の強襲揚陸艦(海兵隊の兵力を輸送し、主にヘリコプターを利用して上陸させる能力を持った艦艇)の拠点で、強襲揚陸艦ボノム・リシャール(41,500トン)をはじめ4隻の揚陸艦、2隻の掃海艇の母港である。強襲揚陸艦は乗務員1,200名、海兵隊員1,800名を収容し、「殴り込み」戦闘の最前線に立つ艦船である。第7艦隊。
『補給戦ーー何が勝敗を決定するのか』
「戦争の勝敗は補給によって決まる」
「戦場が策源地から遠くなるほど戦力は遁減する」
バルバロッサ作戦における兵站の不備
電撃戦を成功させるためには機甲師団の突進に兵站補給が追随する必要がある。
本来兵站輸送のメインとなるべき鉄道輸送がなおざりにされた結果、ドイツ軍の進撃を阻む要因となった。ロシアの鉄道事情はヨーロッパのそれと異なり、狭軌だった。このためドイツからロシアへの鉄道輸送は、まず鉄道部隊により軌間変更作業から始めければならなかった。加えて、燃料となるロシア産石炭は粗悪で、ドイツ産の石炭かガソリンを添加しなければドイツの機関車には使用できなかった。
鉄道の軌間変更作業は進まず、兵站補給は専らトラック部隊が担った。
ところが、このトラックの数が充分ではなかった。ドイツ軍はトラックを民間から調達したが、トラックの種類が2,000種類もの多岐にわたった結果、膨大な種類の補修部品が必要となった。またこのトラックがロシアの過酷な道路事情により次々と壊れていくのだ。
舗装されていなかったロシアの道路は秋雨でたちまち泥濘化し、車軸まで泥に埋もれて立ち往生する車両が続出した。
11月になって路面が凍結すると、道路事情は改善されたが、今度は鉄道輸送に重大な支障が発生した。ドイツ製機関車は給水管をボイラー内に通す構造にはなっていなかったために、凍結により配管が破損して、鉄道輸送がマヒ状態に陥ってしまった。
当時、米国の国民総生産は日本の12倍、石油生産量は712倍、粗鋼生産力で12倍、自動車保有台数は161倍で格差は歴然だった。
「ランチェスターの法則」
戦闘力は「二乗」に比例する。
石原莞爾(かんじ)
「陸軍はアジアの解放を叫んでーーその実、石油が欲しいのだろう。石油は米英と妥協すれば幾らでも輸入できる。石油のために、一国の運命を賭して戦争をする馬鹿がどこにいる」石原は日本陸軍70年余の歴史を通じて頭脳・屈指の逸材といわれる将軍だった。
開戦時、南方石油環送のための日本のタンカー保有量は58万総トンであった。
タンカーの占める割合は9%。
「アジア艦隊では、問題が解決するまでの間、魚雷の誤作動の確率は100%に近かった」
しかし、電池魚雷、魚雷用新トルペックス火薬、夜間潜望鏡の装備、潜水艦・機雷探知用FMソナーの開発、無音水深測深儀、敵味方識別装置、マイクロ波SJレーダー等の新兵器の導入によりアメリカの潜水艦隊の攻撃能力は飛躍的に増大した。
昭和18年9月、アメリカ海軍作戦部長キング大将は「潜水艦の最優先攻撃目標は日本のタンカー」との命令を出している。加えて潜水艦の配備数も増強され、開戦時の51隻から118隻と倍増した。終戦時には182隻に達した。
海軍が海上護衛総司令部を設立したのは開戦2年後の昭和18年11月であった。
永野軍令部総長は発足時の挨拶で、「今になって海上護衛総司令部が出来るということは、病が危篤の状態に陥って医者を呼ぶようなものであるが、国家危急存亡の秋(とき)・・・」と述べている。
昭和19年4月、アメリカ海軍作戦部長キング大将は「商船より護衛艦を先に屠(ほふ)れ」との指示を出した。そのため、「潜水艦を狩る駆逐艦が潜水艦に狩られる」という逆転現象が生じていた。
石光真清ーーロシア軍の極東方面進出に関する情報収集
東清鉄道(ウラジオストックーー)
吉長鉄道
安奉鉄道
京奉鉄道
東清鉄道南部支線(ハルピンーー長春)
南満州鉄道(長春ーー旅順)
八甲田の雪中行軍演習、弘前第8師団
広瀬武夫海軍少佐
「悉比利及満州旅行談」
朝鮮特需・・・
米軍は1952年からは完成兵器の発注を開始し、4.2インチ迫撃砲528門、81ミリ迫撃砲弾63万発、4.2インチ迫撃砲弾36万発、81ミリ迫撃砲用照明弾22,000発、発炎筒7万発などが発注された。また翌年には、各種榴弾・迫撃砲弾に加え、3.5インチロケット弾、バザーカ砲、銃剣、対戦車地雷、57ミリ無反動砲、75ミリ無反動砲などが追加された。
こうした完成品のほか、石炭、木材、セメント、組み立て家屋も陣地戦用に買い付けられ、役務ーー米軍の武器・装備の修理・調整・設定・点検・清掃などーーでは車両修理が首位を占めた。
米軍は、製品の品質管理や検査方式について高度な水準を要求したため、元受けだけでなく、関連会社、下請け会社に至るまで、他の分野の日本企業に先駆けて米国式QC:クオリティー・コントロール:品質管理が導入されることになった。
米軍は空爆の大規模化とともに、ナパーム弾・落下燃料用タンクを新明和工業、富士工業、新三菱重工、川崎機械などに発注したが、これに応じるために、各社はアルミ合金材料の製造加工技術を確立した。
1952年7月、セスナ機の分解・修理が昭和飛行機に発注され、翌年1月にはF-51 戦闘機の修理が川崎航空機に、6月にはB-26、C-46双発機の修理が新三菱重工に、空母艦載機の修理が日本飛行機に発注された。
人的な戦力を維持するうえで、傷病兵の治療は極めて重要な兵站支援の一部門である。
朝鮮戦争当時、連合軍の病院となっていたのは、東京の大東亜病院、京都の日赤病院、呉と佐世保の旧海軍病院など全国で14ヵ所あった。
朝鮮半島に対する航空作戦・空輸活動などの基地となったのは16ヵ所だった。
この中で最大規模の発進基地は嘉手納基地であり、ここから連日のようにB-29爆撃機が飛び立っていった。また、本土の基地で最大の航空作戦の基地となったのは立川基地であった。
「絞め殺し作戦==ストラングル作戦が行われなかったならば、敵は数倍の砲弾・迫撃砲弾を我々の頭上に送り得たに違いない。空爆は敵の戦闘能力を減殺した主要な要素となった。」
発電施設の90%を破壊
北朝鮮の重要兵站インフラである水力発電所に対しても空爆を実施した。
水豊発電所は、日本が満州・朝鮮への電力供給のために建設したもので、発電能力は当時世界4位の規模で40万kwと見積もられていた。
ダム破壊による洪水作戦
ダムの復旧には20万人の労働力を必要とした。
ダム破壊は他のいかなる爆撃よりも有効だった。
中国人民志願軍・北朝鮮人民軍の兵站に対するダメージは第1線戦闘部隊の戦闘能力を減殺した。
北ベトナム軍は、T-56およびPT-76戦車を投入
1956年2月のソ連共産党第20回大会で、フルシチョフがスターリンを批判してから、中国とソ連はイデオロギー的・国家的対立を始めた。毛沢東にしてみれば、建国の英雄スターリンに対する批判・否定は、やがて自分に対する批判に通じると感じたのだろう。
1963年から両国共産党の間での公開論戦となった(中ソ論争)。
中国はソ連指導部を「修正主義」、ソ連は中国指導部を「極左冒険主義」と非難。
中国は1966年に始まる文化大革命以後、「チェコ事件」や珍宝島事件により対ソ脅威感がつのり、1971年からは対米接近ーークニソン訪中。ソ連の軍事的脅威に対抗する戦略的配置を敷き、「社会帝国主義」ソ連を米国に代わる主要的に設定した。
フランスの植民地だったベトナムは、日本軍の仏印進駐によりその占領下に入った。1945年に第二次世界大戦が終わり、独立を宣言するもフランスの妨害を受けた。1946年からベトナムーーフランスの間で、第一次インドシナ戦争が始まったが、1954年にベトミンの勝利でフランスは撤退した。同年、ジュネーヴ協定で第一次インドシナ戦争は終結したものの、ベトナムは南北ベトナムに分断された。
サイゴン市内のカンボジア大使館前で焼身自殺とした僧侶について、大統領実弟のヌー大統領顧問の妻が「あんなものは単なる人間バーベキューよ」とテレビで語り、この発言に対してケネディー大統領が激怒したと報道された。
この発言は国内のみならず米国をはじめ、全世界で批判を浴び、南ベトナムではその後も僧侶による焼身自殺が相次ぎ、これに呼応してジエム政権に対する抗議行動も盛んになった。
湾岸戦争は米国の一極支配構造下の戦争ーー兵站・財政へのインパクト
湾岸戦争は1990年8月2日のイラクによるクウェート侵攻をきっかけに、多国籍軍の派遣を決定し、1991年1月17日にイラクを空爆して始まったせんそうである。
米軍はこのように兵力を戦場に派遣した国に対しては、寛大で協力的だった。
しかし憲法第9条を盾に自衛隊を多国籍軍として参加させなかった日本に対する態度は違っていた。29カ国96万人が戦争に参加するなか、米国にとって重要な位置を占める日本が「何もしない」というのは、いかにも不自然だ。これを国内的には「憲法のせい」とは説明できても、国際的には通用しない話だった。
ときの海部内閣は、「負い目」を感じ「金」で解決しようとした。
日本政府はクウェート侵攻から4週間後になって、多国籍軍への10億ドルの資金提供を決定した。しかしアメリカ議会では、日本側の回答が遅れたことと、貢献がこれでは不十分だという批判が相次ぎ、9月12ひ、「在日米軍の駐留費を全額日本が負担しない場合、米軍は段階的に撤退することを要求する」という決議案を下院が提出した。その脅しに対してあわてて2日後の9月14日、合計40億ドルを支援する決定をした。1991年1月24日には、日本は90億ドルの拠出を決定した。
90億ドルの支援を行う際、当時幹事長だった小沢一郎は「米国から要求される前に日本独自に方針を打ち出す必要がある。財政支援は最低で100億ドル、戦争がどうなるかわからないし、頭金みたいなものだ」と言い放ったという。
アメリカに支払う前に円安が進行し、アメリカ側から90億ドルを円建てで支払うようにと要請があり、のちに5億ドルが追加資金として支払われ、総計135億ドルを湾岸戦争のために支払った。
同時多発テロ
「ショー・ザ・フラッグ(日の丸:自衛隊)を見せろ」
時限立法「テロ対策特別措置法」
自衛隊の後方支援:兵站支援への道が開かれた。
湾岸戦争時には、インディペンデンス・アイゼンハワー・サラトガ・ジョン・F・ケネディの各空母が投入された。
「事前集積船」
湾岸戦争で使用した8隻の高速輸送艦は目覚しい働きをした。
戦車を戦場に輸送できるいC-17輸送機は素晴らしい財産であるが、現在のC-141では戦車は運べない。C-17は整地されていない滑走路に着陸できる。
ブッシュ大統領自らファハド・サウジアラビア国王に会って説得することで信頼を得る。
部隊と補給品の大部分はサウジアラビアに空輸するのが理にかなっていた。
サウジには3つの主要港があった。
東岸のダンマムとジュバイル、そして西岸のジッダ。
ファハド国王が「善意」をもって米軍駐留を認め、空港と港が使用できるようになったことで、膨大な兵員輸送と兵站支援も目処がつく。
国王は、「ホスト国」として米軍に対しさまざまな配慮をしている。
野菜や果物を低廉価格で最大の支援をするように調整してくれた。
米軍は戦闘用携帯食料としてMREという個包装されたレーション(携帯食)を準備していたが、生鮮食料品の供給やハンバーガーの出張サービスまで行っている。仮設プールまで作った。
湾岸戦争では米国は水面下で日本政府に、米軍軍需品:兵站支援をも要求した。
これに対して、日本は輸送を民間の海運業者に依頼した。民間業者はこれを拒否したことになっているが、実際には行われたという。「シービーナス号」と「きんすぷれんだあ号」が運搬を実施したという。