第二次世界大戦の緒戦で、日本軍は戦車部隊を駆使して大戦果をあげた。ヨーロッパの研究成果を導入した日本は、1920年代から30年代を通じて斬新な戦車を開発し、太平洋戦争に先立つ日中戦争を優位にすすめている。そして太平洋戦争が勃発してからは、主戦場を南方に移し、戦車は通過不可能と思われていたジャングル戦では見事な迂回機動で、マレー半島やシンガポール攻略に貢献している。しかし、戦争が長引くにつれ、軍需生産は海軍に集中するようになり、戦車の開発は停滞して、やがて時代後れの代物になってしまうのだ。詳細な写真とイラストで、日本軍戦車に迫る。
~~94式軽装甲車:TK車~~
タンケッテ(豆戦車)の存在は、東京瓦斯電気工業における新型車両計画、「特殊牽引車(TK車)の開発を促進した。
★東京瓦斯電気工業は現在の日野自動車の前身となる会社。1918年;大正8年に日本発となる自動車生産を開始した同社では1937年;昭和12年に、自動車部門と、自動車工業株式会社、共同国産自動車株式会社が合弁し、東京自動車工業株式会社を設立した。1941年にはヂーゼル自動車工業株式会社と改称した後、さらに翌年には、同社の日野製造所が独立して日野重工業株式会社になり、軍用装軌車を中心に生産に携わった。
例えば、95式軽戦車の生産コストが1両あたり98,000円、
94式軽装甲車の生産コストは1両あたり50,000円。
使い勝っても良いことから、TK車は牽引車ではなく軽装甲車として生産されることになった。
▲第二次世界大戦中に使用された大半の日本兵器には、制式化された年にちなんだ2桁の数字が与えられている。このとき使用する年号は神武天皇即位を紀元とする皇紀を元にしており、皇紀は西暦より660年大きな数字となる。つまり皇紀2589年は、西暦1929年に該当する。兵器に附されるのは下二桁の数字なので、皇紀2589年に制式化された中戦車は「89式中戦車」となる。
★日本の戦車生産、太平洋戦争1941~1945
97式中戦車(新砲塔チハ)930
合計 5,495
チハは三菱重工業、スイス・サウラー型直噴ディーゼル
97式57mm戦車砲
国内の軍需産業は、過酷な消耗戦に陥りつつあった海軍と航空機の要求を優先することになった。その結果、戦車生産そのものは1941年を頂点に減少の一途をたどったのである。
一方で、同盟国ドイツとの接触を保ち、ヨーロッパ戦線における戦車開発の現状を掴もうと努力していたが、技術移転は遅々として進まず、役にはたたなかった。
1943年にはドイツから50mm長砲身と75mm短砲身を搭載したⅢ号戦車を1両ずつ購入しているが、日本に届く頃には、その仕様はすでに陳腐化していた。
さらに43年9月には、パンターとティーガーを購入したものの、44年にはすでに日本への輸送手段は皆無だったのである。
1式中戦車チヘ(1944年に155台生産)
強靭で弾力性を備えた鋳造溶接式の甲板と、強力なエンジンを搭載した。
97式中戦車の改良
三菱重工業は同戦車の近代化を試みた。これの装甲は最大でも25mmしかなく、これではアメリカ軍の37mm砲やソ連の45m砲には対堪できなかったからである。
これを受けて正面装甲を改良して、装甲厚を50mmまで増加される試みが為された。
敵弾命中時に車内の乗員を傷つけかねない鋲接はとりやめになり、平面ボルトと溶接が用いられた。また車体重量の増加に対応するため、12気筒空冷ディーゼルエンジンが採用され、出力は従来の170馬力から240馬力まで増加した。
1943年になる頃には、97式中戦車系列では武装が貧弱すぎて、連合軍の新型中戦車には歯が立たないことが明らかになっていた。陸軍はベルリンからの情報でシャーマン中戦車に関する情報も掴んでおり、これが新型戦車開発を急がせる要因となっている。
三式中戦車は実戦配備にこぎつけた中では、最強の日本戦車であったといえる。
<新型中戦車の開発計画>
四式中戦車はエンジンが400馬力まで引き上げられ、主砲も五式7.5cm戦車砲を搭載。
装甲は75mm砲の直撃に耐えられるよう要求された結果、装甲防御力が強化され。車体構造も鋳造部品を溶接でつなぐ方式が採用された。生産計画は月産ベースで三菱重工業に20両、神戸製鋼に5両が割り当てられたが、終戦まで完成したのはわずか2両だった。
<海軍の戦車開発>
水陸両用戦車
1941年、三菱重工業のもと、特二式内火艇(カミ)の開発がはじまった。
95式軽戦車主要緒元
戦闘重量:8.1トン
エンジン:三菱製空冷直列6気筒ディーゼルエンジン
路上最高速度:45キロ
燃費:2.9リッター
燃料容量:104リッター、予備27リッター
兵装:98式37mm戦車砲(口径46.1)
97式7.7mm車載機銃×2
弾薬携行数:37mm砲弾130発
機銃銃弾3,300発
砲口速度:701/s
有効射程:2.9km
太平洋戦争の戦車戦
海兵隊が装備するM3、37mm対戦車砲に射すくまれて、ガダルカナル島での戦いはおわった。日本兵は適切な対戦車兵器を持っていなかったために、44年夏に一式47mm速射砲が大量に送られてくるまで、アメリカ軍戦車にさんざんな目に遭わされた。肝心の戦車も非力で、アメリカ軍M4シャーマン中戦車の装甲を貫通できなかったうえに、敵からの攻撃の前にはまったく無力だった。結果として、日本軍では戦車壕にこもらさせて脆弱な車体を隠し、アメリカ軍戦車を待ち伏せして、弱点である側面や背面を射撃する機会を待つほかなかったのである。
M3A1火炎放射戦車
口径59mmM1バズーカ
37mm対戦車砲
75mmカノン砲
海兵隊の戦車兵は、当初、95式軽戦車に対して徹甲弾が効果を発揮していないことに当惑したが、実際は命中した徹甲弾はそのまま反対側を綺麗に突き抜けていたのである。これに気づいた砲手は、榴弾に変更して日本軍戦車を粉微塵に吹き飛ばした。命中弾を受けた軽戦車の破壊状況は凄まじく、後の戦場評価ではいったい何両の戦車がこの反撃に参加していたのか判別に困難を極めたという。マリアナ諸島の攻防戦は、95式軽戦車が少なくとも10年は時代遅れで、役に立たないことを証明したのである。
M7プリースト自走砲:105mm榴弾砲
<最終本土決戦>
終盤戦、日本軍は本土決戦に備えて、新型戦車および最良の整備状態を維持した機工戦力を意図的に温存していた。1944年夏には千葉戦車学校に戦車第四師団が創隊され、また栃木の戦車第1師団も同じく第36軍に組み込まれている。1945年夏の時点で温存された戦車は2,970両を数えた。その後日本に進駐したアメリカは、日本の軍備をすべて破棄する決定を下した。
その結果、本土および朝鮮半島南部で発見された装甲車98両、軽装甲車633両、戦車5,286両はすべて破壊、解体されたが、半装軌車両および支援車両405両は日本政府に引き渡され、戦後復興に使用された。