最先端領域に宿る天才たちの壮絶なドラマ。歴史の背後に秘められた、暗号作成者と解読者の攻防―加速する情報戦争の勝者はいったい誰か?『フェルマーの最終定理』に続く世界的ベストセラー、待望の完全翻訳版。
銀行のオンライン網、ネット・セキュリティ、クレジット決済・・・・・現在もなお、数学の最先端領域では暗号作成者と解読者の攻防が続いている。暗号の進化史をわかりやすく解説し、情報化社会の未来までをも描き出す、『フェルマーの最終定理』に続く世界的ベストセラー、完全翻訳版で登場です
第1章 スコットランド女王メアリーの暗号
第2章 解読不能の暗号
第3章 暗号機の誕生
第4章 エニグマの解読
第5章 言葉の壁
第6章 アリスとボブは鍵を公開する
第7章 プリティー・グッド・プライバシー
第8章 未来への量子ジャンプ
Uボートによる無制限潜水艦戦でアメリカ参戦の可能性が高まるというなら、いや、あわよくばまったく介入できないようにしてやればいい。ツィンマーマンのアイディアはこうだった。
メキシコに同盟を提案したうえで、メキシコ大統領を説得してアメリカに侵攻させ、テキサス、ニューメキシコ、アリゾナの領土返還を要求させる。一方ドイツは、共通の敵であるアメリカとの戦いで、財政的、軍事的にメキシコを支援する。
1918年、ドイツの発明家アルトゥール・シェルビウスとその親友リヒャルト・リッターは会社を設立した。第一次世界大戦で使われた不備な暗号システムを刷新する。彼は紙と鉛筆の暗号を、20世紀のテクノロジーを駆使した暗号に置き換えようとした。アルベリティの暗号円盤の電気版ともいうべきものを開発した。シェルビウスの発明した機械は「エニグマ(謎)」と呼ばれ、史上もっとも恐るべき暗号システムになってゆく。
エニグマ機は、ワイヤーでつながれた3つの部分から成り立っている。
平文の文字を入力するためのキーボード
平文の各文字を暗号化するためのスクランブラー
暗号化された文字をランプで示すランプボードである。
エニグマ機の心臓部というべきスクランブラーは、ワイヤーだらけの分厚いゴム製の円盤である。ワイヤーはキーボードから出て、6ヵ所からスクランブラーに入り、スクランブラー内部でくねくねと曲がったのち、6ヵ所から反対側に出る。平文の文字がどう暗号化されるかは、スクランブラー内部の配線によって決まる。
キーボードに文字が打ち込まれて暗号化されるたびに、スクランブラーは1目盛りだけ回転し、そのつど文字は異なる仕方で暗号化される。このようにスクランブラーが回転することは、彼が設計した機械の最大の特徴である。
一般に、暗号作成者は繰り返しを避けたがる。
なぜなら、繰り返しがあれば、弱い暗号のしるしともいうべき規則性と構造が暗号文に現れてしまうからである。この弱点を補うには第二のスクランブラーを導入すればよい。
鍵や、鍵の載ったコードブックが敵の手に落ちるようなことがあってはならない。エニグマ機が敵の手に渡るという事態は大いにありうることである。しかし機械の初期設定がわからなければ、敵は傍受したメッセージを容易には解読できない。
そこで彼は自分の発明品の安全性を高めるために、初期設定の数を増やした、つまり可能な鍵の数を増やしたのである。
エニグマ機にあと2つの特性を与えることにした。
まず、スクランブラーを取り外して互いに交換できるようにした。
2番目は、キーボードと1番目のスクランブラーのあいだに挿入された「プラグボード」である。
「エニグマの捕獲」
「エニグマ・エミュレーター」
バーチャルなエニグマ機を操作してみることもできる。
鍵の数・・・を求めるには、可能なプラグボードの配線、可能なスクランブラーの配置、およびその向き(回転目盛り数)を掛け合わせればよい。
「スクランブラーの向き」・・・
3つのスクランブラーはそれぞれ26通りの向きに設定できる。
したがって26×26×26=17,576通りの設定がある。
「3つのスクランブラー(1,2,3)の配置には次の6通りがある」・・・
123、132、213、231、312、321
「プラグボード」・・・
26個の文字から6組のペアを選んでつなぐ方法は、
100,391,791,500という莫大な数になる。
総計:鍵の総数は、以上3つの数の積である。
17,576×6×100,391,791,500(一京)
スクランブラーとプラグボードを組み合わせることにより、彼はエニグマ暗号を頻度分析から守るとともに、この暗号機に膨大な数の鍵を与えたのである。
シェルビウスは1918年に最初の特許を取得した。
彼の暗号機は34×28×15cmのコンパクトな箱に収められていたが、重量は12kgと重かった。
エニグマ暗号は解読不能だと信じていた彼は、これだけ強力な暗号機は莫大な需要を生むにちがいないと考えた。一機の値段は、今日の金額にして2万ポンドだった。
「無線通信を英国に傍受、解読されていたドイツ艦隊の司令官は、英国司令官に対して、いわば手の内を見せて、ゲームをしていたのである」
ドイツ軍はこの大失敗を繰りかえさないための方策を調査し、エニグマ機を使うのが最善の策であるとの結論に達した。1925年、シェルビウスはエニグマの大量生産に着手した。
翌年、エニグマはドイツ軍に採用され、続いて政府や、鉄道をはじめとする国営の組織でも使用されるようになった。
それから20年間の間に、ドイツ軍は3万台を上回るエニグマを買い上げることになる。
シェルビウスはエニグマの成功と失敗を見ることもなく1929年に世を去った。
==エニグマの解読==
第一次大戦が終わってからも「40号室」の暗号解読者たちは引き続きドイツの通信を傍受していた。ところが1926年になって、傍受したメッセージの中にまったく解読できないものが混ざりはじめたのである。エニグマの到来だった。
ドイツはいまや、世界一安全な通信手段を手にしたのである。
しかし、のんびり構えてはいられない国が1つあった。---ポーランドである。
第一次大戦後に独立国家として再建されたポーランドは、東には共産主義の拡大を狙うロシアがあり、西にはポーランドに割譲した領土を取り戻そうとやっきになっているドイツがあった。これら2つの敵に挟まれて、なんとか情報を収集しようと必死になったポーランドは、新たに暗号局「ビュロ・シフルフ」を設立した。必要が発明の母だとすれば、逆境は暗号解読の母なのかもしれない。
「ビュロ・シフルフ」の成功は、1920年から21年にかけて起こったポーランド・ソビエト戦争での活躍ぶりを見れば明らかである。ところが1926年に入って、ポーランドもエニグマで暗号化されたメッセージに遭遇することとなったのである。
その商業用エニグマ機は、スクランブラーの内部配線が軍用のものと大きく異なっていた。
シュミットの裏切り行為のおかげで、連合国はドイツ軍用エニグマの正確なレプリカを作ることができた。「暗号機エニグマの使用法」「暗号機エニグマの鍵使用説明書」
しかしそれだけでは、エニグマによって暗号化されたメッセージを解読することはできない。エニグマ暗号の強さは、機械の秘密を守れるかどうかにではなく、機械の初期設定、つまり鍵の秘密を守れるかどうかにかかっているからだ。傍受したメッセージを解読するには、エニグマ機のレプリカだけでなく、傍受したメッセージを暗号化するときに使われた鍵を、百万の10億倍もある可能性の中から突き止めなければならないのである。この点について「暗号システムの安全性を判断するにあたっては、敵は機械を自由に使えるものと仮定した」
エニグマのオペレーターは、日々使用すべき鍵ーーこれを「日鍵」というーーを具体的に記したコードブックをひと月ごとに受け取っていたのである。
エニグマを攻撃するにあたってレイェフスキがとった戦略は、「反復は機密保護の敵」という事実に絞って徹底的に攻め抜くことだった。
暗号解読のプロセスを機械化した「ボンブ(爆弾)」は、暗号化のプロセスを機械化。
電撃戦とは、迅速かつ集中的に敵を攻撃する戦法のことで、大戦車部隊がいくつも連繋し、歩兵連隊や砲兵隊とも連絡を取り合いながら作戦を遂行する。さらに地上軍は急降下爆撃機「シュトゥーカ」の援護を受けるが、そのためには前線部隊と軍用飛行場とのあいだの通信が安全に行われなければならない。電撃戦の本質は「高速通信による高速攻撃」である。
イギリスとフランスは14年ものあいだ、エニグマ暗号は解読不能だと決め込んでいた。しかし、ポーランドがもたらした思いがけない情報のおかげで、エニグマ暗号にも弱点があることが明らかになったのである。ポーランドの快挙は、もうひとつのことも教えてくれた。暗号解読者として数学者を採用することがいかに有効かということだ。
こうして採用された新人たちが向かった先は、ロンドンの「40号室」ではなく、バッキンガムシャーのブレッチレー・パークだった。スタッフは当初200名にすぎなかったが、それから5年のうちには、7,000人の男女が収容されることになる。
24時間ごとに、イギリスの暗号解読者たちは同じ作業を繰り返した。毎日深夜12時ころ、ドイツのエニグマ・オペレーターは日鍵を新しいものに切り替える。この時点で、前日にやった作業はすべて無に帰し、新しい日鍵を突き止めるための作業に取りかかる。
ドイツ軍の英本土侵入をくい止めた「バトル・オブ・ブリテン」でも、暗号解読者はあらかじめ時刻や地点までつかんだうえで空襲警報を出すことができた。ブレッチレーはすべての情報をMI6(英国軍事情報部6課)の本部に送り、MI6はそれを陸軍省、航空省、海軍省に転送した。
エニグマ機は、第二次大戦中も進化を続けた。
暗号解読者たちはたえずボンブを改良し、新しい戦略を考えださなければならなかった。それでも彼らが成功できた理由の1つは、どの棟にも、数学者、科学者、言語学者、古典学者、チェスの名人、クロスワード・マニアといった奇抜な面々がそろっていたことである。
「臭いを嗅ぎわけようとする猟犬の群れ」
アラン・チューリング
はエニグマ最大の弱点を突き止め、その弱点を容赦なく責めたてた。困難をきわめる状況下でもエニグマを解読できたのは、チューリングのおかげなのである。
「幸いにも当局は、チューリングが同性愛者だということを知らなかった。
もし知っていたら、われわれは戦争に負けていただろう」
さらに15台のボンブが稼動するようになった。
それぞれの機械は、あたかも100万本の編み針のようにカタカタと音をたててクリブに食らいつき、スクランブラーの設定をチェックし、鍵をつきとめていった。すべてがうまくいけば、1機のボンブがエニグマ鍵を見つけるまでに1時間とかからなかった。
チャーチルは寄せ集めのこの集団が大いに気に入り彼らを
「金の卵を生む、鳴かないガチョウたち」と呼んだ。
チャーチルはためらうことなくこの要請に応えた。
《本日中に行動のこと。彼らが求めるものすべて最優先で与え、この件が遂行されたことを私に報告すべし》
これ以降、新人採用や物資に関する障害はなくなった。
1942年終わりには49台のボンブが稼動した。
クロスワードの得意な人は優れた暗号解読者になる可能性があり、ブレッチレーの科学者たちを補佐できるだろうと考えられていた。
◆コードブックの奪取
エニグマの通信網はいくつかに分かれていた。
たとえば北アフリカのドイツ陸軍は独自の通信網をもち、ヨーロッパとは違うコードブックを使用していた。同様に、ドイツ空軍も独自の通信網をもち、その通信文を解読するにはドイツ空軍の日鍵を突き止めなければならなかった。
通信網の中にも、解読の容易なものとそうでないものがあった。とくに解読の難しかったのがドイツ海軍の暗号である。それというのもドイツ海軍は、他よりも性能の高いエニグマ機を使っていたからだった。これらすべての要素が合わさって、ドイツ海軍のメッセージは事実上解読不能になっていた。
たくさんのUボートが連繋して攻撃にあたるこの戦略を成功させるには、安全な通信手段が必要不可欠だった。海軍エニグマはまさにそんな通信手段となり、Uボートの攻撃は、イギリスにとって命綱ともいうべき食料や武器をもたらしてくれる連合国の船舶に壊滅的な打撃を与えることとなった。Uボートの通信が安全である限り、Uボートの位置を知るすべはなく、護送船団のために安全な航路を計画することはできない。実際、イギリス海軍省がUボートの位置を突き止めたければ、イギリスの船舶がどこで撃沈されたかを調べるしかないというありさまだった。
1940年6月からの1年間にかけて、連合国は月平均50隻の船を失った。
それに加えて人的犠牲もすさまじかった。
大戦中に死亡した連合国側の船員は5万人に及んでいる。
「しかし、われわれが戦争をやり抜くことができるかどうか、いや、それどころか生き抜くことができるかどうかは、海上の交通路の確保と、港への自由な接近および入港にかかっていたのである」
気象観測船やUボートを襲うという大胆な方法でコードブックは奪取できた。
このとき極めて重要だったのは、エニグマのコードブックが連合軍に奪われたことをドイツ軍最高司令部に疑われないようにすることだった。もしも通信の安全性に懸念を抱けば、エニグマに手を加え、ブレッチレーまた振り出しに戻ってしまうだろう。たとえば、コードブックを奪取した後には、ドイツの船をちゃんと沈没させておくようにした。
こ
そこで連合軍は、Uボートのうち何隻かは逃がしてやるようにした。
攻撃を仕掛ける場合でも、数時間前にあらかじめ偵察機を飛ばしておき、駆逐艦が接近してもおかしくないようにした。
ブレッチレー・パークはイタリアと日本の暗号も解読していた。
これら3国の暗号文から得られる情報は「ウルトラ」のコードネームで呼ばれた。
しかしブレッチレーの業績は、戦後も厳重に機密にされた。
この戦争中に首尾よく暗号を解読したイギリスは、戦後も引き続き情報作戦を行いたいと考え、その優れた解読能力を世界に示すことには後ろ向きだったのだ。それどころかイギリスは、何千台ものエニグマ機を入手し、それらをかつて植民地だった地域に配給したのである。植民地の人々は、ドイツ人同様、その暗号は安全だと信じ込んでいた。イギリスはこの誤解を正そうとはせず、長年にわたって秘密通信を日常的に解読していたのである。
1954年6月7日、チューリングは青酸カリ溶液の入ったビンとリンゴ一個をもって寝室に入った。こうして、暗号解読における真の天才のひとりは、わずか41歳にして自らの命を絶った。
機械式暗号の真の強さと能力を示したのは、イギリスの陸軍および空軍が使用したタイペックス暗号機と、アメリカ軍が使用したシガバ(またはM-143ーC)暗号機である。この2つはどちらもエニグマ機よりも複雑だったうえに、使い方も適正だったため、戦争中には解読されることがなかった。
アメリカ、ロスに住むエンジニアのフィリップ・ジョンストン
彼は1942年のはじめに、子供時代の経験をヒントを得て、ある暗号システムを考え出した。
アリゾナのナヴァホ族保留地で子供時代を過ごし、ナヴァホの文化にどっぷり浸かりながら成長した。外部の人間にとってナヴァホ語がどれだけ難解かを熟知していたジョンストンは、ナヴァホ語が(他のどのアメリカ先住民の言葉でもよいが)解読不能の暗号になることに気づいたのである。もしも太平洋戦線の各部隊が、無線オペレーターとして2名ずつのアメリカ先住民を採用すれば、通信の安全性が保証されるのではないだろうか?
2人のナヴァホ族には離れた場所にいてもらい、一方のナヴァホ族には英文で書かれた典型的な6つの通信文を渡した。彼はそれをナヴァホ語に訳し、無線で仲間に伝える。受信する側のナヴァホ族はそれを英語に直したものを将校に手渡し、将校はそれをもとの通信文と比較した。ナヴァホの言葉によるメッセージの伝達は、まさに完璧といっていい正確さだった。
すぐにもナヴァホ新兵を入れるように命じた。
しかし新兵を入れる前に、試験プロジェクトをナヴァホ族でやるか他の部族でやるかを決めなければならなかった。選択の基準としてもっとも重要なのは、単純な数の問題だった。海軍としては、英語が話せて文字の読み書きもできる成年男子がたくさんいる部族を選ぶ必要があった。
ナヴァホ族は大きな部族だが、読み書きのできる者はきわめて少なかった。
「ナヴァホ族は、過去20年間にドイツの学生が入り込んでいない唯一の部族である。ドイツ人は、学生や考古学者などを装ってさまざまな部族の言葉を調査しており、ナヴァホ以外のすべての部族の言葉については、実地に使用できる知識を得ているとみて間違いない。またナヴァホ族の言葉は、他の部族や他の人間にはまったく理解不可能だという点も注目に値する。例外は、この言葉を研究したことのある28人のアメリカ人のみである。この言葉は、敵にとっては秘密の暗号にほかならず、迅速かつ安全な通信を行うという目的にみごとに合致する
アメリカが大戦に参戦した当時、ナヴァホ族は苛酷な条件のもとに暮らし、劣等な種族として扱われていた。それにもかかわらず、ナヴァホ族の部族会議は戦時協力を支持し、国家に忠誠を尽くすことを宣言したのである。「アメリカ先住民諸部族の中で、これほど親アメリカ主義が色濃く存在している部族は他にない」そんな彼らのことだから、暗号兵候補を集めるにも何の問題もなかった。後に暗号兵たちは「ナヴァホ・コードトーカー」として知られることになる。
海兵隊は、ナヴァホ語に翻訳できない言葉についてはナヴァホ語の用語集をつくり、誤解の余地をなくそうとした。それぞれの軍事用語に対して、その意味を連想させるようなナヴァホ語を選ぶことにした。飛行機には鳥の名前が、船には魚の名前が用いられた。こうしてできた用語集には274の単語が含まれていたが、人名や地名などの固有名詞をあらかじめ用意しておくのは難しい。この問題を解決するために、1組のフォネティック・アルファベットが考案された。
コードトーカーたちは8週間の訓練期間中に用語集とアルファベットを完全に覚え込んだため、敵の手に落ちる恐れのあるコードブックを作る必要はなかった。
ナヴァホ族の人々にとって丸暗記はお手のものだった。
というのもナヴァホ語には書き文字がなく、民話や家族の歴史はすべて記憶するのが当たり前だったからである。「ナヴァホでは、すべては記憶の中にある。---歌も、祈りの言葉も、何もかも。われわれはそうやって育てられたのだ」
訓練の仕上げとして、ナヴァホ族の男たちは試験を受けることになった。
送信者は一連の通信文を受け取り、それを英語からナヴァホ語へ翻訳して送信する。
受信者は、記憶してある用語集とアルファベットを使いながら通信文を英語に戻すのである。
試験の結果は完璧だった。
すでに日本の暗号「パープル」の解読に成功していた海軍情報部だったが、その彼らが3週間をかけて必死に取り組んだにもかかわらず、ナヴァホ暗号は解読できなかった。
「軟口蓋音や、鼻音や、舌のもつれるような音が続く奇妙な言葉で・・・解読するどころか書き取ることさえできなかった」
残る27人のコードトーカーたちが4つの連隊に配属されて太平洋戦線に向かった。
言葉を武器にしたナヴァホ兵たちの戦いぶりは、ナヴァホ族を英雄にした。
他の兵士たちは、ナヴァホ兵のために無線やライフルを担いでやり、ナヴァホ兵には護衛がつけられたほどだった。護衛がついた理由の1つは、仲間の兵士から彼らを守るためである。少なくとも3回、日本兵と間違えられてアメリカ兵に捕らえられている。
「ナヴァホ兵がいなかっらた、海兵隊は硫黄島を占領できなかっただろう」
ナヴァホ・コードトーカーは総勢420人になっていた。
通信の安全を確保するという特別な任務を果たしたことは機密とされた。
米国政府は任務について語ることを禁じ、そのかけがえのない貢献が世間に知られることはなかった。そして合衆国政府は1982年8月14日を「ナヴァホ・コードトーカーの日」と定め、その栄誉を讃えた。日本軍の情報部長だった有末精三中将が認めたように、米国空軍の暗号を解読した彼らも、ナヴァホ暗号には手も足も出なかったのである。