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赤裸々に戦国武将の心を暴き、読者を惹きつける人気作家の最新作!
手に入れた天下を死後も、どう無事に守り、保ちつづけるのか―戦国を勝ち抜いた“怪物”が辿り着いたこたえとは?
家康の真の野望とは? 「岩井三四二に外れなし」と言われる作家の真骨頂!
耳たぶなどは常人の倍はあり、顔の両側に小さなつららのように垂れ下がっている。
事実、家康は天下人であると同時に、蓄えた金銀の量でも天下一だった。秀吉が在世当時でも、秀吉より多くの金銀を所有しているといわれていたほどである。
ここ駿府に隠居した際には、非常時のためにと金3万枚、銀1万3千貫目を江戸城にのこる秀忠に贈ったが、それも家康の財産のほんと一部にすぎない。駿府城のほか、伏見城や駿河久能山にもうけた金蔵などにその数倍の金銀を置いている。
富のあるところに権力がある、というのが家康の終生変わらぬ権力観だった。
駿府城の縄張りを何倍にもした。
その上で濠(ほり)と城壁をすべて頑丈で美しい石垣造りにし、本丸の天守を5層7階に改築するなど、大きく豪華に造りかえたのだ。
隠居したといっても、領地の年貢収納には目を光らせ、年貢皆済状(かいさいじょう)には自分で花押(かおう)を書くなど、まだ日常の仕事は残している。
内裏(だいり)
ほどよく酒が回ったところで、
「今宵は気分がよい。あれを出せ。それ、松前から到来したものがあったであろう」
と晩酌に付き合っていた阿茶局(あちゃのつぼね)に命じた。
皿にのっている黒いものは、松前伊豆守から献上された海狗腎(かいくじん)、
オットセイの睾丸や陰茎を干したものである。
常用薬である八味丸に入れて海狗腎を飲むのだが、そのものを食べても効くと聞いている。
口にふくむ。
苦く、けものの臭いがした。
顔をしかめつつ酒で胃の腑に流し込んだ。
「伽羅(きゃら)を焚いておきましょうか」
南洋産の貴重な香木の濃密な甘い香りが精力を高めるのである。
久しぶりに男として役が立つかどうか、72歳の家康は心配だった。
毎晩のように側室たちと共寝をしてきたが、最近はひとり寝ばかりだった。
修験者は山伏ともいい、山中で修行を積んで悟りを開こうとする宗教者である。
里にあっては祈祷や薬草による療治で人々にかかわり、帰依する者も多い。
また昔から諸国往来の自由をゆるされていたので、戦国の世にあっては大名たちの偵察や連絡役、いわゆる忍びの者として活躍した者も多かった。
世を治めるにあたって、こうした者を放置しておくのは危険だ。
もともと修験道には、真言系の当山派三宝院と天台系の本山派聖護院のふたつがあり、この時期、それぞれが縄張りを主張して幕府に訴え出てきていた。
そこで家康は、いずれの主張も認めることとし、修験道の本家をふたつ作った。
そして修験者はどちらかの系統に属せねばならないことにした。
つまり修験者の勢力をふたつに割り、互いに牽制するようにさせた上で、それぞれに修験者を管理する責任を負わせたのである。あとはふたつの本家を見張ってさえいれば、幕府は修験者を恐れることはないのだ。末端の修験者たちは自由を奪われて不満だろうが、上流の者たちは、その地位を保証されたと歓迎している。
僧侶である天海が神になるのをすすめるのは、神仏混淆のこの時代には奇異な話ではない。
仏の弟子である菩薩が、神と同じに扱われていたのだ。
数百人の兵に護られ、牛に引かれて5問の大筒は試射場へ向かった。
もちろん家康も見物に出かけた。
イギリス側の記録には、カルバリン砲4門、セイカー砲1門、火薬10樽を家康に売り渡したとある。カルバリン砲の名は、ラテン語の「へび」からきている。
名のとおり砲身が長いため射程距離も長く、また正確な砲撃が可能だった。
セイカー砲はより小型で、口径9センチ前後で重さ3キロほどの砲弾を撃ち出した。
まおセイカーは「鷹」を意味する。
ーーーこれは使える。
いや、天下の何十万という軍勢に加えてこれほどの武器があれば、どんな敵にも負けることはない。「望みどおりの武器じゃ。代金は城で受け取るがよい」
「これで大坂は片付くな。さっそく手を打て、もう仕掛けてもよいぞ」
大坂は、もう心配ない。これで武士で自分に逆らう者はいなくなる。となれば武士だけではない。天下のすべての者を自分の前にひれ伏させることができる。駕籠の中でひとりになると、自然に頬がゆるんできた。
寺院のもつ武力は、信長と秀吉の時代にほとんど削られてしまったが、いまなお寺領という形で領地をもち、信徒という形で潜在的な兵力をもつ。そして僧侶たちの弁舌と文章力も武器になり得る。検地によって寺領を把握し、寺院勢力の喉元は押さえているが、それでもまだ不安は残る。この勢力を、いまのうちに抑え込んでおきたい。
幕府にとって京の五山の価値は、外交・行政文書に使う漢文の作成・読解者ということろにある。五山だけではない。キリシタン禁制のほうもぬかりなく推し進めている。
宗教勢力を抑え込んだら、つぎは朝廷と公家どもだ。
「いずれ公家どもも勝手なことをせぬよう、法度で縛らねばな」
武士、朝廷と公家、僧侶の3つを抑えておけば、天下の勢力はすべて徳川家に従うことになり、その威勢は当分揺るがないだろう。
織田常真入道と面会した。
「これは、お久しゅう」
と頭を下げる坊主には、高い鼻に切れ長の目など、織田信長の面影がある。
信長の次男、信雄(のぶかつ)の出家した姿である。
淀都のふたりの妹のうち、末の娘は将軍秀忠の正妻として江戸にいる。
すぐ下の妹は若狭万石の領主、京極高次に嫁いだが、高次の死後、仏門にはいって常高院と称し、京で気ままに暮らしていた。たまたま大坂城の姉のところに寄っていたおりに合戦となり、そのまま城内に留まっていたのだ。
備前島から撃ち出したカルバリン砲も一弾は、淀殿がいた建物に飛び込み、側にはべっていた女房7,8人を一瞬にして打ち倒したという。土煙と女たちのうめき声、女童(わらわ)の泣き声に包まれた淀殿は、そい以後砲撃におびえ、早く和議を結ぶように秀頼をかき口説くようになったとか。
「関が原のように西国の大名ばかりに手柄を立てさせると、あとで褒賞として領地をやらなければならなくなるからな。もう椀飯振舞(おうばんぶるま)いはせぬぞ」
外様大名が褒賞で膨れ上がって大きな領土を持つのは避けたかったし、そもそも勝つとわかっている合戦なのだから、なるべく内輪の戦力ですませようとしたのである。
精強をうたわれた徳川家の旗本勢も、いまでは戦場を踏んだことのない素人集団に成り下がっていた。千軍万馬の古強者(ふるつわもの)といえる者など、総大将の家康ひとりといっていい。そんな軍勢でまともに戦えるのか、という不安が頭の隅にある。
現に昨冬の陣では、真田丸を無理攻めに攻めて大きな損害を出している。戦場巧者ならば危ういと見切って早めに引くところでも、経験のない将兵ばかりだからなかなか引けない。そのうちに敵陣に深入りして、矢弾を浴びてしまったのだ。
元亀天正(げんきてんしょう)のころの、徳川家が苦しかった時代をともに戦った近臣たちは、いまや誰も残っていない。みな子や孫が参陣するばかりだ。ひとり自分だけが長命し、また戦いにのぞもうとしている。つまるところ、天下でたったひとり、選ばれてあるのだ。そう思うと満たされた気分となり、つい恍惚としてしまう。
緑の色も鮮やかな笹にくるんだ粽(ちまき)
京を焼き払わんとしておると風説じゃ。
都はもってのほかの騒擾(そうじょう)ぶりと聞くぞ」
秀吉の千成り瓢箪の馬印
軍勢をとめて首実検をした。
敵将、木村長門守の首からは伽羅(きゃら)の香りがし、周囲の者は感嘆した。
討ち死にを覚悟しての出陣だったと知れたのである。
家康は長門守を討ち取った者に金10枚を与えた。
跡取りの秀忠は愚直で知恵はないが、まだいくらかの覇気がある。
孫は殿さま然と育ったのか、覇気すらないようだ。6男の忠輝は勇敢なはずだが、なにを考えているのかわからない。子孫の無能さが心配になってきた。草創の1代目が傑物でも。子や孫は凡庸なことが多いという。「貞観政要(じょうかんせいよう)」にある通りではないか。
迫ってくる旗印は、赤一色だ。
「真田勢か」
信じられない光景だった。
敵に倍する軍勢を率いてきたはずなのに、本陣まで斬り込まれるとは。
「裏崩れしたぞ! お味方より裏切りが出たぞ!」
裏崩れとは敵とあたる正面でなく、後方から兵が逃げてゆくことだ。
ーー命と引き替えに役目を果たせ。この穀潰(ごくつぶ)しどもが!」
いざというとき、主君の楯がわりになるためではないか。
ーーこんな目にあったのは、三方ヵ原以来か。
武田勢に追われ、浜松の城まで必死で逃げたものだ。
今日はよほど多くの討ち取りがあったと見えて、首を持ってくる者があとを絶たなかったが、夏場のことで腐臭を発する首も多い。
「もうほかの首はよい。真田と御宿の首だけ持ってまいれ」
と命じた。大坂方の柱となった大将の首だけは確かめかったのである。
すると真田左衛門佐、御宿越前守を持ってきた。話を聞くと、相手が疲れ果てていて戦うまでもなく突き伏せており、拾い首同然の状況だとわかった。討ち取った者に褒賞を手渡すことはしなかった。むしろ精根尽きるまで戦った敵を讃えたい気分である。
「かような大いくさのあとは必ず大雨が降るものよ」
枚方あたりで予見のとおり雨になったので従者たちは感心したが、千軍万馬の家康には不思議でも何でもない。
「なんと、秀頼に子がいたのか」
側室に産ませたが、千姫の手前、秀頼や淀殿が隠していたようだ。
「それはいかん」
頭に浮かんだのは、平家没落の例である。
平治の乱で打ち負かした源義朝(みなもとのよしとも)の子を殺さず、流罪か寺に入れてしませてしまった平家は、のちのその子らに滅ぼされた。徳川家もその二の舞にならないとも限らない。10日ほどして8歳の男児を捕らえたと報告があった。
「娘は尼にせよ。男児は洛中を引き回した上、首を斬れ」と命じたのは、禍根を断つと同時に秀吉を貶めるためでもあった。秀吉という神、豊国大明神にまったく神威がなかったことを示すのに、これほどよい材料はない。
8歳の男児ーーー国松といったーーーは、車に乗せられて洛中を引き回された上、六条河原で首を斬られた。哀れなり、大御所さまも酷いことをする、という風評が京大坂に流れたが、家康は気にしなかった。
その後、家康は3月ほど京に居すわって、法令の整備に力を入れた。
いまこそ絶好の機会である。
まずは曹洞宗法規、五山十刹諸山法度など、僧侶が従うべき法を定めた。さらに公家や内裏(だいり)を抑えるため、禁中並公家諸法度を制定した。大名や旗本たちには武家諸法度をつくり、新規に城をかまえたり、勝手に婚姻したりすることを禁じた。
いずれの法度も、やるべきことと、やってはならぬことを明文化し、禁を犯せば罰すると規定している。個人の力量に頼らなくとも、幕府の支配が永続するような仕組みを作ったのだ。
この大坂の陣で明らかになったのは、傍若無人で家康の言うことさえ聞かない忠輝の姿だった。
はやり忠輝は危険な男だ。
息子を罰すれば徳川家の失態を世間にさらすことになり、将軍の権威を傷つけ、ひいては徳川家の天下が揺らぐ。しかし放っておくと忠輝は増長するばかりだろう。
「わかった。では領地はそのままとしよう。だが以後、対面を許さぬ。忠輝は勘当だわ」
対面できないとなれば、幕府の一切の行事に出られない。
また次に改易や配流などの処罰が待っていることを意味する。
竹千代こそ次の将軍であり、国松は竹千代の臣下となる。
もしも国松が天下を望んだら、徳川家は混乱する。
竹千代の乳母に聞いたところでは、秀忠、お江与の夫婦は国松を溺愛し、竹千代にはまったく目をかけていないという。
「死んで年月が経ち、世の中に顔や声を知る者がいなくなったとき、はじめて神として崇められるのじょろ。神の生身のときを知る者がいては、なかなかありがたく思えぬわな」
そもそも朝廷の権威の源はといえば、皇族がアマテラスオオミカミの子孫だという点にある。
神の子だから尊いのである。ならば徳川家も神の子孫になればよい。
家康が神になれば、家康の血をひく者はすべて神の子孫になる理由である。実現すれば、徳川家の天下は永続するだろう。
その結果、葬儀を取り仕切るのは梵舜と決まった。
つまり、仏式の葬儀は浄土宗の増上寺で行い、それとは別に遺骸を久能山にもっていって神にする儀式をせよ、そして神になったのち、関八州を見渡せる霊場、日光山に鎮座させよというのである。
いよいよ死が迫ると、自分の愛刀である三池光世(みいけみつよ)の刀を駿府奉行の彦坂九兵衛にあずけ、死罪となった罪人がいれば試し斬りせよと命じた。
「仰せのごとく罪人を斬りましたるところ、心地よく土壇まで斬り込んでござりまする」
自分の死後のことをそこまで細々と指示したのち、家康は逝った。
元和(げんな)2年(1616)4月17ひ巳刻(午前10時)だった。
その夜は小雨が降ったが、遺骸は夜中に、近臣数名と梵舜、天海らが静かに久能山に移した。
神になるためには、遺骸を人に見られてはならない。
ために側近の者だけで運んだのである。
死の1年後、家康は遺言のとおり日光に祀られた。
神号は東照大納言。
内裏から示された東照、日本、威霊、東光の4つの案から将軍秀忠が選んだものである。
神号が大明神でなく大権現となったのは・・・されているが、家康にとってはどちらであっても大した問題ではなかったろう。
ともあれ家康は望みどおり神となり、俗世と神仏の世のふたつににらみを利かせる地位についた。そしてそのまま250年ほどのあいだ、子孫と徳川家の天下を守り続けたのである。
思うに家康は望みは一貫していて、自分と自分の子孫がよりよい状態で、より強く生きることだけだった。ただそのための方法が、三河の弱小大名であった前半生においては他人によく思われることーーすなわち「律儀者」になることーーであったのに対し、関が原以降、天下人となったのちは、他人を押し潰してでも自分の思いを遂げる強引なものに変わっただけである。