チェス盤を前にしたカルスキの銅像は、彼が40年にわたって講義を続けたワシントンのジョージタウン大学のキャンパス内にある。ヤン・カルスキはポーランド人が亡命政府へ、またユダヤ民族が世界へ向けて送った特使であり、まだ止められたかもしれない時期にユダヤ民族の絶滅作戦を警告した人である。イスラエル政府より(諸国民のなかの正義の人)に列せられ、ポーランド国民にとって英雄、ジョージタウン大学の教授であったこの気高い人物は、「我々と共に生き、そこにいることで我々を高めてくれる正義の人であった」という碑文も添えられた。
決意と不撓不屈(ふとうふくつ)の精神がうかがえる。
「絞首刑を手伝わなかったからって恥じることはないの!
こういうことは筋肉と丈夫な胃を持つ田舎育ちの者にしかできないんです」
民間レジスタンス総局・・・
彼らはポーランドから売国奴と対敵協力者を一掃する役目を負い、対敵協力の疑いで告発された者を裁いて刑を宣告、それが正しく執行されるよう監視する。さらに、総局には恥辱刑もしくは死刑を宣言する権限も与えられた。
死刑は、積極的に対敵協力をするか、レジスタンス構成員に損害を与えたと立証された場合に宣告される。判決に上訴を申し立てることは不可能であり、刑は必ず執行される。
誰かを怪しいとにらんだら、まずゲシュタポは住宅局にて住所を手に入れ、そこから深夜を待って逮捕する。正式な住所に住まずそこの家主と連絡をとりつづければ、捕まる危険を冒すことなく、自分がゲシュタポに狙われているかどうか知ることができる。
とくに危険な任務に携わる者は青酸カリのカプセルを携行するよう指示がだされていた。
地下活動の掟は、自分の活動内容を打ち明ける相手を可能な限り増やさいないこと、
それは自分の安全と同時に組織のためである。
ドイツ人は、軍の駐屯基地だったところを、この地球上で最も恐ろしい場所のひとつに変えてしまった。看守たちのほとんどは、そのためにわざわざ選抜された変質者であり、あらゆる種類の犯罪者、同性愛者だった。ことに犯罪者の場合だと、囚人に対する残忍さを誇示すれば、それに比例して自分の刑が軽減されると約束されたそうだから、それでやる気を出していたという。
ドイツの意志によって貧窮したポーランドは、もはや国民全体が栄養不足に脅かされるところまで追い詰められていた。占領当局は農村地域から都市部へ農産物の持ち込みを禁じており、それは自分たち向けの完全徴用をたやすくするためだった。
都市の住民には配給食糧の切符が支給されたが、割り当ては最低限必要な量にも満たないので、健康を維持できる人間などいやしない。すると、大多数の市民の収入レベルをかなり上回る値段であっても闇市は不可欠となる。
パンやジャガイモなどの一般食品の値段は1939年の30倍、ベーコンが60倍。
最も貧しい家庭の献立といえば、おがくずで量を膨らませた黒パンのみ。
ゲシュタポの憲兵は列車を徹底的に検査、その有能さたるや苛酷なものだった。
見つかった品物は、少しばかりの食品でしかないのに没収された。
女たちの大きなスカートの下から小麦粉袋を引っ張りだし、ブラジャーに隠したベーコンさえださせた。まるでイナゴの大群に襲われたかのように、列車全体から食料品が消えてしまった。
★1940年から43年にかけて、ワルシャワ住人は大人一人当たり1日、358~784カロリーしか摂取できなかった。民間ドイツ人は2,631カロリー、ポーランド人が669、ユダヤ人は253である。
ゲシュタポという警察機構は、盲目的かつ絶対的な恐怖、逮捕者に対する非人間的な対応、そして創作された恐怖をもとに評判を築きあげる。
平均的なドイツ人警官とは、ほとんどが無教養の加虐性変質者:サディストであるだけでなく犯罪者でもある。1942年時点で、ゲシュタポはポーランドだけで6万人もの隊員を数えた。
嗜虐の怪物ゲシュタポとナチス・ドイツ占領当局には、彼らが犯した無差別殺人および、わたしたちや無防備のユダヤ人に忍従を強いたそのすべてを償わせなければならない。
あの変質者集団がツケを払わない限り、正義が世界に君臨することなどあり得ないのだ。
地下活動をするには、女性が最も適していると思う。
女性というのはおしゃべりで秘密を守れないとの定説があるが、その分を補って充分なのが、地下活動に欠かせない彼女たちのすぐれた資質である。
危険をすばやく察知するし、不幸に見舞われても男たちのようにいつまでもくよくよしない。人目につかないし、おおよそ慎重で無口、良識を備えている。
男たちは、おおげさだったり強がったりと、往々にして現実を直視しない傾向がある。
何か謎めいた雰囲気を漂わせてしまうので、遅かれ早かれそれが致命傷になる。
地下活動に携わる者が忘れてはならない重要な原則は、可能な限り自分の住まいを任務から無関係にしておくことだ。
女性連絡員と彼女が住むアパートは、特別監視班により厳重に監視されている。
女性連絡員の活動「寿命」は数ヶ月を超えない。
ほとんどの場合、任務について言い逃れできない状況でゲシュタポに捕まるのは避けがたく、彼女たちは監獄でナチの獣じみた残忍な拷問を受ける。彼女らの多くは毒薬を携帯し、窮したときにはそれを用いるよう指示されていた。彼女らの運命が最も無残であり、支払う犠牲、それが報われない点でも最大といってよい。ひっきりなしに任務に追われているから、いつか捕まるのは目に見えている。
22歳の若い女性連絡員のその結末を知ることができた。
ゲシュタポの猛り狂った野獣たちは、彼女を全裸にしてから板の上に寝かせた。
手足をそれぞれを鉄製フックに縛り、樹脂製の警棒で性器を犯したという。
監獄からの秘密メッセージには
「やつらが彼女を運びだしたとき、下半身はぼろぼろになっていました」とあった。
翌朝、彼女たちは監房の天井から首を吊って死んでいるのを見つけた。
ブラウスのベルトを使っていたが、だれもいっさい物音に気づかなかった。
揺るぎない死の決意と、苦痛をものともしない強靭さで、彼女はうめき声ひとつ、最期の苦悶でも足をばたつかせて壁を蹴るようなこともしないで死んだ。
しばらく後、そんなことが可能か医師に聞いてみた。医師は否定的だった。自殺する者は必ず気を失うが、その前に生存本能が働くものだ、と彼は言った。ということは、強靭な意志が本能の働きを阻止したと考えるほかない。
通常、レジスタンス運動の指導者たちの妻は構成員として登録され、変名も与えられていた。
夫の正体が暴かれてしまえば、いっしょに逮捕される。妻がいっさい組織に無関係であろうと、ゲシュタポは夫が白状しない情報を得ようと、妻の方にも拷問にかける。これら不運な女たちも殉教者の列に加わってしまう、気高い心と勇気のある男の妻であったという理由で。
「3年もやってますよ!わたしの得意な仕事ですから。周囲の光景に溶けこんでしまう能力がわたしにはあるんですって。わたしはあんまり頭がよさそうに見えないから、好都合なんだそうです」
5ヶ月間の訓練を終えると、優秀な者は選抜され、森林や山岳、湿地帯に潜むマキ(ゲリラ部隊)のもとで見習いをさせられる。
1942年秋、ドイツ当局が総督府内における毛皮とウール地すべてを没収して東部戦線に送った。「やっと身体が温まったから、もう死んでもかまわない」
「ただそこには、もはやわれわれユダヤ人系住民はいません。われわれの民族全体が消えてしまっているでしょうから。ヒトラーは人道と善、正義を敵に回した戦争には負けるでしょうが、われわれには勝つんです。勝つという言葉は適当な言葉ではありませんね。あの男は単にわれわれを殺戮し果たすのですから・・・」
「絶滅作戦は事実なのです。ドイツ人は、ポーランド人、あるいはほかの被征服民族をそうしたように、わたしたちを奴隷にしようとしているのではない。彼らが望んでいるのは、ユダヤ人をすべて絶滅させることことなのです。明らかな違いはそこにある」
「わたしたち全部がこの世から消えてしまうのです」
「ごく少数の者が生き残るかもしれない。しかし、300万人のユダヤ系ポーランド人が絶滅を宣言されました。ほかにも、全ヨーロッパからポーランドに送られてくるユダヤ人たちも同じ運命にある。全連合国はそのすべてに責任を負わなければなりません。ユダヤ人への実質的な支援は、国外からしかありえないのです」
これがわたしの伝達すべき自由世界へのメッセージである。この不幸なふたりが悲愴なメッセージをわたしに託している時点で、ナチはすでに185万人もの殺戮を果たしていたのだった。
ワルシャワ・ゲットーについて、あれは墓地だったのか?
違う。まだあれら身体は動いていて、時たま痙攣を起こしていたから。まだ生きていて、でも身体を包む皮膚、目、声をのぞけば、あの脈動する形状に何かしら人間らしきものはもう残されていなかった。辺りを見回すと、飢え、苦悶、腐乱死体の恐ろしいにおい、死ぬ間際の子供の空気をつんざくような泣き声、勝ち目のない理不尽な戦いに身をなげうった人々の絶望の叫びがあった。
かつて男や女であった人の影がわたしたちの周りをうろつき、だれかを、あるいは何かを探し求めているかのように、飢えて空虚な目を光らせる。すべて、人も物も、ここでは永久運動であるかのように震えつづけている。
「どうしてなんです?どうして裸なんですか?」
「誰かが死ぬと、家族は服を脱がせて、遺体は外に捨てます。そうしないと、ドイツ人に法外なお金を払って埋葬しなければならないのです。それと、衣服も回収できるでしょう。どんなボロ切れでもここでは大切なんです」
「そうじゃありません。年寄りはもういないのです・・。みなトレブリンカに送られてしまいました。たぶん、もう天国でしょうか。ドイツ人というのはね、あなた、実利的な民族なんですよ。まだ筋肉があって労働に適する者たちは強制労働に使える。残った者は、カテゴリー別に別けられて駆除されるんです」
★ナチス当局が「大作戦」と名づけたワルシャワ・ゲットー住民の大移送は、1942年7月22日午前11時、貨車がトレブリンカ絶滅収容所に向かってゆっくりと動きだすことで始まった。
毎週2回、同じような貨物列車がベウジェツ絶滅収容所にも向かった。ドイツ側の資料によれば、46日かけて25万3,742名のユダヤ人が移送されたとある。ユダヤ人による記録だと、30万人以上がゲットーから消えたとある。
欧州におけるユダヤ難民について協議するはずの英米両国「バミューダ会議」が、何もしないことを決定。43年4月19日。一方、ワルシャワではゲットー蜂起が悲劇的な結末を迎えつつあった。
「わたし自身の死をもって、ユダヤ民族の完全な抹殺を座視する世界の無気力に抗議したく思います。もしかしたら、わたしの死によって、まだポーランドのユダヤ人を救える人々の無関心の鎖を断ち切ることが可能かもしれないので」
あと500mというところで、号令や悲鳴、銃声まで聞こえてきて、近づくにしたがい叫び声が聞き取れるようになった。
「べつに珍しいわけじゃない。今日の《出荷》準備が始まっただけだよ」
それが今は、ゲシュタポに頭を抑えつけられ、ナチどもにおだてられ、多くの似たような者たちのなかで際限ない貪欲さを競っている間に、専業の処刑人に変身してしまった。すべてが計算と取引の対象となり、職人同士が仲間うちで使うような《業界用語》まで身につけてしまっている。
堆肥とか腐肉の強烈なにおいがしているように感じた。
木立を過ぎた向こうは、もう痛ましいどよめきと嗚咽に満ちた恐るべき絶滅収容所である。
収容所は四方を高さ2.5mの有刺鉄線の柵で頑丈に囲まれている。
柵の内側には、ほぼ15mおきに銃剣で武装した看守が立っている。
柵の外側を、50m間隔で見張りが巡回を続けていた。
そこにいて、飢え、悪臭を放ち、わめいている囚人のありさまは、見るも無残な人間の集合体だった。ドイツ兵と看守は、その群れのなか、銃床を振り回して縫うように進むのだが、まるで家畜の群れを相手にしているようで、その煩わしい日常業務でうんざりしているというのが見え見えだった。
手を振り回し、叫び声をあげ、言い争いを始めてつばを吐きちらし、神を罵った。
飢えと渇き、恐怖、極度の疲労が常軌を逸した行動をとらせていた。3,4日もここに収容されていて、一滴の水、一片のパンさえ与えられていないという。
全員が各地のゲットーから送られてきた。
連行されたとき、ひとり5キロの荷物を持ってきてもよいと言われた。多くは食物と衣類、毛布、そして富裕な者は現金と宝石も持ち出した。列車の中で、価値のありそうな物全部をドイツ人に没収された。わずかな服と食物だけとっておくのが許された。それさえ持たなかった者は飢え死にする運命にあった。
秩序も仲間意識もなくなっていく。分かち合って助けあう心も、しばらくすると抑制と人間性も失う、根源の生存本能をのぞいて。その段階に至った時点で、この人たちはまるで人間でなくなる。
一般軍規によれば、1輌の貨物車輌には40名しか乗せてはならないとされている。
ところがドイツ兵は、120から130名ものユダヤ人を詰め込むのだった。人々は哀れな同胞の肩へ、頭へよじ上ろうとする。下になりそうな者は、追い出そうとする。骨のぶつかる音、悲鳴、もうこの世のものではなかった。針一本さえもう入らなくなると、看守がすべての扉を閉じ、缶詰のように人間の肉を中にいれた貨車の鉄バールを降ろす。
だが、まだまだ終わっていない。
わたしはこの目で見たと誓う。
証拠も写真もないが、わたしの言っているのは真実である。
貨車の床が白い粉で厚く覆われていた。生石灰である。
生石灰に水を加えれば何が起こるか知らぬ人はいまい。
水分との化学反応が起こると泡立ち、高熱を発する。
ここでドイツ人は生石灰を用いていた。節約と残忍さがその理由として考えられる。汗で濡れた肌は、生石灰との接触によってたちまち水分をとられ、焼かれてしまう。貨車の中に詰めこまれた人たちは、ゆっくり骨まで焼かれるのだ。ヒムラーが1942年ワルシャワで表明した公約「総統のご意向に沿って、ユダヤ人は拷問のなかで滅びる」が遂行されていた。
生石灰は死体の腐敗とそれによる伝染病の蔓延を防ぐ。使用法が簡単、高い効果をあげ、なおかつ経済的である。
列車全体をいっぱいにするまで3時間かかった。
最後の貨車、わたしの勘定で46輌目の扉が閉められたときは、もう夕闇が迫っていた。
人を缶詰めにした貨車が震えたり叫びを発したりするさまは、まるで魔法の箱でも見ているようだった。
わたしは列車の目的地を知っていた。
列車は100キロほど走ってから何もない草原の真ん中で停まる。そこで3日、あるいは4日間かもしれないが、停まったまま、すべての貨車にまんべんなく死神が訪れるのを待つ。すると、若くてがっしりしたユダヤ人の若者たちが、厳重な監視の下、貨車からまだ湯気が立てている死体を運びだし、共同墓穴に埋めてから、貨車の清掃にとりかかる。若者たちは、ある日、自分たちも死の列車に乗せられるまでその仕事を続けるのである。作業は数日かかる。
収容所で目にした光景はずっとわたしの頭を離れないだろう。消し去ることはできないし、あの記憶のせいで吐き気が止まらなかった。映像そのものからというより、あんなことが起こったという事実から逃れたかった。
★戦車のディーゼル排気ガスによるガス室を使っている事実を嗅ぎつけた。
ベウジェツ絶滅収容所では42年8月10日からの23日間で5万人を処理;殺戮している。
総計55万人が42年5月から43年4月までに殺戮された。
「さあ、もう行きたまえ。少し休むといい。講演や報告で身体をこわさんように。ゲシュタポさえ果たせなかったきみの抹殺を、連合国にやらせることもなかろう。だいぶ顔がやつれているし、痩せたようだ。心配させないでくれ。聞いたのだが、歯を何本か折られたらしいね。若い人間、すぐれた将校にはとても似合わないぞ。なんとかするべきだな。わが国の闇の闘士の折れた歯を治すくらいの予算なら、いくら貧乏な政府とはいえ、まだ残してある」
「きみと会えて嬉しい。ポーランドの政治状況についての話をしに来てくれたんだね?」
「閣下、申し訳ありませんが、わたしが参ったのは別件です。国庫の最高責任者でいらっしゃる閣下に融資を個人的にお願いするために伺ったのです。ゲシュタポのせいで、わたしは丈夫だった歯をなくしてしまいました。というわけで、どうしても義歯を入れなければなりません」
わたしたちは大声をあげて笑った。
「この戦争で、ひとりの人間に起こりうるすべてを、あなたは体験したようだ。ただひとつの例外をのぞいて。ドイツ人があなたを殺せなかったことだよ、カルキスさん」
しかしイギリスでは、高級乗用車、それとおいしいものが食べ放題だった。
それに較べて祖国では、恐怖と飢えの連続・・・。
連合国の戦争犯罪捜査委員会にも召喚された。
ワルシャワのユダヤ人ゲットーとイズビツァ・ルベルスカ収容所で目撃したことを証言した。
証言は録音・記録された。
あとで知ったのだが、わたしの証言は後のドイツに対する国際連合の告発箇条として採用されたとのことである。
将軍の悲しい事故死を知ったのはそれから数週間後だった。
首相シコルスキ将軍の乗った爆撃機《リベレーター;解放者》がジブラルタル沖で墜落、
わたしたちポーランド人は、この戦争で不吉につきまとわれている。
ルーズヴェルト大統領は、たっぷり時間があって疲労などとは無縁、というような雰囲気を漂わせていた。ポーランド情勢に驚くほど通じていて、さらに新しい情報を求めていた。質問は綿密かつ詳細を極め、まっすぐ要点を突いてきた。ポーランドの教育方針と子供の保護策についての質問があった。レジスタンス組織とポーランド国民が被った被害規模について詳細に知りたがった。また、ゲシュタポの対ユダヤ人対応に関する言説の信憑性についても聞かれた。そして最後に、大統領はサボタージュと陽動作戦のテクニック、マキといわれる農村や森林山岳地帯における抵抗活動にも強い関心を示した。
大統領の視野の広さにわたしは圧倒された。
大統領は自国のみを超える展望を持ち、全人類にまでそれが及んでいた。
それからこの言葉・・・
「われわれは2つの指令を受けた。1つは何があってもきみを救出すること。
2つ目は不首尾の場合、きみを撃ち殺すこと」
★連合国戦争犯罪捜査委員会は1942年10月17日に設置された。
連合国12ヶ国および自由フランスは、12月17日、中央ヨーロッパにおけるユダヤ人殺戮を犯罪として告発、相応の制裁を加えると厳かに宣言した。
★2012年5月29日、米国大統領バラク・オバマは、ワシントンのジョージタウン大学で長年教鞭をとっていたひとりの亡命ポーランド人に対し、合衆国では文民に与えられる最高位の《大統領自由勲章》を授与した。その人こそ、第二次大戦のポーランドの英雄にして「諸国民のなかの正義の人」と湛えられた、本書の著者ヤン・カルキスである。
★かつて十字軍によって西ヨーロッパを追われたユダヤ教徒は、東欧やロシアに移住した。だが20世紀に入ってすぐ、帝政ロシアの秘密警察が民衆の不満をユダヤ教徒にそらせようと扇動した結果、国内はもとより東欧全域にユダヤ人迫害:ポログロムの動きは広まり、もちろんポーランドにもその波は押し寄せた。しかしポーランドには、すでに1264年からユダヤ人の自由を保証する世界最初の《カリシュの法令》があったため、他国よりその動きが穏やかだったという。したがって、戦前のポーランドは欧州最大のユダヤ人口を抱えていた。それが悲劇の大きな原因ともなった。