離郷門信徒の集いを終えて時間があれば今調べている平安時代中期の人物慶滋保胤(よししげのやすだね)の居宅である「池亭」のあった場所に行って見ようと思っていました。日没にはまだ時はありますし、雨も降っていませんので、坊守り、若院と分かれて一人で歩いて行って見ることにしました。西洞院通りを今の五条通りに上る辺りになると目測をつけて歩き始めました。 池亭の住所は『二中歴』と云う平安末期頃の百科事典に記されていました。それはこのような住所です。「六条坊門南、町尻(小路)東隅、保胤宅」この住所をを今の京都の町並みに置いて当時の状態を思い描いて見るという試行なのです。平安京として内裏を中央の北に置き中央に道幅87,8㍍にもなる朱雀大路を羅城門を起点に南北に走らせて大内裏に至り、その左右に左京、右京と街を区画して、東西南北大路を九本づつ通し、その大路と大路の間に三本づつの小路を通して平安京は区画構築されたのですが、平安期末頃よりその街並みは様変わりして、そして応仁の乱では京都のほとんど全域が焼け落ちてしまったといいます。ですから平安時代中期の地名を今の京都の地名から探し出すことは中々難しいことです。ですが、当時の小路名が今もそのまま使われている小路が多くありますのでほぼ見当がつきます。 慶滋保胤が永観の頃より寛和(984~986)にかけて撰述完成させた『日本往生極楽記』はこの地に於いて執筆されたことに思いを馳せることができました。この往生伝の撰述は以後何代にもわたって御所出仕の文官たちによって受け継がれることになるのです。保胤のこの往生伝の執筆に対する真摯な姿勢と自己への厳しい洞察と自己否定の論理が、当時の周囲や後世の人々に与えた影響は計り知れないものがあります。慶滋保胤のような謹厳で且つ、リベラルな考え方が熟成して所謂。鎌倉仏教に展開しているように思えます。
東西の通り楊梅通り 南北の通り室町通り 南北の町尻小路(現新町通り)
新町通りは平安時代の町尻小路であろう。これらの通りに東西南の3方を面し北側が六条坊門小路に面していた。六条坊門小路は現五条通りの南側歩道辺であったと推察される。