昨日12/20、所用があって松山に赴きました。数年前にもこのようなことがあってその折は正岡子規の寺、正宗寺の子規堂
を拝観するご縁がありまして、このブログで紹介したことでした。今回も同じ通りをブラブラ散策していると「義士の寺」の看板
が眼に留まり「義士祭」が行われているのはこの寺だったのかと、ブラッと境内に入りました。
先日の14日に義士祭が行われたことが報道されていましたが、東京の47士の墓所のある泉岳寺での義士祭はよく知られてい
ますが、実は松山でも14日の赤穂浪士討ち入りの日に義士祭が行われているのです。このことは愛媛県内の人は周知のことです
が県外の人には余り知られていないことと思います。私自身そのことへの認識は曖昧なものでした。いい機会と咄嗟に思って境内
に入ったのでした。
この寺は臨済宗妙心寺派に属している禅寺で興聖寺と称されています。案内板によりますと、14日の討ち入り後47浪士は4
藩の江戸屋敷に分けて預けられて処罰の判決を待ちました。その藩の一つが松山藩の江戸屋敷だったのです。(現イタリア大使
館)松山藩の預かり浪士は10名で、大石主税、堀部安兵衛、木村岡右衛門、中村勘助、菅谷半之丞、千馬三郎兵衛、不破数右衛
門、大高源吾、貝賀弥左衛門、岡野金右衛門の10名でありました。
元禄16年、2月頃全員切腹との達しがあって各藩邸庭で切腹が行われたのでしたが、松山藩邸での木村岡右衛門と大高源吾の
介錯をした宮原久太夫頼安は両人の遺髪を藩主の許可を得て松山に持ち帰り自分の菩提寺である末広町興聖寺墓地に丁重に葬り墓
石を建てたのでした。この両人は教養の高い人であり、またその両人の徳香に感応する介錯人宮原頼安の高邁な人格が偲ばれる行
実であると感動を受けたことです。
両名の遺髪塚と介錯人宮原頼安の墓石は並んで建っていました。その墓地の奥まったヶ所に両名の辞世の碑が建てられて顕彰され
ていました。
大高、木村、宮原の墓石 木村岡右衛門の遺偈碑 大高源吾の遺句碑
大高源吾については「忠臣蔵」でよく語られて来た人でありますからよく知られています。大高源吾は俳諧をよくした人で宝井其角に師事し、俳号を子葉(しよう)と称していました。
討ち入りの前夜、大高源吾は大掃除用の煤払い竹売り屋に扮装して吉良屋敷辺を探索していた時、両国橋で師の宝井其角に出会いました。其角は「年の瀬や水の流れも人の身も」と発句で声をかけたのです。すると源吾は「あした待たるるこの宝船」と返句して討ち入りを仄めかしていると伝承されています。
このように松山市駅から県立中央病院を結ぶ道は松山の歴史を再発見出来る道だと思います。時間のある時に散策探訪されては
如何ですか、何か発見があるはずです。