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み仏を よぶわが声は
み仏の われをよびます
み声なりけり
甲斐和里子(1868~1962)
9月の法語は甲斐和里子先生のお歌です。余りにもよく知られ、余りにも端的に他力の救いを伝えて下さっているお歌と親しま
させていただいております。
和里子先生は1868年(明治元)に広島県深安郡神辺の勝願寺に足利義山和上と母早苗の5女として生まれられています。
お念仏の薫る家庭に生を受けられ沢山の篤信の方々がお育ちになられたご寺院でした。龍谷大学学長になれた足利瑞義師や聞法
同人が集うた自照舎を創設された足利淨圓師などが出ておられます。
英語を取得するためにミッションスクールである同志社女子校に学ばれ、当時としては相当奇異に思われたそうですが、アメリ
カからの女教師に随分と可愛がられたとのことで随分と優秀であられたようです。今大河ドラマ「八重の桜」の新島八重女史とも
出会いがあったかも知れません。
その後、漢籍学や南画家であられる甲斐虎山先生と結婚され、お二人が力を合わせて女子教育に力を注がれたのでした。その学
園が今の京都女子学園へと発展を遂げたのです。
和里子先生のことはお歌や随筆は中学校の頃から信仰誌「自照」によって時折読んで存知上げていました。しかし直接お会いし
たことは一度もありませんでした。
昭和37年5月の頃のことであったと記憶しています。京都龍谷大の深草学舎から市電に乗って京都駅方面へ向かっていた時の
ことでした。その時私と一緒にいたのは2年先輩のI.Hさんでした。Iさんは感性の鋭い方でご尊父は臨済宗東福寺の管長であ
ると聞いていました。そのIさんが吊り革にぶら下がっている私に小声で「浅野君、あのお婆さんを見てご覧、滅多に遇える人で
はないよ、」 私はIさんがそっと指さすその老婦人を見ました。頭の髪は引きつりにし、服装は黒っぽい木綿の着物で座席にど
っしりと座っていました。その周囲に3、4人の和服の婦人が居て老婦人をあれこれとお世話をしています。その老婦人の背筋は
しっかりと堂々として見えました。私に知らせたIさんもその老婦人が誰であることは知られませんでした。その年の深まった秋
の頃、京都新聞の記事に、甲斐和里子さん死去の記事があり、そのお写真を見た時、その相貌は市電の車中で覗い見たその老婦人
であったことに気づいたのです。あの時の、あの方が甲斐和里子先生だったのか!和里子先生95才の最晩年のお姿にお遇いした
のでした。今もその時のことは鮮明な記憶として蘇って参ります。不思議なご縁でありました。今から丁度51年前のことになり
ます。
をしへ子をさとすことばにおのれ先づさとさるる身のはづかしさかな
亡き母の文字に似たるがうれしさにわがふみながらまきかへし見る
たまひたるほまれの文をたらちねの墓にたむけて泣くゆふべかな
泣きながら御戸をひらけば御仏はただうち笑みてわれをみそなはす
御仏の御厨子のうちぞ人しらぬわが悲しさの捨てどころなる
御仏の御名となへをれば誰が罪もみなゆるしえて心すがすがし
御仏の御名をとなふるわが声はわがこゑながらたふとかりけり
「草かご」より