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6月に入りました。依然として朝は冷気を感じます。日中は汗ばむのですが・・・、
6月の法語
ただ如来に
まかせまいらせ
おわしますべく候う (ただ如来さまにおまかせすべきです)
このお言葉は親鸞聖人のお手紙集「末燈鈔」(まっとうしょう)9通目のお手紙の末尾にご教諭くださってあるお言葉です。
このお手紙は「教名房」(きょうみょうぼう)と云う常陸国辺のお弟子からのお訊ねに対してのご返事のお手紙です。
教名房からのお訊ねは、お聞かせにあずかっている法文の中に「誓願不思議」「名号不思議」とありますがどのような違いのある不思議なのでしょうか?それぞれどのように信じたらいいのでしょうか、と云うようなお訊ねであったのでしょう。聖人は次のように認めておられます。
御文くわしくうけたまわり候いぬ。さては、その御不審しかるべしともおぼえず候う。そのゆえは、誓願・名号と申してかわりたること候わず。誓願をはなれたる名号も候わず候うなり。名号をはなれたる誓願も候わず候う。かく申し候うも、はからいにて候うなり。 (中略)
・・・・往生の業には、わたくしのはからいはあるまじく候うなり。あなかしこ、あなかしこ。
ただ如来にまかせまいらせおわしますべく候う。あなかしこ、あなかしこ。
五月五日
親鸞
教名御房
(端書にいわく)
この文をもって、ひとびとにもみせまいらせたもうべく候う。
他力には義なきを義とすとは申し候うなり。
今から50数年前、親鸞聖人700回大遠忌を記念して東京の普通社と云う出版社が親鸞聖人を讃仰する当時の小説家と宗学、真宗史学の権威者による「しんらん全集」10巻が編集出版されました。今読み返して見てもいい企画で新鮮さがあふれています。
「末燈鈔」の教名房へのご返事のお手紙は作家辻亮一氏が現代語訳されています。今日の紹介部分をあげておきます。
お手紙によるおたづねの趣、よく分かりました。けれども、この誓願と名号についての貴方の御質問は、今更と思われ、ごもっとものこととは思われません。すべての人を救うとの仏さまの誓願と、仏さまに信順して称念する名号は二位一体であります。誓願の中に名号がこめられ、名号のなかに誓願がこめられています。このように私が申しますのも、このことを分かって頂くための方便に過ぎません。仏さまの誓願を信じきり、名号にこめられた救いの誓いを固く信じ、称念すればよろしいのです。
(中略)
私達は仏さまの慈悲により救われるのであって、私達の努力とか修行が救われる原因ではありません。たゞ仏さまにおまかせすべきです。
(五月五日)
(親鸞)
(教名御房)
この手紙を他の人々にもお見せ下さい。他力は人間の理論から超越しています。理論はない、というのが他力の理論であります。
この「教名房」については親鸞聖人のお弟子を記している各種「門侶交名帳」に「教名」なる名が見られないことから「稲田九郎頼重」の法名「教養」の誤写されたものではないかと云う見方もあります。