11月末から12月にかけて紅葉が急速に進みました。もみじもどうだんも、そして公孫樹も朝露にベッショリ濡れて散る前の一瞬の美しさをかもしています。もう師走、やがて木々は裸木を北風に晒すことになるのです。なごりおしい思いに胸がつまります。
梔子(くちなし)の実が熟れ始めています。くちなしの実の形は面白いので小さい頃から強い印象があります。
初夏に6弁の白い花を咲かせいい香りがします。花は花で気品があり歌にも歌われていますが、実は実で花に負けないほど存在を主張しています。
名前の由来は酒器の様な形をしていますが開いた口がないので「口無し」と呼ばれるようになったと云う説と全く逆の説もあるようで、種子のある果実を梨に見立て嘴状ガクのあるのを口と見て「口梨」と呼ばれると云うのです。
梔子の実は有用な染料として料理や糸の黄色に使われて来ました。また、薬用としても使用されています。
初夏に6弁の白い花を咲かせいい香りがします。花は花で気品があり歌にも歌われていますが、実は実で花に負けないほど存在を主張しています。
名前の由来は酒器の様な形をしていますが開いた口がないので「口無し」と呼ばれるようになったと云う説と全く逆の説もあるようで、種子のある果実を梨に見立て嘴状ガクのあるのを口と見て「口梨」と呼ばれると云うのです。
梔子の実は有用な染料として料理や糸の黄色に使われて来ました。また、薬用としても使用されています。
頂いた椿の挿し木に画像のような可愛い花が咲きました。白い一重の筒咲き。白地に紅の斑が入っています。
紅葉した、多分ナナカマドかドウダンツツジが真っ赤に紅葉した山に初冠雪した風景をイメージしての命名なのでしょう。紅がいやらしく見えないので好感度です。
紅葉した、多分ナナカマドかドウダンツツジが真っ赤に紅葉した山に初冠雪した風景をイメージしての命名なのでしょう。紅がいやらしく見えないので好感度です。
秋空に薄の銀の穂が揺れています。この萱は縞萱です。普通の萱より葉も穂も少し大振りなようです。
デジタルカメラのボデイにマニュアルの交換レンズニッコール85を装着して撮影してみましたが、ちょっと露出オーバーなのですが掲載しておきます。
デジタルカメラのボデイにマニュアルの交換レンズニッコール85を装着して撮影してみましたが、ちょっと露出オーバーなのですが掲載しておきます。
住職の弟の尊丸(徳正唯生)さんの句友の方々が昨日吟行に訪れて下さいました。瀬戸田(生口島)の鈴虫松虫の墓所のある光明坊(御寺)さんにお参りされ、多々羅大橋を渡って大三島の当山へお参り下さり、句会が開かれました。メンバーは安芸教区東賀茂組に属するご寺院のご住職、坊守様方です。私(坊守)も今日の句会に入れてもらい学ばさせていただきました。
生憎午後から雨模様となり、外での散策は難しくなりました。住職が庫裏広間の床に俳人大谷句仏さんのお軸「風月」を掛け、今秋初めて炭を大火鉢に入れてくれまして、皆さん大層喜んで下さいました。
当日作句された句の中から数句をご紹介します。
炭の香や風月てふ字のたをやかに 淑子
柏槙や荒波の幹秋しぐれ 久枝
正信偈堂に響けりお取越し 昭子
山茶花の一輪毎に暮れにけり 唯生
箒目の清し狭庭の柿落葉 唯生
晩秋の句座に加わるときめきて 明慧
(坊守)
生憎午後から雨模様となり、外での散策は難しくなりました。住職が庫裏広間の床に俳人大谷句仏さんのお軸「風月」を掛け、今秋初めて炭を大火鉢に入れてくれまして、皆さん大層喜んで下さいました。
当日作句された句の中から数句をご紹介します。
炭の香や風月てふ字のたをやかに 淑子
柏槙や荒波の幹秋しぐれ 久枝
正信偈堂に響けりお取越し 昭子
山茶花の一輪毎に暮れにけり 唯生
箒目の清し狭庭の柿落葉 唯生
晩秋の句座に加わるときめきて 明慧
(坊守)
大崎島でお参りをしたお家に菅恵美子さんと云われる90才になられる方が住んでおられます。望月圭助さんのことをお尋ねすると、私が女学校の頃帰郷されたことがあり学校からお迎えに参りました。道に新しい砂が敷き詰められていました。大臣が道をお通りになられ、私たちはその間ズットと頭を下げていました。ですから望月大臣がどんなお顔の方であられたのか見ておりませんと話されました。大崎島から代議士となり大臣までなられた望月圭助さんを郷里では神様の次に偉大な人と捉えられていた様です。
私(住職)に澄子と云う叔母がいました。矢張り大正7年かの生まれで、女学校の修学旅行で東京へ行ったようです。その頃東京には私の母や澄子の叔父鷹谷俊之氏が居て、高楠順次郎博士を助けて武蔵野女学院の経営に当たっていました。その鷹谷俊之叔父が澄子を出迎えてくれて学士院会館へ連れて行ってくれたのだそうです。その会館の豪華な応接室に高楠博士と望月大臣がいて鷹谷叔父は「これは私の姪子です」と紹介されたのだそうです。15、6才の澄子叔母はガチガチに緊張してしまったことをいつも話していました。それでも高楠博士と望月大臣にお会いしたことを随分と誇らしく思っているように聞こえました。
その澄子叔母も昭和50年に他界いたしましたが・・・・、望月邸を訪ねてそれらのことなどを懐かしく回想したことです。
画像は望月邸に掛けられていた望月圭助大臣の肖像画。
私(住職)に澄子と云う叔母がいました。矢張り大正7年かの生まれで、女学校の修学旅行で東京へ行ったようです。その頃東京には私の母や澄子の叔父鷹谷俊之氏が居て、高楠順次郎博士を助けて武蔵野女学院の経営に当たっていました。その鷹谷俊之叔父が澄子を出迎えてくれて学士院会館へ連れて行ってくれたのだそうです。その会館の豪華な応接室に高楠博士と望月大臣がいて鷹谷叔父は「これは私の姪子です」と紹介されたのだそうです。15、6才の澄子叔母はガチガチに緊張してしまったことをいつも話していました。それでも高楠博士と望月大臣にお会いしたことを随分と誇らしく思っているように聞こえました。
その澄子叔母も昭和50年に他界いたしましたが・・・・、望月邸を訪ねてそれらのことなどを懐かしく回想したことです。
画像は望月邸に掛けられていた望月圭助大臣の肖像画。
望月東之助には4男4女の子女がありその多くは政治家を志したとのことですが、中でも3男の圭助は中央政界で活躍し逓信大臣、内務大臣等を歴任し、その人情の厚い人格から温情大臣と称されたと伝えられています。
大三島の大見のお生まれで多田無心(院大)さんと云われた日本画家が居られましたが、この無心さんが生前に拙寺に来られた時に、「私は望月圭助先生に大変お世話になりました。東京の先生宅の書生を務めさせて貰いながら美学校に通わせて頂きました」と、話しておられました。多田無心さんの描かれた達磨絵は素晴らしいものばっかりで、達磨の絵を描かれた時にはお礼を貰われなかったそうです。このようなお徳は望月圭助先生の薫陶が感じられます。
画像は望月家の母屋内部のたたずまい。
大三島の大見のお生まれで多田無心(院大)さんと云われた日本画家が居られましたが、この無心さんが生前に拙寺に来られた時に、「私は望月圭助先生に大変お世話になりました。東京の先生宅の書生を務めさせて貰いながら美学校に通わせて頂きました」と、話しておられました。多田無心さんの描かれた達磨絵は素晴らしいものばっかりで、達磨の絵を描かれた時にはお礼を貰われなかったそうです。このようなお徳は望月圭助先生の薫陶が感じられます。
画像は望月家の母屋内部のたたずまい。
11/23勤労感謝の日、お隣の島大崎上島(広島県豊田郡)へ法務の為渡りました。カーフェリーで15分くらいで着く距離です。昔、機帆船が運送の主力だった頃、大崎島は中継基地、船泊まり港としてそれはそれは隆盛した島でした。木造船の頃からの造船所が今でも多く稼動しております。
法務を済ませて帰りのフェリーの時間まで数十分ありましたので東野町にある「望月邸」(現在解体修復されて海と島の歴史資料館となっています)へ寄ってみました。望月家は江戸時代から明治にかけて回船問屋として活躍し豪商として冨を得たとのことで、この豪邸は望月東之助によって明治8年に建築されたとのことです。島としては敷地も広く豪壮な母屋に長屋門、蔵、茶室などが設けられている古民家です。
法務を済ませて帰りのフェリーの時間まで数十分ありましたので東野町にある「望月邸」(現在解体修復されて海と島の歴史資料館となっています)へ寄ってみました。望月家は江戸時代から明治にかけて回船問屋として活躍し豪商として冨を得たとのことで、この豪邸は望月東之助によって明治8年に建築されたとのことです。島としては敷地も広く豪壮な母屋に長屋門、蔵、茶室などが設けられている古民家です。