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忘れても
慈悲に照らされ
南無阿弥陀仏
今月の法語は浅原才市(あさはらさいち)さんの念仏詩集からの法語です。才市さんのことはご講話でよくお話になられるのでご存知の方が多いかと思います。
才市さんは江戸末期の嘉永4年に島根県邇摩郡大浜村小浜(温泉津)に生まれ、昭和8年1月17日に同地で83才で亡くなっておられます。才市さん死去後才市さんが書き残した20数冊のノートにビッシリと綴られた念仏詩(詩篇数は八千とも1万と云われています)が人々の目に触れ、その詩篇の宗教性の深くいことが賞讃されました。多くの先生方が著述に紹介されていますが、中でも禅学の鈴木大拙博士の『妙好人』に詳細に論述され世界の哲学学会発表されたこともあって才市さんのことが広く知られるようになったのです。
今、11月の法語について味わい考えるに当たって2冊の著書を参考する為にと再読しております。それは鈴木大拙博士の『妙好人』と水上勉著の『才市』です。
水上勉さんは『才市』の端書きにこのようにのべておられます。先に「一休」と「良寛」の禅僧について著作を試みたが、その折それらの修行僧を支えたのが浄土教を生活基盤としている名も無い庶民であったことに気が付いた。それで大衆庶民の心を知ろうと取り上げたのが「浅原才市」の生き様であったと述べておられます。
水上勉さんの小説は暗いものが多いように思いますが、浅原才市さんの生涯も暗い人生になってもしかるべきな要素を多く含んでいるのですが、『才市』は全く暗さが無く、暗闇が黎明となり陽光が燦々と照りわたる作品となっているのです。
才市さんの若い頃は北九州方面へ船大工として働き、その頃に聞法のご縁があり仕事をしながら求道の日々があったようです。
50才の頃郷里の温泉津に帰り大工職を生かして下駄を作り出来た下駄を店頭で売り、ご法座があると聴聞を第一にする日々であったようです。温泉津の住居のそばには安楽寺があり、西楽寺など温泉津町内に10ヶ寺も浄土真宗の寺があり聞法のご縁は多い地域でありました。
才市、仕事場にしゃがんで下駄作りの仕事をしていたある時、次々と法悦詩がつぶやくように湧いて出るようになったと云います。その法悦詩をかんな屑に墨壺の竹筆で書き留めて、就寝前にノートに清書するようになったのです。その詩篇が8千篇以上も残されたのでした。
才市よい、うれしいか、ありがたいか。
ありがたいときゃ、ありがたい
何ともないときゃ、何ともない。
才市、なんともないときゃ、どぎゃあすりゃ。
どがあも仕様がないよ。
なむあみだぶと、どんぐり、へんぐりしているよ。
今日も来る日も、やーい、やーい。
かぜをひけばせきが出る
才市が御ほうぎの風をひいた
念仏のせきが出る出る
晩年に地元の絵描きさんに肖像画を画いてもらったことがあって、出来上がった絵がやさしそうな顔であるのを見て、これは儂ではないよ、とて頭に二本の角を画かせました。その絵が今も伝わっています。
その絵に安楽寺の梅田謙敬和上が讃を書いておられます。
角あるは機、合掌は法なり。法よく機を摂っす。 と、