memory of caprice

浮世離れしたTOKYO女子の浮世の覚書。
気まぐれ更新。

小津安二郎ゆかりの旅館「茅ケ崎館」

2014-07-29 02:46:47 | 旅行
2014年7月27日の首都圏版より。

連載「小津安二郎がいた時代」
で、小津監督ゆかりの旅館が紹介されていた。今でも現存し、宿泊客を受け付けているそうだ。


JR茅ケ崎駅から海岸方面に20分ほど歩くと1899年(明治32)創業の旅館「茅ケ崎館」がある。
宿には小津安二郎が愛用していた火鉢などが残る。多くの小津作品がこの宿の「二番」の部屋から生まれた。

茅ケ崎館によると、小津がここを初めて訪れたのは1937年(昭和12)年。
4代目当主の森勝行は(84)は、幼い頃、小津と一緒に風呂に入ったことを覚えている。
まもなく日中戦争で戦地に赴くことになった小津は勝行に「かっちゃんおみやげ何がいい」と尋ねたと言う。

小津は「父ありき」(42年)、「長屋紳士録」(47年)、「晩春」(49年)、「麦秋」(51年)などをここに滞在して書いた。

「東京物語」(53年)で、小津の日記には脚本を共同執筆した野田高梧と同年2月4日に雑談し、
「あらましのストウリ―出来る」とある。
14日に野田と宿に入り、書き始めたのが4月8日、5月28日に脱稿。公私とも大勢の人が小津を訪ねる多忙の合間に、
宿の他の客の「結婚式」や「同窓会」の記述もある。

今は病床にある父・勝行から小津の思い出を受け継いだ5代目の森浩章(40)は、「ここで見聞きした結婚式や同窓会での会話が映画に描かれているようです」と話す。「麦秋」の幼い兄弟の会話は、勝行の弟2人がモデルだという。
勝行が部屋の電球を換える様子を小津と野田が観察するようにじっと見つめていることもあった。
 
宿での日々は、人間観察だけにとどまらない。
或る日、勝行は宿の階段で、寸法を測るように手をかざしている小津をみた。
「風の中の牝雞」(48年)で、田中絹代が転げ落ちた階段は、宿のものが再現されていた。
「東京物語」で、老夫婦が泊まった熱海の旅館の廊下の風情もそっくりだという。
宿の前にある海岸は様々な小津作品で登場し、当時の面影を伝えている。

茅ケ崎館には今も多くの小津ファンが訪れる。
フランス、ドイツ、スペイン、中国などの海外から来るファンも多い。
小津が愛用した2番の部屋に入ると「ファンタスティック」と興奮状態になる人や、「部屋に入ると小津の世界観がわかる」と得心する人もあるという。

5代目の浩章は、アルミサッシなどもある今の建物を徐々に小津がいた時代の状態に戻していきたいと夢を語る。

「世界的な映画が生まれた場所。その濃密な空間を引き継いでいくのが自分の使命だと思っています。


入って泊ってみたいものです。茅ケ崎館。


コメントを投稿