新聞の切り抜きを整理していて見つけたのが
2012年12月25日、クリスマスの日の朝日の夕刊。
蓮実重彦氏による、無声映画のスター、井上雪子さんを悼む記事である。
タイトルは
「美貌と魅力、語らずとも」
―無声映画のスター井上雪子さんを悼む―
美しい追憶の記事で、正直小津映画ファンのわたくしですらお名前にピンとはこなかった
ある意味幻のスターではあるのですが、その方の人品と、蓮実少年の心に刻まれた面影の美しさに
なんとも心惹かれ、そのまま打ち捨てることのできなかった記事なので、手元に残す意味で、引用させていただきました。
近所に楚々とした美しいご婦人が住んでおられ、買い物などの折りに同じ店で出会ったりすると、知り合いでもないのに軽く会釈して去って行かれる。その笑顔とうしろ姿が何とも魅力的な女性だった。あの方は井上雪子といって、サイレント期の松竹蒲田のスターよと母から教えられたのは、中学生の頃だったと思う。しかし、アメリカ映画の魅力に目覚めたばかりの敗戦直後の少年には、無声映画時代のスターはいかにも遠い存在だった。
井上雪子という名前が私にとって大きな意味を持ち始めたのは、しばらく見られなかった小津安二郎監督のサイレント作品が上映され始めた1970年代の後半である。その頃、小津をめぐる書物の刊行を準備していた私は、「美人哀愁」(31年)や「春は御婦人から」(32年)の主演女優が井上雪子だと気づき、ぜひお話を伺わねばと思い、編集者とともにお宅にお邪魔した。82年の夏、井上雪子の名を始めて知ってからほぼ30年後のことである。そのインタビューをおさめた「監督 小津安二郎」はさいわい好評で、いまでも文庫として版を重ねているが、「美人哀愁」や「春は御婦人から」はプリントが失われたまま、見ることができない。とりわけ、小津作品の中では、180分と上映時間が最も長い「美人哀愁」は、凝りに凝った審美的な作品だと評判が高かっただけに、惜しまれてならない。
井上さんは、五所平之助監督にうよる初のト―キ―作品「マダムと女房」(31年)にも美少女役として姿を見せ、横浜を舞台にした清水宏監督の「港の日本娘」(33年)にも主演しておられる。父上がオランダの方だっただけに、当時としては稀に見るエキゾチックな美貌に恵まれておられたが、時代が戦争に向かい「ちょっとバタくさい顔は駄目になりましてね」と慨嘆しておられたように、活躍の時期はごく短く、戦時中は憲兵に監視されるという厳しい生活だったようだ。しかし、戦後は主婦としてなごやかに過ごしておられた。
忘れられないのは、03年の小津安二郎生誕百周年の国際シンポジウムに井上さんが登壇され、「美人哀愁」で競演されたスター岡田時彦さんのお嬢さんにあたる岡田茉莉子さんと親しく言葉を交わされたことだ。シンポジウムに参加したヨーロッパの批評家が、すでに90歳近かった井上さんの堂々とした振る舞いをさすがにスターだと感嘆していたのを覚えている。その後、塩田明彦監督の「カナリア」(04年)に68年ぶりで出演されたときも、ごく小さな役だったのに、文字通りスターとして画面に君臨しておられた。
その井上雪子さんが、さる11月19日に97歳の生涯を閉じられた。ご葬儀は親族だけでと新聞にあったが、近所の教会での告別ミサに参列させていただき、12歳の時に他界された父上との彼岸での再会を心から祈った。塩田監督とお柩をかつぎながら、亡き井上さんとともに、日本のある時代をそっくり葬るような気がして、思わず涙が流れた。
松竹提供の、白黒のお写真が添えられて、「港の日本娘」の井上雪子(左)とあります。
木々のシルエットを背景に、ダークなセーラー服すがたで、短い鍔のある同色の帽子に髪をまとめている2人の少女の姿が写っていました。
2012年12月25日、クリスマスの日の朝日の夕刊。
蓮実重彦氏による、無声映画のスター、井上雪子さんを悼む記事である。
タイトルは
「美貌と魅力、語らずとも」
―無声映画のスター井上雪子さんを悼む―
美しい追憶の記事で、正直小津映画ファンのわたくしですらお名前にピンとはこなかった
ある意味幻のスターではあるのですが、その方の人品と、蓮実少年の心に刻まれた面影の美しさに
なんとも心惹かれ、そのまま打ち捨てることのできなかった記事なので、手元に残す意味で、引用させていただきました。
近所に楚々とした美しいご婦人が住んでおられ、買い物などの折りに同じ店で出会ったりすると、知り合いでもないのに軽く会釈して去って行かれる。その笑顔とうしろ姿が何とも魅力的な女性だった。あの方は井上雪子といって、サイレント期の松竹蒲田のスターよと母から教えられたのは、中学生の頃だったと思う。しかし、アメリカ映画の魅力に目覚めたばかりの敗戦直後の少年には、無声映画時代のスターはいかにも遠い存在だった。
井上雪子という名前が私にとって大きな意味を持ち始めたのは、しばらく見られなかった小津安二郎監督のサイレント作品が上映され始めた1970年代の後半である。その頃、小津をめぐる書物の刊行を準備していた私は、「美人哀愁」(31年)や「春は御婦人から」(32年)の主演女優が井上雪子だと気づき、ぜひお話を伺わねばと思い、編集者とともにお宅にお邪魔した。82年の夏、井上雪子の名を始めて知ってからほぼ30年後のことである。そのインタビューをおさめた「監督 小津安二郎」はさいわい好評で、いまでも文庫として版を重ねているが、「美人哀愁」や「春は御婦人から」はプリントが失われたまま、見ることができない。とりわけ、小津作品の中では、180分と上映時間が最も長い「美人哀愁」は、凝りに凝った審美的な作品だと評判が高かっただけに、惜しまれてならない。
井上さんは、五所平之助監督にうよる初のト―キ―作品「マダムと女房」(31年)にも美少女役として姿を見せ、横浜を舞台にした清水宏監督の「港の日本娘」(33年)にも主演しておられる。父上がオランダの方だっただけに、当時としては稀に見るエキゾチックな美貌に恵まれておられたが、時代が戦争に向かい「ちょっとバタくさい顔は駄目になりましてね」と慨嘆しておられたように、活躍の時期はごく短く、戦時中は憲兵に監視されるという厳しい生活だったようだ。しかし、戦後は主婦としてなごやかに過ごしておられた。
忘れられないのは、03年の小津安二郎生誕百周年の国際シンポジウムに井上さんが登壇され、「美人哀愁」で競演されたスター岡田時彦さんのお嬢さんにあたる岡田茉莉子さんと親しく言葉を交わされたことだ。シンポジウムに参加したヨーロッパの批評家が、すでに90歳近かった井上さんの堂々とした振る舞いをさすがにスターだと感嘆していたのを覚えている。その後、塩田明彦監督の「カナリア」(04年)に68年ぶりで出演されたときも、ごく小さな役だったのに、文字通りスターとして画面に君臨しておられた。
その井上雪子さんが、さる11月19日に97歳の生涯を閉じられた。ご葬儀は親族だけでと新聞にあったが、近所の教会での告別ミサに参列させていただき、12歳の時に他界された父上との彼岸での再会を心から祈った。塩田監督とお柩をかつぎながら、亡き井上さんとともに、日本のある時代をそっくり葬るような気がして、思わず涙が流れた。
松竹提供の、白黒のお写真が添えられて、「港の日本娘」の井上雪子(左)とあります。
木々のシルエットを背景に、ダークなセーラー服すがたで、短い鍔のある同色の帽子に髪をまとめている2人の少女の姿が写っていました。