♦️862『自然と人間の歴史・世界篇』インドの2013年食糧安全保障法

2018-07-07 21:21:33 | Weblog

862『自然と人間の歴史・世界篇』インドの2013年食糧安全保障法

 2013年7月3日、インドで貧困撲滅のための画期的な法律とされる「2013年食糧安全保障法」の施行が閣議で決まりました。下院に引き続き上院で可決、大統領の署名を経て成立したものです。
 この法律は、全人口の3分の2を占める貧困層約8億人に対して適用されます。米なら1キロ当たり3ルピー((1ルピー=約1.7円なので、約4.7円)、小麦なら同2ルピー、雑穀同1ルピーの安価で毎月5キログラム、コアース・グレインと呼ばれるトウモロコシ類なら同1ルピーという補助金付きの格安価格で、1人当たり月間5キロまで購入できることになります。
 銘柄にもよりますが、インドにおけるコメの通常小売価格はだいたい1キロ18~25ルピー前後なので、おおよそ市価の6分の1から8分の1程度の値段で買える理屈になります。 
 しかし、この法律により政府の新たな財政負担は、年間で1兆3000億ルピー程度にも膨らむことが予想されています。インドの国土は広く、政府は穀物の調達、輸送、保管、分配などを行うには、多くの課題をクリアしなければなりません。
 とはいえ、州の中には、この国民が安価で十分な食糧を得る権利を保障する「国家食糧安全保障法(NFSA)の導入することをためらう場合もあった。それが、ようやく2016年11月、国会での可決から約3年を経て、インド全土で施行された。

(続く)

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♦️818『自然と人間の歴史・世界篇』インドの政治(1998~2008)

2018-07-07 21:12:45 | Weblog

808『自然と人間の歴史・世界篇』インドの政治(1998~2008)

 1998年から2004年まで、インド人民党(BJP)のバジパイ政権が政治を担いました。
 1999年4月、人民党政府は国会で不信任決議により倒壊し、5月に人民党を中心とする政界再編成があり、9-10月に第13回総選挙が実施されました。人民党は、国民民主連合(NDA:National Democratic Alliance)を発足させる形で内閣を構成しました。
 その後は、2004年4-5月、第14回の下院総選挙があり、農村や貧困層の支持を得たインド国民会議派と民主勢力が勝利しました。人民党は僅差で敗れました。5月15日には、ラーオ内閣当時の大蔵大臣であったマンモーハン・シングが連邦首相になりました。
 同月22日、国民会議派を母体とし、民主勢力の結集を標榜する統一進歩連合(UPA,United Progressive Alliance)が発足しました。インド共産党は、新政権に対し閣外での協力を約束しました。インド共産党(M)も参加した「政策調整委員会」を設けました。なお、インド共産党(M)とは、1964年10-11月にインド共産党から分離独立した政党で、反封建・半帝国主義・反独占の人民民主主義革命を指向していて、その時点で平和革命路線をとっていたインド共産党と決別していました。その後、現実路線に傾いて来ていました。
 5月27日、この連立政権は共同最小限綱領(CMP,common Minimum Peogramme)を採択しました。
 2008年12月現在の政治形態は、つぎのようなものです。
政体としては、共和制。
元首は、プラティバ・デヴィシン・パティル大統領(2007年7月就任で任期は5年)
議会のあり方は、上院・州会議(ラジヤー・サバー)と、下院・人民会議(コク・ハバー)の二院制です。前者は245人の定数で任期は6年、後者の定数は545人で、任期は5人です。首相はマンモハン・シン。

(続く)

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♦️721『自然と人間の歴史・世界篇』インドの経済改革(1991~1995)

2018-07-07 20:58:47 | Weblog

721『自然と人間の歴史・世界篇』インドの経済改革(1991~1995)

 経済面では、1991年6月には、インドの外貨準備高は12億ドルに減ってしまいました。これはインドの輸入の約1ヶ月分ということで、国際収支の危機が間近に迫る事態でした。
 これに対し、同月に国民会議派のナラシンハ・ラオ(Narasimha Rao)の政権はIMF(国際通貨基金)や世界銀行に対し緊急の融資を頼み、同時にマクロ経済の安定をはかる政策に打って出ました。
 それとともに、この政権が打ち出したのが、1991年に導入された経済自由化はです。政権では、IMFや世界銀行からの構造改革プログラムを受け入れ、大蔵大臣に器用されたマンモハン・シンを中心に独立以来最大規模の政策転換を行っていきました。
 それは、為替自由化によるルピー通貨の変動相場制移行や産業と貿易の規制緩和をすることが中心となりましたが、主な内容は次のとおりでした。
①規制緩和
②貿易自由化
③外資の積極導入
 1991年末には、インドはアジアで最大規模の債務国へと転落してしまいました。とはいえ、これらの政策の効果が表れるには多くの時間を要しませんでした。その後、インドは投資主導の経済成長へと転換し、1994年度から1996年度まで7%を上回る高成長を達成しました。
 インドがWTO(世界貿易機関)に加盟したのは1995年1月1日の設立時のときです。但し、GATT(関税と貿易に関する一般協定)へ加盟は1948年7月8日のことでした。

(続く)

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♦️706『自然と人間の歴史・世界篇』インドのボパール化学工場爆発(1984)

2018-07-07 20:52:53 | Weblog

706『自然と人間の歴史・世界篇』インドのボパール化学工場爆発(1984)

 1984年12月2日、インドのボパールにあるアメリカ系多国籍企業706*ユニオンカーバイド社の化学工場が爆発し、有毒ガスが流出した。この事故で数千人が亡くなり、その後2万人以上の人びとが死亡したとも伝えられた。しかし、実際の被害はそれどころではなかったようで、一説には、あれやこれやの被災者は35万人とも推定されるところだ。
 その工場は農薬工場であった。殺虫剤成分を生産する際に使用される原料としての、メチルイソシアネート(イソシアン酸メチル)という「反応中間体」の入ったタンクがしつらえてあった。ところが、そのタンクに水が混入したことから発熱反応が始まり、それが広がるにつれタンク内の圧力が高まり、ついには爆発が起きて、それで発生した有毒ガスが工場の外へと流出していったのだという。
 参考までに、やや専門的な説明については、例えば、次のようにいわれる。

 「MIC貯蔵タンクと配管で接続された設備の洗浄を行ったとき、MICタンクとの間の弁が腐食していたため、タンク内に洗浄水と鉄錆が入り込んだ。鉄錆が触媒となり、MICの加水分解が急激に進行して二酸化炭素が発生し、同時にタンク内部の温度が上昇したため、MICの蒸気圧により内圧が上昇し、気化したMICが噴出した。噴出したMICは毒性が極めて高く、工場周辺の住民など4000名近くが死亡し、多くの人々が後遺症で苦しんでいる。」(浜田哲夫「化学物質」に起因する大事故災害の防止と化学物質管理士の役割:「交易社団法人日本技術士会「技術士PE」2018.2に所収の論文)

 この事故のもつ国際的な意味について、ジョゼフ・E・スティグリッツ氏は次のように述べています。
  「インド政府は経営陣を基礎しようとしたが、ユニオンカーバイドはアメリカ企業であり、アメリカは協力をこばんだ。
 CEOのウォレン・アンダーソンを含む経営陣は、インドの裁判所に告発された。彼等が裁判所に現れなかったので、インドは身柄の引き渡しをせまった。結局、2004年9月、アメリカ国務省は説明もなしに引き渡し要請をこばんだ。」(ジョゼフ・E・スティグリッツ著・○井浩一訳「世界に格差をばらまいたグローバリズム」徳間書店、2006)

(続く)

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