♦️286『自然と人間の歴史・世界篇』オーストリアの3月革命(1848~1849)

2018-07-16 21:37:30 | Weblog

286『自然と人間の歴史・世界篇』オーストリアの3月革命(1848~1849) 

 オーストリアでは、1848年3月13日に、首都のウィーンで民衆たちが蜂起する。これに恐れをなした宰相メッテルヒはイギリスに亡命する。
 3月31日、オーストリアの支配下あったハンガリーでは、バチャーュを首班とするハンガリー独立内閣が成立する。ボヘミアでも4月チェク人が動き、ボヘミア自治のための憲法制定議会を開くことを要求し、これをウィーン政府に認めさせる。6月なると、プラハで歴史家のパラッキーを議長とする汎スラブ主義よる会議が開かれ、ドイツ人に対するスラヴ人の団結を唱えるのであった。 
オーストリアの圧力の下にあったイタリアにおいても、自由主義的な動きが波及していく。3月中旬のミラノで暴動が起きると、全国に広がる。オーストリアの守備隊を国外に追いやり、自治の意識の強いヴェネツィア市は共和政を宣言する。この動きに乗じて、この年の始から自由主義憲法を発布して、自由主義運動の旗手を任じていたサルディア王カルロ・アルベルトは、オーストリア宣戦を布告し、これにはイタリア各地からかなりの援軍がかけつける。
 とはいえ、オーストリア国内の革命勢力が相互に連絡し、妥協点を見出そうとすることなく、反目し合っていた。その間に保守反動勢力は態勢を立て直していく。1848年10月ウィーンで、軍隊による反革命が成功する。ハンガリーやボヘミアの革命運動が、政府軍に各個撃破される。
 概して、これらに参加した人びとは、ブルジョア的な自由主義から勤労者的な自由主義まで、広範な領域に散らばっていた。彼らが自分たちの希望を一歩実現するには、違った階層に属する者同士が当面の目標実現のために戦術的に統一し、目の前の一歩を踏み出さねばならない。
 総じて、敵と妥協しないためには、見方と大胆で必要な妥協をすることが必要であり、そのためには揺るぎない原則というものを持たねばならない。その際には、複雑に絡み合う利害、勢力関係などをその都度見極めながらも、順序だって進んでいくことでなければならなかった。これらの地方での革命の早々での失敗は、それらが完遂できなかった点で時期尚早であったという見方もできるのかもしれない。

(続く)

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