♦️155『自然と人間の歴史・世界篇』ルネサンス(16世紀後半)

2018-07-20 22:24:57 | Weblog

155『自然と人間の歴史・世界篇』ルネサンス(16世紀後半) 

 1555年には、前にダンテ・アリギエ(ー)リ(1265~1321)の遺作「神曲」初版が発刊される。その彼は、フィレンツェの貸金業の家に生まれ、長じてはその父を継ぎ同市の政治派閥の一方(白党)の重鎮となっていた。だが、1302年にはローマ教皇を抱き込んだ他方(黒党)の圧力にフィレンツェを追われる。さぞかし、無念であったらしく、それからは、イタリア各地を転々とする間に、この著述に没頭していく。
 話の舞台は、地獄・煉獄(れんごく)・天国の3編からなる。これらのうち煉獄とは、カトリック教で死者が天国に入る前に、その霊が火によって罪を浄化される、その場所をいう。その体裁だが、自身が古代ローマの詩人ヴェルギリウスに導かれて地獄と煉獄を、それからベアトリーチェに導かれて天国をめぐり歩く。その間に、歴史上の人物の死後の姿に出会うという。これを大叙事詩調にて、語りかける。ダンテは、この「神曲」をラテン語でなく、トスカナ語(フィレンツェを中心とするトスカナ地方の口語)で描くことで、イタリア・ルネサンスの先駆者となった。
 1559年には、ジャック・アミヨがプルタルコスの『対比列伝』(仏訳本)で「文芸のルネサンス」という考え方を示す。1561年、グイッチャルディーニにより『イタリア史』が出版される。
 1568年、スペイン領ネーデルラントが独立戦争を開始する。1570年のイタリアにおいては、いわゆる神聖同盟が盟約される。これは、おりからのキプロス島の攻防をめぐってトルコと会戦していたヴェネチア共和国が、キリスト教諸国に援助を求めていた。これに対し教皇膝下のローマがスペインやイタリア諸邦に呼びかけたものである。
 その翌年の1571年のレパントの海戦に、スペインの「無敵艦隊」を主力とする同盟艦隊がトルコを打ち負かした。これは、イスラム勢力の伸長に対し、キリスト教国の陣営を守った形であった。

 しかしその反面、この勝利がスペインの勢力を強めたことがあり、17世紀を迎える頃のイタリアでは、ミラノ公国領、ナポリ・シチリア・サルデーニャ三王国領およびトスカーナ西南海岸がスペイン総督府の支配下に入った(詳しくは、森田鉄郎編「イタリア史」山川出版社、1976)。
 1580年には、モンテーニュの『随想録(エセー)』初版本が出版される。
 以上の事柄を概観するに、ルネサンス期は文芸復興に、羅針盤と活版印刷の実用化と地理上の諸発見などという外装・外観を伴っていたのである。

(続く)

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♦️154『自然と人間の歴史・世界篇』ルネサンス(16世紀前半)

2018-07-20 22:22:45 | Weblog

154『自然と人間の歴史・世界篇』ルネサンス(16世紀前半) 

 明けて16世紀の初頭からのローマでは、ユリウス2世(在位1503~13)、レオ10世(在位1513~21)などの文芸庇護者が出てくる。これに押されて、サン・ピエトロ大聖堂の全面改築、美術品の収集などの事業が行われる中で、文芸運動は盛況を迎える。1506年には、ローマのサン・ピエトロ大聖堂の改築工事が始まる。その建築主任はブラマンテであった。
 同年には、ローマのピョートル大聖堂の建造開始に伴って、資金を得るために贖宥券(通称では、免罪符)の販売が始まる。1508年、ミケランジェロがシスティナ礼拝堂天井壁画を描き始め、1512年に完成させる。
 1511年、ネーデルランド出身のルネサンス人文主義者デジデリウス・エラスムスが、ラテン語による諷刺文学『愚神礼賛』を著す。1509年から1510年の間には、ラファエロ(1483~1520)が、時の教皇ユリウス2世の委嘱を受けて「アテナイの学堂」を製作した。それには、古代ギリシアの哲学者、科学者などが堂々たる姿で描かれている。
 1513年には、マキァヴェリが『君主論』を著す、公刊されたのは1532年であった。フィレンツェの政治に関与していた経験から、イタリアで分裂と混乱回避の緊急手段として、君主に一番必要なものは強力な権力であるとした。政治行動の評価の基準を善悪から、力の行使におき、目的を達成するには権謀術数を用いても構わないとした。1515年、ギヨーム・ビュデ『古代貨幣考(アースについて)』が出版される。1515~1524年、ブロアの城館にフランソア1世館の建造が行われる。1516年、トマス・モア『ユートピア』とアリオスト『狂えるオルランド』が出版される。
 1516年、ハプスブルク家がスペイン王国を支配するに至る。1519年、マジェラン(マガリャンイス)が世界周航に出発する。文芸の都ローマについては、1527年、神聖ローマ帝国のカール5世の軍隊がローマを荒らす。これを「ローマの略奪」という。以来、ルネサンスの中心地は衰退していく。

 「フィレンツェでは「ローマ劫掠」の報が伝わると、事件の十日後の1527年5月16日、共和派と反メディチ派が一斉に蜂起し、メディチ家の二人の若い当主、イッポリトとアレッサンドロ、そしてクレメンス(ローマ教皇クレメンス7世)の名代パッセリーニ枢機卿を市から追放した。イッポリトとアレッサンドロはその傲慢で粗暴な性格のため悪評が高く、コルトーナ出身のパッセリーニも陰険で非常な人間として市民から嫌われていた。またローマにいるクレメンスの間接統治によってフィレンツェ市民は重い税負担を強いられ、メディチ支配への反感が強まっていた。共和派は、大評議会と市民軍を復活させ、ニッコロ=カッポーニを国家主席に選び、サヴォナローラ時代と同じように、「王イエス・キリスト」を戴く共和国を打ち立てた。」(森田義之『メディチ家』講談社現代新書、1999)

 1529年、皇帝カール5世とローマ教皇クレメンス7世の和睦が成立し、皇帝がメディチ家のフィレンツェ復帰を確約した。このため、皇帝軍のフィレンツェ攻撃は避けられないということになり、共和派は市の要塞化と戦争準備を進める。翌年、フィレンツェはスペイン兵を主力とする神聖ローマ皇帝軍に包囲される。攻撃を受け、市民は焦土作戦を展開して抵抗したものの、戦局の不利はあらたまらず、8月には降伏する。

 こうして、ルネサンスの中心地は衰退していく。かかる文化の潮流は、ナポリ、ヴェネチア、ミラノ、フェラーラ、マンとヴァ、ウルビノなどの大小の都市に分散していく。 

 同じ1529年には、フランス王フランソワ1世(在位1494~1547)が、古典語の研究所、のちの「コレージュ・ド・フランス」を設立する。また、フォンテンブローの離宮にロッソ・フィオレンティーノほかイタリア人職人を招く、これを「第一次フォンテンブロー派の形成」という。

 1543年には、ベサリウスによる『人体の構造に関する七つの本(ファブリカ)』とコペルニクス『天球の回転について』が出版される。1545~1563年、トレント公会議が開催され、反宗教改革の狼煙(のろし)を上げる。1547年、ミケランジェロ(1475~1564)がサン・ピエトロ大聖堂の建築主任になり、大円蓋を設計する。1550年、ジョルジョ・バザーリが『美術家列伝』で、「美術のルネサンス(ルネサンス美術)」ということば遣いの下にイタリア美術の歴史を跡づける。

(続く)

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