○62『自然と人間の歴史・日本篇』飛鳥へ(大化改新、645)

2018-07-21 21:14:22 | Weblog

62『自然と人間の歴史・日本篇』飛鳥へ(大化改新、645) 

 この変を断行し、成功した者たちが次になした政治改革こそは、「大化の改新」と呼ばれる。その時は647年(大化3年)の正月のことであった。「改新の詔」が発せられ、その中で朝廷は律令を定めることにし、こういう。
 「其の一に曰く、昔在の天皇等の立てたまえる子代(こしろ)の民、処々(ところどころ)の屯倉(みやけ)、及び、別には臣(おみ)、連(むらじ)、伴造(とものやっこ)、国造(くにのみやっこ)、村首(むらのおびと)の所有る部曲(かきべ)の民、処々の田荘(たどころ)を罷(7)めよ。仍(よ)りて食封(じきふ)を大夫(まえつきみ)より以上に賜(たま)ふこと、各差有(おのおのしなあ)らむ。
 其の二に曰く、初めて京師(みさと)を修め、畿内、国司(くにのみこともち)、郡司(こおりのみやっこ)、関塞(せきそこ)、斥候(うかみ)、防人(さきもり)、駅馬(はゆま)、伝馬(つたわりうま)を置き、鈴契(すずしるし)を造り、山河(やまかわ)を定めよ。
  其の三に曰く、初めて戸籍、計帳(けいちょう)、班田収授法を造れ。・・・・・
 其の四に曰く、旧(もと)の賦役を罷めて、田の調(みつき)を行へ。」(『日本書記』より引用)
 これより少し前の645年(皇極大王4年)、同大王が弟である軽皇子に位を譲って誕生したのが孝徳大王である。
 こうして生まれた新政権は、おそらく朝鮮半島の新羅(シルラ)との国交を回復し、都を難波に遷し、618年((日本においては推古大王26年))に誕生した大陸の唐(タン)を模範とした国造りを急いだものであろう。皇太子には、同大王の甥(おい)に当たる中大兄が就任し、辣腕をふるっていた。
 そして大化の改新から十数年が経過し、孝徳大王が逝き、その姉の斉明天皇が再度の大王位に就いていた。斉明と中大兄皇子とは、大規模な土木工事を強行して、岡本宮を造営し、そこに移り住んでいた。二人は、この工事を強行したことでの民衆や一部の豪族、貴族からの不満や反感を鋭敏にも感じていたのではないか。
 この新しい政府は、647年(大化3年)に、今の新潟あたりに○足柵(ぬたりのさく)、翌年に磐舟柵(いわふねのさく)を設ける。658年(斉明大王4年)からは、北方への遠征を敢行する。いずれも、自らの王朝の範図の拡大という野望を叶えるためであったといえる。
 おりしも、654年(孝徳大王4年)、同大王が死ぬと、中大兄の母が再び大王位につき(重○(ちょうそ)して)、斉明大王となる。その皇太子には、中大兄皇子が就任する。ところが、斉明の前の孝徳大王には有間皇子がいて、中大兄皇子とは従兄弟の間柄であった。658年(斉明大王4年)、中大兄皇子は側近の蘇我臣赤兄(あかえ)に命じて有間皇子に謀反をそそのかし、有間皇子が立ち上がるや逮捕し、死に追いやることに成功した。

(続く)

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○61『自然と人間の歴史・日本篇』飛鳥へ(乙巳の変、645)

2018-07-21 21:12:00 | Weblog

61『自然と人間の歴史・日本篇』飛鳥へ(乙巳(いっし)の変、645) 

 さて、628年(推古大王36年)には、推古女帝も死んで、敏達大王の孫の田村皇子と、聖徳太子(しょうとくたいし)の長男である山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)との間で跡目争いが起きたという。

 ここで、聖徳太子その人が存在しなかった可能性を否定できない(なので、ここでは、肯定も否定もしないまま話を進めよう)。後に創作されたのかも知れないとされる朝廷公認の「歴史」によると、山背大兄皇子の側が敗北を喫して、推古大王の甥(おい)にして中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)にとっては父に当たる田村皇子が即位(「践○(せんそ)」)して舒明(じょめい)大王となり、聖徳太子の一族だともされる彼らは根こそぎにされてしまう。

 つまびらかではないものの、そのの一族の多くは自決の道を選んだとも伝えられる。なお、この両皇子による争いの一部始終を蘇我一族の勢力拡張の野望で説明する説があるものの、そのような根拠は今日までの資料では見極めがたい。


 続いて、641年(舒明大王13年)に同大王が死ぬと、中大兄が「○(しのびごと)」の役を務めるのであった。翌年、彼の母親の宝皇女が大王位を引き継ぎ、これが皇極大王(こうぎょくだいおう)である。この間の権力継承の経緯については諸説があるが、ここでは村山光一氏の所説から暫し紹介しておく。


 「皇極二年(643)十月、蘇我蝦夷は私的に大臣の身分に伴う紫冠を長子入鹿に授け、大臣の位を入鹿に譲った。唐より帰国した僧○の学堂で学び新知識を身につけた入鹿は、皇位継承の第一の候補であった山背大兄皇子を、「国家の計」をなす器量がない人物と判断し、蘇我系の古人大兄皇子を擁立して大王とし、自ら実権を握ってその思うところの政策を遂行しようとした。そこで同年十一月、突如として斑鳩宮にいた山背大兄皇子とその一族を襲い、上宮王家を滅ぼして、独裁政権を樹立した。
 この入鹿の行動は、泉蓋素文(せんむんそむん)のクーデターに倣ったものと思われるが、その強引な権力集中は、蘇我大臣家の孤立を招いた。しかも入鹿が権力を掌握した時期は、倭国をめぐる国際情勢は緊迫しており、高句麗・百済と唐・新羅の二つの陣営からの倭国への働きかけは積極的になっていた。ところが、蘇我氏は伝統的に親百済的であり、入鹿もまた同様であったと思われ、したがって入鹿は高句麗・百済側に荷担し、新羅に対しては「任那の調」の取り立てを要求するという外交政策を打ち出した可能性が高い。
 蘇我入鹿の前記のごときいわれなき上宮王家襲撃、独裁政権の樹立、唐・新羅を敵にまわしかねない外交政策の採用は、畿内豪族層の間に急速に反蘇我大臣家勢力を結集せしめることになった。その中心は中臣鎌足と皇位継承から疎外された葛城皇子(中大兄皇子)であるが、この二人は密かに蘇我氏から権力を奪取する機会をうかがい、また来るべき新政権の外交政策、内政改革について綿密な計画を練っていた。」(国史概説Ⅰー古代・中世」慶應義塾大学通信教育教材、1988)


 ここで見逃すべきでないのは、これら一連の政治の動きには、朝廷を支える豪族たちの力の伸長があったことである。こうなると、大和の朝廷の中で、互いに並び立っている複数の有力な者同士、その集合体による勢力を一本化しようという動きが火花散るようになっていくのは避け難い。つまり、権力基盤を固めようという側からは統治の一本化、集中化は避けては通れない。ありとあらゆる権謀術数が渦巻いたに違いない。
 その中でも、土着の勢力の筆頭であった物部氏を倒してからの蘇我氏(そがし)は大きくなり、大和朝廷の重鎮となっていた。蘇我氏の方は朝廷に忠勤を励んでいるつもりでも、「大王(おおきみ)」や対抗勢力からみると、数々の不遜な動きがある、怪しいなどということになっていく。機会があれば倒したい相手と映っていたとしても、それは政治の世界のことで、特段不思議なことではない。
 その中央集権化の最初の現れが、皇極(こうぎょく)女帝の治世、645年(大化元年)の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、斉明大王の息子にして後の天智大王)が、中臣鎌足(なかとみのかまたり)と謀って主導した乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)であった。おそらく、これで蘇我氏に対し、おそらくは「無実の罪」を被せ、滅ぼしたものと考えられる。

(続く)

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○○18『自然と人間の歴史・日本篇』石器時代(石器使用の発展)

2018-07-21 09:23:06 | Weblog

18『自然と人間の歴史・日本篇』石器時代(石器使用の発展)

 大いなる気候の変化は、伊豆半島にも押し寄せたであろう。手掛かりとしては、黒曜石の利用がある。列島の後期旧石器時代前半期の約4万前から約2万8000年前にかけて各地で利用されるようになっていた。
 主たる産地の一つは、伊豆諸島・神津島(こうずしま)にあったという。南関東と中部地方南部では、伊豆諸島・神津島産の黒曜を使っていた。ちなみに、地図を広げると相当の距離があって、渡海のためには航海術を必要としたことだろう。黒曜石は、主として火山活動で生成される。そのため、産地は主に本州の山岳部にある。朝日新聞の「黒曜石を運んだ海の道、人類史の謎が眠る海」の特集記事には、こうある。
 「垂れ込めた雨雲の下、伊豆諸島・神津島(こうづしま)から小さな島影が見えた。
 太古の昔、神津島とつながっていた無人の岩礁群。恩馳島(おんばせしま)と呼ばれるこの岩礁の島に、人類史の謎が横たわっている。
 恩馳島は、考古学の世界で黒曜石の産出地として知られてきた。
 旧石器時代、黒曜石は最先端のハイテク素材だった。ガラス質の黒曜石は、うまく割ると石刃(せきじん)になる。加工すれば鏃(やじり)になる。当時、獲物を狩るための道具は命綱だった。良質な黒曜石を求め、人々はどんな遠征もいとわなかった。
 主な山地は中部日本と北海道、九州。調べると、黒曜石を運んだ距離は時に数百キロに及ぶことがわかった。本州で恩馳島の黒曜石が次々見つかったことは、さらに驚くべき発見だった。旧石器人が海を行き来し、恩馳の黒曜石を本州に運んだということになるからだ。その年代はどんどんさかのぼり、とうとう3万8千年前の遺跡からも出土した。
 「はい、船で往復した例としては、世界最古です」
 国立科学博物館の人類史研究グループ長、海部陽介さん(46)が淡々と説明する。
 海部さんによると、およそ5万前にアフリカを出たホモ・サピエンス(現生人類)が原罪のインドネシアから豪州へ海を渡ったのは4万7千年前。このときは「渡った」ことしかわかっていない。「行き来した」と「渡った」は全く違う。行き来には航海術がいる。」
(2015年7月25日付けの朝日新聞「be」欄)
  さらに、人骨と土器、そして石英製石器が同時に発掘されたという話も載っており、それにはこうある。
 「沖縄県立博物館・美術館は昨年12月、サキタリ洞で少なくとも9000年以上前の成人の人骨を発見したと発表した。成人1体の頭部など上半身と、大腿骨や骨盤などがあおむけの姿勢で見つかった。(中略)
 昨年2月に9000年前の土器が上から5層目で発見された。今回はさらに約1メートル掘り進んだ7層目での発見。詳しい分析は今後進められるが、9000年前から大幅に遡る可能性がある。これまでは愛媛県や長野県でみつかった9000~8000年前の埋葬人骨が最古級だった。
 同博物館・美術館は遺物の年代決定に放射性炭素年代測定法による誤差を補正する国際的なものさし「IntCal(イントカル)13」を昨年から採用、従来の発表年代を一部修正しているが、サキタリ洞での調査では文字通り歴史を画す発見が相次いでいる。
 12年に1万4000年前の人骨と石英製石器がそろって出土した。骨と道具が同時に出土した例としては国内最古になる。昨年2月には約2万3000~2万年前の人骨、国内最古の「貝器」、9000年前の沖縄最古の土器などを発見したことを発表、今回の埋葬人骨と続いた。
 サキタリ洞での発見に注目が集まるのは、年代の古さとともに、日本人の起源を巡る研究にも影響があるからだ。というのも、日本人のルーツを考える上で欠かすことができない「港川人」が発見された港川フィッシャー(割れ目)遺跡(八重瀬町)と、サキタリ洞とは約1.5キロの至近距離だからである。
 旧石器時代の人骨は国内でほとんど発見されていない。本土は火山灰に覆われた酸性の土壌が多いため骨や有機物が保存されにくいためで、日本最古の人骨は那覇市山下町で見つかった「山下洞穴人」。同博物館・美術館によると、約3万6000年前で、港川人は約2万2000年前と見られている。本土で確実な旧石器人の骨は静岡県浜北市(現浜松市)で出土した「浜北人」(約2万年前)だけとされている。沖縄はサンゴ礁が隆起した石灰岩地帯が多く、風化から免れた。」(日本経済新聞2015年1月27日付け)

(続く)

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○○17『自然と人間の歴史・日本篇』石器時代(最初の石器使用)

2018-07-21 09:21:08 | Weblog

17『自然と人間の歴史・日本篇』石器時代(最初の石器使用) 

 それでは、この列島に最初にやってきた人々は、どんな暮らしをしていたのだろうか。そんな観点からは、最も古い年代の石器使用はどのくらい遡るのだろうか。参考までに、日本経済新聞に、「島根・出雲の砂原遺跡の石器、「日本最古」に再修正」なる記事が載っており、こうある。
 「島根県出雲市の砂原遺跡の学術発掘調査団(団長・松藤和人同志社大教授)は7日までに、出土した石器36点について見解を再修正し、11万~12万年前の「国内最古」と結論づけた報告書にまとめた。
 2009年の発表では、12万7千年前ごろにできた地層と、約11万年前の三瓶木次火山灰でできた地層に挟まれた地層から石器が出土したとして、石器の年代は約12万年前の国内最古と発表した。
 その後、火山灰の地層は三瓶木次層でなく、約7万年前の三瓶雲南層と判明。翌年、石器の年代を7万~12万年前と幅を持たせて修正した。岩手県遠野市の金取遺跡でも5万~9万年前の石器が出土していたことから、砂原遺跡の石器も最古から最古級と見解を変更した。
 松藤教授によると、石器を含む地層の成分を詳しく調べたところ、層の中に三瓶木次火山灰が含まれていることが分かり、約11万年前と判明、石器を含む層は11万~12万年前と結論付けた。
 松藤教授は「考古学の研究であまり試みられなかった地質学の手法も組み合わせて、年代を特定できた。遺跡調査の手法を飛躍的に高める先例になるのではないか」としている。」(2013年6月7日付け日本経済新聞)
  それでは、ここに、この列島での石器の最初の使用が、最大12万年も遡るというのであれば、それからの石器の利用はどうなっていったのだろうか。ようやくにして、その輪郭らしきものが明らかになってくるのは、おりしも地球の温暖化の影響が日本列島にも進んできた頃であった。
 約1万2000年前くらいからの海面の上昇により、海岸線はどんどん陸地の奥へと入っていく。そのため、関東平野のような平地では、今日の埼玉県の西部と南部はもとより、秩父の低地にまで海が押し寄せてきた、現代の地理学では、この現象を「縄文海進」(じょうもんかいしん)、そして埼玉県の奥まで進した海のことを「奥東京湾」と呼ばれている。

(続く)

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