129の4『自然と人間の歴史・世界篇』浄土思想の成立(インド、中国そして日本)
浄土思想というのは、何だろうか。まずは、その大元となるインド仏教の発展の歴史か、紀元前後の、いわゆる「大乗仏教運動」においては、多様な教典が編纂された。それらの中から一つをひもとくと、こうある。その「仏説観無量寿経」(略して「観経」という)のごく大まかな筋は、次の通り。
その舞台としては、古代インドのマガダという国でのある事件を題材としているのだと。
その事件とは、マガダ国の王子の阿闍世(あじゃせ)が、父の頻婆娑羅(びんばしゃら)王を幽閉して、食べ物も飲み物も与えずに、いた、つまり殺そうとしたのである。
それを察知した王妃の韋提希夫人(いだいけぶにん)は、夫である王を救おうとして、ひそかに食べ物や飲み物を牢獄に運んだのだが、それが発覚してしまった。
すると、韋提希は、激怒した王子に刃を向けられ、今にも殺害されそうになったというのだから、話が混みいっている。幸い、その場に居合わせた大臣たちが王子を押しとどめたので、韋提希は殺されずにすんだという。それでも、宮殿の奥深い部屋に閉じ込められ、その間に夫の頻婆娑羅王は亡くなる。
韋提希にしてみれば、敬愛する夫が殺されたこと、しかも殺したのは自分が生み育てた王子であったこと、さらには、夫が殺されないように、二人を救おうとした自分がかえって息子に刃を向けられたことをどのように理解すればよいのだろうか、そんな破天荒な苦悩の中に投げ込まれた彼女は、釈尊を訪ね、救いを求める
そういう話の次第から、この願いに応じて、彼女の前にブッダが現れると、必死の体で「私は過去になんの罪を犯したことによってこのような悪い子を生んだのでしょうか。また「ブッダはどのような因縁があって、提婆達多という悪人と従兄弟なのでしょうか。私のために憂い悩むことなき処をお説き下さい。もはや私はこの混濁の世をねがいません」と。
そこでブッダは、眉間から光を放って諸仏の浄らかな国土(浄土)を現してみせたという。それを垣間見た韋提希は、その中から特に阿弥陀仏の極楽浄土に生まれたいと訴え、そこに行く方法を説き示されるように仏に懇願する。
そこでブッダは、眉間から光を放って諸仏の浄らかな国土(浄土)を現してみせたという。それを垣間見た韋提希は、その中から特に阿弥陀仏の極楽浄土に生まれたいと訴え、そこに行く方法を説き示されるように仏に懇願する。
それからは、「定善の観法」ということで、ブッダのいうには、精神を統一し、心を西方に専念して阿弥陀仏とその極楽浄土を観想する方法をいう。まずは太陽が西の空に沈みゆく映像を頭の中に焼き付くようになるまで観想する「日想観」、それに極楽世界のありさまや阿弥陀仏の姿やその徳などを観想し、あるいは自分が極楽浄土に往生しているありさまを観想するといったことをいう。これだけでも、なかなかに、込み入っている。
ところが、まだあって、つぎにブッダは、ひとしく極楽浄土に往生する者といっても、そこには九つの分類があることを説く。ここで九種の分類とは、極楽に往生しようとする者を、その資質や能力から上品・中品・下品の三つに分類し、さらにそれぞれの品を上・中・下の三種に分類するものであったのだと。
具体的には、上品の者にはそれぞれのレベルにふさわしい行い方を、中品の者にもまた彼らのそれぞれのレベルにふさわしい日々の行いを指し示す。
これに対して下品に属する三種の人々(下品上生・下品中生・下品下生)には、いささか違っていた。すなわち、彼らは、上品や中品の人々が行うような福徳を行うことが出来ないどころか、かえってさまざまな悪行を犯してしまう罪悪の凡夫である。
が、このような人々でも善き人の教えに出会い、南無阿弥陀仏の念仏を称えるならば極楽往生することができると説いた、これを第十六の観想というのだが、韋提希に授けたのはこちらの道しるべなのであったという。なぜなら、ブッダは、その伝授の前に韋提希がかかる事件の前から息子を殺したいと願っていたことを見抜いていた、それでも彼女が極楽へ行けるように取り計らってやったのだと。
具体的には、上品の者にはそれぞれのレベルにふさわしい行い方を、中品の者にもまた彼らのそれぞれのレベルにふさわしい日々の行いを指し示す。
これに対して下品に属する三種の人々(下品上生・下品中生・下品下生)には、いささか違っていた。すなわち、彼らは、上品や中品の人々が行うような福徳を行うことが出来ないどころか、かえってさまざまな悪行を犯してしまう罪悪の凡夫である。
が、このような人々でも善き人の教えに出会い、南無阿弥陀仏の念仏を称えるならば極楽往生することができると説いた、これを第十六の観想というのだが、韋提希に授けたのはこちらの道しるべなのであったという。なぜなら、ブッダは、その伝授の前に韋提希がかかる事件の前から息子を殺したいと願っていたことを見抜いていた、それでも彼女が極楽へ行けるように取り計らってやったのだと。
🔺🔺🔺
それからかなりの時が経っての場所は中国の唐の時代、仏教僧侶の善導大師(ぜんどうだいし、613?~681?)をもって、ひとまずの嚆矢(こうし)とすべきなのだろうか。
というのは、同時代の人物には、「三論玄義」の著者で三論宗を大成させた吉蔵(きちぞう)や、インドから大乗教典をもちかえった仏教僧で、三蔵法師の1人である玄奘(げんじょう)らがいて、彼らもまた「観経」の解釈をあれこれ研究していた。
そういうことで、次に紹介するのほ、善導の著した「観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ」(略して「観経疏」)であって、前述の「観経」の註釈である。
(続く)
♠️♠️♠️
それはさておき、この人物が平安時代中期からの日本でなぜ有名なのかというと、善導大師が著した「観経疏」の中の一文が、日本の仏教に大いなる一石を投じ、その根本理念を打ち立てさせたことがあろう。
それというのも、かの法然は、極楽往生を願う人々をなんとか救いたく、その根拠となる仏典の一節を探し求めていたのではないだろうか。来る日も来る日も、寺にある教典を片っ端からあれこれ調べていたのだという。
そしてある日のこと、偶然か、はたまた「縁」ということであったのだろうか、ともかく彼の切なる願いは叶えられたのだという。そこには「心から「南無阿弥陀仏」ととなえる者を一人残らず極楽へ迎えとる」となっており、法然はこの下りを見つけて、欣喜躍雀(きんきやくじゃく)したのだと伝わる。
その一文にいわく、「一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥に、時節の久近を問はず、念々に捨てざる者は、是を正定の業と名づく、彼の仏の願に順ずるが故に」(善導「観経正宗分散善義』巻第四(「観無量寿経疏」「散善義」)と。
ちなみに、これを見つけた法然は、こういう。
「法然上人御法語第二十五」の中の「導師嘆徳(どうしたんどく)」より引用。
「静かに以(おもんみ)れば、善導(ぜんどう)の観経(かんぎょう)の疏(しょ)は、これ西方(さいほう)の指南(しなん)、行者(ぎょうじゃ)の目足(もくそく)なり。然(しか)ればすなわち西方の行人(ぎょうにん)、必ず須(すべから)く珍敬(ちんぎょう)すべし。
なかんずく、毎夜(まいや)の夢の中(うち)に僧ありて、玄義(げんぎ)を指授(しじゅ)せり。僧というは、おそらくはこれ弥陀(みだ)の応現(おうげん)なり。爾(しか)らば謂(い)うべし、この疏(しょ)は弥陀の伝説(でんぜつ)なりと。いかに況(いわん)や、大唐(だいとう)に相伝(そうでん)して云(い)わく、「善導はこれ弥陀の化身(けしん)なり」と。爾(しか)らば謂(い)うべし、「この文(もん)はこれ弥陀の直説(じきせつ)なり」と。すでに、「写(うつ)さんと欲(おも)わん者は、もはら経法(きょうぼう)のごとくせよ」といえり。此(こ)の言(ことば)、誠(まこと)なるかな。
なかんずく、毎夜(まいや)の夢の中(うち)に僧ありて、玄義(げんぎ)を指授(しじゅ)せり。僧というは、おそらくはこれ弥陀(みだ)の応現(おうげん)なり。爾(しか)らば謂(い)うべし、この疏(しょ)は弥陀の伝説(でんぜつ)なりと。いかに況(いわん)や、大唐(だいとう)に相伝(そうでん)して云(い)わく、「善導はこれ弥陀の化身(けしん)なり」と。爾(しか)らば謂(い)うべし、「この文(もん)はこれ弥陀の直説(じきせつ)なり」と。すでに、「写(うつ)さんと欲(おも)わん者は、もはら経法(きょうぼう)のごとくせよ」といえり。此(こ)の言(ことば)、誠(まこと)なるかな。
2仰(あお)ぎて本地(ほんじ)を討(たず)ぬれば、四十八願(しじゅうはちがん)の法王(ほうおう)なり。十劫(じっこう)正覚(しょうがく)の唱(とな)え、念仏に憑(たの)みあり。俯(ふ)して垂迹(すいじゃく)を訪(とぶら)えば、専修念仏(せんじゅねんぶつ)の導師(どうし)なり。
三昧(さんまい)正受(しょうじゅ)の語(ことば)、往生に疑いなし。本迹(ほんじゃく)異なりといえども、化導(けどう)これ一(いつ)なり。
ここに貧道(ひんどう)、昔此(こ)の典(てん)を披閲(ひえつ)してほぼ素意(そい)を識(さと)れり。立ちどころに余行(よぎょう)をとどめてここに念仏に帰(き)す。それより已来(このかた)、今日(こんにち)に至るまで、自行(じぎょう)・化他(けた)、ただ念仏を縡(こと)とす。然(しか)る間(あいだ)、稀(まれ)に津(しん)を問う者には、示すに西方の通津(つうしん)をもてし、たまたま行(ぎょう)を尋(たず)ぬる者には、誨(おし)うるに念仏の別行(べつぎょう)をもてす。これを信ずる者は多く、信ぜざる者は尠(すくな)し。〈已上略抄〉
念仏を事(こと)とし、往生を冀(こいねが)わん人、豈(あ)に此(こ)の書(しょ)を忽(ゆるが)せにすべけんや。」(「勅伝第18巻」)
三昧(さんまい)正受(しょうじゅ)の語(ことば)、往生に疑いなし。本迹(ほんじゃく)異なりといえども、化導(けどう)これ一(いつ)なり。
ここに貧道(ひんどう)、昔此(こ)の典(てん)を披閲(ひえつ)してほぼ素意(そい)を識(さと)れり。立ちどころに余行(よぎょう)をとどめてここに念仏に帰(き)す。それより已来(このかた)、今日(こんにち)に至るまで、自行(じぎょう)・化他(けた)、ただ念仏を縡(こと)とす。然(しか)る間(あいだ)、稀(まれ)に津(しん)を問う者には、示すに西方の通津(つうしん)をもてし、たまたま行(ぎょう)を尋(たず)ぬる者には、誨(おし)うるに念仏の別行(べつぎょう)をもてす。これを信ずる者は多く、信ぜざる者は尠(すくな)し。〈已上略抄〉
念仏を事(こと)とし、往生を冀(こいねが)わん人、豈(あ)に此(こ)の書(しょ)を忽(ゆるが)せにすべけんや。」(「勅伝第18巻」)
(続く)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆