♦️129の4『自然と人間の歴史・世界篇』浄土思想の成立(インド、中国そして日本)

2021-03-22 19:36:44 | Weblog
129の4『自然と人間の歴史・世界篇』浄土思想の成立(インド、中国そして日本)

 浄土思想というのは、何だろうか。まずは、その大元となるインド仏教の発展の歴史か、紀元前後の、いわゆる「大乗仏教運動」においては、多様な教典が編纂された。それらの中から一つをひもとくと、こうある。その「仏説観無量寿経」(略して「観経」という)のごく大まかな筋は、次の通り。


 その舞台としては、古代インドのマガダという国でのある事件を題材としているのだと。
 その事件とは、マガダ国の王子の阿闍世(あじゃせ)が、父の頻婆娑羅(びんばしゃら)王を幽閉して、食べ物も飲み物も与えずに、いた、つまり殺そうとしたのである。
 それを察知した王妃の韋提希夫人(いだいけぶにん)は、夫である王を救おうとして、ひそかに食べ物や飲み物を牢獄に運んだのだが、それが発覚してしまった。
 すると、韋提希は、激怒した王子に刃を向けられ、今にも殺害されそうになったというのだから、話が混みいっている。幸い、その場に居合わせた大臣たちが王子を押しとどめたので、韋提希は殺されずにすんだという。それでも、宮殿の奥深い部屋に閉じ込められ、その間に夫の頻婆娑羅王は亡くなる。
 韋提希にしてみれば、敬愛する夫が殺されたこと、しかも殺したのは自分が生み育てた王子であったこと、さらには、夫が殺されないように、二人を救おうとした自分がかえって息子に刃を向けられたことをどのように理解すればよいのだろうか、そんな破天荒な苦悩の中に投げ込まれた彼女は、釈尊を訪ね、救いを求める


 そういう話の次第から、この願いに応じて、彼女の前にブッダが現れると、必死の体で「私は過去になんの罪を犯したことによってこのような悪い子を生んだのでしょうか。また「ブッダはどのような因縁があって、提婆達多という悪人と従兄弟なのでしょうか。私のために憂い悩むことなき処をお説き下さい。もはや私はこの混濁の世をねがいません」と。

 そこでブッダは、眉間から光を放って諸仏の浄らかな国土(浄土)を現してみせたという。それを垣間見た韋提希は、その中から特に阿弥陀仏の極楽浄土に生まれたいと訴え、そこに行く方法を説き示されるように仏に懇願する。
 
 それからは、「定善の観法」ということで、ブッダのいうには、精神を統一し、心を西方に専念して阿弥陀仏とその極楽浄土を観想する方法をいう。まずは太陽が西の空に沈みゆく映像を頭の中に焼き付くようになるまで観想する「日想観」、それに極楽世界のありさまや阿弥陀仏の姿やその徳などを観想し、あるいは自分が極楽浄土に往生しているありさまを観想するといったことをいう。これだけでも、なかなかに、込み入っている。
 ところが、まだあって、つぎにブッダは、ひとしく極楽浄土に往生する者といっても、そこには九つの分類があることを説く。ここで九種の分類とは、極楽に往生しようとする者を、その資質や能力から上品・中品・下品の三つに分類し、さらにそれぞれの品を上・中・下の三種に分類するものであったのだと。
 具体的には、上品の者にはそれぞれのレベルにふさわしい行い方を、中品の者にもまた彼らのそれぞれのレベルにふさわしい日々の行いを指し示す。
 これに対して下品に属する三種の人々(下品上生・下品中生・下品下生)には、いささか違っていた。すなわち、彼らは、上品や中品の人々が行うような福徳を行うことが出来ないどころか、かえってさまざまな悪行を犯してしまう罪悪の凡夫である。
 が、このような人々でも善き人の教えに出会い、南無阿弥陀仏の念仏を称えるならば極楽往生することができると説いた、これを第十六の観想というのだが、韋提希に授けたのはこちらの道しるべなのであったという。なぜなら、ブッダは、その伝授の前に韋提希がかかる事件の前から息子を殺したいと願っていたことを見抜いていた、それでも彼女が極楽へ行けるように取り計らってやったのだと。

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 それからかなりの時が経っての場所は中国の唐の時代、仏教僧侶の善導大師(ぜんどうだいし、613?~681?)をもって、ひとまずの嚆矢(こうし)とすべきなのだろうか。
 というのは、同時代の人物には、「三論玄義」の著者で三論宗を大成させた吉蔵(きちぞう)や、インドから大乗教典をもちかえった仏教僧で、三蔵法師の1人である玄奘(げんじょう)らがいて、彼らもまた「観経」の解釈をあれこれ研究していた。

 そういうことで、次に紹介するのほ、善導の著した「観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ」(略して「観経疏」)であって、前述の「観経」の註釈である。
 



(続く)


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 それはさておき、この人物が平安時代中期からの日本でなぜ有名なのかというと、善導大師が著した「観経疏」の中の一文が、日本の仏教に大いなる一石を投じ、その根本理念を打ち立てさせたことがあろう。
 それというのも、かの法然は、極楽往生を願う人々をなんとか救いたく、その根拠となる仏典の一節を探し求めていたのではないだろうか。来る日も来る日も、寺にある教典を片っ端からあれこれ調べていたのだという。
 そしてある日のこと、偶然か、はたまた「縁」ということであったのだろうか、ともかく彼の切なる願いは叶えられたのだという。そこには「心から「南無阿弥陀仏」ととなえる者を一人残らず極楽へ迎えとる」となっており、法然はこの下りを見つけて、欣喜躍雀(きんきやくじゃく)したのだと伝わる。

 その一文にいわく、「一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥に、時節の久近を問はず、念々に捨てざる者は、是を正定の業と名づく、彼の仏の願に順ずるが故に」(善導「観経正宗分散善義』巻第四(「観無量寿経疏」「散善義」)と。

 ちなみに、これを見つけた法然は、こういう。

 「法然上人御法語第二十五」の中の「導師嘆徳(どうしたんどく)」より引用。
 「静かに以(おもんみ)れば、善導(ぜんどう)の観経(かんぎょう)の疏(しょ)は、これ西方(さいほう)の指南(しなん)、行者(ぎょうじゃ)の目足(もくそく)なり。然(しか)ればすなわち西方の行人(ぎょうにん)、必ず須(すべから)く珍敬(ちんぎょう)すべし。
 なかんずく、毎夜(まいや)の夢の中(うち)に僧ありて、玄義(げんぎ)を指授(しじゅ)せり。僧というは、おそらくはこれ弥陀(みだ)の応現(おうげん)なり。爾(しか)らば謂(い)うべし、この疏(しょ)は弥陀の伝説(でんぜつ)なりと。いかに況(いわん)や、大唐(だいとう)に相伝(そうでん)して云(い)わく、「善導はこれ弥陀の化身(けしん)なり」と。爾(しか)らば謂(い)うべし、「この文(もん)はこれ弥陀の直説(じきせつ)なり」と。すでに、「写(うつ)さんと欲(おも)わん者は、もはら経法(きょうぼう)のごとくせよ」といえり。此(こ)の言(ことば)、誠(まこと)なるかな。
 
2仰(あお)ぎて本地(ほんじ)を討(たず)ぬれば、四十八願(しじゅうはちがん)の法王(ほうおう)なり。十劫(じっこう)正覚(しょうがく)の唱(とな)え、念仏に憑(たの)みあり。俯(ふ)して垂迹(すいじゃく)を訪(とぶら)えば、専修念仏(せんじゅねんぶつ)の導師(どうし)なり。


 三昧(さんまい)正受(しょうじゅ)の語(ことば)、往生に疑いなし。本迹(ほんじゃく)異なりといえども、化導(けどう)これ一(いつ)なり。
 ここに貧道(ひんどう)、昔此(こ)の典(てん)を披閲(ひえつ)してほぼ素意(そい)を識(さと)れり。立ちどころに余行(よぎょう)をとどめてここに念仏に帰(き)す。それより已来(このかた)、今日(こんにち)に至るまで、自行(じぎょう)・化他(けた)、ただ念仏を縡(こと)とす。然(しか)る間(あいだ)、稀(まれ)に津(しん)を問う者には、示すに西方の通津(つうしん)をもてし、たまたま行(ぎょう)を尋(たず)ぬる者には、誨(おし)うるに念仏の別行(べつぎょう)をもてす。これを信ずる者は多く、信ぜざる者は尠(すくな)し。〈已上略抄〉
念仏を事(こと)とし、往生を冀(こいねが)わん人、豈(あ)に此(こ)の書(しょ)を忽(ゆるが)せにすべけんや。」(「勅伝第18巻」)

(続く)

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○234の5『自然と人間の歴史・日本篇』江戸庶民の暮らし(天保、弘化の頃)

2021-03-22 08:40:49 | Weblog
234の5『自然と人間の歴史・日本篇』江戸庶民の暮らし(天保、弘化の頃)

 さて、幕末にさしかかる天保、弘化の頃、江戸庶民の暮らしは、どうなっていたのだろうか。それを窺い知る助けをなるのが、たとえば、徳富蘇峰が調べた上での次の注意書きであり、次に紹介したい。

 「〔註〕天保、弘化度、社会生活の一斑いっぱんは、左に掲ぐる、当時の記録によりてその一斑を察すべし。
 農夫一人婦(よめ)一人劇しき時に日雇一人にて田一町を耕やす。種一斛(いっこく)蒔(ま)きて穀四十斛ばかりを穫べし。摺(す)りて米二十斛も有るべし。御年貢諸掛り五斛ばかりを納めて、残り十五斛ばかりも有るべし。その内五斛は田の主へ納め、全く十斛ばかりが作得なり。また畑五段ばかりを耕し大根二万五千根を得べし(一段五千根の積もり)。売りて百三十五貫文ばかりになる(一根五文二分の積もり)。

 この内糞(こえ)の価五十貫江戸へ船賃二両二分運賃四十貫を引き、全く二十八貫七百五十文が得分なり。ただしこの五段の内三段へ麦を作り六斛ばかりも得べし。御年貢三貫文も上納して、二十五貫七百五十文(金四両ばかりとす)と米十斛麦六斛を一夫一婦一年の辛苦料と知るべし。    

 この内夫婦の食麦三斛六斗米一斛余を引き、また日雇の扶持(ふち)麦一斛八斗米五斗を引き、正月餅などの米三斗余と種穀たねもみ一斛を引き、また子女あればその食料一人に九斗ばかりと積もり、また親属故旧の会食二斗を引けば、米七斛二斗を残す。金七両余に充(あ)つべし。畑の得分と合せ十一、二両に過ぎず。塩、茶、油紙の費(つ)いえ二両ばかり、農具の価家具の料二両ばかり、


 茶、油紙の費(つ)いえ二両ばかり、農具の価家具の料二両ばかり、薪炭等壱両余、夫婦衣服子女の料ともまた一両二分余、春を迎え歳を送り魂たま祭り年忌ねんき仏事の入用二両余、日雇賃一両二分余、親属故旧こきゅうの音信贈遺ぞうい一両ばかり、すべて十一両余を引き、残る所二、三分に足らず。故に風寒暑湿に侵され一、二月も怠惰する時は、収穫に損ありて医薬の価に充あつるに足らず、何を以て他に費す余力を得べけんやという。これにて農夫の辛苦を知るべし。


 大工は一日工料四匁二分飯米料一匁二分をうく。ただし一年三百五十四日の内、正月節句風雨の阻(さまたげ)などにて六十日も休むとして、二百九十四日に銀一貫五百八十七匁六分なり。夫婦に小児一人の飯米三斛こく五斗四升、この代銀三百五十四匁、店賃(たなちん)百弐拾匁、塩、醤油、味噌、油、薪炭代銀七百目(一日銀一匁九分余)、道具家具の代百二十匁、衣服の価百二十目、親属故旧の音信祭礼仏事等に百匁程、都合一貫五百十四匁ばかりを費して、僅かに七十三匁六分を余(あま)せり。もし子二人あるかまた外に厄介(やっかい)あれば、終歳の工料を尽して以て供給に足らず、何の有余を得て酒色に耽楽する事を得んと。これ工匠の労と産とを勘(かんが)え知るべき大略なり。(中略)

4酒の代にや為なしけん、積みて風雨の日の心充(あ)てにや貯うるならん。これその日稼かせぎの軽き商人の産なり。ただこれはなお本資もとでを持ちし身上なり。これ程の本資もたぬ者は人に借る。暁烏(あけがらす)の声きくより棲烏(とまりがらす)の声きくまでを期とす。利息は百文に二文とかいう。一両に二百文の利息しかも一日の期なり。一月に六貫の割と知らる。ただし借人は七百文の銭にて一日に一貫二、三百文にも売上げるゆえ、七百文の銭に二十一文の利息を除いて、その外五百七十五文の稼かせぎあり。依(よ)って借も貸も利ありて損なし。
 大都の商人みせに長少打交(うちまじり(四、五人もあるべし。内に妻子眷属(けんぞく)下女等までまた四、五人、合わせて八、九人の家にては精米一年に十四石四斗ばかり、この価十五両、味噌一両二分ばかり、醤(こんず)二両一分ばかり、油三両ばかり、薪四両二分ばかり、炭三両二分ばかり、大根漬一両三分ばかり、菜蔬(さいそ)の料家具の料十四、五両、衣服の料また十七、八両、普請(ふしん)の料六、七両、給金(きゅうきん)八、九両、地代二十二、三両、都合百両余を費すべし。百両の利を得るには千両の本資もとでなくては叶わず。ただし七百の本資にて七百を得るは易く千両の本資にて百両を得るは難しという。

 これを武家の禄に比するに、百両は三百石に準ず。三百石の家にては侍二人、具足持ぐそくもち一人、鑓持やりもち一人、挾箱(はさみばこ)持もち一人、馬取二人、草履(ぞうり)取一人、小荷駄(こにだ)二人の軍役を寛永十年二月十六日の御定めなり。今の世の価にては侍二人の給金八両、中間(ちゅうげん)八人の給金二十両、馬一疋秣まぐさ代九両を与え、また十人扶持ぶち五十俵を与うれば、残り百三十九俵あり。その内十人の者に塩噌菜代十三両を与え、さて後が我勤(わがつとめ)と武具、家具、普請の入用六、七両を引き、妻子下女らと共に四、五人の費用三十両ばかりとして、総ては五十両余を用うべし。
 百三十九俵を売りて四十六両と少しなり。この法にては年分三両余の不足となる。寛永十年より弘化二年まで二百十三年の間、三両余の不足積りて六百三十六両の借金となり、三百石に六百両の借金あれば利息年分三十両を私うては百両の金僅かに七十両に減ず。依って十人の下僕げぼくを育やしなうことあたわず。これを省きて漸くその日その日を過すのみに至る。これ武家の禄法を察知する一端というべし。」(徳富蘇峰「吉田松陰」)

 ここまで読んでこられて、いささか雑多な印象をもたれるかもしれない、けれども、当時の暮らし向きがそれなりに肉感的に伝わっている面もあるのではないだろうか。

(続く)


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