144の2『岡山の今昔』湛井用水路(総社市)
治山治水のうち、灌漑というのは、古代メソポタミア以来、人類が生きていくための悲願ともなってきたのであろう。岡山の地で、それにかなう熱意には、やはり地域の人々の多年にわたる努力が受け継がれてきた、それらの中から幾つかを簡単に紹介してみたい。
湛井(たたい)の用水路というのは、現在の総社市にあるという。そのあらましは、湛井(たたい)付近で高梁(たかはし)川から取水する。それからは、いわゆる児島湾干拓地の興除(こうじょ)、すなわち、あの江戸期取り組まれた新田に至るのだという。灌漑面積は約5000ヘクタールの規模だというから、実に多くの耕地が水の恩恵に浴していることになろう。
治山治水のうち、灌漑というのは、古代メソポタミア以来、人類が生きていくための悲願ともなってきたのであろう。岡山の地で、それにかなう熱意には、やはり地域の人々の多年にわたる努力が受け継がれてきた、それらの中から幾つかを簡単に紹介してみたい。
湛井(たたい)の用水路というのは、現在の総社市にあるという。そのあらましは、湛井(たたい)付近で高梁(たかはし)川から取水する。それからは、いわゆる児島湾干拓地の興除(こうじょ)、すなわち、あの江戸期取り組まれた新田に至るのだという。灌漑面積は約5000ヘクタールの規模だというから、実に多くの耕地が水の恩恵に浴していることになろう。
この用水路が最初につくられたのは、平安初期にさかのぼる説もあるというから、驚きだ。また寿永(じゅえい)年間(1182~1184)に豪族で平氏の家人である妹尾兼康(かねやす)が大改修を行い、取水口を現在地に移築したとする伝承がある。
江戸時代においては、刑部(おさかべ)、真壁、八田部(やたべ)、三輪、三須(みす)、服部(はっとり)、生石(おいし)、加茂、庭瀬(にわせ)、撫川(なつかわ)、庄(しょう)、妹尾(せのお)の12郷68村を灌漑したことから、この名があるという。
それからかなり後になっての1965年(昭和40)湛井堰(せき)は高梁川下流域の合同堰として、重力式コンクリート固定堰に改修され、関係市町村による湛井十二ヶ郷組合が運営している。
(続く)
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江戸時代においては、刑部(おさかべ)、真壁、八田部(やたべ)、三輪、三須(みす)、服部(はっとり)、生石(おいし)、加茂、庭瀬(にわせ)、撫川(なつかわ)、庄(しょう)、妹尾(せのお)の12郷68村を灌漑したことから、この名があるという。
それからかなり後になっての1965年(昭和40)湛井堰(せき)は高梁川下流域の合同堰として、重力式コンクリート固定堰に改修され、関係市町村による湛井十二ヶ郷組合が運営している。
(続く)
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