◻️144の2『岡山の歴史と岡山人』湛井用水路(総社市)  

2021-03-26 22:20:59 | Weblog
144の2『岡山の今昔』湛井用水路(総社市)

 治山治水のうち、灌漑というのは、古代メソポタミア以来、人類が生きていくための悲願ともなってきたのであろう。岡山の地で、それにかなう熱意には、やはり地域の人々の多年にわたる努力が受け継がれてきた、それらの中から幾つかを簡単に紹介してみたい。

 湛井(たたい)の用水路というのは、現在の総社市にあるという。そのあらましは、湛井(たたい)付近で高梁(たかはし)川から取水する。それからは、いわゆる児島湾干拓地の興除(こうじょ)、すなわち、あの江戸期取り組まれた新田に至るのだという。灌漑面積は約5000ヘクタールの規模だというから、実に多くの耕地が水の恩恵に浴していることになろう。

 この用水路が最初につくられたのは、平安初期にさかのぼる説もあるというから、驚きだ。また寿永(じゅえい)年間(1182~1184)に豪族で平氏の家人である妹尾兼康(かねやす)が大改修を行い、取水口を現在地に移築したとする伝承がある。

 江戸時代においては、刑部(おさかべ)、真壁、八田部(やたべ)、三輪、三須(みす)、服部(はっとり)、生石(おいし)、加茂、庭瀬(にわせ)、撫川(なつかわ)、庄(しょう)、妹尾(せのお)の12郷68村を灌漑したことから、この名があるという。
 それからかなり後になっての1965年(昭和40)湛井堰(せき)は高梁川下流域の合同堰として、重力式コンクリート固定堰に改修され、関係市町村による湛井十二ヶ郷組合が運営している。


(続く)


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◻️204の3『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、杉本京太)

2021-03-26 22:09:07 | Weblog
204の3『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、杉本京太)

 杉本京太(すぎもときょうた、1882~1972)は、発明家だ。大阪市電信技術者養成所を卒業する。

 その大阪で、活版印刷関係の仕事につく。その後には、東京へ。
 追っての大正4年には、実用的な和文タイプライターを発明し、特許を取得する。一番の問題は、膨大な常用漢字を盤上に並べられないことにあった。その上、邦文では五十音を並べるのみならず、常用漢字だけでも2136文字もあるから。

 ところが杉本は、ありきたりの解決方法ではなく、文字盤にキーを並べるのではなく、独自の配列で文字庫に並べた2400文字の活字盤をタイプライターの下に配置したという。

 かくて、1915年に「特許第27877号タイプライター」を取得してからは、世の中にうって出る。

 その使い方としては、(筆者も買い求めて使っていたのだが)、下の段に保管されている文字の中から適当なものに照準を合わせてハンドルを動かし、打点の操作を行う。すると、その金属活字かその下からつまみだされて、最上部にセットされている紙に印字されるというあんばいだ。

 その2年後には、日本タイプライター株式会社を設立する。また、和文タイピストの養成にもつくす。他にも、1936年(昭和11年)には、国産の小型トーキー映写機をつくる。
 
(続く)

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◻️176の11『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、河本公軒)

2021-03-26 19:59:59 | Weblog
176の11『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、河本公軒)

 河本公輔(かわもときんすけ、1775~1832)は、江戸時代後期の国学者にして歌人だ。
 当時の岡山城下の船着町に本拠をおく豪商、河本立軒の生まれ。しかも長男ということで、幼い頃から将来を嘱望されたことだろう。しかし、やがての彼は明らかに違っていたようだ。
 そうなるのはいつの頃からだろうか、家業を引き継ぐのではなく、学問というか、かしこまっていうならば文雅をこころざすと心に決めたのであろう。それが何に影響されての決意であったのかは、よくわかっていないようだ。家督を弟にゆずり、自らは京都に移る。

 賀茂季鷹(かもすえたか)に歌学を、本居大平(もといおおひら)に国学をまなぶ、などという話であって、大いに驚かされる。これで「営利は脱した」というのはもっともながら、いわゆる、食いぶちはあてがわれたのではないか。そうであるなら、当面の生活には困らなかったのではないだろうか。

 その後の本人は精進したに相違あるまい。元々が才能があったらしく、そのうちに芸にも秀でるうちに、門人に公卿も多く集まるようになっていく。

 著作に「名字弁」「竹取物語管見」などがあるといい、ならば後の世にどのような影響をの与えたのだろうか、興味深いことだ。


(続く)

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◻️204の1『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、相賀武夫)

2021-03-26 09:34:35 | Weblog
204の1『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、相賀武夫)

 相賀武夫(おうがたけお、1897 ~1938)は、出版社の経営者だ、しかも時代を先取りするかのような鋭敏が持ち前であるような、そんな天才肌の人物であったようだ。庄屋の息子として生まれる。しかし、生家は没落し、小学校卒業後は書記見習として農学校に就職する。

 そこで2年ほど勤めるうちに、何かの啓発に触れたのか、自らの考えが育ったのだろうか、岡山市の吉田書店に就職し、しかも、吉田書店が新しく設けた東京出張所の主任に任じられて上京したという。

 やがて、その吉田書店の店主吉田岩次郎の承諾により、東京市神田区錦町に小学館を創業する。その意気込みたるや、並々ならぬものがあったのではなかろうか。

 1922年中に、出版界最初の学年別学習雑誌、小学五年生、小学六年生を創刊した。1923年09月01日の関東大震災では、大きな打撃を受けたという。それでも、雑誌を刊行し続けたという。

 1926年には、小学館から娯楽誌出版部門を分離独立させ、1926年に、「英知が集う」集英社を設立する。

 1929年夏から病床を余儀なくされたのは、年来の体の無理があったのではないか。そのうちに日蓮宗に帰依したというのは、その日蓮の人生に自己を重ねていたと、言えなくもあるまい。晩年には、なにかしらおのが人生をふりかえることもあったのではないだろうか。そのひたむきな生き方は、さながら、人類の未来を夢見ての開拓者精神の賜物として永く語り継がれることだろう。


(続く)

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◻️203『岡山の今昔』岡山(19~20世紀、宇野円三郎)

2021-03-26 08:09:07 | Weblog
203『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、宇野円三郎)

 宇野円三郎(うのえんざぶろう、1834~1911)は、土木と災害対策の啓蒙。かつ実践家として広く知られる。備前の和気郡福田村(現在の備前市福田)の生まれ。17~28歳の時の長きにわたり同村の名主を務めたのは、庄屋家柄によるものだろうが、驚きだ。

 熊沢蕃山の遺著「集義外書」「大学或問」を読み、治山治水に関心をもったらしい。29歳で福田村で土砂流出防止の工事に携わる。1880年(明治13年)には、大洪水があった。高梁川流域が水浸しになり、これに危機感を抱いた宇野は1882年(明治15年)、県令高崎五六に「治水建言書」を提出する。 

 それが受け入れられたのだろう、同年11月付けで岡山県土木掛雇に就任する。翌年、わが国初の砂防法である岡山県砂防工事施行規則が制定される。

 それからは、田地子村(岡山市北区建部町)、久代村・見延村(総社市)、巨瀬村(高梁市)などで、石積堰堤、石巻谷止工、山腹工など、県の砂防工事の先頭に立つ。

 その一つにつき、次の「砂防工碑」が建てられており、こんな解説がなされている。

 「近時、我岡山県下の諸川は、長雨ごとに氾濫・決壊し住民の財産を損傷することが多かった。これは伐採する時を定めず山に入るので、山林が自然に禿げて土砂が崩壊し、川が埋まってしまうからであると思われる。 岡山県人宇野圓三郎氏はこれを嘆いて、土砂の崩壊を防ぎ止めることと、山林培養の方法をとらざるを得ないということを、明治15年(1882)4月先の県令(県知事)高崎君に建言したところ、県令は喜んでこれを受け入れ宇野氏にこれを担当させることにした。
 これにより宇野氏は、松苗を植え土砂の崩壊を工事のため忙しく働きながら努力したところ大いにその効果があらわれたので、県知事千坂君は大変喜んで益々これを奨励し禿げ山となればこの工事を施さない所はないというようになった。
 我が賀陽郡見延・穴栗・槇谷・奥坂・西阿曽・久米・黒尾の諸村は山の谷間に跨がっていて、しばしばこの害を蒙り、嘆く声が絶えない状況であったが、初めてこういう工事が起こされたので、願い出てこの地へもそれを試みてもらうことにした。(以下、略)明治22年(1889)7月上多田反一 述作」(原文は漢文にて、また訳文は砂防公園内の案内板より)」

(続く)

(続く)

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