◻️50の3『岡山の今昔』江戸時代の岡山商人

2021-03-23 22:26:11 | Weblog
50の3『岡山の今昔』江戸時代の岡山商人

 江戸時代の岡山を語るのに、商人たちの動向がどのようであったかは欠かせまい。まずは、京橋交番の少し手前にある花壇の中に、「旧橋本町」と記された地名由来碑が立っていて、「江戸時代は、旭川の水路と山陽道の陸路を利用する多くの問屋がありました」と刻んであるという。

 なお、当時の岡山城下の区割りのおおよそについては、さしあたり「絵で歩く岡山城下町」(岡山大学付属図書館編、吉備人出版、2009)を推奨したい。

 この界隈には高瀬舟の発着場が幾つもあり、「海船72隻、河船86隻」(「備陽記」)ともいわれる多数の舟がやって来て、あるいはここを拠点に城下の川岸という川岸に人や荷物を送り届けていたと聞く。

 そんな京橋界隈、すなわち京橋を渡ったところの一角、橋を渡って直ぐのところの橋本町(現在の京橋町)側には「大門」があったようだ。それに、門の南に接して高札場があり、なんだか晴れがましい。その区割りの中には、商家が多かったとのこと。

 江戸初期からの淀屋佐々木家、塩屋の武田屋、それに享保年間以降「木屋丁子香」で知られた木屋清七郎も、それぞれが大店を構えていたことになっている。

 中でも武田家は、安永(1772~1781)の頃には「岡山の筆頭長者」といわれていた。およそ二千貫目位の元手銀を倉に持っていたという。これなら、かの井原西鶴の「銀五百貫目よりして、是を分限といえり、千貫目のうえと長者とはいうなり」とあるのも、合点がいく。

 それでは、なぜそれだけの銭を貯めることができたのだろうか。それは、武田家は、橋本町で両替商を営んでいたからだ。

 江戸時代中後期の塩屋武田家は、諸物問屋でもあり、両替とももに藩の用達を勤めた。主な用達は、藩に金を融資する役である。安永年間(1772~81)の武田本家善次郎の時が最盛期であったろうか。二日市町内に五反(約五〇アール)の別邸屋敷地を持っていたという。

 珍しいところでは、五代目の与三太夫(1732~1798)は「松後」と号す、蕉風美濃派の六世を継いだ著名な俳人であったとのこと。また七代三郎左衛門(1778~1853)は、円山応挙・応瑞父子に学んだ経歴をもつ画人であった。

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 一方、淀屋佐々木家は、播州の出であり、浪人していた与三太夫が池田輝政に召し出され、播州浜田の代官を勤めた。その息子の池田忠継が岡山藩主となり、兄の池田利隆が後見役として岡山に入ったおりに十人の大年寄をおいた由。その利隆とともに岡山に移った淀屋三郎兵衛は与三太夫の二男で大年寄の一人であった。
 その後利隆の長男光政が、鳥取を経て1632年に岡山に移封されたときも、大年寄は十人が揃えられた。そして迎えた1667年(寛文7年)の藩文書に見える大年寄の一人、佐々木三郎右衛門とは、その三郎兵衛の息子なのであった。
 そんな淀屋佐々木家の主な商売は、質屋であり、暴利を貪っていたのは、おおかた間違いあるまい。それでも、この質商売は、幕府による1723年(享保8年)の利息統制、1731年(同16年)の年利15%での公営的な質屋の出現により、転機を迎えていく。さらに、1801年(享和元年)には、近世初期からの有力商人であり続けた淀屋佐々木家の経営も破産となり、上道郡倉田に店を移転した由。

 この二つの大店(おおだな)の名前が揃い踏みする事態が、1745年(延享2年)に起こった。その年の梅雨から夏場の洪水で、領内の収納高の減少は10万4千石にも上ったとされる。そこで、岡山藩は、大坂の銀主への借銀返済と藩士らへの貸付銀に当てようと、その2年後、領内の豪商に米と銀の借上げを命じた。
 これに応じ淀屋佐々木与三太夫が6家とともに米計2万俵を、また塩武田伝兵衛ら5家が、各銀百貫目を出銀した。いづれも融資なのだが、これにより、岡山藩の財政は救われた形となっている(詳しくは、たとえば、片山新助「岡山の町人」岡山文庫117、1985を参照されたい)。

 
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 他にも、益屋や小豆島屋、それに木屋などの有力商人たちが、ここで諸物問屋を営んでいた。これらのうち木屋は、享保年間以降「木屋丁子香(きやちょうじこう)」と呼ばれる家伝のびんつけ油で知られた木屋清七郎においては、大店を構えて手広く商売をしていたようだ。

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 備中屋藤田家は、丸亀町に店を構えていた。ここは、現在の北区野田屋町二丁目。博労(牛馬の商人)が多く住んでいた。そのため、はじめは博労町の名前であったのが、1676年(延宝4年)に山崎町と丸亀町に別れ、町名から消えた。丸亀の由来について、一説には、町内に金毘羅宮が四国の丸亀にちなんでこの名になったという。

 この備中屋は、享保から宝暦年中に、旧勢力のかなりの数の没落(注)に代わって台頭した商家の一つだ。元々は、備中松田家の家臣、藤田大炊助を祖としている。

 (注)「元禄ー享保期(1688~1736)、門閥商人ら旧勢力が衰える中で、財力を貯えてくるのが、仁尾入江家(川崎町)、和田家常盤家(常盤町)、茶屋天野屋(児島町)、灰屋河本家(船着町)、塩屋武田家(橋本町)、少し遅れて備中屋藤田家(丸亀町)、五明屋森家(小橋町)らである。」(片山・前掲書)

 1711年(宝永8年)年の間口は、まだ3間2尺であったらしい。それが、1751年からの宝暦年間には丸亀町元店の間口7間、他に6筆、間口25間2尺の屋敷を持つまでの大店になっていたという。
 本家は、1788年(天明8年)に藩札を発行する銀元に、船年寄、惣年寄格などの町政にも参画していく。
 顧みれば、享保年中の岡山藩士への金貸し、つまり質屋からはじめて、天城池田家、伊木、土倉などの藩の家老、支藩扱いの足守、庭瀬、撫川戸川などの諸藩にも金融を行うようになるうちに、岡山町政の中心的な家柄となっていく。
 なお、こうした拡張ぶりも、宝暦~天明にピークを迎えてからは、後述のように、貸したお金の多くは不良債権化を強め、文政のはじめ頃からは家産を傾けはじめていく。

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 塩涌屋(しわくや)国富家は、紙屋町の名主にして、生魚問屋と銭屋を営み、富田町の出店では質屋もしており、江戸時代後期の二代目、源次郎(1754~1834)の代に台頭してくる。

 参考までに、その辺りは「京町西詰めの町」(文久城下図)と通称されているように、西から来て京町を渡った後、橋本町から西大寺町へ、さらにその北側が紙屋町だ。謂れによるとこの町には、「当初児島郡村出身の麹屋(こうじや)が多かった。火を使うことから、火災を心配して、藩の命令で児島町に移転となる。その後に紙を扱う商人が進出してきたための命名であったらしい。

 寛政期(1789~1801)に銀10貫目で藩への融資を始めたようで、それが1812年(文化9年)になると、「子孫永永相続を仰せつけられるように」との思惑にて、銀300貫目を献金したのだと伝わる。
 それからも藩への忠勤に励んだのであろうか、1854年(天保14年)用達の藩への出銀高一覧によれば、銀70貫目を供出、役名は惣年寄格(そうとしよりかく)の扱いにのしあがってきていた。1854年(嘉永7年)には、町奉行の指揮下で城下町の民政や財政を取り仕切る町民の最高位者、惣年寄に任ぜられる。

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 それから、灰屋河本家の本宅は、船着町にあり、3代目の頃には、諸国物産卸売問屋で巨万の富を蓄えた。

 その初代は河本五郎右衛門常平といって、大坂の豪商淀屋辰五郎介庵との人脈があったという、その「つて」であったのだろうか、岡山藩の経済顧問に迎えられる。
 二代目の定平の代には、船着町に住みつく。その屋号を「灰屋」に定めて、燃料関係やらの商売に励んだ模様だ。ところが、親の常平同様に50歳で高野山に入ってしまったとのこと。こうした親子二代の風変わりな生活ぶりがある中で、商売の基礎が成り立っていったようだ。

 そして、この風変わりな河本家に、一大転機がやって来る。三代目の一居(いっきょ)、四代目の巣居(そうきょ)、さらに五代目の一阿(いちあ)と続く中で、当主らが率先して全国を馳せ回り、これぞと思う諸国の産物を見つけては先物買いまでを行う、巨利を得ることに貪欲であった。
 特に、一居の時代には、また「禁裏御用達」の資格を得ると、長崎に出店を設けて中国との交易に乗り出したという。

 そればかりではない。同じ岡山の豪商の中では、かなり変わっていた。すなわちそれは、商売で得たカネの多くを文物の収集に振り向けることであった。具体的には、それらで得た万金を、彼らはおよそ三代にわたり書画骨董から書籍に至るまでつぎ込んで買い求めることをしたのである。



(続く)


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