◻️211の24『岡山の今昔』岡山人(20世紀、中山幸市)

2021-03-31 15:04:51 | Weblog
211の24『岡山の今昔』岡山人(20世紀、中山幸市)

 中山幸市(なかやまこういち、1900~1968)は、実業家だ。
 1921年(大正10年)には、大阪の関西大学専門部商科に入学する。1924年(大正13年)に同校を卒業後、兵庫県神戸市の神戸高等商船学校(現在の神戸大学海事科学部)の実務指導教師となる。

 1930年(昭和5年)には、神戸市に関西電話建物を創業する。その後別の事業に移るも、1942年(昭和17年)には、古巣の日本電話建物に復帰する。1945年(昭和20年)の大戦末期に、再び退社したようだ。

 戦後の1950年(昭和25年)には、かねてからの構想を実地に表してみようということであろうか、太平住宅を創業する。3割の頭金のみで家を建てる方式を確立する。これが当たる。事業は拡大し、日本電建、殖産住宅相互と並ぶ「割賦三社」にのしあがる。1953年(昭和28年)には、太平火災を創業して、こちらの社長にも就任する。

 1956年(昭和31年)になると、母校の関西大学法人評議員に選出される。それに、大阪商業大学教授に就任する。

 なにかと忙しい身の上であっただろうに、1960年(昭和35年)には、太平ビルサービスを立ち上げる。事業意欲はなお旺盛にて、1962年(昭和37年)以降、太平観光(1963年)、太平音響(のちのミノルフォン、現在の徳間ジャパンコミュニケーションズ、1965年)、太平出版社(1965年創業)、タイヘイフィルム(1965年)という慌ただしさだった。この間に、10数社もの関連会社を創業し、「太平グループ」を築いたというから、驚きだ。折しも、高度成長期での労働者所得増加や、若者世帯の需要が後押した形であったようだ。


(続く)

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◻️171の10『岡山の今昔』岡山(18~19世紀、小野光右衛門)

2021-03-31 14:53:48 | Weblog
171の10『岡山の今昔』岡山(18~19世紀、小野光右衛門)

 小野光右衛門(おのみつうえもん、1785~1858)は、土木家にして暦算家だ。備中大谷村(現在の浅口市大谷)の生まれ。父の死があり、17歳(1801)の若くにして庄屋役となる。
 また、数学を好み、1809年(文化6年)には、大江村(現在の井原市)の谷東平に入門し、和算を学ぶ。谷は、大坂の麻田剛立に学んだというから、高橋至時や間重富の同門とのこと。

 庄屋の方では、灌漑(かんがい)や荒田の開墾などに尽力し名字帯刀をゆるされる。
 折しも、1813年(文化10年)に、里見川の開墾に関連した天領の阿賀崎新田村(現在の倉敷市玉島)と関係25か村との間に訴訟が起きる。小野は、問題解決のため村の代表の一員としてか、江戸へ向かう。なんとか状況を解決の方向へと動かす。

 その江戸滞在中には、訴訟の合間をぬって幕府天文方、渋川景佑(しぶかわかげすけ)を訪ね、その高弟山本文之進から天文・暦学を学ぶ。

 帰郷後は、帰郷後は、1834年(天保5年)に大庄屋に昇格、1840年(天保11年)には、大庄屋本役に進む。住まいも、領主の役宅近くの井手(現在の総社市)に移ったというから、相当の出世をしたことになろう。

 天文・暦学・和算にも、いっそう精進していく。中でも、和算にに秀でていったようであり、名声が伝わるようになる。他にも、この地域は子供たちの学舎ともなっていて、かの金光教の開祖、金光大神も、13歳から14歳にかけて、小野の所に手習いに通っていたという。

 その間、新田開発や検地にもかかわったほか、1855年(嘉永8年)には、和算の入門書「啓迪算法指南大成(けいてきさんぽうしなんたいせい)」を、同年からは「神道方位考」を刊行する。

 ちなみに、後者には、こうある。

 「かくのごとく日の御神を尊み、御国を治め玉ふ。異国にても漢以来の人、太陽の恩恵を蒙らんと欲する書は前に断ることし。是の巻を編ことのもとなり。
 故に上の巻には、日月五星の徳を挙、その推歩の略述を出し(中略)。下の巻には三元、太蔵、月建に従ふていつる神殺を載る。これなる陰陽五行は制化によって吉曜となり凶殺とはなりたるものなり。
 其得失和漢とも□おなじきは、異朝既に吾、天照大御神を太陽と崇め、月読命を太陰と尊み、土木火金水は五星と信敬し奉りて選集したる書なればなり。」(「神道方位考」1855~)

 ここに月読命(ツクヨミ)とは、アマテラス、スサノオと共にかのイザナキとイザナミという神の夫婦から生まれた三貴神の一人、すなわち子供とされる。「古事記」でいう月読命(ツクヨミ)、「日本書紀」でいうところの月夜見尊とは同一にて、そのいずれも父母と同様に想像上の神のことをいう。

 かくて、ツクヨミは、この時代、月の運行を含め一切を司る、または夜を統べる神として大方に崇められていた。その頃の暦といえば、月の運行を加味した太陰太陽暦であったのは、まだ私たちの記憶に新しい。

 その意味とは、太陽に従うものとしての、「すなわち月は月読見で日にちを繰るもとであり、月がなければ「万物明暗の機」がないとしつつ、上弦後と下弦前は光が強いため吉として用いるがよい」(「金光和道「和算家としての小野光右衛門」、「金光教学ー金光教研究所紀要」2009年第49号より引用)こととされている。


(続く)

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◻️171の11『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、川合忠蔵)

2021-03-31 10:30:41 | Weblog
171の11『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、川合忠蔵)

 川合忠蔵(かわいちゅうぞう、1728~1804)は、福山藩の財政改革及び塩田開発に関与した厚志家とある。備中国小田郡大江村(現在の井原市大江町)の庄屋の家の生まれ。

 幼い頃から、学問が好きであったという。1767年(明和4年)には、この地方に大かんばつがあった。その際には、自らの財産を投じて領民を救う。

 その経験をもとに、福山藩主に藩政改革について上申を行う。その見識を高くかわれ、福山藩につかえる。
 やがて、農学をはじめ神道および儒学に関する著述をよくしていく。そのうちには、古代神道についての研究も進んでいたとか。その学識から朝廷の「御用」も勤める。それもあって、さらに京都を安住の地にした模様だ。
 なお、その著述が世の中に与えた影響は、少なからず。参考までに、「日本農書全集29 穂に穂・他」(著者川合忠蔵 他著、佐藤常他による解題)にて、「近世の先進的農業の実際を解明し版を重ねた「穂に穂」ほか、中国地方の代表的農書4点を収録している旨。
 これらのうち、川合の「穂に穂」には、「備中地方の実情にそって農業技術の改善をめざした書。数度にわたって板行され、近世中期、後期の農業技術の普及に大きな役割を果した。(翻刻・現代語訳 佐藤常雄)」との説明書きが添えられている。

(続く)

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◻️211の9の3『岡山の今昔』岡山人(20世紀、葉上照澄)

2021-03-31 10:06:04 | Weblog
211の9の3『岡山の今昔』岡山人(20世紀、葉上照澄)


 葉上照澄(はがみしょうちょう、1903~1989)は、宗教家だ。岡山県赤磐郡石生村原 ( 現在の和気郡和気町原 ) の天台宗、岩生山元恩寺 (がんおんじ)の生まれ。既に養子が迎えられていた為、初めから寺を出る運命であったのだと。
 それでも、村の大方の貧しい家の子供とは違って、ちゃんとした学校に通えたのは、「幸い」だったのではないか。大正5年に月石生 ((いわぶ ))小学校を卒業 し、岡山県立岡山中学校に入学 する。


 幼い頃は病気がちであったのが、かなりの程度元気になったようだ。さらに、学業に励むうちに、大正9年には旧制中学4年から旧制第六高等学校に入学、四年修了で首席で六高に進学をはたす。

 六高から東大ドイツ哲学科に進学する。卒業後、大正大学のドイツ語教師となる。

 1927年(昭和2年 )には、大正大学教授に就任する。1940年(昭和15年)に、妻春子が31才で他界したことでか、翌年に岡山に帰る。


 1942年に合同新聞 ( 現在の山陽新聞社 ) に入社したのは、請われてか、論説委員などをつとめる。


 1946年(昭和21年)には、心境の変化があってか、比叡山無動寺にこもる。そして、天台宗第一の荒行としての「千日回峰行」に入り、1953年(昭和28年)に大行満 を達成 する。


 つまるところ、この行というのは、相応和尚により開創された回峰行で、比叡山の峰々をぬうように巡るのだという。都合7年をかけてとあるから、驚きだ。
 しかして、この行は、かの法華経の中の常不軽菩薩(じょうふぎょうぼさつ)の精神を具現化したものだともいう。この菩薩は、出会う人々すべての仏性を説いて回るのだと。この教典たるや、日本では大乗仏教典の中でも、最も有名なものの一つだろう。
 だとすれば、そのような厳しい行にあっても、菩薩と同行二人とでもいえようか、山川草木ことごとくに仏性を見いだし、礼拝しながらということであるなら、なにかしら親しみもわいてくるのではないだろうか。


 1963年(昭和38年)には、さらなる心境の変化があったように見受けられる。東南寺住職として、インドを訪問する。これをきっかけに、初代の「印度山日本寺竺主」を引き受ける。1975年(昭和50年) には、高山寺住職を兼任、また聖フランシスコ教会と兄弟教会になる。

(続く)

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◻️204の1『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、守分十

2021-03-31 09:27:09 | Weblog
204の1『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、守分十)

 守分十(もりわけひさし、1890~1977)は、銀行家だ。浅口郡乙島村(現在の倉敷市玉島)の元庄屋の長男として生まれる。

 北海道拓殖銀行勤務を経て、1922年(大正11年)には、第一合同銀行倉敷支店長代理として入行する。

 翌年には、経営の行き詰まっていた山陽商業銀行に支配人として派遣され、第一合同銀行との合併をまとめ上げる。さらにその後、姫路倉庫銀行にも派遣され、第一合同銀との合併の準備にあたる。
 中國銀行の発足に際しては、初代高松支店長に就任する。香川銀行との合併に手腕を発揮する。1946年(昭和21年)には、公職追放に該当した公森太郎の後を受け頭取に昇格する。
 そのごの30年余にわたり同職に在職したというから、その通りなら、かなりの傑物ともいえるのだろう。その間には「自主健全経営」を掲げ、戦後の同行の再建に当たり、日本有数の経営内容を誇る銀行へと育てあげる。

 地域では、長年にわたり岡山県銀行協会会長、岡山経済団体連合会会長、岡山経済同友会顧問などの要職を務める。

 座右の銘としては、なにがあるのだろうか。つらつら観てみると、その一つには、「誠実一貫」とあり、晩年の頃のものであろうか、写真に微笑む感のある姿形に着流しがよく似合っているのではなかろうか。

(続く)

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◻️171の9『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、山鳴大年)

2021-03-31 09:10:59 | Weblog
171の9『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、山鳴大年)

 山鳴大年(やまなりだいねん、1786~1856)は、後月郡簗瀬村(現在の井原市芳井町)の庄屋・山成家の生まれ。

 早くから神辺の菅茶山について漢学を学ぶ。後に、長崎へ出て、西洋医学を学ぶ。

 長崎に数年滞在後、蘭医の資格を得て故郷に帰り、医業を始める。評判は上々だったようだ。遠くからも治療のために来院する人が多くなっていく。

 その後、一橋藩の御用医となる。代官の命によりその頃流行していた天然痘防止に尽力する。養子の弘斎とともに村の人々に初めて種痘を実施する。

 そればかりか、郷土の人材を育てようと学舎をひらく。その中では、甥の阪谷朗廬に漢学を教えたり、大戸郁蔵(後の緒方研堂)に医学を教えたり。

 なお、甥の阪谷朗盧が帰郷してからは、伯父の山鳴がなにかしらの援助を与えたともいわれ、坂谷がその力を借りて桜渓塾を開いて、しばし近隣の子弟を教えたことになっている。

(続く)


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◻️188の6『岡山の今昔』岡山人(19世紀、緒方研堂)

2021-03-31 08:05:55 | Weblog
188の6『岡山の今昔』岡山人(19世紀、緒方研堂)


 緒方研堂(おがたけんどう(いくぞう)、1816-1871)は、後月郡簗瀬村(現・芳井町)の生まれにて、元の名前は大戸郁蔵(おおどいくぞう)という。
 幼い頃から、勉強に励む。そのうち、山鳴大年(やまなりだいねん)について漢学を学び、その後大年の勧めで江戸に出て、津山藩の儒学者昌谷精渓(さかやせいけい)の門人となって漢学を深める。また、坪井信道の塾に入り蘭学を研究する。


 信道の塾で足守藩の出身である緒方洪庵(おがたこうあん)と出会う。それからは、緒方洪庵が1838年(天保9年)に大阪で適塾を開業したことを聞くと、洪庵の所へ行き、入門する。


 それからは、蘭学や医学を研究しながら、門弟を教え、患者治療の手助けを行う。というのは、洪庵の教育方針というのは「医師として、教育者として、蘭学者として」であり、かなりの規律を伴うものであったのだろう。

 洪庵とは、そのうちに親密になり、洪庵の義弟となる。やがて、土佐高知藩で洋学を教える。
 明治2年になると、大阪医学校開設とともに少博士として教育と治療にあたる。訳書に「内外新法」「療疫新法」など。


(続く)

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