◻️50の4『岡山の今昔』幕末の岡山(河合継之助の旅、1859)

2021-03-24 09:33:21 | Weblog
50の4『岡山の今昔』幕末の岡山(河合継之助の旅、1859)

 河井継之助(かわいつぐのすけ)の若い頃といえば、中国、四国、それに長崎にも遊学したようであり、彼が当時のレベル分けでいうならば越後・長岡藩の中級武士、しかしながらその河井は、佐久間象山などにも教えを請う学究でもあって、その時は高梁にいる山田方谷を目指してはるばるの旅をしてきたのであった。次の旅日記が残されていて、岡山が見えるようになってからは、さぞかし心も期待に膨らんでいたのであろうか、こうある。

 「十五日 晴
片上を立ていんべを通り、所謂備前焼を冷し、易直之物なり、津山川ニ暫添て岡山ニ達す、片上よりは追々開け、岡山は余程之開けなれ共、山之多ニは意外也、沢々無限あり。水之引方十分に手之届、旱(かん)ばつの憂あるまし。
 先に淀川にて田へ懸る水車を見る。是は簀に水のしとむ様するしかけなれ共、夜故不明、今備前之川にあるは板にて水しとみまわる。重ければ不回故か、淀も此も至手薄之物なり輪は竹、中は、不傷様に色々あり川は大にあらず。
 流れも急ならす。相応に深し、我国の青山川よりは大なれ共、彼所にて試なれは好からん、水勢似たる様覚、水利之届しは熊沢遺意かと思わる。稲は何も能出来て、殊に其跡ヘな種か麦、先に伊勢て聞、一反て米の七俵も取り、其跡て麦五六俵も出来ると、其割なら下直なるへけれとも、はけ能(はけるのをよくするの意味、引用者)故か、惣高直なり。
 岡山迄来と中に、百姓家息へ咄を聞(米直段之事に付)、能筈なれ共、やはり表張所にて、何れも貧しと、殿様・家中勝不能由、四年とか前に札一匁十分一になり、当時は八文に当る。其前迄は讃支(岐)へ渡ると正銭百五文迄にはなるとに、是にて金持も長持ニ弐三杯も持しもあり、此十分一にて皆よわると、可歎事なり。」

 続けて、こうある。

 「地震之年之仕事か、熊沢之事を聞くに、繁山村は五里計り跡になると、山の中なりと、繁山之事は能知、其人ならん、白昼に提燈を附、立のくと、其人、御城之際の川山の木を切ると、後はハ千石積之不入様なると、要害も悪しと云由、果して今はあせたりまと、おそろしき人なりと云う、(熊沢)蕃山之事ならん。
 石山多き故、予問、炭・焚木如何と、沢山なる由、炭之直段六貫匁俵、弐百四五十位と。


 岡山はさすか国主、大なる物なり。町入て、小橋・中橋之に川は、皆上り川にて、京橋は右云う城之外濠なる川にて、京橋に(尤自国之船も)四国高松の船数艘あり、一六には是非大坂船出る。


 四国は毎日便船ある由なれ共、如何にも盆十五日之事なり、弥出るとも不定、讃支渡らんため、暫見合すれとも、思きりて本道を不行、妹尾と云う到、是は已に備中なり(川あり境)。


 子細は大坂を始め姫路・岡山・備中も倉敷辺、昨年コロリ之病、又流行して死人多、大坂より之往来、兵庫、何れも流行、道に六部の死するを見、赤穂より片上出る山中にて駕輿にのせて手拭にて顔を蔽へ、生ける取扱にして行女あり。命は天とは乍云、好て到るは愚と思、讃支渡んとするため也、瀬尾ニ宿、大坂より備中迄、痛神送るとか云いて、馬鹿等敷事、何れもあり。」

 しかして、かかる「岡山はさすか国主、大なる物なり。町入て、小橋・中橋之に川は、皆上り川にて、京橋は右云う城之外濠なる川にて、京橋に(尤自国之船も)四国高松の船数艘あり、一六には是非大坂船出る」との下りに着目すると、さしずめ「流石」を連発するような光景であったのだろうか、読んでいてなんだか羨ましくもある。
 

(続く)

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(続く)

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