◻️261の6『岡山の今昔』岡山人(20世紀、福武哲彦)

2021-03-28 21:32:11 | Weblog
261の6『岡山の今昔』岡山人(20世紀、福武哲彦)

 福武哲彦(ふくたけ てつひこ、1915~1986)は、教師にして、福武書店(後のベネッセコーポレーションの創業者だ。

 岡山師範学校卒業後の1935年、岡山県上房郡大和村立大和尋常高等小学校(後の加賀郡吉備中央町の同学)に教師として赴任する。


 その後県職員を勤める。戦後もようやく落ち着きだして1949年(昭和24年)、出版社株式会社富士出版を設立する。問題集などを取り扱う出版社だったが、1954年(昭和29年)に倒産する。

 その後、福武書店をひらく。生徒手帳の印刷と年賀状の手本集を作って広めていく。それまでに、つもりにつもった構想でこの事業に打ち込んだのであろうか。


 1955年(昭和30年)には、資本金50万円、社員6人で福武書店を株式会社化して再スタートした。


 1963年(昭和43年)には、いわゆる通信教育である通信添削「進研ゼミ」高校講座を始める。彼の会社は、小学校や中学校の学習講座も開発していく。その後は、全国模擬試験を手掛けるなど、総合教育情報出版会社として成長させていく。


 果たせるかな、1970年代からは、学術図書や絵本、雑誌など多方面の出版にも業務を拡大していく、次から次へと、頭の中に新しい事業の構想が浮かんだのかもしれない。


 かといって、いわゆる「本業ばかりの堅物」ではなく、視点の柔らかさ、広さなりを兼ね備えていた。そのかなりは、社会のため、未来のための夢に根差していたのではないだろうか、美術品などの収集にも精出したという。

 岡山県出身で、20世紀前半にアメリカで活躍した画家、国吉康雄の代表作百数点やルノワール、シャガールなどの名作を収集し、いわゆる「福武コレクション」を作っていく。それらの努力は、1986年に執務中に倒れるまで続く。

 なお、福武の「岡山県の教育・文化の進展に役立ちたい」との願いに基づき、1986年(昭和61年)に公益財団法人福武教育文化振興財団が設立されているとのこと。

(続く)

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◻️159の2『岡山の今昔』岡山人(13~14世紀、寂室元光)

2021-03-28 19:49:23 | Weblog
159の2『岡山の今昔』岡山人(13~14世紀、寂室元光)

 寂室元光(じゃくしつげんこう、1290~1367)は、鎌倉後期から南北朝時代にかけての臨済宗の禅僧だ。

 美作高田の藤原氏の出身。京都三聖寺の無為昭元について受戒し、僧侶の道を歩み始める。当時の寺は、知識人への入り口でもあったろう。

 のちに鎌倉に赴いて、大覚派の約翁徳倹に師事する。なにしろ秀才の誉れ高く、1326年に帰国した。

 その寂室が31歳の1320年(元応2年)には、杭州(現在の浙江省)天目山の
中峰明本(ちゅうほうみょうほん)を慕い、中国にわたる。彼の地では、その中峰に従う。彼のもとで、世俗から離れ、清貧に徹する禅風を学んだ模様だ。 寂室の名前は明本から与えられた法号であるとのこと。


 寂室が中国から帰国したのは1326年(嘉暦元年)、37歳の時だった。帰国後、寂室は京都へは帰らず、およそ25年間に わたって中国地方を遍歴した。
 ちなみに、 1377年(永和3年)に刊行された五山版 「寂室和尚語録(寂室録」によると、本人作の詩や文を収録してある。それによると、このころ寂室は西祖寺、 明禅寺、安国寺、滋光寺、菩提寺、美作の田原村などに滞在したことがある。

 そのうちに、備後(現在の岡山県の部分)吉津の永徳寺の開山となる。その後の1361年(康安1/正平16年)には、近江(滋賀県)の佐々木氏頼に招かれて永源寺の開山となる。


 その生涯、高い地位に就きたいということなく、五山十刹(禅宗寺院の制度)など官寺からの要請を固辞し続ける。黒衣の平僧を貫いたやに伝わる。諡号は円応禅師もしくは正燈国師という。前述の著「永源寂室和尚語録」が伝わり、その格調高い文章には定評がある。


(続く)

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◻️171の6『岡山の今昔』岡山人(17~18世紀、河本又七郎) 

2021-03-28 18:54:14 | Weblog
171の6『岡山の今昔』岡山人(17~18世紀、河本又七郎) 

 河本又七郎(1697~1775)は、四代又七郎、もしくは隠居しての巣居(そうきょ)とも呼ばれていた、豪商、灰屋河本家の四代目だ。
 そもそもは、1697年(元禄10年)に岡山の富商天野道順の子に生まれた。それが、母が灰屋河本家三代又七郎の一居との妹であったことから、三代又七郎の養子となる。そして、一居が死ぬと、同家の家業をついだ。それというのも、「一居は女性を近付けなかった」(久保三千雄「浦上玉堂」新潮社、1996)ことがあって、その前からの伏線もあったと言えなくもない。
 その又七郎の代となっては、家業を拡大するとともに、岡山城下町の惣年寄筆頭の地位にもつく。苗字帯刀をゆるされ、他の豪商とともに藩の財政援助を積極的に行なう。1776年(安永5年)でこれをみると、和屋屋の常盤右介とともに15人扶持をもらう立場となっている。
 読書を好み、業務で全国を廻るかたわら、先代からの延長もあつてか、書籍などを貪欲に蒐集し、隠居してからも後者を進めた模様だ。なお、子の五代又七郎は一阿(いちあ)と号し、陽明学を学び、茶人としても知られた人物だ。


(続く)

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