【注意事項】
1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書
細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のま
まとしました。
5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”
となっている部分ですので完全に純野の推察
です。
【備考】
明智光秀の名前ですが、家臣としての名前は
惟任光秀ですが、逆臣となっては“明智光秀”
と表記します。
前回の「信長公が本能寺に宿泊するまで」
から本能寺の変直後の家康公一行の脱出劇ま
での出来事をまとめました。
50-3織田信長朱印状 天正十年四月廿四日
<本能寺の変発生から家康公が逃げ延びるま
での出来事>
・6月1日 明智光秀は、明智秀満・明智次右
衛門・藤田伝五・斎藤利三らを率い亀山城を
出立
↓
三草越えで中国へ進軍したが、ここで引き返
し、老の山へ上り「山崎から摂津国を抜けて
出勢」とお触れを出す
↓
明智勢は老の山を左へ下り、桂川を越え京へ
と向かう
・6月2日 明智の軍勢が本能寺にいる信長を
攻囲する。信長方は「町人の喧嘩か」と思っ
たが、軍勢は時の声をあげ鉄炮を打ち込んで
くる
↓
信長、森(蘭丸)長定から「明智の手の者」
と聞き、「是非に及ばず」
↓
正面御堂の番衆も攻め込まれ、御殿で信長と
一手になる
【厩で討ち死にの衆】
矢代勝介・伴太郎左衛門・伴正林・村田吉五
【討ち死にの中間衆】
藤九郎・藤八・岩・新六・彦一・弥六・熊・
小駒若・虎若・子息小虎若
【御殿で討ち死にの衆】
森(蘭丸)長定・森(力丸)長氏・森(坊丸)
長隆の三兄弟、小河愛平・高橋虎松・金森義
入・菅屋角蔵・魚住勝七・武田喜太郎・大塚
又一郎・狩野又九郎・薄田与五郎・今川弥二
郎・落合小八郎・伊藤彦作・久々利亀・種田
亀・山田弥太郎・飯河宮松・祖父江孫・柏原
鍋兄弟・針阿弥・平屋久助・大塚孫三・湯浅
甚介・小倉松千代
↓
信長は初め弓を取り二~三腰矢を射たが、弓
の弦が切れ鑓で戦う。ひじに鑓きずを受け、
女房たちを逃がす
↓
信長は、御殿に火が回ってくると御殿奥深く
入り、内側から納戸の戸を閉めて腹を切る
↓
妙覚寺にいた織田信忠は、明智勢が本能寺を
攻囲した事を聞き妙覚寺を出て信長と一手に
なろうとする
↓
村井貞勝父子がかけつけ、「本能寺はすでに
陥落し、御殿も焼け落ちた。敵はこちらに攻
めかかってくるはずなので、二条新御所のほ
うが良い構えであり、そちらに立て籠もった
ほうが良い」と進言する
↓
信忠、二条新御所に入り、誠仁親王・若宮
(和仁王)を内裏へと退出させる。信忠はこ
こでの切腹を覚悟し、最後の戦いに立ち向か
う
【二条新御所で討ち死にした衆】
猪子高就・福富秀勝・野々村正成・篠川兵庫・
下石頼重・毛利良勝・赤座永兼・団忠直・坂
井越中・桜木伝七・逆川甚五郎・服部小藤太・
小沢六郎三郎・服部六兵衛・水野九蔵・山口
半四郎・塙伝三郎・斎藤新五・河野善四郎・
寺田善右衛門
↓
明智勢は近くの近衛前久の御殿へあがり、屋
根から二条新御所に弓・鉄炮を打ち込む
↓
敵が構えに乗り入り火を懸けると、信忠は
「死骸を縁の板を引きはがしその中に入れて
隠すよう」命じた上で切腹。鎌田新介が介錯
する
【本能寺の変で討ち死にした衆】
津田長利・津田勝長・津田勘七・津田九郎二
郎・津田小藤次・菅屋長頼・菅屋勝次郎・猪
子高就・村井貞勝・村井清次・村井貞成・服
部小藤太・永井新太郎・野々村正成・篠川兵
庫頭・下石頼重・下方弥三郎・春日源八郎・
団忠直・桜木伝七・寺田善右衛門・塙伝三郎・
種村彦次郎・毛利良勝・毛利岩・斎藤新五・
坂井越中・赤座永兼・桑原助六・桑原九蔵・
逆川甚五郎・山口小弁・河野善四郎・村瀬虎・
佐々清蔵・福富秀勝・小沢六郎三郎・土方次
郎兵衛・石田孫左衛門・宮田彦次郎・浅井清
蔵・高橋藤・小河源四郎・神戸二郎作・大脇
喜八・犬飼孫三・石黒彦三郎・越智小十郎・
平野新左衛門・平野勘右衛門・水野宗介・井
上又蔵・松野平介・飯尾毛介・賀藤辰・山口
半四郎・竹中彦八郎・河崎与介・村井宗信・
服部六兵衛・水野九蔵
↓
明智光秀、信長父子を討ち果たし「落人がい
るはずなので、家々を探せ」と指示。京中大
騒動となる。
↓
江州勢の上洛を防ぐために、勢田の山岡景隆・
景佐兄弟に「人質を出して同心せよ」と申し
送る
↓
山岡兄弟は、信長への恩からこれを拒否し、
勢田の橋を焼き落とし、居城に火をかけた上
で山中へと引き退く
↓
明智勢は仕方なく勢田の橋詰に要害をこしら
え軍勢を入れた上で、坂本城へ引き退く
<安土城方面>
同じ頃安土城に本能寺の情報が入る
↓
美濃・尾張の人々は本国を目指して引き退く
*山崎秀家は安土城下の自邸に火をかけ、山
崎の居城へと引き退く
↓
・6月3日 安土城の留守番をしていた蒲生賢
秀は子息賦秀を日野谷から呼び出し、城内の
上臈衆・御子たちを引き連れ、日野へと退出
していく
*安土城は木村次郎左衛門に預ける
↓
・6月3日 佐々成政・柴田勝家、山本寺(さ
んぽんじ)景長を魚津城に攻陥
<徳川家康一行>
同じ頃、徳川家康一行・長谷川秀一は本能寺
の情報を堺で聞く
↓
6月4日 徳川一行・長谷川は宇治田原越え
で退いていく
*穴山信君はここで一揆に殺害される
↓
桑名から船に乗り熱田の湊へ
以上で“信長から細川藤孝への手紙”のカテゴ
リーはいったん完了です。吉川弘文館刊「永
青文庫叢書細川家文書中世編」には日付不明
の書簡もありますので、時期を見計らって現
代語訳をアップしていきたいと思います。
**純野のつぶやき**
「信長公記」の作者太田牛一は、二条新御所
で信忠が「(自分の)死骸を縁の板を引きは
がしその中に入れて隠すよう」命じた上で切
腹と書きましたが、実はこれが徳川の初期の
時代では書けなかった信長公の真の最期だと
したら・・考えただけでぞくぞくします!焼
け落ちた本能寺の縁の下に隠れていた信長公
は、ひじの鑓きずをかばいながら脚の強い馬
に乗り柴田勝家が待つ北陸の方面へ・・
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<JR岐阜駅前の黄金の信長公像>
1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書
細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のま
まとしました。
5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”
となっている部分ですので完全に純野の推察
です。
【備考】
明智光秀の名前ですが、家臣としての名前は
惟任光秀ですが、逆臣となっては“明智光秀”
と表記します。
前回の「信長公が本能寺に宿泊するまで」
から本能寺の変直後の家康公一行の脱出劇ま
での出来事をまとめました。
50-3織田信長朱印状 天正十年四月廿四日
<本能寺の変発生から家康公が逃げ延びるま
での出来事>
・6月1日 明智光秀は、明智秀満・明智次右
衛門・藤田伝五・斎藤利三らを率い亀山城を
出立
↓
三草越えで中国へ進軍したが、ここで引き返
し、老の山へ上り「山崎から摂津国を抜けて
出勢」とお触れを出す
↓
明智勢は老の山を左へ下り、桂川を越え京へ
と向かう
・6月2日 明智の軍勢が本能寺にいる信長を
攻囲する。信長方は「町人の喧嘩か」と思っ
たが、軍勢は時の声をあげ鉄炮を打ち込んで
くる
↓
信長、森(蘭丸)長定から「明智の手の者」
と聞き、「是非に及ばず」
↓
正面御堂の番衆も攻め込まれ、御殿で信長と
一手になる
【厩で討ち死にの衆】
矢代勝介・伴太郎左衛門・伴正林・村田吉五
【討ち死にの中間衆】
藤九郎・藤八・岩・新六・彦一・弥六・熊・
小駒若・虎若・子息小虎若
【御殿で討ち死にの衆】
森(蘭丸)長定・森(力丸)長氏・森(坊丸)
長隆の三兄弟、小河愛平・高橋虎松・金森義
入・菅屋角蔵・魚住勝七・武田喜太郎・大塚
又一郎・狩野又九郎・薄田与五郎・今川弥二
郎・落合小八郎・伊藤彦作・久々利亀・種田
亀・山田弥太郎・飯河宮松・祖父江孫・柏原
鍋兄弟・針阿弥・平屋久助・大塚孫三・湯浅
甚介・小倉松千代
↓
信長は初め弓を取り二~三腰矢を射たが、弓
の弦が切れ鑓で戦う。ひじに鑓きずを受け、
女房たちを逃がす
↓
信長は、御殿に火が回ってくると御殿奥深く
入り、内側から納戸の戸を閉めて腹を切る
↓
妙覚寺にいた織田信忠は、明智勢が本能寺を
攻囲した事を聞き妙覚寺を出て信長と一手に
なろうとする
↓
村井貞勝父子がかけつけ、「本能寺はすでに
陥落し、御殿も焼け落ちた。敵はこちらに攻
めかかってくるはずなので、二条新御所のほ
うが良い構えであり、そちらに立て籠もった
ほうが良い」と進言する
↓
信忠、二条新御所に入り、誠仁親王・若宮
(和仁王)を内裏へと退出させる。信忠はこ
こでの切腹を覚悟し、最後の戦いに立ち向か
う
【二条新御所で討ち死にした衆】
猪子高就・福富秀勝・野々村正成・篠川兵庫・
下石頼重・毛利良勝・赤座永兼・団忠直・坂
井越中・桜木伝七・逆川甚五郎・服部小藤太・
小沢六郎三郎・服部六兵衛・水野九蔵・山口
半四郎・塙伝三郎・斎藤新五・河野善四郎・
寺田善右衛門
↓
明智勢は近くの近衛前久の御殿へあがり、屋
根から二条新御所に弓・鉄炮を打ち込む
↓
敵が構えに乗り入り火を懸けると、信忠は
「死骸を縁の板を引きはがしその中に入れて
隠すよう」命じた上で切腹。鎌田新介が介錯
する
【本能寺の変で討ち死にした衆】
津田長利・津田勝長・津田勘七・津田九郎二
郎・津田小藤次・菅屋長頼・菅屋勝次郎・猪
子高就・村井貞勝・村井清次・村井貞成・服
部小藤太・永井新太郎・野々村正成・篠川兵
庫頭・下石頼重・下方弥三郎・春日源八郎・
団忠直・桜木伝七・寺田善右衛門・塙伝三郎・
種村彦次郎・毛利良勝・毛利岩・斎藤新五・
坂井越中・赤座永兼・桑原助六・桑原九蔵・
逆川甚五郎・山口小弁・河野善四郎・村瀬虎・
佐々清蔵・福富秀勝・小沢六郎三郎・土方次
郎兵衛・石田孫左衛門・宮田彦次郎・浅井清
蔵・高橋藤・小河源四郎・神戸二郎作・大脇
喜八・犬飼孫三・石黒彦三郎・越智小十郎・
平野新左衛門・平野勘右衛門・水野宗介・井
上又蔵・松野平介・飯尾毛介・賀藤辰・山口
半四郎・竹中彦八郎・河崎与介・村井宗信・
服部六兵衛・水野九蔵
↓
明智光秀、信長父子を討ち果たし「落人がい
るはずなので、家々を探せ」と指示。京中大
騒動となる。
↓
江州勢の上洛を防ぐために、勢田の山岡景隆・
景佐兄弟に「人質を出して同心せよ」と申し
送る
↓
山岡兄弟は、信長への恩からこれを拒否し、
勢田の橋を焼き落とし、居城に火をかけた上
で山中へと引き退く
↓
明智勢は仕方なく勢田の橋詰に要害をこしら
え軍勢を入れた上で、坂本城へ引き退く
<安土城方面>
同じ頃安土城に本能寺の情報が入る
↓
美濃・尾張の人々は本国を目指して引き退く
*山崎秀家は安土城下の自邸に火をかけ、山
崎の居城へと引き退く
↓
・6月3日 安土城の留守番をしていた蒲生賢
秀は子息賦秀を日野谷から呼び出し、城内の
上臈衆・御子たちを引き連れ、日野へと退出
していく
*安土城は木村次郎左衛門に預ける
↓
・6月3日 佐々成政・柴田勝家、山本寺(さ
んぽんじ)景長を魚津城に攻陥
<徳川家康一行>
同じ頃、徳川家康一行・長谷川秀一は本能寺
の情報を堺で聞く
↓
6月4日 徳川一行・長谷川は宇治田原越え
で退いていく
*穴山信君はここで一揆に殺害される
↓
桑名から船に乗り熱田の湊へ
以上で“信長から細川藤孝への手紙”のカテゴ
リーはいったん完了です。吉川弘文館刊「永
青文庫叢書細川家文書中世編」には日付不明
の書簡もありますので、時期を見計らって現
代語訳をアップしていきたいと思います。
**純野のつぶやき**
「信長公記」の作者太田牛一は、二条新御所
で信忠が「(自分の)死骸を縁の板を引きは
がしその中に入れて隠すよう」命じた上で切
腹と書きましたが、実はこれが徳川の初期の
時代では書けなかった信長公の真の最期だと
したら・・考えただけでぞくぞくします!焼
け落ちた本能寺の縁の下に隠れていた信長公
は、ひじの鑓きずをかばいながら脚の強い馬
に乗り柴田勝家が待つ北陸の方面へ・・
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