『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

巻四の八 信長、離れている細川藤孝と強い結びつきを持つこと

2020-06-04 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2016年の再掲です>

巻四の八 信長、離れている細川藤孝と強い

結びつきを持つこと

 永禄八年(一五六五)の年末、美濃の内部

崩壊を促進するため、また美濃包囲網を確実

にするため、信長は武田信玄との関係修復を

図る。本年春先、信玄と東美濃の遠山領で

小さい衝突があったが実は両軍とも本気で戦う

つもりはない。「美濃攻略のためには木曽川

海運で物資を運ぶ必要があるだろうから、

過書(=勘過状)の費用をきちんと払って

うちを頼りなさい!」という信玄側の無言の

圧力なのであった。信長は一度遠山友勝の女

(むすめ)を養女にしていたものを信玄の子

勝頼に嫁がせるべくこれまで水面下で調整

しており、この十一月正式に認められたもの

である。これにより、織田軍と武田軍の緩い

同盟関係が成立することになった。信玄の

嫡子は義信であったが、この夏謀反の疑い

により信玄がこれを幽閉していたため勝頼

との婚儀となったものである。

 木曽川上流を武田氏とのゆるい同盟関係

で掌握したあと、信長は美濃国と畿内方面の

遮断を図る。この戦略には、尾張黒田城の

和田新介定利と近江八島で一条院覚慶

(のちの足利義秋)の世話をしている和田

伊賀守惟政の兄弟および細川兵部大輔藤孝

の助言があった。ただし、すべてが思い

通りにいかない場合もある。永禄八年十二月、

佐々木六角義賢の命を受けた和田伊賀守

惟政が、信長妹(お市)・浅井長政の縁組

に奔走したが、長政の同意が得られず一旦

中止となる。細川藤孝は事前に和田伊賀守

に「もうすぐ一条院覚慶の殿は還俗して

足利家の名を継ぐ用意ができており、また

源氏を継ぐ位階も成功(じょうごう)で

手にすることができるところである。

伊賀守殿しばしまたれよ!」と伝えていた

のだが、「ただ主君佐々木六角義賢が急ぐ

ように言っておる。取り急ぎ進めてみる」

と答えて先行した次第であった。結果、

浅井家の宿老の中で一五三0年来の美濃

の騒乱の時の佐々木六角氏との因縁を持ち

出すものが出てきて、ことはうまく運ばな

かったということである。

 現実には細川兵部大輔藤孝が予想した

通り永禄九年(一五六六)の二月、近江

矢島に在した一乗院覚慶が還俗して「義秋」

と名乗り、ひそかに禁裏に働きかけ従五位下

左馬頭となる。「細川藤孝が予想した通り

云々」の部分は実は正しくない。なぜなら、

一条院覚慶が還俗して足利氏を継ぐべき名を

名乗ること、従五位下左馬頭となることは、

当時足利十二代将軍義晴の御落胤ではないか

と噂されていた藤孝が、すべての京雀の連絡

網を活用して実現したことであったのだ。

藤孝は、和田伊賀守を経由して信長側から

の申し出をもう一つ聞いていた。曰く、

「兵部大輔殿の働きのお蔭をもって、木曽

川上流方面、近江・畿内方面からの兵站路

の遮断が済み、美濃包囲網はほぼ完成した。

できれば足利の名を正統に継いだ立場の

足利義秋殿から尾張・美濃の講和を促す形

をとってもらいたい。その情報が美濃国内

に伝われば、家臣らが信長軍と戦う気は

ほぼなくなったも同然にすることができる!」

という内容である。藤孝は、信長の望む

働きを行うことは、これまでの経緯から見て

わけもないことであると思ったが、信長の

「我攻めが利かない場合はゆるい攻め」と

いう今までの戦国武将にない柔軟な考え方

には舌を巻いた。藤孝側も信長側も、何の

問題もなく美濃国の内部崩壊を待つだけと

思っていたのだが・・


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