『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

戦国名家の系譜:佐々木氏[1/2]佐々木六角氏

2016-09-18 00:00:00 | 戦国名家の系譜
※佐々木氏は佐々木六角氏と佐々木京極氏に

 分かれていきますので、2回に分けての

 投稿です。まずは佐々木六角氏から。


【佐々木氏の歴史】

*近江源氏佐々木氏の末裔。氏綱の子の時に

 分派。次男高信の系統は、後義綱の時に

 朽木氏となる。四男泰綱は京都六角東洞院

 に住み、佐々木六角氏の祖。五男氏信は

 京極高辻に住み佐々木京極家の祖となる。

≪佐々木六角氏≫

*鎌倉期より佐々木氏惣領として近江守護を

 世襲してきたが、南北朝京極高氏の頃京極氏

 に押される。その後半国守護化し、北近江

 守護は京極氏・南近江守護は六角氏となる。

 応仁の乱に入り、1468年から京極氏と六角氏

 の抗争が激化。高頼の時それまでの寺社領

 収奪を幕府から咎められ、足利義尚軍に攻め

 られ甲賀に逃げる。1492年には足利義稙・

 幕府軍に攻められ伊勢に逃げる。

*その子定頼の時佐々木六角氏の全盛期を

 迎える。京極氏の臣浅井氏(亮政)に連勝。

 1527年将軍義晴・細川高国が義維・細川

 晴元との抗争に破れ近江に落ち延びてくる

 とこれを保護。本願寺を山城から追い出し

 本願寺は大坂へと移る。また美濃国内紛

 にも関与し、土岐頼武・頼芸の抗争の時は、

 朝倉孝景と組んで兄頼武を支援した。

 1546年には足利義輝の元服式で管領代と

 なり、御相伴衆に列せられる。

※その子義賢(承禎)の時、近江に逃亡して

 きた細川晴元と足利義晴・義輝父子を保護。

 三好・松永党と戦う。また湖北で浅井長政

 と戦い敗北。1557年には本願寺顕如を婿に

 迎え和解。その後1563年子息の義治が重臣

 後藤氏を謀殺したことから一家の内紛となり、

 統率力が弱体化してゆく。和田伊賀守惟政

 に命じ、信長の妹(お市)と浅井長政の縁組

 を計るも、長政の同意が得られず一旦中止。

 足利義輝弑逆事件の後流れてきた足利義秋を、

 一家内紛の為保護できず。やっと1567年旧臣

 蒲生定頼のとりなしにより家臣団との和解が

 なり、「六角式目」制定の上遵守することを

 約束したが、重臣の後藤氏・三上氏・布施氏・

 横山氏らの信頼は回復できず。1568年信長の

 義昭上洛のための戦いの時抵抗したが、箕造山

 を攻陥され観音寺城から退城し石部へ逃亡。

 その後浅井氏・本願寺と組んで再挙を図るも、

 宇治田原で病死。


↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へにほんブログ村
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 甲山(かふやま) | トップ | 戦国名家の系譜:佐々木氏[2/... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

戦国名家の系譜」カテゴリの最新記事